最推しの悪役令嬢を守るため、彼女の心に宿る現代人は偽聖女をざまぁする
魔法学園の卒業式のあと、最後の交流会として開かれるパーティーで公爵令嬢アデライードは婚約者であり王太子でもあるユベールによって、断罪されていた。
「アデライード・トレムリエ! 貴様との婚約を破棄する!!」
どこかで聞いたテンプレなセリフだと、彼女の頭の片隅が囁く。
そんなはずがないのに。呆然と目を見開いたアデライードの前で、なおもユベールによる糾弾は続く。
「貴様は聖女であるマナを平民出身だというだけで迫害した! そのようなものは王太子妃として相応しくない!!」
親しげにマナの腰を抱いているユベールの言葉には反論しかない。
だが、それらを口に出すより先にアデライードの心を絶望が覆ってしまう。
(殿下はなにを仰っているの)
確かにマナは『聖女だと名乗って』貴族ばかりが通う学園に編入してきた。
愛らしい顔立ちと守りたくなるような可愛い振る舞いと相まって、男子生徒からの人気が高い。
だが、アデライードはマナの本性を知っている。
男子生徒に愛想を振りまく裏で、聖女の肩書を振りかざし、女子生徒を苛め抜いている姿を何度も目撃した。
見かけるたびに窘め続けていたけれど、恐らくそれがマナの癇に触れたのだ。
アデライードは華やかな顔立ちをしている。
緩くウェーブのかかった腰まで伸ばした髪に、少し釣り目の眼差し、凛と背筋を伸ばして歩く姿は、将来の王太子妃に相応しいようにと徹底的に施された教育も相まって、振る舞いも言動も可愛らしさには欠けるだろう。
だが、だからといって。貴族の爵位すら持たない『自称聖女』を妻に迎えるというのか。
(わたくしは、いままでなんのために)
寝食を削ってユベールのために尽くしてきたのに。
アデライードが行ってきた血の滲むような全ての努力は度外視され、ただ愛らしさだけを求めるのか。
(わたくしの意見を聞くこともなく)
聖女の言葉だけを信じて、婚約破棄を行った。
多くの貴族の令息と令嬢が集まるこの場で婚約を破棄することは、アデライードへの侮蔑の意味を持つ。
アデライードに『王太子から婚約を破棄された女』というレッテルを張り、さらに『聖女を迫害する悪女』という肩書まで加えて、未来を閉ざそうという悪意が見えていた。
心が絶望に落ちる。全てどうでもいい。婚約破棄を大人しく受け入れよう。
それに『あの事』も投げ出してしまおうか。色んなことに疲れてしまった。
瞼を閉じる。全ての役目を投げ打って、沙汰を待とう。
きっと、ありもしないことを真実として羅列され、ありもしない罪過をでっちあげられるのだろう。
破滅だけが地獄から手を伸ばして、アデライードを待っている。
けれどその時、脳裏に響く声がした。
『アデライード! 諦めないで!!』
(貴女はだれ?)
頭の中に響く『自分ではない声』に、少しだけ心が揺らぐ。
絶望に染まろうとしていたアデライードを辛うじて引き留めたのは必死な女性の声だった。
『貴女は私の推しなの! 諦めないで!!』
(でも、疲れたの。殿下はわたくしをいらないと仰せだわ)
『いままで貴女の心の片隅で、ずっと貴女の頑張りを見ていたの! 貴女は世界一素敵な私の推しよ!』
誰とも知らぬ女性の声の励ましに『でも』とアデライードは心の中で言い訳を連ねる。
(どうしようもなく疲れたの。もう頑張れないわ)
どんな声援を受けたとしても、一度折れた心は簡単には戻らない。
(すごくすごく疲れたの。全てを放り出して、寝てしまいたいの)
疲労しきったアデライードの言葉に『それなら』と女性が声を上げる。
『私が少しだけ体を借りてもいい? 必ず貴女の無罪を証明するから!』
力強い言葉、アデライードをまっすぐに信じていなければでてこないでろうセリフに、小さく微笑んだ。
(わたくしの代わりに断罪されても大丈夫?)
『心配してくれるの? 大丈夫! かなり図太いから! 任せておいて!!』
脳裏になぜか黒髪黒目の二十歳前後の女性が胸を張る姿が浮かんで、可笑しくて笑ってしまった。幻覚が見えるなんて頭が可笑しくなってしまったらしい。
『おやすみなさい、アデライード。ゆっくり休んでね』
そっと頭を撫でられた気がした。
誰かに撫でられた記憶など、どんなに幼い頃までさかのぼっても覚えていないのに。
ほっとしてアデライードは意識を手放す。
心の奥底に沈んでいく感覚。揺蕩う水の中に身体を投げ出して、ふわふわと包まれたようだ。
(ああ、温かいわ)
ここは世界で一番安心できる場所。
そう感じ取って、アデライードは静かに体の主導権を手放した。
▽▲▽▲▽
ぱち。閉じていた瞼を開く。手にしていた扇をバサリと広げて、口元を隠した。
(アデライード、おやすみなさい。私の最推し。この局面を切り抜けて、心が癒えたらまた話そうね)
アデライードから体の主導権を譲られたのは、一人の女性だ。
公爵令嬢として生まれ落ちたアデライードの心の中にずっと潜んでいた彼女は、日本という国で生まれ育った記憶を持っていた。
前世の彼女は、平和で平穏で欠伸が出るほど退屈な毎日に、少しの刺激を与えてくれる乙女ゲームが大好きだった。
プレイした乙女ゲームの数は数えきれない。
だが、その全てを記憶する記憶力に恵まれた彼女の一番好きだった乙女ゲームが、死ぬ直前までプレイしていた『華と恋~愛され聖女は夢を見る~』だ。
作中で、乙女ゲームにしては珍しく攻略対象の一人の王太子には婚約者がいて、その人物は『悪役令嬢』の名に恥じない暴れっぷりで様々な困難をヒロインに課す。
(でも、私は思うのよ。ぽっと出の平民が聖女を名乗って婚約者に近づいたら、そりゃあ不満でしょうって)
そう、彼女が感情移入したのはヒロインではなく『悪役令嬢』アデライード・トレムリエの方だった。
攻略対象を放置して、彼女はアデライードのスチルを集めに集めた。
どんな小さな姿でもアデライードが映るスチルは全部収集して――満足して眠ったら、徹夜で何日もゲームをプレイした睡眠不足と、過労のコンボで死んだのだ。
目が覚めたら、何の因果かアデライードの心の中に住んでいて、最初はそれはもう混乱した。
そもそもアデライードだと気づかなくて『名前が同じ女の子がいるのねぇ』なんてのほほんとしていたが、成長するにつれて『あ! これ本物のアデライードだ!』と気づいて心の中から全力で応援していた。
(断罪が起こる前に、本当は破滅フラグをへし折ってあげたかったけど)
しかし、現実はそうそううまく運ばない。
彼女が心の中でどんなに声を上げても、アデライードは気づかなかった。
それが今、声が届いて体の主導権が変わっている。
彼女がいかに深く絶望したのかを突き付けられていて、腹が立つ。
扇を握る手に力を込めて、彼女はまっすぐにこちらを睨んでいる王太子を睨み返した。
(任せて、ちゃんと準備はしていたの)
何かあれば、アデライードの力になれるよう。心構えをずっとしてきた。
その底力をいまこそ発揮するときだ。
「なにを笑っている! 薄気味悪い女め!」
アデライードが何をしても気に食わないのだろう。
癇癪を起したように怒鳴るユベールに、わずかに彼女は眉を潜めた。
元々穏やかな気質とは言えない人格ではあったが、王太子としての教育の結果、そこそこ人へのあたりは柔らかかったと記憶しているのだが。
(恋は盲目。人を変えるものね)
という彼女自身は恋をしたことがないが、アデライードが彼に恋する気持ちを共有していたので、なんとなくわかるものはある。
勝ち誇った顔でこちらを見るマナを前にして、彼女は決意をさらに固めた。聖女がする表情ではない。
そしてここには『自分』という異分子がいる。
この世界はゲームではなく現実だ。
だが、筋書きを知っている者が一人だけとは限らない。
(見ていなさい。悪役令嬢と断ずるならば、それらしく最後の一花を咲かせてみせるから)
揺るがない気持ちを確認し、彼女はにこりと微笑む。
気高くあれと育てられたアデライードが見せることはほとんどなかった貴重な笑み。
「ふん! まあいいさ。貴様は国外追放だ! 二度とこの国に足を踏み入れることまかりならん!」
(断罪に国外追放、ここまではシナリオ通り)
けれどすでにシナリオは歪んでいる。
ゲームの中のアデライードは高飛車で嫌な女で、確かに悪役令嬢らしく嫌がらせに虐めに散々だったけれど。
現実世界の彼女は何もしていないのだ。
聖女の横暴な振る舞いに苦言を呈す程度には、常識的な令嬢だった。
「追放を受け入れる前に、わたくしにも言い分がございます」
返事は聞かない。必要ない。
アデライードには『ゲームになかった肩書』があるからだ。多少の無礼は許される。
「マナ様は婚約者がいる男子生徒にも見境なく声をかけていらっしゃいました。殿下だけではなく、多数の男子生徒がマナ様に声をかけられ対応に苦慮していましたね」
「そんなのデタラメよ!!」
彼女の発言に真っ先に反論したのはマナだ。
ユベールに知られては困るのだから、当然の反応だった。
笑みを深めて、彼女は続ける。
「そもそもわたくし、虐めなど陰湿なことはしておりません。マナ様があまりに横暴な振る舞いをなさるので、聖女とはいえさすがにどうか、と苦言を呈したことはございますが、それは虐めと判定されるような事柄でしょうか」
淡々と事実だけを述べていく。
アデライードの行動は学園に通う女子生徒を庇ってのものだった。
ユベールが目を見張り、再びマナがはしたなくも大声を上げる。
「アデライード様が虐めているのを、私が庇ったのよ!」
マナの発言を気に留めず、さらに彼女は言葉を続ける。
「婚約者に馴れ馴れしくされた女子生徒が『やめてほしい』と伝えた際に、聖女の肩書で彼女たちを高圧的に威圧したのはマナ様のほうですわ」
「そんなことやってないわ!!」
マナはアデライードが反論するとは欠片も思っていなかったのだろう。
焦った様子でちらちらとユベールの反応を伺いながら噛みついてくる。
戸惑った表情を浮かべているユベールを放置して、彼女はくるりと背後を振り返る。
固唾をのんで見守る生徒たち――特に女子生徒に向けて、凛と声を張る。
「皆様の立場は公爵家が保証いたします。聖女に盾ついたからと言って、皆様には何らかの害が及ぶことはありません。どうぞ、ご自由に発言をなさってください」
歌うように高らかに宣言した彼女に、水を打ったように場が静まり返る。
生徒たちは互いに顔を見合わせて、戸惑っているのが伝わってくる。
彼女は静かに待った。
ユベールとマナが声を上げる前に、一人の女子生徒が恐る恐る片手を上げる。
「わ、わたし! マナ様に階段から突き落とされました!!」
勇気を持った告発に、しんと静まり返っていたその場にざわめきが満ちた。
マナが顔を真っ赤にして口を開いたが、それを抑えるように次の告発者が現れる。
「私は! 殿下に先生から言伝を頼まれたのでお話したら、生意気だと水をかけられました!!」
こうなるともう止まらない。
「私も!! 婚約者の件で苦言を伝えたら、突き飛ばされて教科書を噴水に投げ込まれました!」
「わたしも!」
「あたしも!!」
「私だって!」
次々にマナの悪行が白日の下にさらされる。
十分な証言を得たと確信し、再びユベールとマナへと体の向きを戻した彼女の背には、大勢の女子生徒たちという味方を得ていた。
真っ青な顔をしているユベールと、意味の分からない言葉を喚き散らしているマナをみて、ますます彼女は笑みで口元を彩る。
さあ、最後通牒はまだまだこれからだ。
「婚約破棄の宣言を受け、公爵家は殿下の後見人を退きます。つきましては、殿下は現時点をもって王太子ではなくなりました」
「は?」
「なにいってんの! 頭可笑しいんじゃない?!」
綺麗に笑って突き付けた言葉に、ユベールが間の抜けた声を上げる。マナが失礼極まりないことを口にしたが、そちらはスルーする。
恋に恋して盲目になった頭でも、言葉の意味は理解できるのだろう。
「な、なぜだ! 公爵家が後見人でなくなるのはまだしも! 私が王太子でなくなるというのは……!」
焦った様子で問いかけてくるユベールに、にこにこと鮮やかに笑いながら、どうやら彼が失念してるらしい『条件』を高らかに告げる。
「殿下はお忘れのようですが、陛下は『公爵令嬢アデライードと婚約した者に、王太子の座を』と仰ったのです」
「っ!」
目を見開いたユベールは、どうやら今の今まで忘れていたらしい。
馬鹿だなぁと蔑みながらも笑みは崩さず、彼女は『ゲームにはなかったアデライードの肩書』を軽やかに口にした。
「わたくしが宰相の娘で、生まれた時から王太子妃教育を受けている。これは表向きの理由です。真の理由は――わたくしが、本物の聖女だからです」
凛と放たれた言葉に、ユベールが息を飲む。
咄嗟に傍らのマナをみた彼の前で、マナは醜く眉を吊り上げ、罵声を上げた。
「あったま沸いてるんじゃない?! 私が聖女よ!!」
怒り心頭のマナを無視して、彼女は少しだけ真実を教えてあげることにした。
ダンスを踊るような軽い足取りでゆっくりと、状況を見守っている第二王子クロードへと向かって歩き出す。
「貴方方はわたくしを断罪して国から追放しようとしました。わたくしが王都に張っている聖なる結界をご存じないから。不思議ではありませんでしたか? わたくしが生まれたその日から、王都は強固な結界に守られ続けている。魔物の侵入は一度も許さない、神聖な結界を張った術者の存在を考えたことがなかったのですか?」
クロードが苦笑している。彼はきっと察していた。
今までのアデライードに対する言動の節々に、それが滲みでているのを彼女は知っている。
「王都を守る大規模な結界は、全てわたくしの聖なる力によって運用されております。わたくしが魔法を使ったことはないでしょう? 聖女は魔力を持ちません。魔力のない公爵令嬢と嘲笑う方もいましたが、気にしたことはありませんでした」
だって、と笑みを含んで続けた。
「聖女であると、公表すれば危険が及びます。不届き者たちから身を守るため、あえて聖女であることを名乗りませんでした。――ですが、国外に追放されそうになってまで、秘密を抱える必要もありません」
かつん、とヒールが大理石にあたる音が静かな空間に響いた。
この場にいる誰もが彼女の一挙一動に注目している。
「そんな設定どこにもなかった!」
マナの彼女以外に意味の通じない叫びだけが、空しくこだまする。
確かに、マナの言う通りゲームにおいて『悪役令嬢アデライードが本物の聖女である』などという設定はどこにもない。ヒロインが正真正銘の聖女だ。
が、ここは現実。
ゲームの設定どおりに運んでいることの方が少ないのだと、アデライードの中で十六年を過ごした彼女は知っている。
この世界の人々はゲームのプログラムではなく、個々を生きる人間なのだ。
クロードの前に立って、彼女はわざとらしく呆然としているユベールと顔を真っ赤に染め上げているマナへと振り返る。
扇をパチンと閉じて、嘆かわしいと表情に乗せて頬に手を当てた。
いかにも今気づきましたといわんばかりに、そっと息を吐き出して疑問を呈する。
「あら、そうなると不思議ですわね。本物の聖女はここにいるのに。貴女は一体、どういう経緯で聖女を名乗るに至ったのでしょう。マナ様」
「っ」
目を細める。先ほどまで喚いていた少女は、得も知れぬ彼女の気迫に飲まれている。
『最推し』を傷つけられたオタクほど、怖い者はいないのだ。
「一つの時代に聖女は二人も生まれませんわ」
この世界の鉄則だ。
そもそも、聖女自体が数百年に一度生まれるかどうかという稀有な存在であり、聖女がいない数百年は暗黒の時代とも称される。
そんな希少な存在が、同じ時代に二人いた記録は、歴史書を過去千年をさかのぼっても存在しない。
「私が本物の聖女よ……!」
諦めも悪く足掻くのは当然だ。
ここで『聖女ではない』と認めてしまえば、厳罰ではなく極刑が待っている。国を支える聖女を語る罪は、それだけ重い。
「では、こういたしましょう」
畳んだ扇を片手に降ろして聖女らしい慈愛の笑みで彼女は笑う。
「王都を守る聖なる結界を解除いたします。五分と立たないうちに魔物が攻め込んできますから、貴女が結界を張りなおしてくださいませ。見事聖なる結界を張っていただければ、わたくしは自身が偽の聖女だと認め、どこへなりとも追放を受け入れましょう」
にこにこと微笑みながら彼女が吐き出した言葉に、一気にどよめきが広がった。
すでにマナを聖女だと認めている者のほうが少ない上で、王都を囲い人々を守る結界を解除するなどと言えば当然の動揺だ。
だが、いざ結界を解こうと両手を広げた彼女の肩に触れて止めたのは、背後にいるクロードだった。
「兄の無礼を謝罪する。その上で、民に被害が出ない方法での証明をしていただきたい」
殊勝な言葉に聞こえるが、これは命令だ。
婚約破棄の宣言を受け、王太子の座は宙に浮いている。
だが、アデライードの今後の人生を考えれば、第二王子と婚約を結びなおすのは必然で、だからこそ彼の不興を買うのは彼女としても本意ではない。
「失礼いたしました。浅慮でしたわね。では――そこの騎士の方。剣をお借りしてもよくて」
彼女が示したのは王族二人が出席する卒業パーティーを外部から守るために配置されている騎士の一人だ。
呼ばれた騎士は静かに歩み出て彼女の前で膝を折った。
恭しい仕草で捧げられた長剣を手に取る。
「いったい何を」
「こうするのです」
疑問を口にしたクロードに止められる前に、剣を鞘から抜いた彼女は磨かれた刀身でざっくりと腕を切った。
だくだくと真っ赤な鮮血が零れ落ち床を汚していく。
女子生徒を中心に悲鳴が上がる。
息を飲んだクロードを放置し、内心でアデライードに体を傷つけた謝罪をしながら、彼女は無事な片手を傷の上にかざした。
聖なる力が光を放ち、すぐに出血が止まる。
ドレスは裂けたままだが、その分アデライードの白くて綺麗な肌に傷ひとつついていないことの証明になった。
「傷が……治っている……?」
「はい。これが聖女としてのわたくしの力の一部です」
一部、という部分を少しだけ強調する。
傷つけた手で扇を握ってみせ、動きに支障がないことを示し、彼女は朗らかに笑った。
「同じことをやってくださいませ。聖女の力はあらゆる傷を癒します。死人以外なら、何でも治るのです」
だからこそ、身を狙われる危険があるのだが。
彼女の要求に、先ほどまで元気に喚いていたマナは硬直したまま動かない。
大量の出血にショックを受けたという様子でもなく「頭可笑しいんじゃないの」と表情が雄弁に伝えている。
いつまでたっても動かない彼女に、騎士の一人が剣を持って近づいた。
気を利かせてくれたのか、あるいは彼も怒っているのか。
にこにこと微笑む彼女の前で、剣を持たされそうになったマナは「いやっ!」と悲鳴を上げて騎士の差し出した剣を叩き落とした。
彼女はあるいはゲーム通りに本当に聖女の力を持っているのかもしれない。
しかしその力は、ざくりと切った腕を治癒できるほどのものではないのだろう。
彼女と同じ芸当は出来ないと判断したからこそ、力の証明を拒否している。
「これで証明となったでしょうか?」
くるりとクロードを振り返ってにこやかに問いかける。
クロードは兄とは正反対の凛々しい面立ちに少しだけ安堵を乗せて「そうだな」と頷いた。
つかの間、頭の中で思考を巡らせる。
(第二王子クロード。彼もまたゲームでは攻略対象だったけれど、この世界ではヒロインの誘惑に靡かなった。放置されているアデライードを何度も気遣っていたし、彼なら大丈夫かしら。そもそも、王族と婚姻関係にないとアデライードが危ないし)
打算を含めて計算を終え、彼女はにっこりと最上級の笑みを浮かべてゆるりと口を開く。
「わたくし、この国が大好きです」
それは本当。
アデライードは国を愛している。
だからこそ、聖女の肩書を隠しながらも、王都を覆う結界を維持するという大役をずっと担ってきた。
「これからも守っていきたいのです」
これも本当。
心から国を愛してるアデライードは、ユベールへ向ける愛情とは比較にならないほどの愛を国に捧げている。
そのせいで『国外追放』と言われて心が砕けるほどにショックを受けたのだ。
愛する祖国を離れることが、彼女が一番受け入れがたいことだったから。
「逆プロポーズかな?」
彼女の意図をくみ取って、クロードが少し楽しげに笑う。
声音には隠しきれない喜びがにじみ出ている。
(兄の婚約者のアデライードを、それでも一途に想っていた。貴方は合格よ)
第二王子の身でこの年まで婚約者がいないのは、それだけクロードがアデライードに向ける愛情が深かったからだ。
アデライード本人は気づいていなかったが、彼女には理解できた。
だって、彼がアデライードを見る眼差しは、彼女がアデライードを見る目と本当によく似ていたから。
「ふふ、どうでしょう」
はぐらかしたのは、ちょっとだけ悔しかったから。
心の中に住んでいて、体が同じ彼女にはアデライードの隣に立って幸せにすることができない。
その権利を持っているのは、第二王子であり、アデライードと婚約すれば王太子の座が約束されるクロードだけ。
世界で唯一、彼だけがアデライードを幸せにする権利を保有している。
「僕もね、アデライードのことを好ましいと思っているんだ。厳しい王太子妃教育に弱音ひとつ吐かず、たくさんの勉強をする姿は輝いていたから。どうか――アデライードに僕の伴侶になってほしい」
(あら)
この言い方、この声音、この眼差し。
彼女の瞳の奥をみる、クロードの視線は確かに『彼女を素通りしてアデライードを見て』いる。
(あらまぁ、ますます最高ね)
アデライードの身体で振る舞っている『彼女』を別人だと見抜いている。
強調された『アデライード』と呼ぶ声音が何よりの証拠だ。
笑みを深めて、彼女は静かに右手をクロードに差し出した。彼は一礼して彼女の白魚のような美しい手の甲にキスを落とす。
これで、契約はなされた。
満足した気持ちで彼女は再び振り返り、歯を食いしばって酷い眼差しでこちらを睨む偽聖女――ヒロイン気取りのマナへと歩み寄る。
駆け付けた騎士たちがマナの左右を取り囲み押さえつけた。
マナが抵抗しても、鍛えている騎士たちに勝てるはずもない。
床に額がつくように、ギリギリと力で抑えられたマナへと少しだけ膝を折って体を寄せて、その耳元で抑えた声音で囁く。
「こういうのを『ざまぁ』と呼ぶのでしょう?」
昔見かけた話題の小説で読んだことがある。
乙女ゲームの世界が舞台で、悪役令嬢が断罪されるが、最後に逆転するときの名称だ。
彼女は小説よりゲームを好むゲーマーだったので、読んだの一度だけだが、記憶に強く刻まれていた。
「あんた……っ!」
今の反応で予想は確信に変わった。
先ほど「設定になかった」と叫んだ時点で察してはいたが、マナもまた転生者、あるいは憑依か転移か。
これまた小説で読んだ設定だ。
にこりと笑みを一つ落として、凛と立ち上がった彼女は事態を飲み込めず呆然と佇むアデライードのかつての婚約者に、花開くように笑った。
「さようなら、殿下。決して貴方のことは、嫌いではありませんでしたよ」
「ぁ……!」
アデライードは最後までユベールを慕っていた。
だからこそ、裏切られて傷ついて、全てを投げ出したのだ。
その想いは届けておいたほうがいい。
そう判断しての言葉だった。
(でも、未練はないの)
アデライードは全てを投げ出した。そこにはユベールへの未練も含まれている。
縋るように伸ばされた手に背を向ける。
そして彼女は。
(安心して、アデライード。貴女の傷が癒えるまで、立派に『貴女』を務めあげるわ)
そっとアデライードが眠る胸元に手を当てて、慈母の笑みで微笑んだ。
読んでいただき、ありがとうございます!
『最推しの悪役令嬢を守るため、彼女の心に宿る現代人は偽聖女をざまぁする』のほうは楽しんでいただけたでしょうか?
面白い! 続きが読みたい!! と思っていただけた方は、ぜひとも
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