第八話 契約の終わり
波音が、静かに響いていた。
陽が高くなるにつれ、海の色は鮮やかな碧色へと変わり、水面は無数の光の粒を散りばめたように煌めいている。
世界は残酷なほどに美しかった。
リリアはクロウの肩に頭を預けたまま、懐から何かを取り出した。
銀色に鈍く光る、一本の短剣。
それは、旅の始まり――あの塔の部屋で、クロウが彼女に向けたものだった。
「……いつの間に」
「ごめんなさい。こっそり借りちゃった」
リリアは悪戯が見つかった子供のように、弱々しく笑った。
そして、震える手でその柄を握り、切っ先を自分の胸に向けようとした。
だが、力が足りない。
彼女の手は、小鳥の羽ばたきのように頼りなく震えているだけだった。
「クロウ」
彼女は短剣を差し出した。
「約束、守ってくれる?」
クロウの喉が凍りついた。
分かっていた。この旅の終着点がここにあることは、最初から決まっていたことだ。
だが、身体が動かない。
数え切れないほどの人間を葬り去ってきたその手が、鉛のように重く、指一本動かすことすら拒絶していた。
「……まだだ」
クロウは絞り出すように言った。
「まだ、海を見ただけだ。美味い魚も食っていない。貝殻も拾っていない」
「もう十分よ」
リリアは首を横に振った。
「私の身体、もう限界なの。……分かるのよ。私の中に溜め込まれた黒いものが、今にも溢れ出そうとしているのが」
彼女が袖をまくる。
そこにはもう、白い肌など残っていなかった。
指先から肩まで、禍々しい漆黒の紋様がびっしりと埋め尽くしている。それは肌の上を這い回り、彼女の命を喰らい尽くそうとする邪悪な魔力そのものだった。
「このまま自然に死ねば、この呪いは暴走するかもしれないわ。そうなれば、この海も、あの街も、あなたさえも……全てを汚染してしまう」
リリアの瞳から、一筋の涙が流れた。
「私、みんなを傷つけたくない。……お願い、クロウ。私が私でいられるうちに。綺麗なままの私で、終わらせて」
それは、世界を守るための聖女としての願いであり、同時に、愛する人を守りたいという少女の切実な祈りだった。
彼女は初めから知っていたのだ。
自分自身がクロウを傷つけかねない、爆弾であることを。
「……嫌だ」
クロウの声が震えた。
「俺は、お前を殺すためにここに来たんじゃない。お前を生かすために……!」
「ありがとう。でも、これが『契約』でしょう?」
リリアは無理やり、クロウの手に短剣を握らせた。
そして、その手を自分の胸へと誘導する。
心臓の鼓動が、掌を通して伝わってくる。
トクン、トクン、と。
今にも止まりそうな、小さな命の音。
「できない」
クロウは短剣を握りしめたまま、うなだれた。
視界が滲む。
熱い滴が、握りしめた拳の上に落ちた。
「俺は……できない。お前を殺せない」
「クロウ……」
「愛しているんだ! リリア!」
堰を切ったように、言葉が溢れ出した。
これまで押し殺してきた感情が、激情となって爆発する。
「お前がいなければ、世界などどうでもいい! 俺は道具でいい、人殺しでいい! ただ、お前に生きていてほしいんだ!」
初めて、彼は泣いた。
冷徹な暗殺者の仮面が剥がれ落ち、そこにはただ一人の、愛する人を失うことを恐れる男の顔があった。
リリアは驚いたように目を見開き、やがて、花がほころぶように微笑んだ。
それは、この旅の中で一番美しく、そして悲しい笑顔だった。
「……嬉しい」
彼女は自由にならない腕を必死に持ち上げ、クロウの頬を包み込んだ。
「私もよ、クロウ。愛してる。……世界中の誰よりも、あなたを愛してる」
彼女の指が、クロウの涙を拭う。
「だからこそ、あなたに救ってほしいの。……私の死神さんは、優しくて、強くて、温かい人だから」
リリアは残った力を振り絞り、身体を起こした。
そして、クロウの顔を自分に引き寄せた。
「目を閉じて」
クロウは抗えなかった。
彼女の唇が、そっと触れた。
柔らかく、冷たく、そしてわずかに潮の味がした。
最期のキス。
時が止まったかのような静寂の中で、リリアはクロウの手を包み込み、そして――。
トン。
彼女自身の手で、短剣を胸へと押し込んだ。
「――っ!」
クロウが目を見開く。
だが、鮮血は噴き出さなかった。
代わりに、まばゆいばかりの光が弾けた。
突き立てられた短剣を起点に、リリアの身体から青白い光の柱が立ち昇る。
それは呪いの持つようなどす黒い闇ではなかった。
彼女の魂そのものが放つ、純粋で、どこまでも澄み切った聖なる光。
光はクロウを優しく包み込み、空へと広がっていく。
雲を払い、海を照らし、風に乗って世界中へと拡散していく。
「あぁ……」
クロウは光の中で、リリアを見た。
彼女の身体から、呪いの痣が消えていく。
病的な白さも、死の影も消え去り、そこにはただ、光り輝く美しい少女がいた。
「ありがとう、クロウ」
光に溶けゆく彼女が、最期の言葉を紡ぐ。
「あなたがくれたこの時間は、私の宝物。……ねえ、約束して」
「……なんだ」
「泣かないで。笑って。……あなたの笑顔が、一番好きなの」
リリアは満面の笑みを浮かべた。
その笑顔は、太陽よりも眩しく、クロウの心に焼き付いた。
「さようなら。……またね」
パリン、と。
小さな音がして、彼女の姿は無数の光の粒子となって弾けた。
キラキラと輝く光は、海風に抱かれるように舞い上がり、青い空へと溶けていく。
後には、誰もいなかった。
クロウの腕の中には、彼女の温もりだけが残されていた。
そして足元には、あの青い髪飾りが、ポツンと落ちていた。
「……あぁ……あああああぁぁぁッ!!」
クロウは髪飾りを握りしめ、天を仰いで叫んだ。
その慟哭は、波音にかき消されることなく、どこまでも青い空に響き渡った。
* * *
リリアが消滅してから、数年が経った。
あの日、彼女が放った光は、世界中に蔓延していた偽物の聖女の呪いそのものを浄化したのだという噂が、王国全体に広まった。
王都では、新たに就任した聖女が国民の前に姿を見せ、王宮の者たちは安堵して、それぞれが元の日常へと戻っていった。
しかし、国中にあふれえる国民の笑顔が、とある一人の少女の犠牲の上に守られたことは確かだった。
彼女は偽物ではなかった。誰よりも気高く、本物の聖女だったのだ。
最果ての岬。
海を見下ろす丘の上に、小さな家が建っていた。
庭には、リリアが好きだった青い花が咲き乱れている。
クロウは、花に水をやりながら、海を眺めていた。
彼はもう暗殺者ではない。
この地で漁師の手伝いをしながら、静かに暮らしている。
「今日も海が青いぞ、リリア」
クロウは空に向かって語りかけた。
返事はない。だが、優しい海風が、彼の頬を撫でていく。
その風の中に、鈴を転がすような笑い声が聞こえた気がした。
彼は孤独だ。
だが、一人ではない。
胸ポケットには、あの青い髪飾りが入っている。
そして心の中には、彼女と過ごした鮮烈な三ヶ月の記憶が、色褪せることなく息づいている。
初めて一緒に食べたパンの味。
雨の日の温もり。
祭りでのダンス。
そして、最期の口づけ。
人はいつか死ぬ。
だが、誰かに愛され、誰かを愛した記憶がある限り、その生は永遠に輝き続ける。
クロウは知っている。
彼女は今も、この青い世界の一部として、生きているのだと。
「……またな」
クロウは微笑み、家へと戻っていった。
空はどこまでも高く、海はどこまでも青い。
それは、彼女が愛した世界の、美しい姿だった。




