あこがれのひと
バクラヴァ5区プープラン通り、ロマン・ナダルのメゾン・ド・クチュール。
その日は、その店舗先で足を止める人も少なくなかった。ナダルのメゾンブランド『descalzo』で新商品が発表されたのだが、 そのイメージポスターがこの日解禁になったからだ。もちろん『descalzo』といえば、クリスタをブランドアイコンに起用していることで名高い。
ロマン・ナダルは有名高級注文服店で修業し、コレクションでブランドの顔ともいえる作品を任される地位にまで上り詰めた男だ。独立し、これまでの高級注文服以外にも高級既製服や香水・アクセサリー・バッグ・靴などの部門にも手を広げ、成功を収めていた。
その中で『descalzo』はごく最近立ち上げられた新しいラインで、ターゲットは10代後半から20代前半の若い女性。上品で優雅なシルエットを得意とするナダルのデザインは、これまでセレブ層の需要が多かった。有名女優が、授賞式やパーティーで着用しているのが度々マスコミで取り上げられ、話題になっていたりもした。が、どちらかといえば20代後半からのマダム層に人気のあるデザイナーだったのである。
その彼がクリスタという若い新進のモデルをミューズに向かえて、若年層をターゲットに打ち出した新しいラインが『descalzo』だ。デビューの際はかなり大掛かりなプロモーション活動もしたことや、ブランドアイコンでアンバサダーのクリスタ人気も相まって、あっという間に若年層に浸透し人気ブランドの仲間入りをした。
ロマン・ナダルらしい上品さを残しながら、どこか野心的でワイルドなところもあり、値段も比較的良心的だから服から小物までトータルファッションが楽しめ、展開も早い。若い有名人にも『descalzo』ファンは大勢いて、さりげなく身に着けているのがUSNSS(宙間交流通信サービスサイト)でトレンド入りしていたりもした。
サリーも『descalzo』を身に着けてみたくてたまらないひとりなのだが、さすがに中学生のお小遣いでは手が届かない。クリスタや有名アーティストやスポーツ選手のアンバサダーたちが身に着けているブランド品を見て、想像の中で『descalzo』をまとった自分を楽しむのが精一杯であった。
今回発表されるのはコスメの新商品で、パレットのデザイン、セットされたカラーの配色など気になって仕方がない。ブランドコスメに手は出ないが、プチプラコスメで似た色を探して、今度のオーディション応募用の写真を撮ってみようと考えていた。
そんなこともありサリーはショーウィンドウの中に飾られたポスターのクリスタのメイクを、火が点きそうな熱量で目視していたのだった。
「いいなぁ。これからのトレンドはグリーン系なのかしら? リップもピンク系じゃなくて赤かぁ。きれいな赤、すっごく鮮やかで、クリスタの肌色がきれいに見える!」
誰に語り掛けるつもりもなかったひとりごとに、返事が返ってきた。
「――おや、そう見えるかい。うれしいことを言ってくれるねぇ」
「シャドウも素敵だわ。クリスタのエメラルドグリーンの瞳が、もっとキラキラして見える! 発色がいいし、ツヤもあるし、あたしもあんなメイクしてみたいわ!」
「あはは、でもこれはポスター用だからって、メイクさんにかなり濃い目に塗りたくられたんだ。いくらあたしだって、普段はこんなに盛っちゃいないさ」
サリーの頭上から、張りのあるアルトボイスが降ってきた。
「おまえさんはまだうんと若いようだけど、明るくクリアな色でふんわりと仕上げるより、くすみニュアンス系の色で仕上げた方が似合いそうだね。少し発色を押さえて自然な感じで、んン……まぁ色の組み合わせにもよるけれど、ペールピンクやミントグリーンなんて甘色をカッコよく洒落見えさせることもできそうじゃないかな」
(……洒落見えって、……え……ええっ、そんなことよりこの声!?)
女声としては、少し低目。でも、張りがあってよく通るこの声は!
サリーはよく知っていた。じかに声を聞いたのは初めてだけれど、いつもTVのインタビューやオンライン動画共有プラットフォームで観ている、聴いている。
「ク、ク……クリスタだぁぁぁぁ」
恐る恐る振り向くと、そこには憧れで推しの超人気モデル、クリスタ本人が立っていた。今日も191センチの高身長をピンと伸ばして、堂々としたスタイルを誇る、サリーの目には女神然と映る褐色の美女がいた。腰の力が抜けて、ふにゃりと座り込みそうになるサリー。
「ちょいと、大丈夫かい!」
突然目の前に現れたクリスタ。想像以上にきらきらしていて、遠くから見た時より圧倒的なオーラに気圧されてしまう。サリーはどう対応していいのかわからなくて、頭の中をひっかきまわして言葉を探した。なのにどうしても最適と思える言葉が見つからなくて、腰の抜けかけた中途半端な姿勢のまま、ようやく口から出てきたのが――。
「あ、あああ、あ……あたし。あたし、モデルになりたいんです! クリスタみたいに、ランウェイ歩けるモデルになりたいんです!」
噛みつきそうな勢いでそう言われたクリスタは、深緑色の瞳を大きく見開いた後、新色のマスカラで彩ったまつ毛をパタパタと動かした。