第六話 裏切りの代償
国境の峠道は、不気味なほど静まり返っていた。
鳥の声も、風の音すらも聞こえない。まるで世界そのものが息を潜めているような、重苦しい静寂。
クロウは手綱を握る手に力を込めた。
肌を刺すような悪寒。背筋を冷たい指で撫で上げられるような感覚。
知っている。この感覚を、俺はよく知っている。
「……来たな」
クロウは馬車を止めた。
御者台から降り、周囲を警戒する。
リリアが幌の隙間から顔を覗かせた。
「クロウ? どうしたの?」
「中に入っていろ。絶対に、何があっても顔を出すな」
クロウの声は震えていたかもしれない。
彼はリリアを押し戻し、幌を固く閉じた。
そして、前方へと向き直る。
峠の頂上。一本の枯れ木の下に、その男は立っていた。
黒いロングコート。目深に被った帽子。
手には何も持っていない。ただポケットに手を突っ込んで、散歩でもしているかのように佇んでいる。
だが、その男から放たれる気配は、周囲の空間を歪めるほどに濃密だった。
「……久しぶりだな、クロウ」
男が顔を上げた。
彫りの深い顔立ちに、片目を覆う眼帯。残された右目は、爬虫類のように冷たく、感情の色がない。
暗殺ギルド『死告鳥』の長にして、裏社会の頂点に君臨する男。
ゼクス。
クロウに殺しの全てを叩き込んだ師匠であり、絶対的な支配者。
「ゼクス……」
「随分と探したぞ。お前のことは一人前の暗殺者に育て上げたはずだと思っていたが、影騎士団相手にあんな不甲斐ない戦いをした挙句、こんなにも見え見えの逃亡ルートで逃げるとは。やはり感情を持った者は弱いな」
ゼクスは愉快そうに笑った。だが、その目は笑っていない。
「女連れの逃避行など、目立って仕方がないだろう」
そういってゼクスはゆっくりと右手をこちらに差し伸べた。
「聖女を渡せ。そうすれば、お前だけは楽に殺してやる」
「断る」
クロウは短剣を二本、逆手に抜いた。
冷や汗が頬を伝う。
勝てない。本能がそう告げている。この男と戦って生き残った者はいない。
だが、引くわけにはいかない。背後にはリリアがいる。
「ほう。飼い犬が主人に牙を剥くか。……その女に毒されたか? 感情などという不純物は、刃を鈍らせるだけだと教えたはずだが、忘れてしまったか?」
「彼女は毒じゃない。俺に生きる意味を教えてくれた人だ」
「生きる意味だと? 道具にそんなものが必要か」
ゼクスはため息をついた次の瞬間、クロウの視界から姿を消した。
速い。
予備動作なしの縮地。
瞬きする間に間合いを詰められ、ゼクスの蹴りがクロウの鳩尾に突き刺さった。
「がはっ……!?」
クロウは手毬のように吹き飛び、岩肌に叩きつけられた。
肺の中の空気が強制的に排出され、視界が明滅する。
重い。たった一撃で、内臓が悲鳴を上げている。
「遅い。迷いがある証拠だ」
ゼクスはゆっくりと歩み寄ってくる。
手にはいつの間にか、歪な形状のナイフが握られていた。
「立て、クロウ。殺し合いをしよう。この俺が育てた最高傑作として、まともな散り様くらいは見せてみろ」
クロウは血を吐き捨て、立ち上がった。
痛みを怒りに変える。
リリアを守る。その一心だけで、身体を突き動かす。
「うおおおおおおッ!」
クロウが吠え、地面を蹴った。
神速の連撃。
左右の短剣でゼクスの急所を狙う。首、心臓、腎臓。
だが、ゼクスはそれを最小限の動きで捌いていく。
まるで子供の遊び相手をするかのように、脱力した状態で。
「筋が悪い。殺気が漏れている。次の一手が簡単に予測できるぞ」
ゼクスの右手が、首を狙って突き出されたクロウの左手首を捉え、捻り上げた。
バキッ、と嫌な音が響く。
「ぐぁっ……!」
「終わりだ」
ゼクスのナイフが閃いた。
クロウは身をよじって回避しようとするが、避けきれない。
左肩から胸にかけて、深々と切り裂かれた。
鮮血が舞う。
クロウはその場に崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ……」
片腕が動かない。出血で力が抜けていく。
圧倒的な絶望。
ほかの誰と戦っても、こんな傷は負わないだろう。
これが、頂点の実力か。
「つまらんな。女にうつつを抜かして、ここまで弱くなるとは」
ゼクスはクロウを見下ろし、蔑むように言った。
「安心しろ。あの女もすぐに送ってやる。……そうだな、手足を落として、生きながら鳥の餌にするというのはどうだ?」
「やめ……ろ……」
「お前に拒否権はない。敗者は黙って見ていろ」
ゼクスが馬車へと歩き出す。
クロウは這いつくばり、ゼクスの足を掴もうとしたが、無慈悲に蹴り飛ばされた。
指が折れる音がした。
「リリア……逃げろ……!」
クロウの叫びも虚しく、ゼクスは馬車の前に立った。
そして、その凶刃を幌に突き立てようとした――その時だった。
「――その人に、触れないで」
凛とした声が響いた。
同時に、馬車の幌が弾け飛んだ。
中から現れたのは、リリアだった。
だが、いつもの彼女ではない。
全身から眩いばかりの青白い光を放ち、その髪は重力に逆らってふわりと浮き上がっている。
瞳は黄金色に輝き、人間離れした神々しさを纏っていた。
「なっ……なんだ、その魔力は!?」
さしものゼクスも驚愕し、飛び退いた。
リリアが馬車から降り立つ。
その一歩ごとに、足元の草花が急速に成長し、そして枯れていく。
生命力を魔力に変換しているのだ。
命を削る、禁断の力。
「リリア! やめろ! 戻れ!」
クロウが叫ぶ。
だが、リリアには届いていないようだった。
彼女はただ一点、クロウを傷つけた男、ゼクスだけを見据えていた。
「クロウを傷つけるものは、私が許さない」
リリアが右手を掲げた。
大気が悲鳴を上げる。
膨大な魔力が収束し、光の槍となってゼクスへ放たれた。
「ちぃッ!」
ゼクスは反応したが、回避しきれなかった。
光の奔流が彼の左腕を掠め、後方の岩山を消し飛ばした。
轟音と共に、土煙が舞い上がる。
「馬鹿な……これが聖女の力だと!? 偽物でありながらこれほどの力を擁しているとは......」
ゼクスが脂汗を流しながら呻く。
左腕が炭化している。直撃していれば消滅していただろう。
リリアは無表情のまま、次の一撃を放とうとしていた。
だが、その代償はすぐに現れた。
ゴフッ。
リリアが大量の血を吐いた。
光が明滅する。
腕の痣が、見るも無残な速さで広がっていく。肩へ、首へ、そして頬へと。
彼女の白い肌が、呪いの黒に侵食されていく。
「リリアッ!!」
クロウは痛む身体を引きずり、彼女の元へ這い寄った。
リリアの膝が折れる。
彼女は地面に倒れ込みながらも、クロウの方を見て、弱々しく微笑んだ。
「……大丈夫? クロウ……」
「馬鹿野郎! なんで使った! 寿命が縮むと分かっていただろう!」
「だって……あなたが死んじゃったら、意味がないもの……」
リリアの手が、クロウの頬に触れる。
氷のように冷たい。
彼女の命の灯火が、今にも消え入りそうに揺らいでいるのが分かる。
「チッ……興が削がれた」
土煙の向こうから、ゼクスの声がした。
彼は片腕を抑えながら、忌々しげに二人を睨みつけた。
「化け物が。これ以上関われば、こっちが危ないな。……拾った命だ、せいぜい大事にしろよクロウ。どうせ長くは持たんがな」
ゼクスは捨て台詞を残し、森の闇へと消えていった。
深手を負った彼にとっても、リリアの未知数の力は脅威だったのだろう。
助かったのだ。
だが、代償はあまりにも大きかった。
「……ぁ……」
リリアが苦悶の声を漏らす。
全身に激痛が走っているのだ。呪いが活性化し、彼女の内側を食い荒らしている。
クロウは彼女を抱きしめることしかできなかった。
「ごめん、なさい……。私、もう、歩けないかも……」
「喋るな! 俺が運ぶ! 海まで、俺が背負ってやる!」
クロウは涙声で叫んだ。
馬車は半壊している。馬も逃げ出した。
ここからは、自分の足で行くしかない。
残された時間は、もう三ヶ月どころではない。数日、いや、明日をも知れない状態だ。
「海……見たいな……」
リリアの瞳から光が失われていく。
クロウは彼女を背負い上げた。
羽のように軽い。
命の重さが、抜け落ちていくようだ。
「見せてやる。絶対に見せてやるから、死ぬな! リリア!」
クロウは歩き出した。
傷だらけの身体に鞭を打ち、険しい山道を一歩一歩踏みしめる。
背中から伝わる心音が、あまりにも弱く、儚い。
夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。
それはまるで、終わりの刻を告げる時計の針のように見えた。




