第三話 雨宿りの廃協会
天候が急変したのは、ルクセンの街を出てから三日ほど経った頃だった。
鉛色の雲が空を覆い、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降り注いだ。
街道はぬかるんで歩きづらく、視界も最悪だ。
「……まずいな。雨のおかげで足跡は消えるが、体力が持たん」
クロウは舌打ちし、腕の中のリリアを庇うように外套を引き寄せた。
リリアはぐったりとしていた。
ただの疲労ではない。顔色は紙のように白く、触れた肌は火傷しそうなほど熱い。
呪いの発作だ。
寒さのせいで弱った体の中で、呪いが急速に広がっているのだ。
「リリア、しっかりしろ。もうすぐ休める場所が見つかるはずだ」
「う、ん……ごめんなさい、クロウ……」
リリアは荒い息を吐きながら、クロウの服を弱々しく掴んだ。
その細い指先が震えている。
クロウは焦燥感を覚えた。
退陣戦闘や情報収集において世界レベルであるクロウも、呪いに関してそれほど知識があるわけではなかった。
ましてや、彼女の呪いの原因である聖女の魔力についての情報は国家機密として王宮内部で厳重に管理されているため、クロウが知らないのも仕方のないことだった。
これまで、人命救助や要人警護は別の部隊が担当していたため、クロウは人を殺す以外のスキルを身につける必要がなかった。
まさかこんなところでそのことを後悔することになるなど、思ってもいなかったクロウは、苦しむリリアに応急処置すらしてやれない自分に苛立った。
ーーー
「あったぞ!」
森を抜けた先に、古びた石造りの建物が見えた。
屋根の一部が崩れかけた、小さな廃教会だ。
クロウは扉を蹴破り、中へと駆け込んだ。
内部は埃っぽかったが、雨風はしのげる。
クロウは祭壇の前の比較的綺麗な場所にリリアを寝かせると、手早く周囲の枯れ木を集め、火を起こした。
パチパチと薪が爆ぜる音が、静寂な堂内に響く。
「寒い……」
リリアがガタガタと震えている。
クロウは自分のコートを脱いで彼女にかけ、さらに予備の毛布で包み込んだ。
それでも震えは止まらない。
呪いの浸食が、彼女の生命力を食い荒らしているのだ。
「薬は……ないのか」
「な、い……。あれは、塔の中でしか……作れないから……」
リリアは苦しげに喘いだ。
塔で投与されていたのは、呪いを抑える薬ではなく、聖女としての魔力を強制的に活性化させる劇薬だったのかもしれない。
それが切れた今、彼女の身体は反動に苦しんでいるのだ。
「くそっ……」
クロウは鞄から干し肉と水を取り出し、ナイフで細かく刻んで鍋に入れた。
即席のスープを作る。
味付けなど二の次だ。今は少しでも彼女に体力をつけさせなければならない。
「飲めるか?」
クロウはリリアの上体を起こし、スプーンでスープを口に運んだ。
リリアは数口啜っただけで、苦しげに咳き込んだ。
「ごめん、なさい……。私、荷物にしかならないね……」
「喋るな。体力を温存しろ」
「置いていって……いいよ。ここまで私のわがままにつき合わせちゃって......ごめんね……」
リリアの瞳から、涙が零れ落ちた。
「私は……ゴミ箱だから……」
熱に浮かされたリリアが、うわ言のように呟き始めた。
「お父様もお母様も、私をいらないって言ったの。魔力が強すぎて、気味が悪いって。だから、わたしを聖女の身代わりに推薦したの」
「……」
「王宮の人たちも誰も、私が犠牲になることを止めたりはしなかった。聖女が覚醒していない以上、誰かが身を犠牲にしてこの強大な魔力を肩代わりしなくちゃいけなかったから。私は、誰も欲しがらない呪いの魔力を押し付けられた、使い捨てのゴミ箱……」
彼女の独白は、クロウの胸を抉った。
自分と似ている。
クロウもまた、幼い頃に親に捨てられ、暗殺ギルドに拾われて「殺しの道具」として育てられた。
感情を殺し、命令に従うだけの存在。
深く考えることもなく、これまで何百人もの人を葬ってきた。
だが、彼女は違った。
こんな仕打ちを受けながらも、彼女は世界を呪うことなく、ただ「海が見たい」と願ったのだ。
「でもね……」
リリアが、クロウの手を握った。
熱く、弱々しい力。
「最後に、あなたに会えてよかった。……死神さんが、こんなに温かい手をしているなんて、知らなかったもの」
彼女はクロウの手を頬に押し当て、愛おしそうに目を細めた。
その温もりが、クロウの冷え切った心を溶かしていく。
道具として生きてきた自分が、誰かにとっての「温かさ」になれるなど、考えたこともなかった。
「……馬鹿なことを言うな」
クロウは、リリアの手を強く握り返した。
「俺との契約を忘れたか。海を見るまでは、勝手に死ぬことは許さん」
「クロウ……」
「俺は与えられた任務は必ず達成する。お前のことも、必ず海まで連れて行く。だから……」
言葉に詰まる。
なんて言えばいい?
こんな俺が、リリアに何を言ってやれる?
クロウは、不器用に、しかし精一杯の想いを込めて告げた。
「生きろ。リリア」
それは、彼が初めて他者に向けた、純粋な「願い」だった。
リリアは驚いたように目を見開き、やがて柔らかく微笑んだ。
「うん……分かった、生きる。海を見るまで、絶対に」
彼女は安らかな寝息を立てて眠りについた。
熱はまだ高いが、表情は穏やかだ。
クロウは一晩中、彼女の手を握り続けた。
雨音だけが響く廃教会。
孤独だった二つの魂が、初めて寄り添い合った夜だった。
翌朝。
雨は上がり、雲の切れ間から朝日が差し込んでいた。
リリアの熱は下がっていた。
彼女は目覚めると、恥ずかしそうに言った。
「あの……昨日のこと、忘れてください。弱音吐いちゃって、恥ずかしい」
「覚えてないな」
クロウは嘘をついた。
昨夜のリリアの言葉も、温もりも、全て鮮明に覚えている。一生忘れないだろう。
「行くぞ。今日は天気がいい」
「うん!」
教会を出ようとした時、クロウは気配を感じて足を止めた。
森の奥。
複数の足音と、金属が擦れる音。
追手だ。それも、ただの衛兵ではない。訓練された手練れだ。
「……来たか」
クロウはリリアを背後に庇い、短剣を抜いた。
その瞳に、冷徹な暗殺者の光が戻る。
だが、その奥には、昨日までとは違う決意が宿っていた。
ただ殺すためではない。
守るための戦いが、始まる。




