048 昔のやくそく
街に南北に架かる中央大橋で待ち合わせたアレクとイグニス。
二人はギルド管理局などがある行政区に足を伸ばしていた。
行政区の外れにあるそれは小高い丘というより、小山と言ってもいい高さだろうか。
この街で山の上にある城に続いて見晴らしの良い穴場スポットだ。
頂には様々な花が咲き乱れる庭から扇状に広がるように石造りの建物があり、ゴツゴツとした不揃いの物が積み上げられている様はまるで要塞だ。
ゲーム開始から一ヶ月以上経ったこの街では一般の建築物は赤煉瓦屋根に白壁で統一され始め、近代エイシアの街並みを再現しているかのようだったため、当初の姿を残したままの此処はある意味新鮮だった。
そこは図書館やNPCにより各学術スキルを鍛えることが可能な教室練などがあり、30分拘束されるが錬金術や魔術、神聖術などのスキルランクを効率的に上げることができる。
ただ、講義中は居眠りをしてはいけない、絶対に私語をしてはいけないという規則が存在し、それを守らぬ者は授業料を返還されることなく教室から強制退場されるというある意味過酷なものだ。
そんながんじがらめのコンテンツに手を伸ばす者は皆無で、休み時間の今は紺色の丈の長い学衣を身に纏ったNPCの学生が数人で談笑したり、縁石に腰掛けては分厚い本を一心不乱に読んでいたりする。
「この辺りで良いかな」
緑の絨毯の上にイグニスが静かに腰を落とし、アレクは沈んだ表情で横に座る。
彼女は少しだけ恥ずかしそうに唇を噛んで距離を取ろうとするが、あの日見た彼の悲壮な顔を思い出してはその場に身を留めた。
今のアレクには自分が必要だ。だから、せめて側に居なくては。そんな湧きどころの分からない使命感が彼女を締め付ける。
「ほら、食べよ。はい、おにぎり」
イグニスは手にしていたランチボックスを開け、簡易ストレージとなっているそこから握り飯が盛られた平皿を取り出し、アレクの目の前に置く。
通常、プレイヤーたちが街に納めた食料品は食料リソースとして都市に貯えられ、それを消費することで文明レベルに応じた食料品を産出する。
小麦を大量に納品してリソースを稼げば牛飼いをすることなく牛肉が手に入るといった仕組みで、イグニスは水田や海のない地域で米と藻塩を購入し、乾燥海苔を使ってアセリエの料理を再現していた。
それには淀んでいたアレクの目にも新鮮に映ったのだろう。おにぎりをまじまじと眺めて手に取ると「食べていい?」とイグニスに問う。
彼女がにっこりと微笑んで頷くと、彼は控えめに齧り付いた。
それは彼が現実世界に居る時、仕事が忙しかった母がよく作ってくれていた少し塩辛いおにぎりにそっくりで、程よく固いのだが噛むと柔らかな米の感触が歯を叩いた。
二口、三口と食べていく彼にサクラ色の少女は満足そうな顔を覗かせ「漬物……っぽいものと、味噌汁……っぽいものもあるよ」と急かしてみせる。
そのどれもが再現度の高いもので、アレクたちは交わす言葉を忘れたかのように食事に夢中になった。
「ねえ、アレク」
イグニスが空になった食器をしまい込みながらアレクに問う。
「このゲームがここまでリアルに作り込んでいるのって、何でだろう」
「どうしてだろう。開発者の意図は僕にも分からないけど、これは異常だと思う」
アレクはぽつり、ぽつりと自分の考えていることを語り出す。
明らかに初心者お断りな戦闘。
やり込み要素を詰め込みすぎて煩雑さが溢れ出している生活要素。
それにRPGとしてはベーシックなレベル制と膨大なスキル群で構成されるハイブリッドなゲームシステム。
どれもが簡易的なソーシャルゲームに染まった現代の若者たちには受け入れ難いもので、膨大な時間を要するコアゲーマー向けな内容だった。
「ねえ、イグニス。このゲームが実験じゃないか――とか考えたことはない?」
少年はそれを口に出した瞬間に後悔する。
彼女をこの世界に招いたのは自分で、全責任も伴うものだ。
その本人がこのような事を言ってはどれだけ彼女の感情を弄ぶことになるのだろう。
しかし、イグニスは嫌な顔一つせずに視線を上にやり考えているようだった。
「……このフルダイブシステムはゲームの為だけじゃない。医療方面や軍事転用にも出来る計り知れない可能性を秘めているものだと思う。この世界を創ったクリエイターたちがもしそういった事を視野に入れているのだとしたら――」
少年の失言に対しても平然と構える優しいイグニスに甘えるように、彼は推論を組み立てていく。
「デスゲームという極限状態を作り出し、その状況下に置かれたプレイヤーたちのストレスや心的外傷がないかを観測してデータを収集する。そこまでは理解できるけど、これだけ多くの人を幽閉しているのは事実で、これが引き起こす社会問題のほうが深刻じゃない? 割に合わないと思う」
真面目な顔をして語るイグニスだったが、少年が彼女の頬についた米粒を指摘すると恥ずかしそうにそれを指で摘んで口に運んだ。
「うーん……仮にだけど、開発チームに高い理想を持って譲らない人たちが居たとするね。片方の案だけが通ってもう片方の案は採用されなかった。没になった人はどういう気持ちで自分の意にそぐわないプロジェクトに参加するかな」
「アレク、その人たちはいい大人でしょ? バイトの経験すらない私が言うのも何だけど、仕事ってそんな子どもレベルで動いてないように思える」
イグニスの言葉の裏には現実世界の父親の姿があった。
かつての彼は全ての人たちに夢と希望を与えるような「生きた」3Dを作り出すアニメーターを志していたが、結婚し、イグニスが生まれてから生活の為に転職したということを彼女は母から聞いたことがある。
ポリシーを捨て、単価の高い仕事から選んで家族の為だけに生きる。
――理想は遅かれ早かれいつかは潰える。大事なのは、それを手放さなかった間の経験や記憶だ。
夢を捨てた父親は半泣きだった幼いイグニスの頭を撫でながら微笑みを浮かべて寂しそうに語る。
その姿が彼女の脳裏に強く焼き付いて離れようとはしなかった。
「だけど『大人になれ』という言葉は時として自分の意に反するものを圧殺する時にも使われるよね。それにこんな世界を仕事というだけで創り出せるとは到底思えない。くさい言い方になるけど底知れない愛を感じるんだ」
「愛……」
この街でも高い位置にある庭は雲ひとつ無い群青色の空に包まれ、現実世界では中々味わえない限りなくリアルで非現実な体験を彼らにもたらしている。
この街一つを取っても作り込みが半端ではなく、建物やNPCたちはコピーアンドペーストではなく一つ一つに生命が吹き込まれているようにも思えるほどだ。
「僕が言いたいのは、クリエイターの一人ひとりが自分の世界を誰よりも愛しているということ。たとえ、自分たちのやりたい仕事とやれる仕事が違ったとしても、その中で最大限表現していくんじゃないかな」
「だけど、さっきの口ぶりからすると、そういう人ばかりじゃないって言いたいのよね?」
「うん。悪い方向に向かった場合はあまり想像したくないけど、理想のぶつかり合いが行く先は争い、妬み……そして一方的な憎悪が積もっていく」
「つまり、アレクは開発者たちの中に亀裂が生まれて一部が反乱を起こし、今回の事に及んだって言いたいの?」
「その通り。この世界に何を思い、何を託したのかは分からないけど」
そう語るアレクの横顔をイグニスは橙色の瞳で見つめていた。
やはり彼はこうでなくては。昔のような弱気な彼など見ていたくないと彼女は強く願う。
「あの時から言おうと思ってたんだけど。僕は弱い」
ふとアレクが背筋を正し、イグニスを見つめるものだから彼女もまた物差しで背中を矯正したかのようにカチコチになる。
「生きていくには支えてくれる――いや、支え合う誰かが必要なんだ。共に手を取り、歩んでいけるパートナーが。それはイグニス……君をおいてはいないと思っている」
映る情景は七年前に二人が出会ったあの夕暮れの教室。
「イグニス、君のことが好きです。僕と付き合ってください」
小さな手をアレクがそっと取り、慈しむように軽く握った。
呆けた様子の彼女からの返答はない。
「……イグニス?」
その代わり、イグニスの夕陽色の瞳がきらりと輝いたかと思えば大粒の涙が頬を伝ってぽたぽたと地面にこぼれ落ちていく。
彼女は長らくこの時を待っていたのだ。
最初はただのご近所同士で、それがあの日に変わって。自分勝手な思いで始めたことで彼が少しずつ立ち直ってくれて、そんな姿に新たな感情が芽生えて、それが分からないままこの世界に来た。
それは恋心だったのだ。彼を思うイグニスと、彼女を思うアレクの間に芽生えた、幼い初恋の感情。
その少年はゲームマニアで好きなことには早口になったり、人見知りだったり。
弱いままで自分たちの後ろを付いてくるだけだと思っていたのに、いつの間にか前に立ち、襲い来る脅威から守ってくれていた。
献身的で困り事にしょっちゅう首を突っ込んでは自滅することもあったが、それでもイグニスはアレクのことが好きだった。
その少女は可愛らしい外見とは裏腹に正義感溢れるヒロインを演じており、口より先に手が出て何度も少年の尻を叩いた。
強さと弱さを内包している彼女は同年代の少年少女のグループを率いるリーダー的存在だった。
アレクは自分を助けてくれたそんな彼女に報いたいと思う内に、いつの間にか好きになってしまった。
だが、心の泥の底から引き揚げてくれて恩のある彼女にそのような感情を抱いてしまうのは卑怯な気がした。
それでもアレクは強い意志を持ち、イグニスの手を取ろうと決意した。
「アレク……アレクぅ……っ」
目を真っ赤にし、涙を連ねるイグニスをアレクは黙って抱き支える。
柔らかい彼女の感触が彼の荒んだ心を癒やしていくが、同事に心の奥底でざわめいていた黒い感情が姿を晒しだした。
あの日、PKに挟撃された時に見た「未来」の光景。
――僕は彼女のためにもっと残酷になれるだろうか。
アレクの中を深い慈愛と赤い狂気が渦巻いていた。




