007 会談決裂
街を東から西に横断する運河。そこに架かる石造りの大橋を渡りながら。
一人前に接客をするNPCとプレイヤーたちが入り混じる活気のある市場で。
商店街の中を虱潰しに一軒一軒覗いてみたりしながらアレクはイグニスの姿を探す。
「ダメだぁ……」
この世界を三時間も駆け回っていた少年は疲労感から大広場の隅にあるベンチにだらしなく寝転がり、先と変わらぬ表情で人々を見下ろし続ける大空を睨み付けた。
電子の身体はスキルを乱発しない限りは疲れ知らずで、丸一日駆け回っていても「肉体」が疲れを覚えることはほぼない。
それでも彼が身を横たえているのは精神的な疲れからだろう。
一寸先も闇の世界でイグニスを探さなければならないというプレッシャーは彼が思うよりも重くのしかかっているようだった。
彼は固いベンチの上で目を閉じ、小休憩をとろうとしたが掲示板の圏内に入っていることを思い出し、アクセスして自分の記事に書き込みがないかどうかを確認した。
《お前を見ているぞ》
それは匿名ユーザーからの書き込みで、アレクに付きまとっていた不安がまた一つ増えてしまう。
一体誰が、どういう意図をもって書き込んだのだろうか?
色々な憶測がアレクの頭であっちこっちに飛び交い、やがて彼は考えることを止めた。
――ログアウト不可なのも直っている頃だろう。一度、リアルに戻って何か飲んでこよう。
少年はカラカラになった喉に手を当て、メニューからログアウトボタンをタップする。
先とは違い、今度はボタンが押された音が響いたが、それでもこの世界が遠ざかることはなかった。
「あれ?」
彼がボタンを何度押してもタッチした効果音だけがカチカチと響き、何の変化もない。
「そうだ。緊急排出用の手順があった」
彼はニューロンギアに同封されたリーフレットに書かれていたことを思い出す。
何らかの事態により通常の手段で切断できなくなった時に強制的にギアを外すことのできるものだ。
両手を側頭部に添え、五秒ほど待ってから渾身の力を以てしてギアを脱ぐ動作をする。
そうすることで現実に残された神経を動かし、物理的に強制切断させるというものだが――
「あれ、あれっ?」
アレクの手はさらさらと流れる赤髪に指を滑らせるだけで何の変化も訪れない。
彼は動作を少しずつ変えながら自分をこの世界に縛り付けている機械を除去しようとするが、何度やっても突っかかりがなく全てが徒労に終わる。
「……グレイゴースト、居るんでしょ」
両手をだらんと伸ばして脱力するアレクがすがるように少女の名を呼んだ。
「はい、ここに」
すると彼の横に冷えた空気と共に透き通った人工物の少女が姿を現す。
彼女はアレクと間を空けてベンチへ腰掛け、白い手を重ねている。
「色々言いたいことはあるけど……ログアウトができない。緊急時の方法もダメだ。一体、何が起こってるというの?」
「空を」
彼女は苛立ちと焦りが入り混じった彼を窘めるかのように静かに天を指さした。
空は地平線へ沈んでいく太陽を惜しみ、青の度合いをより深めて夜に備えようとしている。
何の変哲もない夕暮れ時の風景だったが、それをアレクが口に出すよりも早く変化は訪れた。
幾重にも重ねられていた大気のカーテンで色合いを変えていく太陽がさあっと消失したかと思えば星一つ浮かばない闇の空が視界いっぱいに広がっていく。
本来は時間帯によって自動点灯する街灯に一斉に火が灯り、辺りのプレイヤーたちは急な変化に何事かとざわついていた。
程なく、闇夜が掻き混ぜられたかと思えばフードを深く被った男性が空いっぱいに浮かび上がる。
彼は痩身に漆黒に染めたローブを羽織っていた。
「これは、諸君らの物語の序章である」
感情などは何処かへ置いてきたと言わんばかりの口調で男性が口を開く。
「この物語で賭すべきは己の――プレイヤー諸君の命。この世界で命を落とせば、それは現実世界に直結し死に至るだろう」
アレクはその場にいた誰よりもその言葉を信じてしまう。
技術的には可能だろう。
身体を動かす脳波を脊髄に伝達することなく、再び脳内にリレーしている装置に細工を施せばゲーム内の死を現実の死として演出することは可能だ。
だが、命を賭けたデスゲームなどは現実世界で許されてはいけないことだ。
彼自身も映画や小説の中で起きる究極の体験に憧れていた時代があったが、それはフィクションでのみ許される行為であって、身近にあってはならないものだった。
「この物語が終焉を迎えるのは、迷宮最下層に住まう『アビスドラゴン』が討伐されるか、あるいは現在接続している二万人のプレイヤーが半数以下になった時のどちらかである」
狼狽えるアレクや口を半開きにして空を仰ぐプレイヤーたち。
漆黒ローブの男性は神にでもなったかのような振る舞いで淡々と言葉を紡ぐ。
「これに伴い、ゲーム内の仕様が本来のものと異なるのは承知してほしい。それでは、何者にも妨げられぬ最高の物語を」
彼は言葉短く言い終えると、その姿はさあっと大気に溶け込んでいき光が世界に戻る。
「なっ……何言ってんだ! 馬鹿野郎!」
「責任者呼んで来いよ。クレームだ、クレーム!」
憤りを露わに声を張り上げる者たち。
「嘘だろ? 誰か試しに死んでみてくれよ」
「言い出しっぺのお前が行ってこいって……」
「大丈夫。何かの間違いだって」
推測を飛び交わせながらも不安を隠しきれない者たち。
「そんな……私は、ただ……ただ……」
「お、お姉さん。しっかりしてください」
足の力が抜け、その場に座り込んでしまう女性とそれを支えようとする年下の女性。
互いの主張をぶつけ合うだけの稚拙なやり取りは暴力を誘い、痛覚がほぼカットされた街中での不毛な乱闘が勃発していた。
「こっちに来て」
アレクは冷や水を頬に伝わらせ、一際目立つグレイゴーストの手を引き、自分の初期出現位置である宿舎まで急ぎ足で戻るのだった。