夜の海沿い
踊り場の乳白の陶器は、海みたいな青がうっすらと滲んでいた。
「行ったね」
「案内も終わったし、俺たちも帰るか」
それぞれの夜に別れた。
イグはアリスの家の前に到着した。
あまりアリスの家には行ってはいなかったが、それでも見慣れた家だった。
「行っていいのかな。邪魔じゃないよね……」
そうやってぶつぶつ呟いて一向に進まない。
これじゃあ、駄目だ、と思い切って進んだ。
扉をノックしようとした時だった。
アリスの家の扉が開き、部屋の光が零れ出てきた。
「えっ!?」
アリスは腫れた目を大きく見開いていた。
「……あっ、僕」
光の境界線の中心にアリスがいて、その外に僕がいた。
「……こんな時間に何か用事?」
「その、アリスに会いたかったから……」
「……」
「ほんとにごめん……。嫌だったら直ぐ帰るよ」
真っすぐに腫れあがった目を僕に向けた。
「まあいいわ。イグ。よかったら散歩しない?」
夜の静かな風は思っていたよりも冷たかった。
「……明日、引っ越すんだね」
「知ってたんだ」
「今からさ、海を見に行かない?」
僕が聞くとアリスは頷いた。
今朝も来た海沿いへ向かって並んで歩いた。
「ねえ、イグ。ゆっくり行こ……」
到着すると、僕たちは流木に腰を下ろした。
照れ屋な月が地平線の彼方へゆっくりと頭を隠していく。
波は変わらず、寄せては返していた。
「ねえ、イグ?どうして、私のために頑張ってくれるの?イグっていつもぼーってしてるのにさ」
「あ、ご、ごめん……」
どう言えばいいのか分からず謝ってしまった。
「謝らなくていいから教えてよ」
そう言うと、アリスは黙って待っててくれた。
「……僕、思うんだ。いつも頑張らなくてもいいって。頑張ろうと思った時だけ一生懸命やればいいって。そうしないとさ、本当に頑張りたいときに僕は疲れて何もできなくなるんだ」
僕は言葉を探すみたいに砂をつまんだ。
「……それで、僕は、アリスが大事な友だちだから、力になりたくて頑張るんだ」
そう言うと、アリスの顔は仄かに赤く染まった。
月は海に溶け、見えなくなっていく。
「て、てっきり嫌われたのかって思って不安だったから、少し安心したかな」
「ごめん。イグ。距離取って。引っ越すことも言えなくて。なんかさ、私、自分が傷つくのも、イグが傷つくかもしれないって思ったら怖くなっちゃってさ」
「僕も同じだよ。レインとシラが僕を後押ししてくれただけだよ」
僕は海を見つめながら笑った。
「私たち、案外似た者同士なのかもね」
アリスもそう言って笑った。
「もう月も見えなくなるし、帰ろう」
僕はアリスを家まで送った。
別れる間際、アリスが振り向く気配は無い。
「またね!」
僕はアリスの後姿に声をかけていた。
「うん。またね!」
やっと、アリスは振り返った。
アリスの瞳は普段より輝いて見えた。
僕はもう一言、伝えたいことがあった。
だけど、その言葉は今言うには早すぎて、飲み込んだ。
代わりに僕は手を振った。
アリスも手を振ってくれた。
僕たちは背を向けた。
お互い、これ以上、顔を見れなかったから。
月はすっかりと沈んで消えていた。
帰り道。
やっぱりいつまで経っても慣れない。
親が漁に行ってから、リビングの椅子が二つ空く日が増えた。
『ただいま……』
それが独り言になってから、誰もいないことを思い出す。
そうして僕は、いつも寒くなっていた。
街に帰ってきた。
家の扉は軽く引けば開くのに、まるで鉄の塊を引くようだった。
靴を雑に脱ぎ散らかし、リビングに入った。
「ただいま……」
「おかえりイグ」
シラとレインがリビングで出迎えてくれた。
「……」
「お疲れ様」
レインの柔らかい手が頭に乗った。
「お茶淹れてみたよ」
シラがお茶を淹れてくれていた。
「ありがとう……」
空いた椅子はあまりみたくない。
温まった湯呑みを両手で包んだ。
僕たちは朝食をみんなで食べた。
レインが作ってくれたみたいだけど、魚が少し焦げていた。
シラがそのことについて言い、二人が言い合う姿は面白かった。
「イグ。俺たちも昼前には出ようと思う」
「そっか……」
その時間が来るまで、僕はシラたちと話した。
昼前、二人は玄関の先へ向かう。
外のまばゆい光が二人を直視できないほどに差し込む。
「まっ、また会おう!みんなで」
僕は光に向かってそう言った。
「ああ、また来るさ……」
「うん。約束する」
「ぜ、絶対だよ?僕は、そっ、その、寂しいからさ」
「私も、また来る。海は綺麗だったから」
「さよならじゃないんだからまた会えるだろ。そんな心配するなよ」
今度は、言葉を飲み込めなかった。
感情が飲み込めなかった。
「僕のために、ほんとに、本当にありがとう……」
僕が涙を流す姿を二人は見なかった。ただ、またね、と言って出て行った。
僕はリビングに戻って席に座った。
窓から覗く海は輝いていた。
よかった。いい天気で。
今度は、アリスとシラとレイン。みんなでゆっくりと話したいな。
僕は椅子を片付けている時に気づいた。
「次は椅子、もう一個いるね」




