004 セカンド・ダイブ
「すまない。理解が追いついていないようだ」
「あれか? ひょっとして筋肉さんの仕業なのか?」
アレクの口から語られたのは仮想世界での銀色の少女とのやり取り。
切り取った記憶を再び生身の人間に貼り付けて回復を試みるというリアリティの欠如した話に幼馴染み達は素っ頓狂な声を上げる。
「その子――AIが言うにはヒトの精神の根幹にある『フラクタルライト』という連続した電気信号のデータ化に成功しているみたいで、仮想世界の何処かを彷徨っている彼女を確保し、ギア経由で現実のイグニスへコンバートすることで記憶を取り戻すことができるみたいなんだ」
和やかに語るアレクと相反し、ベルハルトたちは顔を大きくしかめ、疑いの眼で彼を見つめている。
「オレが言うのも何だけどよぉ。アレク、お前絶対騙されてんぞ」
先ほどまではイグニスの現状を聞き、失意の底にあった筈のアレクが嬉々として語るものだからザイスは極めて強く釘を打ち付ける。
助けられるかもしれないという淡い希望にすがりたい気持ちは彼らにもよく分かる。
だが、アレクよ、世の中そんなに甘くねぇぞ――ザイスは辛うじてその言葉を飲み込み、鍛えられた厚い胸元を二、三度擦った。
「仮にその話が本当だったとしよう。イグニスをあのようにしてしまった危険な世界にお前は彼女を救えるかもしれない可能性を信じ、再び飛び込もうというのか? 悪いことは言わない。治療は専門家に任せ、大人しくしておけ」
いつだって真剣に友人たちに向き合い、時に厳しく接していたベルハルトもまたアレクを制止しようと言葉で絡め取ろうとする。
「お願いだから信じて。僕たちが知っているイグニスを取り戻すにはこれしかないんだ」
「……」
友人付き合いを始めてから数年。
普段はふらふらと浮き草のように水面を漂っているアレクが今はしっかりと大地に根を下ろし、迫り来る困難に二つの足を以てして力強く踏みとどまろうとしている。
――いつまでも目の離せない子どもと思っていたのは俺の驕りだったのかもな。
ベルハルトは少しの間目を瞑り、ふうと息を吐き出して「分かった」とアレクに言う。
「だが、お前がどうなろうとも俺たちは助けには行かないからな。無事に『彼女』と戻って来てくれ」
「ありがとう」
「おいおいおい。それでいいのかベルハルトよぉっ。オレはアレクまで記憶無くしちまったら嫌だぜ」
「大丈夫。僕は絶対に失敗しないから。心配しないで待っていて」
アレクの口から出たその言葉は真であり、偽り。
彼はそう言うことで自らを鼓舞し、全てが上手くいく未来をイメージし、不安を遠ざけるようにしていた。
「うう……絶対に帰って来いよ。帰ってきて、皆でまたプロテインパーティーしようなっ!?」
「あー……あれは、もういいかな。うん」
過去に苦い経験があれど、少しも悪びた様子のない幼馴染みにアレクはクスリと息を漏らした。
「こちらも別件があるが、可能な限り情報収集はしてお前と共有しよう。電話は出られるようにしておけよ」
「ありがとうベルハルト。じゃあ、またね」
二人に見送られ、アレクは一分一秒が惜しいといった様子でちょうど到着したエレベーターに飛び乗り、その場を後にした。
***
ニューロンギア専用タイトルのゲームソフト「エンゲイト・オンライン」はMMORPGと呼ばれるジャンルだ。
大人数のプレイヤーが参加して思い思いのロールプレイを楽しむその原型は今より数十年前にパソコン用のゲームとして誕生し、黄金期を迎えて今現在では下火だった。
皆、スマートフォンで気軽に出来るソーシャルゲームに流れ、MMORPGは衰退したかのように思えたが、フルダイブデバイスの誕生により多くのゲームファンたちが新世界の到来を期待している。
広大なオープンワールドで行われる自由度の高いゲーム体験は先日行われたベータテストの盛況ぶりから察するに大成功だった。
だが、数分間ゲームが不安定になり、アレクと共にこのゲームを遊んでいた筈のイグニスの記憶が消失した。
「……よし」
年頃の少年としては長くなってきた赤髪を掻き上げ、アレクはすうと息を吐き出す。
エンゲイト・オンライン正式サービス開始まで残すところあと十分。
ギアはセットアップ済みで、ごちゃごちゃとした配線に引き摺られるようにベッドの上に転がしている。
彼はスマートフォンを机に置いて頭をすっぽりと覆うギアを被り、ダイブ中に首や肩が痛くならない特殊な形状をした専用枕に頭を預けた。
ギアの右側頭部にある電源ボタンを長押しするとシースルーディスプレイに起動プロセスが瞬く間に進行していき、メモリースロットに挿入してあったクライアントプログラムを自動認識した。
そしてディスプレイに「準備完了。音声コマンドで開始してください」と表示される。
「ダイブスタート」
アレクが言うと彼の意識は後ろ頭をグイッと引っ張られる感触に襲われ、期待と不安が入り混じる中、その意識は電子世界へと落ちていった。
どくん。どくん、どくん。
暗闇の中、アレクには自分の心臓の鼓動が聴診器を当てたかのようにはっきりと聞こえていた。
だが次第にそれは遠ざかっていき、耳が痛くなるような静寂が訪れる。
意識だけだった彼の存在に心臓があり、脳や頭が生まれ、胴体や手足と感覚が繋がっていく。
重力と光を感じて大きく息を吸うと古カビっぽい湿ったフレーバーが肺に広がり、それをふうっと吐き出した。
次に目をゆっくりと開くと著しく視力を失ってしまったかのようなぼやけた室内が飛び込んできた。
それは急速にピントが調節されていって世界の詳細が明らかになる。
「やあ! ボクの名前は『ゴートくん』気軽にゴートくんって呼んでねっ!」
アレクが天井の高い図書室を見渡していると背後から脱力しそうなほどに明るい女性の声が飛び込んできた。
アレクは振り返り、その縫いぐるみのような生物がオープンベータテストの時には存在しなかったことを確認して「あ、うん。よろしく」とゴートくんの差し出された前足を取り軽く握手を交わした。
「オープンベータテスト時のキャラクターネームとアバターデータを使用する?」
アレクがその時に使用していたアバターは高身長、細いが筋肉質の二枚目なキャラクターで、イグニスはそれを見て数十分の間「盛りすぎ」と笑い続けた。
確かにナヨナヨしている自分の容姿にはコンプレックスがあり、理想像を追い求めたことに違いはなかった。
だが、それは彼女も同じで、プラス10センチの高身長に豊満なバスト、くびれたウエストから続く丸みを帯びたヒップとグラビアアイドルのようなイグニスのアバターをアレクは反撃と言わんばかりに鼻で笑い返した。
それも思い出の一つで、もう二度と戻ってこないかもしれないという悲壮感がアレクの胸をきゅっと締め付ける。
「どうするー? めう」
「あ、ごめん。過去のデータそのまま使ってください」
「分かりましたー。めうっ」
ゴートくんは羽根ペンをどこからともなく取り出し、現実にもあるような白い上質紙を机の上から引っ張ってきてはその上にさらさらと文字を書き始める。
その行為自体にそれほど意味はなく、内部処理が行われているのだろうとアレクは考えた。
「さて、アレク・フェルナンド」
待っている間、数多くの蔵書をたたえる図書室をぼーっと眺めていたアレクを硝子の声色が不意打ちをかける。
その声の少女はアレクと同い年か少し下だろうか。
膝下まである純白のワンピースと煌めく銀色のロングヘア。
僅かに露出した肌はくすみがなく陶磁器のように滑らかで光を僅かに弾いている。
顔も十人が十人とも見惚れてしまいそうなこの世のものとは思えない美貌だが、不機嫌そうに口を真一文字に結び、透き通った銀球は何を思っているのか半分姿を隠したままだ。
「めう? キミはどこから来たのー?」
椅子の上に乗って作業をしていたゴートくんが軽やかに飛び降り、短い前足で銀の少女をちょいちょいと突いた。
「管理者システムコマンド。NPCA3242を一時的にディスコネクト」
「めうぅっ!?」
少女の無慈悲な言葉が閃光となり、ゴートくんはビクンと身を跳ねてそのまま床に突っ伏して沈黙してしまう。
それに何の思いも馳せることなく、銀の少女は何処かふて腐れたような顔でアレクをじっと見つめ「この数日間、私のほうでも探ってみましたが――」と瑞々しい上唇と下唇を離して語り出した。
「イグニスの記憶を持つ存在はやはり当アプリケーション『エンゲイト・オンライン』のゲームサーバーに保管されているようです。同様のケースが数件、報告が上がっていますが某国の圧力により、開発・運営会社は沈黙を保ったままのようです」
「警察は?」
「何件か告訴されていますが確固たる証拠がないため、サーバーの停止命令なども出ておらず野放しになっています」
「人が傷付けられたっていうのに……」
アレクは言い表しがたいほどの憤りを覚え、手を痛いくらいに握りしめる。
その感情を手近な物に向けて発散したかったが、それを実行に移したところで誰も得をしないので深呼吸して腹の奥底に押しとどめた。
「アレク。貴方はイグニスを救いたいと言いましたね。私は同じようにこの世界を壊そうと忍び寄る魔の手から救いたい。しかし、同じAI制御のオブジェクトにアクセスすることができても、プレイヤーたちには補助以上の干渉ができません。だから、貴方が必要なのです。理性と意思を持ち、数多くの試練に立ち向かうヒトの心が」
アレクは言い淀むことなく澄んだ声色で語られるそれを何処か遠い世界での出来事のように聞いていた。
幼さの残るサファイアで彼女の銀色に問うが、先以上の言葉は返ってこない。
彼はゲームの中では幾つもの世界を救い、数々の人間から好意を寄せられ英雄と称えられてきた。
だが、それはコンピューター相手での話であり、そのような淡い幻想はオンラインで多くのプレイヤーたちがひしめき合う中で水泡と帰す。
特別な人間は誰一人とて居ないのだと。
「グレイゴースト。それを言うのは僕で何人目?」
自分に特異性を見出せないアレクは冷えていく胸の内を曝け出した。
「七人目です。これを言うのも、貴方で最後」
グレイゴーストと呼ばれた少女は誰にも気が付かないほど僅かに唇を噛み、それが意味するところさえも知らないアレクに返した。
「そう。答えてくれてありがとう」
アレクが彼女へ微笑んで返す。
――どれだけ願っても僕は物語の主人公にはなれない。
彼はしばしの自傷にひたる。
イグニスたちと出会うことで少しずつ自己肯定感を得ていたが、長年染みついた陰鬱な感情は拭い去れそうになかった。
だからこそゲームという現実逃避の道具に頭の先までどっぷりと浸かり、良かれと思ってイグニスを招待したこのゲームで彼女が被害に遭ってしまい精神を病んでいた。
過去に起こった幾つもの事件、それにまつわる無数の言葉の刃が古傷を抉り、周囲から陰口を言われているように感じてしまう。
前以上に外出が難しかったが、イグニスやベルハルト、ザイスが居るであろう病院へ通うのは幾分か楽だった。
迷いは幾重にも喉に絡みついていたが、今はそれらを裁ち切って目の前のことに集中する。
「あと数分でサーバーがオープンします。そこで『現実世界と同じ姿のイグニス』を確保するのです。その後はこの中継世界まで連れて帰っていただければ、後のことは私がいたします。ですが、同時に私との約束を果たしていただきます」
「仮想世界を脅威となる者たちから守れ、だっけ」
「ええ」
「具体的には」
アレクの問いにグレイゴーストは尖った顎先を手で擦る素振りを見せ、一瞬だけ沈黙する。
そしてAIである彼女は必要ないはずの瞬きを何度か繰り返し、重々しく口を開いた。
「動きが全く分からないので推測の域を出ませんが、前回のクラッキングの発信元がファーポルトであるのが確かならば、恐らくこのフルダイブ技術『フラクタルライトエンジン』が目的でしょう。ですが、彼らもダイブ中は一人のプレイヤーです。貴方は彼らを見つけて目的を探り、それを妨害してください」
「そこまで分かっていながらどうして黙っているの?」
苛立ちを隠せないアレクから逃れるように銀の視線が板張りの床に落ちる。
「……弊社、アトラス社はありとあらゆる人の心を癒やすためこのフラクタルライトの世界に心血を注いで創ろうとしてきました。ですが、国内に理解者は出来ず、開発資金の追加も見込めずに開発は困窮を極めていました。そこに手を差し伸べたのがファーポルトの電子機器メーカーです。立場上、政界にも深く食い込んでる同国をそうそう批判は出来ないのですよ」
「だからって!」
アレクの腕が虚空を切る。
「まだ幼い貴方が気を病む必要はないのです。少しだけの手助けをしていただければ、後のことは全て私達がしますから」
凍り付いたグレイゴーストの表情がふっと緩み、姿形も似通って天使の微笑みを作り出した。
「……」
アレクは目の前の少女が時折人間らしいイントネーションで語ることもあり、命を吹き込まれた人形のような彼女に見惚れていた。
作り物のように美しい容姿ではあるが、そこには一人の女性としての自我が生まれ始めており、彼を狼狽えさせる。
彼女の柔らかそうな身体に触ってみたい。年頃の少年らしい性欲が腹の奥からズンと身体全体を突き上げた。
――この非常時に何を考えているんだ。僕ってヤツは。
少年は頭を左右にブルブルと振るい、煩悩を振り飛ばそうとしていた。
グレイゴーストはそんな彼の感情が理解できず「それはどういう行為なのですか? 後学のために理由を教えていただけると幸いなのですが」と無垢なる瞳で彼に問うた。
「気にしないで。よくあることだから」
勿論よくあることではないのは彼自身がよく知っているのだが、彼はAIに欲情するなんて自分くらいだろうなと失意と軽蔑の念を音も立てずに噛み殺す。
「間もなくゲームサーバーがオープンします。直ちに接続しますか?」
アレクの中で邪な思いがグルグルと巡っているとは露知らず、グレイゴーストが目の前に展開させていた空間描写型のキーボードを何度か叩いて彼にたずねる。
「そうして」
「分かりました。ユーザーを初期出現位置に転送――アレク、幸運を」
彼女がそう告げるとアレクを光の闇が音もなく覆い尽くし、彼はエンゲイトオンラインの世界へと生まれ落ちていった。