溶けていく心
これまでの人生で、エルミーナの事をこれほど真剣に考えてくれた者などいない。
全てを一方的に決定され、それに従わないなどと、父も元婚約者も、その親も、使用人たちすら思ってはいなかった。
それに逆らったとて聞き入れられもしないのは解っていたし、それだけの気力も無いまま従っていたエルミーナも悪い。
だが、彼らにとってのエルミーナは自分自身の意思を持たぬ、手間と金のかかった人形でしかなかった。
何か辛い事があった時、厳しい王妃教育に心折れ掛けた時、目の前でふしだらなほどに触れ合う元婚約者と義妹を見て深く傷付いた時、……大勢の前で断罪され、罵倒されながら荒野に捨てられた時。
そんな時にすら、エルミーナの心を気遣ってくれる者はいなかった。
人に優しくすれば優しくされるのだと書物で読み、屋敷や王宮の使用人、護衛の騎士、皆に出来得る限り礼儀正しく、親切に振舞ってもそれは変わらなかった。
常に気を休める事は許されず、血のにじむような努力をして習得した事でも、それが当然と言われて褒められる事すら無かった。
押し付けられた仕事を必死にこなし、早く終わらせると、ならばもっとこなせるだろうと仕事の量が増やされる。
愛想が無いと言われて努めて笑顔を見せる様にしていれば、余裕があるのだろうと言われて教育の時間や仕事が増え、断罪の前は眠る時間を削りに削ってどうにかこなせるほどの量になっていたが、それで少しでも遅れてしまえば出来が悪いと眉を顰められた。
これ以上は無理だと声を上げれば王太子妃失格とささやかれ、父や国王、王太子に呼び出されて数時間にわたる叱責を与えられ、ミルカには嘲笑された。
それでも荒野の彷徨に比べれば随分ましで、あの時は復讐を望むと同時に時を戻せるならば戻りたいと思っていたが、こうして竜の国で暮らし、エルミーナを人間として、生き物として扱ってくれる人々と暮らしていれば、あの生活が異常だったのだと、断罪されずとも遠からず倒れて死んでいたに違いないと良く解る。
疲弊しきっていた心と体が回復した今、レガートが向けてくれる感情がどれ程温かく、優しく、有難い物か、日を追うごと、言葉を交わすごとに、心身に沁み込むように深く感じた。
誰も認めてくれなかった自分の事を真っ直ぐに受け止め、考え、己の望みや希望を抑えてエルミーナが望む様に生きてよいと、そう言ってくれる人を、あの地獄のような環境から救い出してくれた人を、どうして愛さずにいられようか。
「……わたくし……レガート様の番として生れてくる事が出来て…………本当に、幸せです。その、わ、わたくし……わたくしも、レガート様を……お、お慕いしております……」
まだほんの少し、いや、かなりの部分で、この感情が依存では無いかと恐れる気持ちがある。
まだ、この国で己の立ち位置を確立したとも到底言えない。
それでも、心の奥底から湧き上がる想いが言葉として零れ出る事を、止める事は出来なかった。
今まで一度もした事のない、胸の内の感情を素直に伝える行為は酷く恥ずかしく思えたが、それでも真摯な想いを向けてくれる人に、そして自分もまた、愛してしまった人に向ける言葉を、惜しんではならないと、そう思う。
それでも、愛しています、とはっきり告げるにはまだ気恥しいし、己で決めた結果を出していない事に気後れしてしまった末に選んだ言葉を躊躇いがちに差し出したエルミーナは羞恥に俯き、そしてあまりの反応の無さに恐る恐る目を上げた。
「……………………っ」
見上げた先では湖の様な深い青の瞳が見開かれ、まじまじとエルミーナを見下ろしている。
その瞳が嵌る美しい顔はこれまで見た事が無い程に赤く染まり、僅かに開いた、鋭い牙が覗く唇がわなないていた。
言葉が無くともその心を如実に表したその表情に、エルミーナもまた頬を飾る色を深めて再び俯く。
「っ……抱き締めても、良いだろうか……?」
微かに震える声で囁かれ、逡巡したのち小さく頷くと、長い腕が壊れものを扱う様にそっとエルミーナを抱きよせた。
最初の顔合わせ以来、慎ましくありたいエルミーナに合わせて、抱き締めたり手や指先以外への口付けはしてこなかったレガートの体温に久々に包まれ、その温かさと心地よさに息を呑む。
「愛している……エルミーナ…………」
熱を帯びた囁きが耳元を掠め、ぞくぞくと背筋がうずくのを感じながら目を閉じて広い胸に額を押し当てた。
ただこうして腕の中で守られているのは酷く安らぎ、心地よい。
このまま目を閉ざし、復讐も立身も考える事無く穏やかに生きていくのは、さぞ幸せだろう。
この過酷な世界で生きていくには無力にすぎる女であり、守られる立場にあって当然とみなされる貴族の令嬢であれば誰もそれを非難する事も無いだろう。
それでも、ただ守られるだけの存在になりたくないと思う。
勿論物理的にレガートを守るにはエルミーナは弱すぎるが、出来る事が無いわけでは無いのだと、この一月で僅かながら見えて来たものもあった。
なればこそ、この魅力的に過ぎる場所に縋ってばかりいてはいけない、と心を引き締めながらも同時にこうして大切にしてくれるレガートを、自分の意地の為に突き放してはいけないとも思う。
相反する二つの願いを必ず両立させる、と胸に誓いながら、エルミーナはそっと両手をレガートの背に回した。
ただ抱き締められ、守られるだけではなく自らもレガートを守り、支えたいという想いをその手に籠める。
「わたくし、必ずお役に立てるようになります。レガート様に守っていただくばかりではなく、わたくしも、レガート様を支え、お守りしたい……」
きっと常よりも早くなっているのだろう鼓動を感じながら、エルミーナは熱を帯びた声音で囁く。
力無き身には恐れ多い望みだとは思うが、初めて愛しいと思った人に守られるだけではなく、守りたいと思うのもまた自然な心の動きなのだろう。
「何もせずとも、傍に居られるだけで私の心は貴女に支えられ、守られているが……きっとそれだけではないのだろうな」
微かな笑みを含んだ囁きが返され、かすめるようにその唇が額に触れた。
「ええ。……わたくし、どうやら性格が悪いだけではなく強欲だった様ですわ。ただ、あなたの傍に居て守られているだけでは、満足出来ません。……それでも、わたくしの存在が何がしかの被害を及ぼすとお思いになった時は、レガート様の望む様に閉じ込めて下さいませ」
閉じ込められてしまうのはやはり嫌だが、周囲に被害を為してまで叶えるべきではないという理性に従って覚悟を示すと青い瞳が笑みの形に眇められ、頷きが返される。
「エルミーナ。貴女がこの一ヶ月をどの様に過ごしたのかはつぶさに報告を受けているし、貴女自身からの話も聞いている。貴女であれば、過ちを犯す事はないだろうと私は思うし……万が一道を誤った時には、早いうちに話し合って修正すればいい。……閉じ込めて私だけのものにしたいと思うのは本心だが……それでエルミーナの強さや心が損なわれるのも、私は嫌だよ」
その言葉に深く感謝しながら、エルミーナは頬を撫でる手にそっと自らの手を添えてレガートを見上げた。
「レガート様の御期待に応えられる様、決して己を見失わぬ様、肝に銘じますわ。……それなりに厳しい教育を受けてまいりましたが、竜の叡智に比べれば赤子の様な物。わたくしも精進いたしますが、道を過たぬ様、これからもレガート様と共に歩んで行ける様、どうかお導き下さいませ……」
嘘偽りのない気持ちを伝え、最初は真摯に引き締めていた顔を最後の言葉とともにやわらげて微笑む。
以前のエルミーナであれば、こんな時には最後まで真面目な顔を崩さなかっただろうが、今は優しい瞳と見つめ合いながら笑みをこぼさずにいる事が難しかった。
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