見知らぬ部屋で
◇◇
ふ、と意識が浮上し、エルミーナは瞼を震わせた。
未だ目は開かないが、背に当たる感触はここ数日の間に馴染んだものとなった固い土や細かい石の感触ではなく、寝ている間に柔らかな草の上にでも転がったのだろうかと訝しむ。
荒野の朝では間近に響き渡る鳥の声は幾分遠く、早朝の骨身に染み入る様な寒さも無い。
それを不思議に思いながらも、また一晩生き延びたのだと感じつつゆっくり瞼を開いた視界に広がるそれはあきらかに木立や空ではなかった。
「……天蓋…………?」
ぼんやりと呟きながら見上げたのは落ち着いた深い紺色の薄絹をたっぷりと使った天蓋で、計算されつくしたドレープが実に美しいし、布の端には金糸で繊細な花々の刺繍が施されていて豪奢かつ愛らしい。
薄布の外にはやはり濃紺に金の刺繍を施した分厚い天鵞絨が張り巡らされていて、光を遮断していた。
しかしそれと同時に、睡眠を邪魔しない足元にほんのわずかな隙間が開けられていて、その隙間から薄布越しの陽光が差し込み、天蓋の中を淡く照らしている。
夢でもみているのだろうかと訝しみ、瞼を幾度か瞬くが見慣れた木立が戻ってくる様子はなく、さては死んでしまったのやも知れないと思いながら更に見回すと枕や布団は白く柔らかな絹で、公爵家で育ったエルミーナから見ても最上級の物だと知れた。
自分の体を見下ろせば、明るい薄緑の夜着を纏っていて、髪にも肌にも汚れが無い。さらに言えば記憶にある大小の傷も見当たらない。
身を起こすと激しい空腹や眩暈は感じたが、それでも更に見回しながらそっと光が零れる隙間に顔を寄せ、薄布をそろそろとかきわけて外の様子を伺えば、そこは王宮でも見た事が無い程洗練された美しい部屋だった。
歴史と伝統を感じさせる重厚感はあるが、若い女性向けの部屋なのか色調は明るく、しかし軽薄にはならないすっきりと品のある華やかさで、猫足で揃えられた調度の細やかな装飾もいかめしさではなく愛らしさを感じさせる。
日々この部屋で暮らしている誰かの趣味嗜好を強く感じさせる部分は無く、寝台の傍の本棚に並ぶ本は世界中の第二言語として最も多く使われている古帝国語で書かれたものが殆ど。
分野も歴史書、神話や伝説、天文、各国の風物に関する書物に宝石や服飾に化粧の本、冒険譚、恋愛小説に旅行記などの気楽な娯楽本がある程度分類されつつも様々に並べられているから、やはり若い女性を泊める事を想定した客室なのだろう。
古帝国は千年の栄華を誇り、最盛期は世界の大半を支配した国だが文化や言葉を残して五百年も前に滅んでいて、会話だけならば庶民にも多く流布しているものの、読み書きとなればそもそも平民は自国の言語すら出来ぬ者が多く、古帝国語はそれなりの階級か商売などで必要とする者しか習得してないものだ。
その本がこれだけ置かれているという事は、教養として母国語以外に少なくとも古帝国語を読み書きできる階級の女性を想定しているに違いない。
見回せば寝台に程近い場所へ男性の部屋には置かれない美しい鏡台が置かれていて、その推測を確信に変えた。
それはともかくとして、何故、荒野で死にかけていた自分がこんな美しい部屋にいるのだろうと不思議に思う。
やはり死んでしまったのだろうかと思いながらも、置かれている本から情報を得るべく寝台から降りようとした所でへたりこんだ。
膝にまるで力が入らず、みっともない姿で立ち上がろうと努力していると、扉が控えめに叩かれる。
その音にはっと我に返り、身を隠す場所を探そうと思ったが、そもそも害意があるならこんな豪奢な部屋には置かないだろう。
まずは礼儀正しく対応を、と思ったがいかんせん腰が立たず、辛うじて寝台に手を掛け、体だけは起こした所でそっと扉が開かれた。
「……あら! 大変! お目覚めになられていたのですね。無理をなさってはいけませんよ。姫君はもう、三日も眠っておいでだったのですから」
寝台の脇に座り込むエルミーナを見出すなり目を真ん丸に開いたのは柔らかな栗色の巻き毛を持つおっとりとした雰囲気の女性で、柔らかな桃色のシンプルなドレスを纏った彼女の頭には一対の獣の耳が生えている。
エルミーナの故国には殆ど存在しない獣人の姿に驚きながらも、あまり直視しては失礼になると考えて目を耳から離した。
「あ、の……こ……っ、けほっ」
ここはどこかと問おうとした所で、乾ききっていた喉が痛みを訴える。
「ああ、喉が渇いておられるのですね。すぐお水を用意しますから、まずはカウチにお座りくださいませ」
貴族であればどの国の貴族でも使える古帝国語で話しかけながらエルミーナの傍に膝をつき、気遣わしげに背を撫でた女性が、ひょい、とエルミーナを抱き上げた。
「……! あ、おもっ……けふっ」
「ふふ、私ども獣人は人間よりずっと力が強うございますのよ。姫君ほどの重さならあと三人は軽く抱えられますわ」
慌てた声を上げて再び咳込むと、楽しげに笑った彼女は言葉通り軽々とエルミーナを優美なカウチに座らせ、手際よくクッションを集めて凭れさせると水差しを運んでくる。
「さ、お水を持ってまいりましたよ。胃に負担をかけないよう、少しだけ温めてありますわ。ご自分でお飲みになれますか? 難しい様でしたら、お手伝いいたしますわ」
優しい笑みに頷き、差し出された白磁のゴブレットを恐る恐る受け取った。
幸い落とす事無く受け取ると、ゆっくり傾ける。
「……美味しい……」
果実か花で優しい香りが付けてあるらしい水は、喉は勿論胃の腑まで染み渡る程美味しく、エルミーナは夢中でそれを飲み干した。
「ようございました。姫君、私はルシアと申します。御覧の通り虎の獣人で、ここで侍女として働いておりますの。ここには姫君を傷つける者はおりません。詳細は落ち着いてからご説明いたしますが、姫君はこの城に保護された身です。どうか、ご安心下さいませ。ああ、お名前はまだ、仰られないでください。主と面会した折に、改めてお名乗り下さいませ」
微笑みと共に告げられた言葉は信じ難く、エルミーナは言葉を失う。
あの状況のエルミーナを助けて、利益を得る者などいるはずがない、と思った所で、荒野での最後の記憶が蘇った。
「……あの、男の人……? 黒い髪の……」
記憶はあやふやだが、藪の中で死を待っていた時、突然若い男が現れて、とどめを刺しに来た追手か野盗と思った記憶がうっすらとある。
その後、何か話してから記憶が完全に途切れているから、もしかするとあの、顔も覚えていない男性がここに連れて来たのだろうかと思い至った。
「ああ! 覚えておいででしたのね。ふふ、そうですわ。その方が姫君をここにお連れになりましたのよ。姫君が目覚めたとお知らせしなくては。ああ、もちろん面会は落ち着いてからですわ。姫君はまず、胃に優しい食事を摂って体を休めましょう」
優しい言葉に戸惑いながらも、エルミーナは頷く。
自分が今どこにいるのかすら解らない状況は不安だったが、この弱り切った体で逃げられる筈も無いし、ルシアの優しさに嘘は感じられなかった。
まだ信用する事は出来ないが、それでも今は大人しく従おうと考えて勧められるまま二杯目の水をゆっくりと飲む。
その間にルシアが呼び鈴で侍女を呼び、食事の支度を指示すると程なくして蓋をした皿が運ばれてきた。
透明感のある美しい白磁に赤と金で愛らしく花の縁取りを描いた深皿の中には、柔らかく煮込んだパン粥が暖かな湯気をふんわりとくゆらせながらよそわれている。
鶏肉や野菜らしき食欲をそそる香りに腹が大きな音を立て、顔が赤らんだ。
「すぐに毒見を済ませますわね。ああ、そんなに恥ずかしがることはありませんわ。三日間、具の無いスープを口に流し込む事しか出来なかったのですもの」
微笑んだルシアが皿の中から一匙取って口に含み、しばし確認してから飲み下すと皿をエルミーナの前へ置いた。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ。胃の腑が弱っておいでですから、柔らかいパン粥ですが少しずつ、しっかりと噛んでから飲み込んでくださいませ」
「ありがとう……」
久々に嗅ぐ人間らしい食べ物の匂いにごくりと喉を鳴らしながらも、体に叩き込まれた礼儀作法を必死に呼び起こして出来得る限り優雅な所作で匙を取る。
背筋をぴんと伸ばし、脇を締め、頭を傾ける事の無いよう注意を払いながら滴り落ちない程度の量で掬い上げた粥を口に運んだ。
「…………っ……!」
途端に口の中に広がる豊かな味わいに、思わず体が震える。
溶け崩れた柔らかいパン以外の具は感じられないが、スープの中には鶏肉や様々な野菜、柔らかな香りの香草の滋味がたっぷりと溶けだしていて、しかし長く食べ物を得ていない口に合うよう、そして胃に負担をかけないよう、味付けはかなり控えめにほどこされていた。
たった一匙分のそれをゆっくりと咀嚼する間、エルミーナは思わず目を閉じる。
何日もさまよい、流れる水と吐き出さない程度の味でしかない木の実ばかり食べて来た生活に慣れ始めていた身に染みわたる様な美味に、目頭が熱くなった。
それが零れ落ちそうになった所で、不意に、死を覚悟した時に感じた事を思い出し、慌てて気を引き締める。
悔しさに泣くのではなく、美味と命を拾った事への喜びで泣くのなら良いのではないかとも思ったが、それでも今、涙を零せば張り詰めた心が折れてしまうのではないかと思うと恐ろしかった。
保護されていると言われていても、ここにいる者達が、救ってくれたというあの黒髪の人が敵では無いとしても、エルミーナが今この世で一人きり、誰にも頼ることの出来ない身の上である事に違いはない。
追放される前のエルミーナであればきっと泣いてしまった。
泣いて、優しいルシアや助けてくれたという男に縋ろうとしただろう。
だが、あの荒野を数日生き抜いた経験が、エルミーナに誰かに頼ることなく、己自身の力で生き抜こうという気概を与えた。
その心を折らないためには、やはり泣いてはいけないのだと思う。
ここにいる者達が敵ではないのなら、それに縋るのではなく、自分の価値を示し、なんらかの寄与を果たす事で生きる道を探さねばならない。
あのまま死なずに済んだのだから、石にしがみついてでも生き延びねば、と強く思う。
きっとエルミーナを追放した彼らは、エルミーナがとうの昔に荒野で死んだと思っているだろう。
身分を失い、王都に入る事すら許されぬエルミーナが王宮の奥深くに住む彼らに復讐する事はどうあがいても無理だろうが、彼らの知らない場所で生き延び、幸せになる事ならきっと出来るはずだ。
幸い様々な教育は嫌になる程叩き込まれているから、なにがしかの手段で力を手に入れ、いずれ、何十年掛かろうとも、どの様な形であろうとも、いつか一矢報いてやればいい。
そのためにはまず、体を回復させねば、と思いながら再びパン粥を口に運ぶ。
一見簡素に見えて上等な素材のみを使って作られた粥は染みわたる程に美味で、一口食べるごとに心身に染み渡る。
公爵家にいた時に日常出されていた食事は栄養素以外考えられていない味気ない料理……パンと野菜のスープ、チーズに何かしらの肉料理が一品、稀に果物が付く程度、という、庶民から見ればそれなりに豪勢だが、貴族、それも公爵家の令嬢が食べる物としては首を傾げるような料理だったから比べ物にならないが、宮殿の晩餐や昼餐で気を張りながら食べた、贅を凝らした料理よりもずっと美味しく感じる事を不思議に思いながら、エルミーナはあたたかな粥をゆっくりと飲み込んだ。
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