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第一話 月夜の取引

 月が、凍てつくように白かった。

 王都の北端、断崖の上にそびえ立つ「白亜の塔」。

 かつては罪人を閉じ込める牢獄であり、現在は国の象徴である「聖女」が住まう聖域とされる場所だ。

 だが、その実態は変わらない。

 そこは、ただの綺麗な鳥籠だ。


 クロウは、塔の最上階を見上げていた。

 夜風が黒いコートの裾を揺らす。彼が纏う闇色の気配は、夜の闇そのものに溶け込み、鋭敏な歩哨の目をもってしても捉えることはできない。

 

 暗殺者である彼には名がない。「クロウ」という通称だけが、裏社会で囁かれる唯一の情報だった。

 推定二十歳前後という若さで、依頼遂行率は一〇〇%。感情を持たず、慈悲を持たず、ただ標的の心臓を止めるだけの機械。

 それが、彼の存在意義だった。


「……ここか」


 短く呟き、クロウは石壁を蹴った。

 重力を無視したかのような動きで垂直の壁を駆け上がり、わずかな足場を伝って、地上百メートルの高さにある窓へと到達する。

 警備の結界は、事前に解析済みだ。

 彼は音もなく窓を開け、影のように部屋の中へと滑り込んだ。


 そこは、驚くほど殺風景な部屋だった。

 聖女の居室というには装飾が少なすぎる。冷たい石の床、古びた本棚、そして部屋の中央に置かれた質素な天蓋付きベッド。

 月光が、ベッドの上の人影を照らしていた。


 少女がいた。

 透けるような銀髪に、病的なまでに白い肌。身体は細く、少し触れただけで折れてしまいそうだ。

 彼女は窓辺に腰掛け、鉄格子の隙間から見える狭い夜空を、飽きもせずに見つめていた。

 

 リリア・クラーフェルド。 十七歳。

 この国の安寧を祈り、国防結界を支える「聖女」。

 その小さな体には、国全体を覆う結界を維持するための特別な魔力が秘められている。

 そして――今宵、歴史の闇に葬られるべき「不要品」。


 クロウは音もなく背後に立った。

 腰の短剣に手を掛ける。殺気は出さない。相手に死を意識させる前に、すべてを終わらせるのが流儀だ。

 依頼主である枢機卿の言葉を思い出す。

『あれはもう用済みだ。今夜、聖女の神託の儀を執り行う。もとより適性のない体であったから、放っておいてもいずれ死ぬだろうが……間に合わせの偽物がいつまでも生きていると、縁起が悪い』

 偽物。

 彼女は、本物の聖女が覚醒するまでの「繋ぎ」として用意された、身代わりの少女に過ぎない。

 用が済めば捨てられる。それがこの国の王宮に妾の子として生まれた彼女の、いわば運命であった。


 クロウが短剣を抜き放った、その刹那。

 少女が、ゆっくりと振り返った。


「――こんばんは」


 鈴を転がすような、涼やかな声だった。

 クロウの腕が止まる。

 殺気に気づいたわけではないだろう。彼女の瞳は、あまりにも無防備で、穏やかだった。

 薄紫色の瞳が、真っ直ぐにクロウを――死神の仮面を被った男を見つめている。


「驚かないのか」


 クロウは低く問うた。

 夜中に侵入した、凶器を持った男だ。悲鳴を上げるか、命乞いをするのが正常な反応だ。

 だが、リリアはふわりと微笑んだ。


「驚いたわ。でも、それ以上に安心したの」

「安心?」

「ええ。ずっと待っていたから」


 リリアはベッドから降り、素足で冷たい床を踏んだ。

 一歩、また一歩と、死神に近づいてくる。


「私、もうすぐお役御免なんでしょう? 枢機卿様たちのヒソヒソ話が聞こえてしまったの。新しい聖女様が無事に成長なさったって」

「……そうだ」

「よかった。これでやっと、終われるのね」


 彼女の声には、諦めではない、深い安堵が滲んでいた。

 クロウは眉をひそめた。

 死を歓迎する標的は、初めてではない。絶望した人間は、自ら刃に首を差し出すこともある。

 だが、彼女は違う。

 彼女の瞳には、絶望の濁りがない。むしろ、奇妙なほどに澄んでいる。


「殺す前に、一つだけ教えて」


 リリアはクロウの目の前で立ち止まり、上目遣いに彼を見た。


「あなたは、強い?」

「……この国で一番だ」

「そう。なら、ここから私を連れ出すこともできる?」


 クロウは短剣を握り直した。

 命乞いか。あるいは、逃亡の画策か。

 やはり、死ぬのは怖いのだろう。


「無駄だ。ここから逃げても、組織がお前を追う。俺が失敗しても、次の刺客が来る」

「逃げたいんじゃないの。ただ、行きたい場所があるだけ」


 リリアは胸の前で手を組んだ。祈るような仕草。


「海」

「……海?」

「海を見てみたいの。本でしか読んだことがない、世界で一番大きな青い場所。きれいな景色が、どこまでも続いているんでしょう?」


 少女の言葉は、あまりにも突拍子もなかった。

 暗殺者に命を狙われている状況で、旅の希望を口にするとは。正気ではない。


「私ね、生まれてから一度も、この塔の外に出たことがないの。物心ついた時にはここにいて、毎日祈りを捧げて、毒のような薬を飲まされて……。私の世界は、この四角い部屋と、窓から見える小さな空だけ」


 リリアが袖をまくった。

 その細い腕には、黒い蔦のような痣が絡みついていた。

 呪いだ。

 国を守る結界の維持には、膨大な魔力が必要となる。それを無理やり適性のない体で保持し続けた代償。

 内側から身体を蝕む、死の刻印。


「あと三ヶ月。それが、私の命の期限よ」


 リリアは淡々と告げた。


「あなたが殺さなくても、私は勝手に死ぬわ。でも、このままこの部屋で、天井の染みを数えながら死ぬのは嫌なの」


 彼女は一歩踏み出し、クロウの胸元にある短剣の切っ先に、自身の胸を押し付けた。

 ジワリと、白いドレスに赤い染みが広がる。


「取引をしましょう、死神さん」


 彼女は悪戯っぽく微笑んだ。


「私をここから連れ出して、海まで連れて行って。そうしたら、私の命をあなたにあげる。報酬は……そうね、枢機卿様が提示した額の倍でどう?」

「倍だと? お前にそんな金はないだろう」

「金貨はないわ。でも、これはある」


 リリアは首に掛けていたペンダントを外した。

 トップに輝いているのは、親指大の透明な石。

 いや、ただの宝石ではない。内部で虹色の光が渦巻いている。

 

『聖女の涙』

 国の至宝であり、莫大な魔力を秘めた最高級の魔石だ。裏ルートで売れば、小国の国家予算に匹敵する値がつくだろう。


「これをあげる。前払いでいいわ」

「……馬鹿か。俺がこれだけ奪って、お前を殺して帰るとは思わないのか」

「思わないわ。私が今ここで魔力を暴発させれば王宮全体が無事では済まないし、それに......」


 リリアは、クロウの目をまっすぐ見て、答えた。


「あなたは、目が綺麗だから」


 クロウは息を呑んだ。

 目が綺麗? 俺が?

 何百人も殺してきた、血に塗れたこの目が?

 彼女は狂っている。あるいは、世間知らずすぎる。

 だが、その真っ直ぐな視線に、クロウの奥底で何かが揺らいだ。

 それは今まで感じたことのない、奇妙な感覚だった。

 苛立ちのような、あるいは渇きのような。


「……海までは、馬車で二週間かかる」

「ええ」

「道中には魔物も出るし、追手も来る」

「ええ」

「お前の身体は、旅に耐えられないかもしれない」

「それでも、行きたいの」


 リリアは譲らなかった。

 その瞳に宿る光は、生命力そのものだった。

 あと三ヶ月で尽きる命。用済みとして捨てられる運命。

 なのに、なぜこの少女は、こんなにも鮮烈に輝けるのか。


 クロウは短剣を鞘に納めた。

 そして、乱暴に頭をかいた。


「……分かった」

「え?」

「取引成立だ。お前を海まで護送する。その代わり、海を見たらすぐに殺す。一秒の猶予もやらんぞ」


 自分でも信じられない言葉だった。

 プロ失格だ。私情で依頼を放棄し、あまつさえ標的と逃避行をするなど、暗殺者としては万死に値する。

 だが、クロウはどうしても、自分の中に芽生えたこの不思議な感情の正体を、どうしてこの少女が自分の瞳にこんなにも力強く映るのかを、知りたいと思ってしまったのだ。


「本当……?」

「俺は嘘は言わない」

「やった……!」


 リリアの顔が、花が咲くように輝いた。

 彼女は感極まったように手を合わせ、そして慌ててクローゼットへ走った。


「準備しなきゃ! 着替えと、本と、あと何が必要かしら?」

「おい、遊びに行くんじゃないんだぞ。荷物は最小限にしろ」

「だって、初めての旅行だもの!」


 数分後。

 小さな鞄一つを抱えたリリアが、クロウの前に立った。

 聖女のドレスの上に、地味な外套を羽織っている。

 外から見た格好だけならば町娘と変わりないが、それでも、隠しきれない気品が溢れていた。


「準備完了よ。……名前、聞いていい?」

「……クロウだ」

「クロウさんね。私はリリア。よろしくね、私の死神さん」


 リリアが差し出した手を、クロウは躊躇いがちに握った。

 驚くほど冷たく、そして華奢な手だった。

 少し力を込めれば砕けてしまいそうなその手を、クロウは壊れ物を扱うようにそっと引き寄せた。


「行くぞ。舌を噛むなよ」


 クロウはリリアを抱き上げると、開け放たれた窓から夜空へと躍り出た。

 

「きゃっ!?」


 風が二人を包む。

 眼下には、眠る王都の灯りが宝石箱のように広がっていた。

 リリアは恐怖で目を瞑るどころか、大きく目を見開いて景色を焼き付けていた。


「すごい……! 空を飛んでるみたい!」

「静かにしろ。見つかるぞ」


 クロウは屋根から屋根へと飛び移り、闇夜を疾走する。

 腕の中の重みは、羽毛のように軽かった。

 これが、一国の呪いを背負わされた重みなのだろうか。


 背後で、警鐘の音が鳴り響くのが聞こえた。

 聖女失踪の発覚。

 ここから先は、国中が敵となる。

 仲間である暗殺ギルドも、裏切り者の俺を狙ってくるだろう。

 地獄への片道切符。

 だが、不思議と後悔はなかった。


 月が二人を照らしている。

 こうして、最強の暗殺者と、余命わずかな少女の、最初で最後の旅が始まった。

 目指すは最果ての海。

 その青さを、彼女の瞳に映すために。

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