053 ブランニューワールドI
――本日23時59分より、大型アップデート「2.0」実装作業のため局所的にタイムラグや不具合が発生する恐れがありますので、ユーザーの皆様においては【自主規制】していただくことを推奨いたします。作業時間は3時間程度を予定しております。
それは閉鎖世界と化したエンゲイトオンラインでは本来使われることのない運営会社の告知メッセージ。
これが流れたのは夏が終わり、ゲームが始まって三ヶ月目を迎えようという時だった。
街中の暑くうだるような空気をカラっとした乾いた空気に入れ換え、木々は瞬時に紅葉して葉を一枚一枚数えるように散らしていく。
GUIは基本的にプレイヤーが自由に編集することができるが、警告メッセージ類は視界中央よりもやや下のエリアに固定表示されており、これは変更することができない。
最大限の没入感を得るためにほぼ全ての表示ガジェットをオフにしていたとあるフリーランニングプレイヤーはアナウンスに不意打ちを食らって高所から転落して重傷を負ってしまった。
とあるプレイヤーは灯りが点る街を見下ろす丘で気になる異性に告白しようとした瞬間にアナウンスが響き、出鼻を挫かれた。
夜間のみ出現するという稀少モンスターを狩る集まりや、料理や錬金術で使われる発光キノコなどを夜な夜な集めて回っている採集家なども万が一に備えて予定を全てキャンセルせざるを得なかったという。
だが、変わり者や捻くれ者は何処にでもいるもので、夜間のフィールドやダンジョンを自分たちだけで独占しようという輩が各所に出向いた。
しかし日付変更と共にダンジョンは冒険者たちを街中に排出して入り口を封鎖。フィールドモンスターや動物、採集物までもが消滅してしまう。
これではやってきた意味がない。と最寄りの拠点に戻ろうとする冒険者たちだったが、メンテナンスに伴う遅延により、まともに馬を操れずに道を外れたり、カーブを曲がりきれずに木の幹に馬ごと衝突したりと散々な結果に終わったという。
そんな事件が各地で勃発しているとは露知らず、アレク・フェルナンドは深い、ふかい意識の中をさまよっていた。
薄明るい空間の中で無数の記憶の断片が彼を取り巻き、ゆっくりと不規則に動き回っている。
どれもこの世界「エンゲイト・オンライン」での思い出だ。
彼はその一つにそっと指を近づけると、磁力で引かれるように断片が指先を伝い、自分自身に流れ込んでくる。
「ああ、これは初日の思い出だ。こっちは三日目。懐かしいな」
アレクの脳裏に過酷ではあるが、仲間たちとの楽しいひとときが鮮明に蘇ってくる。
だが、そのどれもが仮想空間の出来事で現実世界の記憶は何一つ存在していない。
遠ざけようとしていた大きな不安が「黒い塊」として彼の前に姿を現し、身体を瞬く間に飲み込んだ。
そして闇の世界でポツリ、ぽつりと灯りが点いていき、アレクは目を見開く。
「父さん? 母さんまでっ……」
そこには物言わぬ両親が無機質な瞳で虚空を見つめ、立ち尽くしていた。
アレクは二人の元へ駆け寄ろうとするが、足は空回りするだけで近寄ることができず、必死に手を伸ばしても少しのところで届かなかった。
だが、少年は必死にその存在に触れようとしていた。腕の筋を伝い、全身が悲鳴を上げるくらいにきつく感じるほどに。
――選択せよ。
そうこうしていると、闇から声が響いた。
彼は自己意識ではないその声に聞き覚えがあった。
その昔、彼がコンシューマーゲームの実況動画を作ろうと、ボイスチャット用ヘッドセットのマイクから入力された自分の声そのものだ。
声変わり前の少年のようで少女ではない、おっとりとした声色。
女々しい声だと罵られたことも数多くあったし、マイクを通して明らかになった自分の男らしくない声に絶望さえ覚えたほどだった。
――なにを犠牲とし、なにを救うのか。
だが、闇に響く声の主はそんなことなど知らぬといった様子で過酷な「選択」を少年に迫った。
「えっ……意味が分からないよ。犠牲って何なんだよっ!?」
滅多に感情を荒立てないアレクが闇の世界で吠えた。
それは誰に届くでもなく、何処に響くでもなく。ただただ、黒に吸い込まれていくだけだ。
――選択せよ。
声は再び問うた。
少年の脳裏に考えたくはない未来が浮かび、全身の血という血が沸騰していくように熱くなるのを感じる。
質問の意味は分かっていた。
どちらを救い、どちらを失うか――分かり易すぎる二者択一だ。
家族は円滑な仲とは言えなかったが、どちらもアレクの掛け替えのない両親で優先順位をつけるなどとてもではないが今の彼にはできなかった。
彼は二つの存在をつなぎ止めようとのばしていた手を元の位置に戻し、それをきつく握りしめることしかできない。
――それが選択か。
感情のこもっていない無機質な声が響く。
次の瞬間、アレクの愛すべき二人の存在が血を一滴もこぼすことなく、ぐちゃりと粘土を握りつぶしたかのように崩れ去ってしまう。
「……う」
アレクは胸の奥に強い不快感を覚え、前のめりになってしまう。
彼は、これは現実じゃない、これは現実じゃないと何度も自分への暗示を続けるが、必死の抵抗虚しく胃の中身を吐き出してしまう。
胃酸の味が口全体に広がるが、そこには何も存在せず、空気を吐き出すように彼は呼吸荒くうずくまっていた。
――選択せよ。
アレクの回復を待たず、声が再び響いた。
そこに佇んでいたのは「オルレアンの騎士団」のマスターであるレックスと、離脱したはずの青髪の剣士ノエルだ。
「やめてよ……」
アレクが涙を浮かべながら声の主に懇願するが、それが聞き届けられるはずもなく、ぐちゃりと生々しい音を立てながら2つの肉塊が出来上がる。
――選択せよ。
赤い鉢巻きがトレードマークのザイスに、アセリエ古来に伝わる武士道を重んじる長身のベルハルト。
「やめて……」
――選択せよ。
自分から逃げることを止めた弓使いのノーラと、変わり者の仕立て師ミア。
「やめろよ……」
――選択せよ。
小さな錬金術師アルケに彼女と恋人のように連れ添うミルヴァ。
それにキーラや乗馬同好会の面々、それにライトナイツ……無数のヒトガタが次々に溶けていく。
――選択せよ。
幼なじみにして長い間を経て恋人となったイグニス。
そんな二人を見守っていた心優しきフォリシア。
「ぁ……」
彼が迷ったのはほんの一瞬だった。
答えは出ていた筈なのに。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ迷いが生じたため、それはぐちゃりと崩れ落ちた。
「……」
アレクは自分の中にあるモノが音を立てて裂けていくのを感じた。
頭に強い違和感をおぼえ、視界が次第に閉じていく。
今、心の底に溜まっているモノを何かにぶつけることが出来れば、どんなに爽快だろうか。
いや、もういっそのこと狂ってやろうか。
そのようなことを考えていると、彼の目の前に光の滴がスローモーションのように落ちていく。
そしてそれは黒の床に波紋を作り出し、ざあっと草原に風が駆け抜けるような音が場を支配し、目が痛いくらいの光量が彼の青い瞳めがけて飛び込んでいく。
アレクはたまらず瞼をきつく閉じ、両手で目を庇った。
「誰も犠牲にしないというのは、誰も救わないということ」
少女の澄んだ声色が柔らかい日差しの春空に消えていく。
アレクが目を閉じてからどれだけの時間が経ったのだろうか。
彼が恐るおそる固まった身体を解して目を開けると、そこには銀髪の少女ジルヴァラがまだ見ぬ神へ祈りを捧げるように両手を組んで佇んでいた。
大地には赤白黄色、様々な花々が咲き誇り、半透明な蝶々がキラキラと輝く鱗粉を振りまきながら緩やかに飛んでいる。
「誰でも好きになるというのは、誰も好きではないということ」
アレクと少女の間に一筋の風が吹き抜け、少年の赤毛と、少女の肩にかかっていた混じり気のない銀髪を宙に流した。
彼女は純白のワンピースドレスに身を纏っており、透き通るような肌色も合い重なって誰の目からも現実味を感じられないほどだ。
「さて、アレク・フェルナンド。貴方は全てを救おうとし、また全てを犠牲にしました。弁解はありますか?」
澄んではいるが、抑揚のこもってない声色の少女は祈るのを止め、自らの薄い腹部の上で手を組み直す。
そして目を静かに見開いてアレクを見つめた。
生気を感じられない銀色の球体がそこにはあり、彼には先の問いかけのこともあってか不機嫌そうに見られた。
それ以外の顔立ちやスタイルは年頃の少年たちが理想とする美少女だったのだが、アレクの目にはいつもの彼女に思えず、凝視してしまう。
「ジルヴァラ? 本当に、あのジルヴァラ?」
「はい。先の更新で多少の齟齬が見られますが、私ですよ。アレク」
少しだけ表情を崩す彼女にアレクはほっと胸をなで下ろすも、質問の内容を思い出して「さっきのことだけど……」と切れ味の悪い刃をゆっくりと振りかざした。
「結論から言います。アレク、貴方は目立ちすぎた。プレイヤーキラーたちとの戦いで本気を出しましたね。あれが噂になり、彼らの興味を引いてしまった。私を連れており、かつ高純度フラクタルライト……イグニスと恋仲になっていることは見逃せないのでしょう。先ほどの映像は警告の意を込め、『彼ら』があなたに見せたものと思われます」
ジルヴァラは険しい表情のアレクを見つめたまま、手を組みなおして言う。
「アレク。これは脅威に立ち向かう為の試練です。貴方は優柔不断だ。理想を追いて皆を救おうとするのは良いのです。ですが、世の中には犠牲を伴う結末を迎えることも有り得る。貴方には選択できましたか?」
「それは……そうならないように努力する。皆がいない未来なんて、僕は嫌だ」
淡々と語る彼女に対し、頬を伝う冷や汗を感じながらも少年は反論する。
「いつまでも理想を抱いていてはその重さに耐えきれず消えてしまうのですよ、アレク。貴方はそのようなところまで来てしまったのです」
「そんなの……」
目蓋をきつく閉じ、言葉を詰まらせるアレクにジルヴァラはため息をつく。
彼女は思う。元より期待している答えなど無いが、弱い彼のままでは運命に押しつぶされてしまう。
――この感情を何と呼ぶのだろうか。
ジルヴァラの動かない心臓に細糸が架けられ、きゅっと引き絞られた。
人に近付くことを目的に造られた彼女が新しい感情に怯えている。
それでも心を水鏡のように保ち、酷な世界を見て弱気なアレクに鞭を打とうと重い口を開いた。
「……では問います、アレク・フェルナンド。あの時、自分を殺そうとした相手に貴方はどのように対処しましたか?」
「えっ……」
ジルヴァラがあの時の光景を見てきたかのように言うので、アレクは狼狽えた。
「私はゲームマスター……人間の彼らの補助業務を行うため、レベル3の権限を有しています。本来はプレイヤーの記憶野にアクセスなどは出来ないはずなのですが、はっきりと見えました。あなたの狂気が。残忍さが。死んでいい命はあって、死んではいけない命があると? そうです、それこそが人間らしい感情です。貴方はそういった選択をしていくべきなのです」
正当防衛だ。とはアレクには言えなかった。
激しい攻防で彼の眠っていた闘争本能が目を覚まし、ただひたすらに敵を屠ることだけを考えて剣を振るった。
その身体に、その顔に何度も、何度も何度も。
相手が「止めてくれ」と言っても聞かなかった。
正義は自分にあり、お前たちは滅ぼされる悪なのだと。
醜い顔をしていた。それはきっと、彼らと同じ人殺しの顔だったのだろう。
「あ……」
アレクの目から雫がこぼれ落ち、眼下の花びらを叩く。
少年は英雄に憧れていた。
絶対的な力を有し、何者にも揺るがない固き信念を以て弱きを助ける。
そこに苦悩や悲哀、試練や責任を伴う選択などありはせず、彼は見るも空虚なブリキの英雄を気取っていただけだった。
「僕は……僕は……」
ただ、誰かに認められたかった。
何もない空っぽな自分に「そんなことないよ」と甘い衣で覆い隠した嘘が欲しかった。
イグニスと出会い、ザイスやベルハルト、シルヴィアと交流していく中でその思いは特に強くなった。
この人たちはしっかりと人生を歩んでいるのに、自分は何と中身の無い道を行っていたのだろうか。幼いアレクは情けない思いと劣等感でいっぱいだった。
それがこの虚構の世界では立場が逆転したのだ。
だからより善き存在であり、何者にも虐げられないような強さを身に着けて現実以上に善人のフリをした。
「……あまり貴方を虐めてもイグニスに怒られそうですし、このあたりで解放してあげます。重々申しますが、もしその時が来ても決して迷わないように。いいですね?」
地に膝を落とし、アレクの顔を覗き込んでいたジルヴァラはふと立ち上がる。
本来は必要ないはずの息を深く吐きながら大空へ祈りを捧げた。
すると、アレクを再び光の闇が包み込んで意識は白に溶けていった。




