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第七話 最果ての岬

 峠を越えた先には、なだらかな丘陵地帯が広がっていた。

 道とは呼べない獣道を、クロウは一歩ずつ踏みしめて進む。

 足元は泥にまみれ、ゼクスとの戦闘で負った脇腹の傷が、歩くたびに焼けるように痛んだ。

 だが、足を止めるわけにはいかない。


「……クロウ」


 背中から、か細い声が聞こえた。

 風に消えてしまいそうなほど頼りない響き。


「なんだ。痛みがあるのか?」

「ううん。……揺れて、気持ちいい。揺り籠みたい」


 リリアはクロウの首に腕を回し、耳元で浅い呼吸を繰り返している。

 その吐息は熱く、けれど彼女の身体そのものは、芯まで冷え切ったように冷たい。

 そして何より、軽い。

 出会った時でさえ痩せていたが、今はまるで中身のない抜け殻を背負っているようだ。

 彼女の命が、零れ落ちていくのを感じる。


「眠るなよ。寝たら、海を見逃すぞ」

「うん……起きてる。……ねえ、クロウ」

「なんだ」

「海に着いたら、何したい?」


 意識を繋ぎ止めるための、他愛のない問いかけ。

 クロウは少し考えてから答えた。


「そうだな。まずは、美味いものを食わせる。約束しただろう」

「あ……お魚、だっけ」

「ああ。港町には市場があるはずだ。新鮮な魚を焼いて、レモンを絞って食うんだ。パンもいいが、魚介のスープも美味いらしいぞ」


 クロウは見たこともない海の料理を、想像だけで語った。

 リリアが喉を鳴らす音が聞こえた。


「美味しそう……。私、貝殻も拾いたいな。ピンク色の、綺麗なやつ」

「いいな。俺が一番でかいのを拾ってやる」

「ふふ、競争ね」


 リリアが小さく笑った。

 その反応に安堵しながら、クロウは坂道を登る。

 競争など、できるはずがない。

 リリアの足はもう動かない。彼女は二度と、自分の足で大地を踏むことはないだろう。

 それでも、二人は「未来」の話をした。

 そうしていなければ、今にも押し寄せてくる絶望に飲み込まれてしまいそうだったからだ。


 日が傾き、空が茜色に染まり始めた。

 影が長く伸びる。

 世界はこんなにも美しいのに、二人の時間だけが残酷に削り取られていく。


「ねえ、クロウ」

「ん?」

「私がいなくなっても……あなたは、生きてね」


 唐突な言葉に、クロウの足が止まった。


「……何を言う」

「私、わがままばかり言ったから。あなたを困らせて、傷つけて……。だから、せめてもの償いに、私の残りの運を全部あげる」


 リリアはクロウの髪に頬を擦り付けた。


「美味しいものを食べて、温かい場所で眠って、いつか好きな人と出会って……。幸せになってね」

「馬鹿なことを言うな」


 クロウは声を荒らげそうになり、喉元で抑え込んだ。

 そんな普通の幸せなど、俺には似合わない。


「俺の幸せは……」


 言いかけて、やめた。

 言葉にすれば、それが「遺言」への返答になってしまいそうで怖かった。

 代わりに、クロウは背中のリリアを背負い直した。


「海を見るんだろう。諦めるな」

「……うん」


 再び歩き出す。

 リリアの反応が鈍くなってきた。

 問いかけても、返事が返ってくるまでの時間が長くなる。

 呪いの黒い痣は、もう彼女の首筋を覆い尽くし、顔の半分まで達しているのが見えなくても分かった。


 怖い。

 何十人もの人間を葬り、死など日常の一部だったはずの自分が、たった一人の少女の鼓動が止まることを、これほどまでに恐れている。

 これが大切なものを失う恐怖か。

 俺は今まで、奪う側でしかなかった。奪われる痛みを、知らなかったのだ。


「クロウ……」


 リリアの声が、不意に明るくなった。


「なに?」

「不思議な匂いが、する」


 クロウは鼻を動かした。

 血と汗の臭いに混じって、確かに微かな香りが漂ってくる。

 湿った風。土の匂いとは違う、どこか懐かしく、広大な気配を含んだ香り。

 潮の香りだ。


「……ああ。近いぞ」


 クロウは走った。

 痛む足に鞭打ち、残った体力を全て注ぎ込んで、丘を駆け上がる。

 風が強くなる。

 木々が途切れ、視界が開けていく。


「リリア、目を開けてろ、もうすぐだ」

「う、ん……」


 丘の頂上。

 最後の数メートルを一気に駆け抜け、クロウは足を止めた。


 視界が一気に開けた。

 眼下に広がっていたのは、見渡す限りの青。

 水平線が空と溶け合い、朝日に照らされた水面が宝石のように煌めいている。

 最果ての海。

 リリアが夢見続けた、世界で一番大きな場所。


「……着いたぞ、リリア」


 クロウはリリアをそっと地面に下ろし、抱き支えた。

 リリアはゆっくりと目を開けた。

 その瞳に、青い世界が映り込む。


「わぁ……」


 彼女の口から、感嘆の吐息が漏れた。

 涙が溢れ、頬を伝う。


「きれい……。本で読んだより、ずっと、ずっときれい……」

「そうだな」

「世界は、こんなに広かったんだ……」


 リリアは震える手を伸ばし、海風に触れようとした。

 その指先から、わずかに魔力がこぼれている。

 身体が、透け始めていた。

 呪いの侵食が終わり、彼女の存在そのものが崩壊を始めているのだ。


「ありがとう、クロウ。私をここまで連れてきてくれて」


 リリアはクロウを見上げた。

 その顔には、死への恐怖など微塵もなかった。あるのは、満ち足りた幸福感だけ。


「私の世界は、狭くて、暗くて、寂しかったけど……。最後に、こんなに美しいものを見れて、あなたに出会えて、本当によかった」


 彼女はクロウの頬に手を添えた。

 冷たい。でも、優しい手。


「ねえ、クロウ。約束、覚えてる?」


 クロウの心臓が早鐘を打った。

 『海を見たら、すぐに殺す』

 あの契約だ。


 クロウは何も言えず、ただ彼女を見つめ返した。

 その視線から逃げるように、リリアは海へと視線を戻す。


「もう少しだけ……このままでいさせて」


 二人は並んで座り、ただ波の音を聞いていた。

 寄せては返す波のリズムが、二人の鼓動と重なっていく。

 言葉はいらなかった。

 ただ、隣にいる体温を感じているだけで、十分だった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 日が昇りきり、海の色が深い青へと変わった頃、リリアが口を開いた。


「私ね、生まれ変わったら、カモメになりたいな」

「……カモメ?」

「うん。白い翼で、どこまでも自由に飛んでいけるカモメ。そうしたら、もう誰にも縛られずに、好きな場所に行けるでしょう?」


 彼女は空を飛ぶ鳥を目で追った。


「そしたら、クロウのところにも飛んでいくわ。あなたがどこにいても、きっと見つける」

「……ああ。待ってる」


 クロウは短く答えた。

 喉が詰まって、それ以上言葉が出てこない。

 生まれ変わりなど信じていなかった。死ねば無になるだけだと思っていた。

 だが今は、もしそんなものがあるなら、神に祈りたいとさえ思った。

 彼女が、次はもっと自由に、もっと幸せに生きられる世界を与えてくれと。


「クロウ」


 リリアが彼の袖を引いた。


「そろそろ、時間ね」


 彼女の身体の輪郭が、陽炎のように揺らぎ始めていた。

 限界が近い。

 終わりの時が、すぐそこまで迫っていた。

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