第五話 星花火の夜に、叶わない夢を見る
国境の街「アルテア」は、かつてない賑わいを見せていた。
夕暮れの空に、いくつものランタンが浮かび上がっている。街路樹には色とりどりのリボンが結ばれ、通りからは香ばしいスパイスと甘い果実の香りが漂ってくる。
年に一度、この地方に自生する「星見草」が一斉に開花するのを祝う、星花火の祭りの日だった。
「わぁ……すごい人」
リリアは外套のフードを目深に被りながら、行き交う人々の波を眩しそうに見つめた。
彼女の手は、しっかりとクロウの袖を掴んでいる。
クロウもまた、警戒を怠らず周囲に視線を走らせていた。
追手である影騎士団を退けたとはいえ、ここはまだ王国の勢力圏内だ。手配書も回っているだろう。
「あまり離れるな。はぐれたら面倒だ」
「うん。……でも、少しだけ見てもいい?」
リリアが指差したのは、広場に立ち並ぶ露店の列だった。
ガラス細工、刺繍入りのハンカチ、木彫りの人形。
キラキラしたものが大好きな少女の瞳が、宝石のように輝いている。
クロウは溜息をついた。
本来なら、人目を避けて宿に直行すべきだ。だが、彼女の余命を思えば、これが彼女にとって最初で最後の祭りになるかもしれない。
「……一時間だけだ」
「本当!? ありがとう、クロウ!」
リリアは弾むような足取りで露店へと駆け寄った。
クロウはその後ろ姿を見守りながら、ふと自分の胸に手を当てた。
以前なら感じていたはずの任務の遅滞への苛立ちがない。代わりに感じるのは、彼女の笑顔を守りたいという、奇妙な使命感だけだった。
二人は人混みを縫うように歩いた。
怪しまれないよう、クロウは即席の変装をしていた。武器を隠し、伊達眼鏡をかけ、リリアの腰に手を回して祭りに来た若夫婦を装う。
リリアはその設定が気に入ったのか、やたらとクロウに密着してくる。
「ねえ、あなた。あれ美味しそうよ」
「食い過ぎだ。さっき串焼きを食ったばかりだろう」
「甘いものは別腹なの。ほら、あーん」
リリアが一口サイズの揚げ菓子を差し出してくる。
周囲の視線を感じ、クロウは渋々口を開けた。
甘い。砂糖とシナモンの味が口いっぱいに広がる。
悪くない、と思ってしまった自分に驚く。
「あ、見て。綺麗……」
リリアが足を止めたのは、装飾品を売る屋台の前だった。
彼女の視線の先には、青いクリスタルをあしらった銀の髪飾りが置かれている。
海の色に似た、深い青色。
「欲しいのか?」
「ううん、いいの。見るだけ」
リリアは首を振った。
旅の資金は限られている。クロウが持っていた活動資金と、いざとなればリリアが持ち出した宝石を換金した金があるが、海までの路銀を考えれば無駄遣いはできない。
彼女はそれを理解しているのだ。
リリアは名残惜しそうに髪飾りを一瞥し、歩き出そうとした。
「待て」
クロウは店主に銀貨を投げた。
そして髪飾りを手に取り、無造作にリリアのフードを少しだけ退け、銀色の髪に挿した。
「え……?」
「海に行くんだろ。なら、少しは海らしい格好をしておけ」
ぶっきらぼうな言い訳。
だが、リリアは鏡を覗き込み、頬をバラ色に染めた。
青い石が、彼女の銀髪と白い肌によく映えている。
「……似合う?」
「ああ。悪くない」
リリアは髪飾りにそっと触れ、クロウを見上げた。
「ありがとう。一生の宝物にするね」
一生。
その言葉の重みが、クロウの心臓を締め付けた。
彼女の「一生」は、あと三ヶ月もないのだ。
日が落ち、夜の帳が下りると、祭りは最高潮を迎えた。
広場の中央で焚き火が燃え上がり、楽団が軽快な音楽を奏で始める。
人々が輪になり、手を取り合って踊り出す。
空には、この祭りの名前の由来となった「星花火」――魔法で打ち上げられた無数の光の粒が、金色の雨となって降り注いでいた。
「せっかくだし、踊りましょう、クロウ」
リリアが手を差し出した。
逆光の中で微笑む彼女は、この世の者とは思えないほど幻想的だった。
「俺は踊りなど知らん。殺し方しか教わっていない」
「大丈夫。私だって初めてよ。リズムに合わせて体を揺らすだけだもの」
強引に手を引かれ、クロウは人の輪の中に引きずり込まれた。
見様見真似でステップを踏む。
不格好だが、誰も気にしちゃいない。誰もが笑顔で、誰かと手を取り合っている。
リリアの手は温かかった。
その体温を感じるたびに、クロウの中で何かが溶けていく。
一曲が終わると、二人は人混みを離れ、川沿いの静かな土手へ移動した。
水面に映る花火を見ながら、並んで座る。
祭りの喧騒が、遠いBGMのように聞こえる。
「……楽しかった」
リリアが膝を抱えて呟いた。
「生まれて初めて、こんなに笑った気がする。美味しいものを食べて、綺麗なものを見て、あなたと踊って……」
彼女は夜空を見上げた。
「ねえ、クロウ。もしもね」
「ああ」
「もしも私が、聖女の身代わりなんかじゃなくて、普通の村の娘として生まれていたら……。こんなふうに、誰かと恋をして、大人になって、お婆ちゃんになるまで生きていけたのかな」
切実な問いだった。
叶わないと分かっているからこそ、胸を焦がす夢。
「……ああ。きっと、いい人生だっただろうな」
クロウは短く答えた。
リリアなら、誰からも愛される素敵な女性になっただろう。
パン屋の看板娘になっていたかもしれないし、学校の先生になっていたかもしれない。
そして、その隣には、俺ではない誰かがいたはずだ。
血に汚れていない、真っ当な誰かが。
「でも、今の人生も悪くないわ」
リリアはクロウの方を向き、悪戯っぽく笑った。
「だって、普通の女の子だったら、伝説の暗殺者さんとデートなんてできないもの。……私ね、今が一番幸せよ」
彼女はそっとクロウの肩に頭を預けた。
甘い髪の匂いが鼻をくすぐる。
クロウは動けなかった。拒絶することも、抱きしめることもできず、ただ彼女の重みを感じていた。
「クロウ」
「なんだ」
「私を殺す時、痛くしないでね」
「……善処する」
「ふふ。お願いね」
リリアの呼吸が、少しずつ荒くなっていた。
はしゃぎすぎた反動だ。身体が熱を持っているのが服越しにも分かる。
楽しい時間は終わりだ。
現実は待ってくれない。
「宿に戻ろう。休んだ方がいい」
「うん……もう少しだけ。あと五分だけ、このままでいさせて」
リリアは目を閉じた。
遠くで、最後の大輪の花火が上がり、夜空を白く染めた。
その光の中で、クロウは誓った。
神になど祈らない。
俺が、この命を削ってでも、彼女に残された時間を守り抜く。
たとえ世界中を敵に回しても。
ーーー
翌朝。
宿を出発する際、クロウは気配の変化を感じ取った。
街の空気が張り詰めている。
検問が強化されている。
そして何より、背筋を這い上がるような、冷たく粘着質な殺気。
覚えがある。
これは、影騎士団のような生温いものではない。
「……師匠か」
クロウはリリアを先に馬車に乗せ、振り返った。
人混みの彼方に、黒い影が見えた気がした。
暗殺ギルドの長。クロウに殺しの全てを叩き込んだ男。
最強の追跡者が、動き出したのだ。
「クロウ? どうしたの?」
「いや、なんでもない。行くぞ」
クロウは御者台に飛び乗った。
手綱を握る手に力が入る。
ここから先は、本当の地獄だ。
だが、恐れることはない。
背中には、俺が唯一守るべきものが乗っているのだから。
馬車が動き出す。
リリアの髪飾りが、朝日に煌めいた。




