第五章 深夜4時 円舞の魔法使い
レニスと少女は屋敷へと帰り着く。
そして屋敷のドアを潜ったその瞬間、
エントランスに置いてある大きな置き時計が、時を告げた。
時刻は深夜4時。
もうこんな時間か…。レニスは心の中で呟く。
日の出までの時間は恐らく2時間ほど。
自分は何をしてやれるだろう。
自分は何をするべきなのだろうか。
この夜はもう二度と帰ってこない。
時間は理不尽に進んでいくことをを改めて実感する。
何かをしなければいけないのに、何をすることが正解なのか決断がつかず、
足が竦む。
そうしている間にも容赦無く時計は朝に向かって、終わりに向かって進んでいく。
何かしたいことはあるかと聞いてみようと振り返ると、
少女がうずくまっていた。
その背中が震えている。
「おい、大丈夫か!」
レニスはしゃがんで少女の顔を覗き込んだ。
険しい顔できゅっと瞳を結んでいる。
「イヤだ…イヤだ……」
何かに、怯えるように。
「来ないで……、お願い来ないで……!!」
両手をきつく耳に当てて。
明らかにおかしい。
その様子を見て、少女が時計の鐘の音に怯えているのだと気づく。
さすってやろうと、背中に手を伸ばし触れる。
「いやっ!!やめて!!!触らないで!!あっち行け!」
少女はレニスの手をぱちんとはたいて、尻餅をついた。
そのまま逃げるように後ずさる。
瞳孔が開き、瞳の色が漆黒に染まっている。
目の焦点が合っていない。
視線はレニスを捉えておらず、虚空を彷徨う。
歯をガチガチと鳴らして体を震わせながら、再び耳を抑えた。
「俺の声が聞こえるか?俺だ、レニスだ!」
しかしその声は彼女に届かない。
「だまれ…。うるさい…うるさい…!」
少女は外界を遮断するように頭を膝に埋めた。
普通の方法ではダメだ。
「仕方ない…!」
レニスはそう判断し、少女の体を強く抱きしめた。
少女の口から声にならない呻きが漏れる。
もがいて必死に抵抗する。
それを懸命に抑え込みながらレニスは詠唱する。
ゆらゆらと、右の手のひらに緑色の光が集まり始める。
「もう少しだ、我慢してくれ…っ!」
ジタバタと暴れる少女の足がレニスの鳩尾を打つ。
それに耐えながら、言葉を紡ぎ続ける。
ようやく魔力が集まり、レニスの右腕が緑色の光を帯びた。
「くっ……鎮まれッッ!」
治癒の魔法を宿した手を少女の背中、心臓のあたりに押し当てる。
少女は抵抗を続けたが、だんだんとその手足から力が抜けていく。
乱れていた呼吸も一定のペースへと変わってていき、
背中は穏やかに上下し始めた。
少々手荒だったが、何とかなったようだ。
しばらくして、時計の鐘の音も収まる。
再びチクタクという秒針の乾いた音だけを刻み始めた。
「おい、もう大丈夫だぞ。時計の音は止んだ」
少女の手をそっと耳から外してやり、そのまま優しく握る。
少女は少しだけ落ち着いた様子だったが、まだ表情は硬くこわばったままだ。
暗く沈んでいた瞳に光が戻ってくる。
何かを探すように宙を彷徨っていた視線が、レニスの顔を捉えた。
縋るようにレニスの手を強く握り返す。
「レニス…!ごめん…、私…いま……」
「どうしたんだ…?何があった」
刺激しないように静かに問いかける。
「怖いの…」
「何がだ…?」
「とけい……」
「時計?」
頷いて視線を落とす。
なぜかと静かに問うと、少女は口を開いた。
「時計には、死神が隠れているの。」
「死神?」
「うん。時計の鐘が鳴るたびに、死が私の死が近づいていることを告げているように聞こえる…。毎秒刻む秒針は、死神が私に近づいてくる足音なの…」
だから少女は、
いつも時計の音から逃げるように自分の部屋に閉じこもっていると言う。
鐘の音が止まっても、少女の体はまだ僅かに震えていた。
「時計を壊してしまおうとも考えたの。でも、死神を怒らせちゃったらどうしようって。それにオムニスがずっと大切にしていた時計だから、壊したくなくって…。」
少女が顔を伏せて黙り込むと、屋敷の中に嫌な静寂が染み渡った。
時計の秒針の音だけが鳴り響く。
そうか——。
宵闇を照らす月のように笑っていた少女。
レニスの心の闇に寄り添ってくれた少女。
しかし、彼女は決して強いわけではなかった。
レニスは気づいていなかった。
美味しいご飯を食べても、星空に感動しても、広い世界を知っても。
心の奥底にある「死への恐怖」は消し去れてやれていなかったんだ。
少女はレニスに笑いかけながらも、心の奥でずっと我慢していた。
彼女はずっと、戦ってきたのだ。
ひとりぼっちになってしまったこの屋敷の中で、死神が手招いてくる恐怖と。
朝日が昇るまでもう2時間ほど。
死がもう目前まで迫っていることを痛感し、ついに壊れてしまったのだ。
死神の幻覚を作り出してしまうほどに。
彼女を救いたい。
彼女を救うためには、どうすればいい。
もう死は避けられない。
彼女の言う通りだ、
死神は確かに近づいてきている。
でも、魔法で命は救えない。
妹の命だって救えなかった。
レニスに、この少女の命は救えない。
これが魔法使いの限界。
でも——。
そんなことはわかっていたはずだ。
この少女が死ぬことも分かっていたはずだ。
じゃあなぜここにいる。
もう諦めた自分の命をなぜここで弄んでいる?
それは——。
その時、フロスの顔がふとよぎる。
鮮烈に刻まれた、深い後悔。
その後悔の源は何だ?
命を救えなかったことか?
もちろんその悲しみはある。
でも違う。
悲しい顔をして、その短い命を終えた妹。
あんな顔は、して欲しくなかったんだ。
悲しみは拭えなくても、せめて——。
レニスの中に、小さな熱が生まれる。
そうだ、命は救えない。
そんなことはわかっている。
でもせめて、命は救えなくても、
最後に笑っていてほしかった。
森の屋敷の中で、一人泣いていた少女。
この少女に笑ってほしかったから、ここにいるんだ。
魔法に命は救えない。
でも、魔法でしか救えないものだってあるはずだ。
心の中に生まれた小さな火花は、やがて大きなほむらとなる。
奇跡を——。
奇跡を起こせ。
だってお前は……、魔法使いだろ。
そうだ。
俺は魔法使い。笑顔の魔法使いだ。
レニスは拳を硬く握りしめる。
シナリオは、出来上がった。
——少女の為ならば、役者にだってなってやる。
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視線の高さを合わせた姿勢のまま、少女に優しく語りかける。
「まだ、死神の声が聞こえるか?死神の存在を感じるか?」
「うん…」
「実はな、俺には死神が見える。俺にも死神が取り憑いているんだ。」
「え…?」
顔を上げた少女は、訳がわからないといった顔でレニスを見つめた。
「今も俺の後ろで奴は笑っている。奴はケラケラと笑いながら、大きな鎌の刃を俺の首に当てがっているんだ」
困惑と恐怖が、少女の顔に広がる。
「見えないよ…?嘘だ…。ねえ、嘘だと言ってよ!死神なんかいないって!」
レニスは力無く首を横に振った。
「すまないが、本当だ。奴は俺にしか見えない。でも確かに、そこにいる。だから死神に抗おうとしてはダメだ、そんなことをしたら——ぐあッ!!」
突然うめき声をあげたレニスの首筋に、細い切り傷が生まれた。
見えない魔法でつけた傷。
そこからツーっと、流れ出した血が赤い筋を作る。
「いやあっ!レニス!首が!!」
「ちょっと怒らせてしまったようだ…。ほら、死神は確かにいる…。」
「嫌だ…辞めて!お願い!レニスを連れて行かないで!信じるからぁっ!」
少女はレニスの首にしがみついて、背後の虚空に向かって必死に叫んだ。
少女の頭に優しく右手を置いてやる。
「ありがとう…、君の訴えは届いたみたいだ。」
そして両肩に手を置いて正面に向き直すと、まっすぐにその双眸を見据える。
「ほら、分かったろ?見えないだけで、死神は誰にだって憑いているんだ。決して君だけじゃない。君は…、一人じゃない。」
微笑んで見せると、少女は真剣な面持ちで頷いた。
それを見てレニスは続ける。
「誰だって人はいつ死ぬか分からない。でも必ず、いつか死ぬ時はやってくる。死神達は、黒く塗り潰した時計を持っているんだ。」
「時計?」
「そうだ、それは俺たちに死の訪れを告げる時計。真っ黒だから残り時間は分からないけれど、それが鳴る瞬間を、今か今かと死神達は待っている。今こうしている間も聴こえる。君と同じように。死の時計が、時を刻む音が。死神が趣味の悪い歌を歌っているのが…。不気味に笑いながら、俺の命を狙っているんだ。」
少女はごくりと息を呑んだ。
エントランスの時計の音が、先ほどよりもはっきりと聴こえる気がする。
「もしかしたら、5分後に俺は突然死んでしまうかもしれない…」
「えっ…、いやだ!そんのいやよ!死なないでレニス…!」
少女の瞳に涙が浮かび始める。
「あはは、ごめんな。ちょっと意地悪な冗談だ。でも、本当かもしれないけどな。ただ、仮に本当に5分後に死ぬとしても、俺は屈しない。」
「どうして…?死んじゃうのよ…?」
「もしそうだったとしたら、こうしちゃいられない!君と過ごせる最後の5分間だからな。悲しんでいる暇なんてないさ。今まで以上に目一杯の楽しいことをするんだ!」
そう言ってレニスは少女の腰に手を回すと、
ひと思いに立ち上がって大きく持ち上げた。
そのままぐるりと一周回る。
遊園地にある大きなブランコのように身体を振られて、
少女の長い髪が空中で大きな銀色の円を描いた。
「そして5分後、俺は死神に言ってやるんだ」
レニスは少女を床に下ろすと、自身に満ちた笑顔で高らかに叫ぶ。
「お前達が死を教えてくれたおかげで、最高の5分間が過ごせた!ありがとうーー!!ってな。そしたらあいつら、どんな顔をすると思う?」
「どんな顔をするの…?」
「残念ながら、あいつらには顔がない。カタカタカターって悔しそうにその骨を鳴らし続けるかもな」
レニスはにやりと、意地悪な少年のように口角を上げる。
「ふふふ、変なの。」
少女は小さく笑った。
少女の微かな笑顔を見てレニスは安心する。
——役者は揃った。
さあ、ここからがショーの本番だ。
「よし、今から俺と一緒に、奴らにギャフンと言わせてみないか?」
「ぎゃふ、ん…?」
少女の頭がかくん、と可愛らしく横に倒れる。
「そうだ。あいつらの嫌がらせを、逆手に取ってやるんだ。たとえば!」
「たとえば?」
レニスは頭に手を添えて、耳を澄ますポーズをとる。
「まだ聴こえるか?時計の音」
「うん、聴こえるよ。いやな音…。」
そして視線を落とした少女の耳元に口を近づけると、
内緒話をするような声で話しかける。
「あれは実はな、音楽なんだ…」
「音楽…?チクタクなってるだけだよ?」
「ははっ、そう思うだろ…?」
そう言って笑みを浮かべると、レニスは瞳を閉じた。
手を体の前で合わせ、詠唱する。
囁くように、歌うように。
レニスの手の中から光が漏れ始めた。
しかし今までの眩しい光ではなく、それは鮮やかな紫。
静謐な中に情熱を秘めた、濃い紫。
言葉が重なり、光が輝きを強めていく。
より深く、より華やかに。
レニスと少女の顔を染め上げる。
ついに溢れ出さんとしたその時、
レニスが目を開いて手の中に光をぐっと閉じ込めた。
一瞬の静寂。
引っ張るようにゆっくりとその両手を離していくと、
濃縮された光が引き伸ばされていき、紫色の細い棒が現れた。
それは小さな持ち手がついていて、先に向かって細くなっている。
レニスはそれを指先に携えると、宙に何かを描き始める。
まるで、合奏団の指揮者のように。
優雅に、伸びやかに円を描く。
その所作の美しさに、少女は思わず見惚れてしまう。
無数の線は重なり、繋がり、やがて一つの模様となって。
「さあ、」
すっと両手を胸の前で交差させる。
そして——、
「奏でろ!!!!」
叫んで一気に両手を空中に広げた。
紫の光の粒が一気に宙へに飛び散る。
屋敷の中を満たし、やがて窓から外へと溢れ出ていく。
光は広がっていき。
——再び世界は、彼の魔法にかけられる。
チクタクと無機質に時を刻んでいた時計の針の音がだんだんと変化していき、
小気味よい三拍子を鳴らし始める。
不気味な音を立てていた時計の鐘は、
まるでシンバルのように華やかな音を秒針に合わせて響かせる。
それだけではない。
窓の外でも。
少女が怯えていたはずの森の猛獣たちが、豊かな低い声で歌い始める。
眠っていたはずの虫達が、凛とした声で歌い始める。
夜空を流れる星々のせせらぎは、涼やかなベルの音へと変わり、
星座達も再び動き出して、
ピアノ、ハープ、ヴァイオリンを思い思いに旋律を響かせる。
世界が、奏で始めた。
世界が、歌い始めた。
時計が刻んでいたはずの死へのカウントダウンは、美しい音楽となった。
「わあ……!!」
少女にとって、歌も音楽も初めてのもの。
驚きと感動で口をいっぱいに開けて、あたりを見渡す。
「舞台は整ったな。じゃあ、行こうか!」
レニスは少女の手を取る。
「えっ!レニスっ、どこへ行くの!」
扉を開け放ち屋敷の外へと走り出す。
賑やかな音の世界の中を、二人で駆け抜ける。
そして広場の中央で立ち止まる。
「はあ…はあ…どうしたの、突然走り出して…」
レニスは少女へと向き直った。
背筋を伸ばし、足を綺麗に揃え。
レディを前にする紳士のように、忠誠と慈愛に満ちた笑顔を向ける。
今まで見せなかったその色気に、少女の胸がとくんと大きく跳ねた。
「レニス…?」
「せっかくの華やかな舞台ですからね」
流れるような動きで、右手を顔の前にすっと持ってきて構えると、
「こんな格好じゃ、勿体ないでしょう?」
パチンっ、と指を鳴らした。
その瞬間、なんと二人の着ていた服が瞬く間に変化した。
レニスの擦り切れたシャツとローブは、
黒地に金色の刺繍をあしらったテールコートに。
それは漆黒の空と、燦然と輝く星々。
少女の飾り気のなかったワンピースは、
宝石を散りばめた青藍の生地に、白銀のレースを纏った煌びやかなドレスに。
それは閑かに揺れる夜の帳と、儚く注ぐ月光。
指を鳴らした残響の中、時の流れが遅く感じられる。
少女の銀色の髪が、夜風の中でゆらゆらと波打つ。
奇跡の所業を前に、少女は嬉しそうに自分のドレスを触って確かめた。
「夢みたい…!まるで絵本の中で見たお姫様よ…!!」
星空に魔法をかけて、絵本の世界を現実に再現してやったが、まさか絵本の登場人物にまでなれるとは想像もしていなかったのだろう。
ドレスの装飾にも負けない眩しい笑顔を振りまく。
「ねえレニス、見て見て!私、似合ってるかしら?」
少女はレニスに自慢しようと目の前でくるりと一周した。
青色の花弁に銀色の花心、一輪の可憐な花が夜に咲く。
「ええ、とっても綺麗ですよ。よくお似合いです。」
レニスは紳士的な振る舞いを崩さずに、正直に感想を伝えた。
「うふふ、ありがとう。」
想像よりもまっすぐな返答に、思わず少女の顔に淡い朱が差す。
「それでは、私の装いはどうですか?」
次は少女に問う。
レニスもこんな服は着たことはない。
魔法の研究と妹のことしか考えてこなかった人生だ。
お洒落に気を遣ったことはないし、もちろん華やかな社交の場にも出たことはない。
それでもその着こなしと振る舞いには、堂に入ったものがある。
全ては少女の為に。その覚悟が本物の貴公子を作り上げる。
「ええ、とってもかっこいいわよ。」
少女もレニスが作り上げる舞台に応えようと、精一杯の大人びた口調で伝える。
「ありがとうございます。身に余る光栄です」
レニスは右手を胸に当て、丁寧にお辞儀した。
もうそこいるのは、着飾った二人の役者ではなく。
空想の世界から飛び出してきた二人。
その彼は、凛々しき清雅のプリンス。
その彼女は、麗しき絢爛のプリンセス。
「それでは、レディ?」
「なにかしら?」
レニスは、片膝を立てて座ると、手を差し出す。
そして、少女の青色の瞳をまっすぐに見つめて、問いかけた。
「私と、踊っていただけませんか?」
少女は、レニスの赤い瞳をまっすぐに見つめて、答える。
「ええ、よろこんで。」
レニスの手を取って、淑やかに会釈した。
夜の国を統べる皇子と、月の国から舞い降りた皇女。
二人だけの、一夜限りの舞踏会が幕を開ける。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
穏やかなピアノの旋律が、二人を舞台の中央へと導く。
咲き乱れる、花畑のダンスホール。
頭上にはキラキラと輝く、星空のシャンデリア。
どんなに豪華なお城にだって劣らない、ここは最高の舞台。
大きな手と小さな手を重ねて。
目を見て、呼吸を合わせて。
二人は一思いに音楽にその身を投げ出した。
まずは小さく、ステップを踏み出す。
時計が刻む3拍子に合わせて。
ワンツースリー、ワンツースリー。
次は反対方向に、ワンツースリー、ワンツースリー。
置いていかれまいと、少女は必死に足を出す。
その顔はまだ少し硬い。
「大丈夫、俺を信じて。君は楽しむだけでいいんだ。」
そう言ってレニスは、少女の細い腰に手を回した。
押し出すように腰を支え、導くようにその手を優しく引く。
少女の小さな胸から、微かな心音が伝わる。
トクントクン、トクントクン。
次はその音に合わせて身体を揺らす。
ワンツー、、ワンツー、、。
だんだんと少女の身体から力が抜けていく。
音の強弱に合わせて、身体の上下の動きも取り入れてみる。
しなやかに、流れるように舞台の上を滑る4本の足。
縦横無尽に巡り巡る。
少女の口から、笑みが漏れた。
その顔を見てレニスも笑う。
二人に体温は上がっていく。
二人の心音は高鳴っていく。
それに合わせるように、星座の楽器隊も盛り上がる。
弦楽器の艶やかな音色。
管楽器の軽やかな音色。
そして曲の主題に入った時、二人の目が合った。
その瞳にはもう緊張も孤独もなく。浮かぶのは悦びと情熱、そして信頼。
迸る熱にお互いの身を委ねて。
少女はレニスの手の中で華麗にターンした。
白銀のベールが夜を撫でる、
そしてレニスは再び少女の身体を受け止める。
旋律に合わせて、繰り返す。
ワンツースリー、ワンツースリー、ワンツースリー、ターン。
少女が回る度に花弁が華やかに舞い踊る。
ワンツースリー、ワンツースリー、ワンツースリー、ターン。
二人の呼吸は寸分違わずに重なり合う。
なぜなら二人は今、心を高鳴らせて、同じ時を生きているのだから——。
そしてついに主題が終わり、少女はレニスの腕に身を預けてポーズを決めた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
曲が終わり、再び静寂が訪れる。
乱れた息が夜空に溶けていく。火照る身体を撫でる風が心地良い。
二人は目を合わせて笑みを交わした。
「どうだ、踊るって楽しいだろ?」
「うん!すっっっごく楽しいね!胸がワクワクして、ドキドキして、身体が勝手に動き出して!世界がくるくる回って、キラキラしてた!なんだか生きてるって感じ!」
少女はぴょんぴょんと飛び跳ねながらその興奮を必死に表現する。
「ああ、生きてるって感じだ。だからな、それがいいんだ」
「それがいい?」
「うん、よく耳をすましてごらん。何が聞こえる?」
少女は胸に手を当てて乱れた呼吸を落ち着かせると、耳に手を当てた。
再び淡々とその時を刻み始めた、時計のチクタクという音が聞こえてくる。
「またあの、時計の音が聞こえるよ。」
「そうだな、あの死神のカウントダウンだ。でも今は、違ったように聞こえるんじゃないか?」
「違うように…?」
少女は目を閉じて再び音に集中してみると、
その表情がだんだんと恍惚としたものへと変わっていく。
「さっきの…、楽しい音楽が聞こえてくるね……!」
目を閉じたまま心地よさそうに頬を緩ませる。
「言っただろ?そしてあの音は、死神が奏でてくれているんだぜ?」
「……ほ、ほんとだーっ!!!死神って良いやつだったのかな!?」
少女のあまりの純粋さに思わず笑ってしまう。
「あはは、それはどうだろうなあ。俺たちの命を狙っていて、そこから逃げられないのは間違いないからな。」
「そっか…。」
少女はしょんぼりと肩を落とした。
「でもそんな顔してちゃもったいないぞ。こう考えて生きるのだ」
ぐっと拳を握りしめて、夜空に向かって叫ぶ。
「どうせ逃げられないなら、いっそ死神と一緒に踊ってやる!」
少女はぽかんとした表情をしていたがやがて、
「ふふ。なあに、それ」
口元にに手を当ててくすりと笑った。
「だからな、」
レニスは腰を落として、少女の手を優しく握った。
何度も握ってきた、雪のように白いけど確かに温もりのある小さな手。
「——もう、怖がらなくていい。怖がらなくていいんだ。」
その言葉に、少女の顔つきが変わる。
「もう怖がる必要はない。死神も、時計の音も。寂しさも。夜の暗闇も。」
どうか、どうか彼女に届きますように。
そんな願いを込めて、言葉を紡ぐ。
「君は踊るように、生きればいい。生きるように、踊ればいい。」
少女の瞳が大きく揺らいだ。
この瞳の輝きが、もう残りわずかで消えてしまうことなど分かっている。
それでも彼女に、最後の瞬間まで楽しく生きてほしいのだ。
生き抜いてほしいのだ。
なぜなら——、
「死神を知る君だからこそ。君は誰よりも楽しく踊れる。誰よりも楽しく生きられる。」
なぜなら——、
「死神を知る君だからこそ。君の命はこの世界で一番美しい。」
少女の瞳から、星屑のような涙が、ぽろぽろと流れ出した。
しかし、彼女は可憐に笑う。
救われたように、安らかな笑顔。
そう、なぜなら——、
この笑顔を一度でも多く、1秒でも長く。
最後まで見ていたかったから。
やがて少女はレニスの手を解くと、一歩後ろに下がった。
「ねえレニス。私のお願い事…、聞いてくれる?」
「ええ、何なりと」
上品にドレスの端を摘んで、今度は彼女が問う。
「私ともう一曲、踊ってくれますか…?」
その白い頬から、涙を掬い取ってレニスは笑顔で答えた。
「何曲でも踊りましょう。だって——」
「今宵はこんなにも、美しい夜なのですから」
星空の下、二人は踊る。
言葉などもういらない。
ただ音楽に身を委ねて。
少女はずっと笑っていた。
レニスはずっと笑っていた。
たとえどれだけ死が近くにあっても。
そんなことはどうでも良かった。
確かにここに生きている。
小さな鼓動が織りなす、美しい音楽。
いつ止まるかなんて分からない。
でも、そんなことはどうだっていい。
だって今この瞬間、まだ音楽は鳴っているのだから。
ならば、この音楽に命を委ねて。
死神の手を取って踊ろう。
馬鹿になって、愉快になって、笑い合って。
人生というのは、こういうものなのかもしれない。
死神のワルツに身体を揺らして。
二つの悲しき命は、美しく踊り続けた——。