幕間 深夜3時50分 童顔の魔法使い
静かな夜の空で月が微笑んでいる。
細くたなびく雲の上を、優しく撫でながら翔ぶ二人。
少女は帝都を出てからも、レニスの手をぎゅっと握って離さない。
レニスもその小さな手の温もりを受け入れる。
「レニスって身体は細いのに、手はすごくおっきいのね」
少女はぽつりと言った。
「そうか?」
「うん、おっきいけど、怖くない。優しい手。」
そして少女はレニスの手を広げると、自分の手をぴったりと合わせて比べた。
そのまますっぽりと包めそうなほどに少女の手は小さくか弱い。
少し悔しそうな顔をする。
「まあ大人だからなあ。みんなこんなもんじゃないかな?」
「ふーん?そうなの…。」
そして少女はレニスの手を見つめながら僅かに思案する。
何を考えているのだろうかと気になっていると、再び口を開いた。
「そういえば、レニスっていくつなの?」
思わぬ質問にたじろぐ。
まさか自分の年齢なんぞに興味を持つとは。
「あ〜、今年で22歳になったよ。」
10以上も年齢が離れているこの子の前で涙を流したことに、
今更ながら恥ずかしさが湧いてくる。
「ええっ!!」
少女は大きな声を出すと、身体を器用に回転させてレニスに驚いた顔を向けた。
「おい、その驚きはどういう驚きなんだ…?」
「もっと近くだと思ってたから…。」
不思議とばつの悪そうな少女に、興味本位で訊いてみる。
「どれくらいだと思ってんだ?」
「14とか、15歳くらい…?」
想定外の回答にレニスは吹き出してしまう。
まさかそんなに若く見られていたとは思っていなかった。
童顔だと言われた経験も今まで一度もない。
「14、5なんてまだまだ少年じゃないか!そんな風に見えていたのか!?」
「う、うん…。だって…、」
「だって?」
少女は言いづらそうに目を逸らす。
そしてか細い声で呟いた。
「だって……!えっとね…。お兄ちゃんみたいだなって……思ったから。」
「お兄ちゃん?」
「うん、私にもこんなお兄ちゃんがいたらなあって。だからフロスは羨ましいなってね、思ったの」
少女の横顔を月明かりが淡く照らす。
赤く頬まった頬が現れる。
その可愛らしい姿に思わずレニスも相好を崩した。
「そういうことか…。そうだな、フロスも同じくらいの年齢だったし、あながち間違っていないのかもしれない。それだけ俺もまだ若く見えるってこと—」
「じゃあ、やっぱりお父さんね。」
「……え?」
聞き捨てならないセリフが少女の口から飛び出した気がする。
「うん、お兄ちゃんじゃなくて、お父さんだわ!レニスはもう立派な大人だもの!」
少女は今8歳のはず。一体何歳で父親になった計算なのか。
簡単な引き算を脳内で行うことすら放棄してレニスは突っ込む。
「そんな親子があってたまるか!!」
「怒っちゃダメよ、おとーさん?」
少女はきらりとウィンクして、あざとい笑みをレニスに投げかけた。
「おい、可愛い顔してもダメだからな?」
すると、レニスも何か思いついたように意地の悪い笑みを浮かべる。
「はは〜ん。そんな悪い子には〜?…こうだ!」
「——えっ?」
発動していた飛翔の魔法を一気に解いた。
静寂と共に訪れる、内臓がふわりと浮くような感覚。
その余韻も束の間、二人の身体は重力に支配された世界へと誘われる。
「キャァァァァァァァァァーーーッッッ!!!!!!!!」
抗うことは許されず、真っ逆様に落ちる二人。
空に浮かぶ雲たちも頼りなく、猛スピードでそれらを貫いていく。
目まぐるしく回転する視界。
月が夜空の中ををぐるぐるぐるぐると回っている。
「いやぁぁぁぁ!!!だめぇぇぇぇぇーーー!!!」
落ちていく先には、湖があった。
月と星空を映す凪いだ湖。
だがもうパニックでどちらが上でどちらが下なのか、
どちらが本物の夜空なのか分からない。
漆黒の鏡面が猛烈な勢いで迫りくる。
「——っっ!!」
少女がレニスの身体に顔をぎゅっと埋め、
今にも湖面にぶつかろうとしたその時、魔法が再び二人の身体を持ち上げた。
湖面の間近を飛行する。
レニスは飛びながら湖に手を差し込むと、水を掬ってから少女の頬に触れた。
「きゃっ、冷たっ!」
驚いて少女が顔を上げた。
「あ……生きてる……?」
自分が星空をいっぱいに反射した湖の上を飛んでいることに気づく。
「わあ…綺麗。まるで星空の海を泳いでいるみたい……。」
キラキラとその青い瞳を輝かせた。
再び夜空を目指し、高く舞い上がる。
「どうだ、スリル満点だっただろう?」
レニスは得意げに語りかける。
少女は素直に頷きかけたが、すぐにレニスの所業を思い出した。
「うん……ってばか!本当に落ちちゃうかと思ったのよ!」
ぽかぽかとレニスの胸を叩く。
「あはは、悪かったってば…。ふっ、それにしてもすごい顔だったな。あはははっ!」
レニスは口を大きく開けて無邪気に笑った。
その笑顔を見て少女は目を丸くした。
「レニスもそんな風に笑うのね…?」
「ん?ああ〜、こんなに笑ったのはいつ振りだろうな。あんまりにも面白かったもんだから。」
そう言って再び笑い始める。
「もーう!笑いすぎだってば!」
「あはははっ!」
「レニスのおばかーっ!!もう知らないっ!」
そっぽを向くも、レニスの笑顔に釣られて少女からも笑みが溢れ始める。
「ふふっ、うふふふ。」
そして二人は、目を合わせて笑い合った。
もう、強がる必要はない。
深い悲しみが、孤独だった二人を繋げる。
そこには、
まるで息子と母親のような、
まるで恋人のような、
まるで兄と妹のような、
そんな安らかな時が流れる。
微笑む月に見守られながら、二人は手を繋いで帰路を往くのだった。