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第二話 初めての「世界」

 夜明け前。

 王都を囲む城壁を越え、さらに街道をひた走ること数時間。

 東の空が白み始める頃、クロウとリリアは隣国の国境近くにある宿場町「ルクセン」に到着していた。


「……ここまで来れば、すぐには追いつかれまい」


 クロウは路地裏に身を隠し、呼吸を整えた。

 一晩中、リリアを抱えて走り続けたのだ。さすがの暗殺者も疲労の色は隠せない。

 一方、リリアはクロウの腕から降りると、興味津々といった様子で周囲を見渡した。


「ここが、外の世界……」


 まだ朝霧が漂う町並み。

 石畳の道、煉瓦造りの家々、煙突から立ち昇る朝食の準備の煙。

 その全てが、リリアにとっては未知の光景だった。


「すごい。本で読んだ通りだわ。こんな風景が、すぐそばにあったなんて」


 彼女は近くの建物の壁に触れた。

 冷たく、ザラザラとしたレンガの感触。


「不思議なさわり心地ね」

「ただのレンガだ。あんまり触るとケガをするぞ」


 クロウは素っ気なく返したが、リリアはまるで見たことのない宝石でも見つけたかのように嬉しそうだ。

 いくら王宮で冷遇されていたとはいえ、高価なものを見る機会はいくらでもあったはずだ。それなのに、こんな何でもない町がそんなに面白いのだろうか。

 

 「なんだか、狭い道がたくさんあるわね」


 リリアがそういって、家と家の間の路地裏を覗き込むと、大きな灰色の犬が一匹、路地裏から飛び出してきて、クンクンとリリアのにおいをかぎ始めた。

 この辺では珍しい香水のようなにおいがするのだろうか。


 「きゃっ!あ、あなた、どこにいたの?全く気が付かなかったわ」

 「この辺には野良犬が多いんだ。その路地裏の奥で眠っていたのだろう。人に慣れているから噛みはしないと思うが、注意しろよ」

 「そうだったのね......。でも確かに、すっごく人懐っこいのね。とってもかわいいわ」 


 リリア自身も犬はそれほど怖くないのか、すぐにうれしそうな顔で犬の頬を撫で始めた。

 その無邪気な横顔を見ていると、数時間前まで自分が彼女を殺そうとしていたことが、遠い昔の出来事のように思えてくる。


「とりあえず、変装が必要だ。その格好は目立ちすぎる」


 リリアの服装は、純白の聖女服に、茶色の皮で出来た地味目の外套。

 後ろからではわからないだろうが、前から見ればドレスの白い生地が外套の隙間から見えてしまっている状態だ。

 もちろんこの町で、日常的にドレスを着ている人間などいない。

 このままでは「私は逃亡中の聖女です」と宣伝して歩いているようなものだ。

 クロウは路地裏に干してあった洗濯物の中から、女性用のシャツとズボン、それに古ぼけた帽子を拝借し、代わりに10枚ほどの銅貨を置いておいた。


「ちょっと、それ、勝手に取ってもいいの?」

「その格好で店に入ると怪しまれるだろう。心配ない、金は多めに置いておいた」

「そういう問題なのかしら......」


 リリアは困惑した表情で、服を受け取った。

 

「着替えろ。サイズは合わないだろうが、我慢してくれ」

「えっ、ここで?」

「今はまだ朝早いし、この路地裏は暗くて狭いから、誰かに見つかる心配はない。早くしろ」

「本当に......?」

「お前も、奥にいた犬に気が付かなかっただろう」

 

 リリアは少し恥ずかしそうにして考え込んでいたが、クロウが背を向けると、ガサゴソと着替え始めた。

 数分後。


「……どうかしら?」


 振り返ると、そこにはブカブカのシャツを着て、ズボンの裾を何重にも折り返した、奇妙な少女の姿があった。

 帽子を目深に被り、目立つ銀髪を隠している。


「……まあ、これならこの辺りの少女か、浮浪児に見えなくもないな」

「浮浪児って。もう少し褒めてくれてもいいのに」


 リリアは唇を尖らせたが、その表情すらも生き生きとしている。

 幽閉塔にいた時の、あのどこか達観したような儚さは消え、今は年相応の少女の顔をしていた。


「行くぞ。まずは旅のための物資を調達しに行く」


 クロウが歩き出すと、リリアは小走りでついてきた。

 しかし、すぐに彼女の足が止まる。


「いい匂い……」


 彼女の視線の先には、早朝から店を開けているパン屋があった。

 焼きたてのパンの香ばしい匂いが、朝の冷気の中に漂っている。

 リリアのお腹が、きゅぅ、と可愛らしい音を立てた。


「……腹が減ったのか?」

「う、うん。昨日の夜から何も食べてなくて」


 リリアは顔を真っ赤にして俯いた。

 クロウはリリアの手を引き、パン屋へと向かった。

 店先には、様々な種類のパンが並んでいる。


「どれがいい?」

「えっと、えっと……」


 リリアは目を輝かせて迷っている。

 どれも見たことがないのだろう。塔での食事は、栄養管理された味気ない食べ物ばかりだったはずだ。


「これにします!」


 彼女が選んだのは、中に赤いジャムがたっぷり入った丸いパンだった。

 クロウは銅貨を払い、パンを二つ買った。


 近くのベンチに座り、二人並んでパンをかじる。

 リリアは一口食べると、目を見開いて固まった。


「……!」

「どうした、不味かったか?」

「ううん、違うの。……甘い」


 彼女の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。


「甘くて、温かくて……すごく、美味しい」


 ただの安物のジャムパンだ。

 だが、リリアにとっては、それが「生きている味」だったのかもしれない。

 彼女は涙を拭いながら、夢中でパンを頬張った。口の端にジャムがついているのも気にせずに。


「……そうか」


 クロウは自分の分のパンを半分に割り、黙って彼女に差し出した。


「え、いいの?」

「俺はそんなに腹が減ってない。食え」

「ありがとう、クロウさん!」


 リリアは満面の笑みで受け取った。

 その笑顔を見た瞬間、クロウの胸の奥が、またチクリと痛んだ。

 

 ――こんな些細なことで喜ぶ少女を、国は「道具」として使い潰そうとしていたのか。

 そして俺もまた、その片棒を担いでいたのだ。


「……クロウ」

「ん?」

「さん付けはやめろ。敬語もだ。俺たちは今、対等な旅の連れだ」

「分かった。……ありがとう、クロウ」


 リリアは嬉しそうに呼び捨てにした。

 その時だった。

 足元に、一匹の野良猫が寄ってきた。薄汚れた茶トラの猫だ。

 リリアはパンの欠片をちぎり、猫に差し出した。


「ほら、お食べ。美味しいよ」

「よせ、汚いぞ」

「大丈夫よ。この子も、お腹が空いてるだけだもの」


 猫は警戒しながらも、リリアの手からパンを食べた。そして、彼女の指先をザラリとした舌で舐めた。

 リリアはくすぐったそうに笑い、猫の頭を撫でる。


「温かい……。生き物って、みんな温かいのね」


 その光景は、あまりにも平和で、美しかった。

 

 しかし、現実は残酷だ。

 リリアが袖をまくった時、クロウの視界に黒い痣が映った。

 彼女の腕にある黒い痣は、昨日よりもほんの少しだけ広がっていた。


「……リリア」

「なあに?」

「痛みはあるか?」

「ううん、平気よ。ちょっと身体が重いだけ」


 リリアは笑顔で返答したが、彼女が魔力障害による痛みを感じているのは明らかだった。

 呪いの侵食は進んでいる。

 外の世界に出たことで、彼女の生命力は活性化しているが、同時に呪いの活動も早めているのかもしれない。

 残された時間は、三ヶ月もないかもしれない。


「それを食べたら、急いで旅支度をしよう。次の街へ向かう」

「えっ、もう?」

「追手が来るかもしれない。それに、海まではまだ遠い」


 クロウは立ち上がり、リリアの手を引いた。

 リリアは名残惜しそうにパン屋と野良猫を振り返ったが、素直に従った。


「うん。行こう、クロウ」


 二人は雑踏の中へと消えていく。

 その背後で、街の掲示板に新しい手配書が貼られていることに、まだ誰も気づいていなかった。


『聖女誘拐の凶悪犯・通称クロウ。見つけ次第、生死を問わず捕獲せよ。賞金金貨一万枚』


 そして、その隣にはもう一枚。

 顔写真はないが、不気味な似顔絵が描かれた手配書があった。


『王宮の裏切り者・リリア。国家反逆罪。発見次第、即刻処分せよ』


 リリアがどれだけ強く自由を望もうとも、世界は彼女の命をあきらめてはくれない。

 二人の背中には、着実に魔の手が迫りつつあった。

 

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