009 揺れ動く歯車
アレクたちは二日目の朝を迎えていた。
その部屋にある寝具はベッド一つしかなく、昨夜はグレイゴーストに譲ってアレクは椅子に腰掛けて過ごそうとしていた。
だが、一時間かけてゆっくりと浅い眠りに入ったところで床に崩れ落ち、呆れ顔の彼女から「私は基本的に睡眠を必要としませんし、どのような体勢からでも休止状態に入れます。貴方はベッドを使ってください」と言われ、男として不甲斐なさを感じながらも布団に入って丸まった。
彼は色々と考えすぎて気絶するように眠り、鳥たちのさえずり声に誘われて目が覚めてしまう。
「朝か……」
アレクは上半身を跳ね起こし、現実世界でいつもやっているように掛け布団を数度振り、手慣れた様子で三つ折りにする。
「おはようございます」
背筋をピンと張り、僅かに顎先を沈ませて椅子で休んでいたグレイゴースト。
システムを休止させていた彼女は数秒で復帰すると、決して濁ることのない銀の瞳でアレクに言う。
「おはよう、グレイゴースト。昨日は大丈夫だった?」
「私は大丈夫なのですが、アレク、貴方こそ大丈夫ですか?」
「ええっ?」
昨日とは一割くらい不機嫌の具合が増した彼女の言葉にアレクが首を傾げる。
「私の名前です。いくら何でも『グレイゴースト』は違和感があると話したではありませんか」
「ああ、そうだった。ごめん、ジルヴァラ」
「それで良いのです」
彼女はすぐにでも椅子から立ち上がり、アレクのほうへ詰め寄りそうな勢いだったので彼は狼狽えて回らない頭を強制的に動かし、昨日決めた仮の名を呼び起こした。
そして「ジルヴァラ」が口元を緩め「昨日設定した人格データは使わなくていいの? お兄ちゃん?」と甘擦った声色で言うと片目を瞑ってみせる。
「うわあああぁぁぁっ!」
「そんな声を上げてどうしたの? お・兄・ち・ゃ・ん?」
「うわあああぁぁぁッ!」
昨夜の愚行が彼の頭を巡り、彼女から顔を背けて肩で荒く呼吸をするアレク。
ジルヴァラはそんな彼を満面の笑みでしばらく観察していたが、やがて満足がいったのか年頃の少女の仮面を綺麗に拭い去ると「冗談ですよ」と冷淡に言ってみせた。
「お願いだから、もう忘れて……」
「それは承諾しかねます。年頃の男子の異性に対する貴重な意識データとしてライブラリには保存済みですので」
「あああ……」
アレクは他人から常に虐げられてはいたが、自分を守ってくれる人間よりも守りたい存在を強く願っていた。
そうすればその存在を、自分を守るためにより強くなれるかもしれないと思ったからだ。
弟よりも妹が良い。それも、とびっきり可愛い小柄な子で。少し引っ込み思案で僕の後を付いてきてくれるような存在なら最高だ――「グレイゴースト」の話術にまんまとはまったアレクは夜更けにそんなことを話してしまった。
彼女の演技は完璧で、見事に思春期の少年の心を射貫き、爆散させるに至った。
「アレク。それで良いのです。好きも嫌いも何も無くて、平坦なだけな日常を生きるよりも感情に踊らされ、醜くも躍動的な人生のほうが。若い貴方にはそんな権利があります」
「うう……今、さらっと馬鹿にされたような」
「解釈の違いですね」
「絶対に、僕のこと馬鹿にしたよね」
「どうでしょう」
ジルヴァラが椅子から静かに立ち上がり、ベッドに腰掛けていたアレクの赤髪を優しく撫でる。
同時に垂れた淡い髪の香りが少年の鼻を打ち、彼ははっと顔をあげる。
すぐそこに彼女の顔があった。
人工物なのに人工物ではなく、生身ではないのに生身以上に魅惑的な魔物。
――大丈夫だよ。信じていれば、きっと未来は明るいから。
彼はそこに幼き日のイグニスを重ねてしまう。
度重なる虐めに頬を濡らし、もう抗うことは嫌だとアレクが弱音を漏らした時に聞いた言葉だった。
その瞬間、彼の心は世界の全てが分かったかのような錯覚に囚われた。
魂がどこから来て、どのような道を辿り、どこへ向かっていくのかを。
「助けなきゃ」
「ええ」
「イグニスを、助けなきゃ」
「分かっていますよ、アレク」
顔を上げ、ジルヴァラを真っ直ぐ見据える少年の顔からは一切の迷いが消えていた。
アレクはジルヴァラと別れ、セントリアの街を行く。
彼女はこの世界でまだ普通のNPCというていなので、今は目立った行動はとれず、プレイヤーであるアレクと行動することも難しいと話した。
「効率的に動き回れる方法を探しますとは言っていたけど――」
少年は大広場のベンチに腰掛け、パン屋で買った一番安い丸パンに齧り付く。
この世界では飢えて死ぬということはないが、胃の容量値が少ない場合に空腹が絶えず襲いかかってくるので適度な食事は精神的向上の作用もあり、ジルヴァラも推奨していた。
最初は味がしないと思って口を動かしていたアレク。
しかし、次第に素材そのものの味がじんわりと染み込んできてパンの香ばしい香りが鼻の奥を突き抜けた。
「あれ、意外と美味しい……」
気を紛らわせるために食べていたアレクだが、自分の取り分をペロリと平らげてしまい紙袋の中に入ったジルヴァラの分のパンを見、ゴクリと喉を鳴らした。
彼女なら眉一つ動かさずに許してくれるだろう。そもそも、仮の契約があれども飲食を必要としないAIなのだから。と彼の心に言い訳混じりの強欲が這いずり寄る。
暫くの間アレクは己の欲望と戦っていたが、辛くも勝利を勝ち取って紙袋をインベントリにしまい込んだ。
アレクは視線を地上に戻し、青い瞳を左右に振る。
大広場では運営会社に対する小規模デモが行われていたり、無観客の弾き語りが虚しく響いていたり。午前中の作業を終えて休憩がてら談笑する者たちなど多くの人間が居たがイグニスの姿を見つけることはできなかった。
「あ」
「……あ」
しかし、彼はそこに見知った姿を見つけ出し、間の抜けた声を上げてしまう。
「彼女」もアレクに気が付いて声を漏らすが、ベンチから立ち上がって近付いて来ようとするアレクに露骨に眉をしかめ、踵を返してその場から立ち去ろうとする。
彼は小走りで彼女に追いつき、灼けた小麦色の手を掴むと「ま、待ってよフォリシア」とゴールドブロンドの線の向こう側に問うた。
「……」
フォリシアと呼ばれた少女の抵抗らしい抵抗はなく、その場で停止したアレクたち。
彼女は鎖骨を覆い隠すほどの長さの黄金色のミディアムヘアから顔を覗かせ、彼を張りのある目尻の尖った瞳で無言のまま見つめた。
アメシストの大きな瞳は同じ人間とは思えないほどの色素が薄く、幻想的な光を放っているかのような錯覚に陥る。
顔はイグニスやジルヴァラに比べれば若干ふっくらとしてはいるが、各々のパーツは精密にその美しさを放っていた。
平たく言えば、エキゾチックな魅力溢れる美しい少女なのだが、アレクは彼女に強い苦手意識を持っている。
「何よ」
フォリシアの決して低くはないが、芯の入った透明な声でドスリと重みの効いた一言に彼はたじろぐ。
アレクが彼女と出会ったばかりの時はこうではなかった筈なのだが、彼女がイグニスと仲良くなるにつれ一方的に敵対心をつのらせていっているようで、今では口を開く度に憎まれ口を叩かれているような気すらする。
服の上からでも分かるハリのある胸元をジロジロと見たせいだろうか。
細身のイグニスとは違い、凹凸のはっきりとした女性らしいボディラインに心打たれたのがバレたのだろうか。
様々な推測がアレクの頭の中をグルグルと巡り、彼は今はこのようなことを考えている場合ではないとそれらを叩き落とし、頭の隅へ追いやった。
「フォリシアもやってたんだ」
「別に良いでしょ」
「テストでイグニスがあんなになっちゃってさ、もう来ないものかと思ってた」
「あなたには関係ない」
フォリシアは掴まれたままの手をやや強引に引き抜くと、顔を背けてしまう。
だが、彼女がそこですぐに立ち去らないということはアレクにもまだ会話の余地が残されているということだ。
「まだ君には話せてなかったけど、もしかしたらイグニスを救えるかもしれない」
手入れをあまりしていないにも関わらず、形の良いフォリシアの眉がピクリと動く。
「かのじ……その、管理者が言うには、イグニスの幻影を探し出して確保、そしてこのゲームを生き抜いて現実世界に生還すれば記憶の再構築ができるらしいんだ」
フォリシアはアメシストの瞳をギラリと光らせ、口を真一文字に結んでアレクを見つめていた。
その胸の内では何度も言葉を反芻し、言い出すタイミングを見計らっては「奇遇ね」と可愛げのない声色が出、彼女はもう少し普通に話せないのかと頭の中で赤面しながら語り出した。
「わたしもそういう情報を得ている。イグニスのようにあのクラッキングが原因で記憶障害になったのは12人。それの対処に当たるゲーム内のボランティア――選抜者は7人。まあ、こんな状況になってしまって、わたしはイグニスを助けられればそれで良いんだけどね?」
――僕は、人を救うヒーローになりたい。
それはフォリシアがイグニスから聞いたアレクの口癖。
だからこそ、自分は一人だけを救えればそれで満足だと冷たく言い放って彼の覚悟を確かめようとしたのだ。
もし、ここで彼が全員を救うなどと言い出したら別々の道を歩こう。
だが、イグニスを選べば協力しないこともやぶさかではなかった。
「僕は……僕も、イグニスを救う。その他の人がどうでもいいって訳じゃない。彼女の安全が確保され次第、他の12人の人たちも自分なりに出来ることをやってみるつもりだよ」
彼女の想定していた回答とは少し違ったが、概ね満点の回答に張り詰めていた頬が緩みそうになる。
慌てて背筋を正し、ずり落ちた仮面を拾うと「そう。目的が一緒ということならば、協力しましょう」と作った声でアレクに提案をした。
「まずはフレンド登録をして……っと。簡易メッセージで情報のやり取りを。必要なときは力を貸すから」
「一緒に行かない? 会わせたい子も居るんだけど」
「ばっ……馬鹿言わないで! わたしとあなたが一緒に居られるワケないでしょうがっ!」
アレクの何気ない一言で火が付いたのか、フォリシアは烈火の如く顔を赤くしてまくし立て上げる。
「そっか、変な事言ってごめんね」
「……っ」
アレクが鼻息荒いフォリシアに頭を下げて謝罪をする。
「……連絡はつくようにしておきなさいよ」
「うん。フォリシアはこれからどうするの?」
「忘れ物したから宿舎まで帰る。そういうわけだから、またね」
彼女は後ろも振り返らず、不機嫌そうな足取りで街角へ消えていった。
「僕、またなんかやっちゃったのかな……」
覚えがないとはいえ、他人の感情を無遠慮に掻き混ぜたのは事実だ。
今後の円滑な交流のため、アレクは元いたベンチに戻ると空を仰いで反省会を始めた。