恩人との対面
やっと出会えました。
◇◇
見知らぬ場所に保護されてから三日、エルミーナは順調に回復していた。
まだ少しふらつくが部屋の中でならば歩けるようになり、湯浴みもさせてもらったし、食事も今朝から形のあるものに変わっている。
寝かされていた部屋はやはり客室で、寝室のほかに応接間、書斎、更には衣裳部屋に浴室まで続きで備えられた豪華な部屋だった。
ルシアは勿論、診察に来た女医もルシアの指示の元で身の回りの世話をしてくれる三人の侍女達も親切で、まるで王族の姫君を扱う様に大切にしてくれる。
何故、と聞いても微笑みで躱されるばかりで、却って不安が募った。
今の、故国を追放されて身分も財産も無いエルミーナに政治的な価値など無い。
若い娘で、それなりに見目好いのは解っているが、身分の無い娘では政略に使う事も出来ないだろう。
妾として囲うか、どこかに妾として売るという事ならばここまで丁重には扱われるはずが無い。
更に不審に思うのは侍女であるルシアを始めとした侍女達に、人間の姿が無い事だった。
全員が獣人だが、獣人、翼人など亜人と呼ばれる種族の者達は人間にあまり好意的ではなく、従って人間が支配する国にはあまり住んでいない。
好意的ではないだけではなく、彼らの殆どは人間より遥かに寿命が長く、魔力も強いために様々な面で不便である、という事もあるらしい。
ちなみにルシアも、二十四、五に見えてその実数百年の時を重ねているとかで、最初に聞いた時には驚いたがその落ち着きぶりを見ていれば納得出来た。
ともかく彼らは人間の国家においては傭兵として雇われていたり、犯罪奴隷として流れてくるもの程度、他には良い事では無いが違法な奴隷もいるというが、四人もの獣人を侍女や侍女として使う人間の貴族がいるのだろうかと疑問に思った。
彼女らは総じて明るく闊達で、奴隷ではなく仕事としてここで働いているのは明白だし、しかし詳細については聞いても教えられぬのだと言われる。
部屋の中で得られる情報は少なく、窓の外は美しい森が広がるばかりでやはり手掛かりがない。
自分を連れて来た者に会えれば、何かしら話を聞けるのだろうかと思い、二度目の食事の後にルシアに言ってみたが、もう少し体調が回復してから、と言われれば深追いも出来なかった。
手詰まりの状況の中でただ漠然と過ごすのは落ち着かなかったが、実際の所、庭に出ても良いと言われたのに、部屋から出て廊下の曲がり角まで歩く頃には眩暈を感じて部屋に戻る羽目になったので、今は回復に努める以外に出来る事が無い。
今も柔らかなソファに座って本を読みながら体に良いと言う香草茶を飲んでいるが、こんなにゆったりと過ごした事など物心ついてから殆ど覚えが無い。
風邪を引いた時だって寝台に寝たまま家庭教師に出された課題を全て済ませるまで眠らせて貰えなかったし、食事の時間は全て礼儀作法の訓練だった。
幼い頃の食事は毎回両脇に本を一冊ずつはさみ、頭には一冊載せて、どの本も落とさぬ様に食べろと言われる。
脇を常に締め、背筋を伸ばした基本の姿勢を叩き込むための訓練としては効率的だったが自然にそれが出来るようになるまで食事の味も解らない程大変だったし、その訓練に合格すると、王妃となった時、どの国の重鎮と食事をしても礼を失しないよう様々な国の作法を食事の度に学ばされた。
休息をとる時も何かしらの本、それも娯楽本は禁止の上、経済や歴史、各国の情勢について書かれた本を読むことを義務付けられ、純粋に休息をとれる事は殆どなかった。
大切な事だったとは思うし、決して無駄な事ではなかったが、陸路と船で片道二年掛かる国交のない小国のマナーを覚える分で食べられる植物の種類や屋外で身を護る術を覚えていれば、荒野をさまよった時の苦労はもう少し軽かったように思う。
そんな生活をしていたから昼食を終えた今もぼんやりとは出来ず、書棚の娯楽本を読むのも落ち着かないので学術的な本を選んで読んでいる。
この三日間で部屋に置かれていた娯楽本以外の本は既に読み終えてしまったので、侍女に頼んで書庫から借りてきてもらった植物の図鑑を荒野での記憶と照らし合わせながら読み進めていると、部屋を出ていたルシアが戻って来た。
「姫君、体調は如何ですか? あまり無理をなさってはいけませんよ」
幾度か名乗ろうとしたが、頑なに名乗りを聞こうとしないルシアに姫君と呼ばれる事にも随分慣れてきた、と思いながら頷く。
「問題無いわ。今なら廊下を曲がった先まで歩けそうよ」
微笑んで言えば、ルシアがにこりと笑った。
「ようございました。先程医師と相談してきたのですが、そろそろ主と面会しても構わない、との事ですの。主はいつでもお会い出来るとの事ですわ。如何なさいますか?」
告げられた言葉に目を見開く。
希望していたとはいえ、実際に会うとなれば少なからず不安が沸き上がるが、それでも会わないと言う選択肢は無かった。
「……わたくしも、いつでも問題ありません。厚遇のお礼を、お手紙ばかりではなく申し上げなくてはなりませんもの。出来るだけ早くお会いしたいわ」
胸中の不安は表情に出さぬまま、にこりと微笑んで返す。
「では、今からでもよろしゅうございますか?」
その言葉に頷くと、ルシアは頷いて背後に控える三人の侍女を振り返った。
「では、姫君のお支度を。レジアナはあちらに連絡して頂戴。そうね……一刻半後、応接室にお越しくださいと」
「かしこまりました。戻り次第お支度に加わらせていただきますね」
ルシアを除いた三人の侍女の中で一番年上の兎の獣人、レジアナがそう答えて部屋を出ていくと、エルミーナは残る三人に促されて衣裳部屋へ移動した。
衣裳部屋には沢山の服が所せましと掛けられていて、最初に見た時には驚いたもの。
女性の来客が不自由なく過ごせるよう用意されているものと説明されたが、あまりにも膨大な数だった。
エルミーナの寸法と年齢に合う物だけを表に出しているのだと聞いている服の山から、あまり華美ではないものを、と希望して、濃紺の絹に銀糸の刺繍が入った、すっきりとしたドレスを選んだ。
簡素に見えて布地も刺繍も値が張るものなのは解っているが、他のドレスも皆高価な物ばかりで、どれを選んでも大差無いのでせめて簡素の見えるものを、と思う。
ドレスが決まるとルシアの指導の元、侍女達の手で軽く湯浴みをさせられ、全身を丹念にマッサージした上で化粧を施される。
特に注文は付けずに鏡台の鏡に映る自分を見ている間に施されたのはあまり濃すぎない、元の顔立ちを生かした化粧でほっと安堵した。
「うふふ、姫君は元の顔立ちが整っておられますから、薄い化粧でも十分愛らしいですわね。いずれ夜会用のはっきりとした化粧が出来る日が楽しみですわ」
楽し気に言うルシアに侍女達も同意し、化粧が終わると今度は華やいだ声で髪型を吟味し、宝石をあれでもないこれでもないと取り替える。
着せ替え人形になった気分だが、公爵家では丁重ではあるが殆ど喋りもしない使用人達の手で父によって決められた服を選ぶ余地も無く着せられていただけだから、こうして笑い声を上げながら意見を取り入れられつつ着替えるのは初めてで、なんとも華やいだ気持ちになった。
未だ身の置き所も定かではない自分がこんな風に楽しんでも良いのだろうかと思いはしたが、初めて経験する楽しい作業に思わず笑みをこぼしながら身支度を終える。
身支度を終えてからしばし休憩して刻限が訪れると、続き間の応接室へ入り、柔らかなソファに腰を下ろした。
いよいよエルミーナをここに連れて来た者の目的が解ると思えば落ち着かず、それでも今までに叩き込まれた教育の成果を総動員して表面上の平静を保っていると、遂に扉が数度叩かれる。
扉を叩いたのは主本人ではないのか、取次に出たルシアと一言二言交わしてから先に部屋へ入って来た。
大柄で男らしい、寡黙な雰囲気を持つ青年は一見人間に見えたが良く見れば頭部に翡翠色のねじれた角が二本生えていて、彼もまた亜人なのだと知れる。
先に入って来た事で従者かと思ったが、装いからいて高位の貴族である事がうかがえた。
従者、侍従と言うより部下や側近ではないかと考え、これだけの身分ある人を側近として扱える身分に緊張が増す。
「姫君、主がお見えになりました」
こちらへ歩み寄ったルシアが緊張を和らげるように微笑んで言い、開いた扉の方へ恭しく頭を下げた。
同じく入って来た従者が頭を下げ、エルミーナもまた立ち上がると貴人を迎える淑女の礼を取る。
程なくして毛足の長い絨毯をゆっくりと踏む足音が響き、誰かが入って来たのが解った。
その足の運びや顔を上げずとも感じ取れる気配から、想像していたよりもはるかに身分の高い男性であると察したエルミーナは僅かに息を詰める。
婚約者である王太子や、その父である国王と初めて謁見した時でも、ここまでの重圧は感じなかった。
己がこれから対峙する者の正体を図り切れず、エルミーナの背筋に冷たい汗が流れる。
「面を上げてくれ、姫君」
ルシアと同じく古帝国語で発せられた声は纏う空気にそぐわぬ程若く、その事に驚きながらもエルミーナは動揺を表に出す事無く、ゆっくりと顔を上げて思わず息を呑んだ。
見上げた先に立っていたのは、エルミーナよりは年上であろうが、それでも二十代半ば、ルシアと同年代程と思われる、後ろで一つにまとめた長い黒髪に深い青の瞳の青年。
その若さよりも、身に纏う高貴な風格よりもなお、エルミーナを驚かせたのは彼の美しさだった。
これまで、婚約者であったレオナルドが、エルミーナの知る限りもっとも見目好い男性だった。
実際、近隣国にまで評判が流れる程の美男子で、その身分ばかりではなく、姿や自信にあふれた態度によって彼に憧れる令嬢の多さ故に、妬みを買ったエルミーナはよく辛い目にあっていた。
しかし、目の前に現れた青年はレオナルドを凌駕する、というよりも比べるのが失礼なほどの美貌でそこに立っている。
切れ長の双眸は僅かに眇められ、長く濃い睫毛に縁どられた深く清い湖の様な蒼い瞳には叡智の光が浮かんでいた。
眉は高名な絵師が精魂を込めて引いたように滑らかで、男らしく、それでいて太すぎない美しい稜線を描いている。
顔の中央を通る鼻筋はすっと真っ直ぐに引かれ、高い、しかし高すぎる事のない絶妙な隆起で顔を引き締めていた。
唇はやや薄めで、落ち着いた色味のそれは穏やかな弧を描き、笑みの形を作っていて、整いすぎてともすれば人形めいて見える美貌に、確かに血が通っているのだと確信させるぬくもりを与えている。
肌は純白の大理石に僅かに紅を溶かしたような色合いで、その透明感の高い肌を手に入れるためならば全てを引き換えに差し出す女性は幾らでもいるだろう。
それだけ整っていながらも決して女性的ではない、むしろ男らしい容貌に見える神々しい美貌を、引き締まった長身の体が完璧な釣り合いで以って引き立てていた。
「……姫君? 姫君、もしやまだ体調が悪いのか?」
予想だにしなかったその姿に叩き込まれたはずの王妃教育が飛んでしまう程に呆然としていたエルミーナは、その現実的ではない美しい切れ長の瞳と目線が交わっている事に気付いて狼狽する。
「あっ……い、いえ、回復しております。此度はわたくしをお救い頂いたとの事、心より御礼申し上げます……」
続けた口上にも動揺が顕わになっている自身に歯噛みしながらも、エルミーナは再び深々と頭を下げた。
その事でまばゆい程の美貌から目を反らす事ができ、ほっと安堵する。
「姫君、どうか顔を上げて欲しい。……ルシア、ユーグ、もう少し離れていろ」
何やら苦々しい声でルシアと、ユーグと言うらしい青年へ彼が命じると、聞き馴染んだ侍女の声がくすくすと笑う気配と共に二人そろって扉を開いたまま廊下へ下がるのが解り、エルミーナは内心で悲鳴を上げた。
こんなとてつもない美貌の主と、扉が開いているとは言え二人きりにされるなど心臓がもつ自信が無かった。
「……姫君。どうか顔を上げて楽にしてくれ。病み上りの貴女に負担を掛けたくない」
礼を取り続けるエルミーナに困ったような声が掛けられ、これ以上は失礼になると観念して顔を上げると勧められるままソファに腰を下ろす。
「…………私はレガートと言う。貴女の名を、伺っても良いだろうか」
対面するソファに彼が腰を下ろした所で妙な沈黙が落ち、居た堪れない気持ちがより強まった所で青年が名乗り、エルミーナの名を問うた。
「……エルミーナと申します。……家名はございません」
既に追放された身であるし、あの戻りたくも無い公爵家の名をこの青年に名乗るのは嫌で、エルミーナは名のみを告げる。
この青年に家名が無い事は有り得ないが、名乗らない以上何かしら事情があるのだろう。
遠い竜の国の王と同じその名は、竜に焦がれる人間の男性にはよく付けられるので、その名だけではどの国の貴族であるのか判別がし難かった。
「エルミーナ嬢……なんと美しい名だ。清楚な貴女にふさわしい……」
深い湖の様な蒼い目を細めた青年が陶然とした声で名を呼び、エルミーナは落ち着かない気持ちになる。
エルミーナとて、美貌で知られた母の娘であり、王太子妃として求められるに足る容姿であると客観的に知ってはいるのだが、それでも目の前に座る青年に比べれば太陽と路傍の石を比べる様なもの。
そんな相手に陶然と褒められても、どう反応すればよいのか解らなかった。
「……ありがとう存じます……あの、わたくしは身分を持たぬ身にございます。エルミーナ、とお呼び捨て下さいませ」
とりあえず礼を言い、もはや令嬢と呼ばれる身分で無い事を伝えた。
「……解った。エルミーナ。私の事もレガートと、敬称無しで呼んで欲しい」
「いえ、その様な非礼は……っ」
どう考えても公爵以上の階級であろう青年を、無位無冠のエルミーナが呼び捨てにするなど、本人が許しても従者に手打ちにされてしまう。
慌てて辞退すると、青年は残念そうにしながらも、そうか、と頷いて沈黙した。
あまり直視するのも非礼となる為、ほんの少しだけ俯きながらちらりと見上げた青年はやけに熱のこもった目でこちらを見るばかりで何も発さず、身の置き所が無い。
かといって明らかに高い身分の彼にこちらから話しかける事もできず、困惑しながら見上げると二人の目線がかちりと合わさり、途端に青い瞳が逸らされた。
一体どうしたのだろうと戸惑いながら待っていると、レガートは幾度か口を開いて何かを言おうとしては躊躇った末、意を決したようにエルミーナを見る。
「……その、エルミーナ。貴女に聞いて欲しい事がある」
お読みいただきありがとうございます。
評価、ブクマ、誤字報告、いつも本当にありがとうございます。
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作中のマナー訓練は大昔の世界不思〇発見か何かでハプスブルク王家の子供たちのマナー教育再現と言う事でミステリーを狩るお姉さんがやらされているのを見た記憶があり、そこから採用しました。
今までに何度もやってみましたが脇はともかく頭はものすごく難しいです。背筋を常に伸ばして脇を締める姿勢を完全に身に着けるための訓練なのかな、と思っています。
明日も13時に更新予定です。
もう一作品、悪役令嬢と猫のほのぼのした話を毎日更新中です。
よろしければ作品一覧からご覧ください。
よろしくお願いします。




