荒野にて
宜しくお願いします。
◇◇
「エルミーナ・メルヴァ! 貴様との婚約は今宵を以って破棄する! この事は既に国王陛下たる我が父、そして貴様の父も了承の上だ。我が愛しのミルカ・ニースを虐げた罪、許されるものではないぞ!」
脳裏に焼き付いたその言葉が、ぼやけた意識の中で強く響く。
その寸前まで婚約者であった筈のランドル王国王太子、レオナルドから突き付けられた言葉とその後に続く罪状はエルミーナにとってまるで身に覚えの無いもので、必死に弁明したがそれを聞き入れられることは無かった。
愛されていない事は解っていたが、それでも、と縋るように両親を見ても、母は最近気に入りの愛人をうっとりと見上げていてエルミーナにはひとかけらの関心も示していなかったし、父は汚物を見る様な目でエルミーナを睨んだ上、王太子に腰を抱かれた男爵令嬢、ミルカを公爵家の養子に迎えると宣言した。
近隣諸国の中でも抜きん出た美男子と称賛される、蜜のごとき金の髪に青い瞳の王太子と、彼に寄り添うピンクブロンドと緑の瞳の砂糖菓子の様な甘く蕩ける愛らしい令嬢。
一対の陶器人形の様な美しい二人の前で、陽だまりのような暖かな色彩の彼らとは対照的な冷たい銀の髪に紫の瞳を持つエルミーナは呆然と立ち竦むしかなかった。
もともと父にとってのエルミーナの価値は王太子妃になり、ゆくゆくは王妃に、そして父の血を引いた次の王を生む、という物でしかない。
ミルカが平民のメイドであった父の愛人を、寄り子の更に寄り子であるニース男爵に身重のまま下げ渡した末に生まれた娘、つまり異母妹だという事は公然の秘密だった。
ミルカに対しても愛情など抱いていない父は結局自分の血を継ぐ娘が次の王を生み、権力を高められればそれで良く、その為にはこれまで厳しすぎる程の王妃教育に耐えたが王太子に愛されていない、知恵を付けて扱いにくい娘より、品位も教養も無くとも王太子に愛され、扱いやすい娘の方が良かったのだろう。
結局誰の助けも得る事は出来ないまま広間から引きずり出され、一旦牢に押し込められたエルミーナは更にそこから着の身着のままで馬車に乗せられ、ミルカの取り巻きの男たちに繰り返し罵倒されながら連れ回された末に宝飾品やドレスの宝石をむしり取られて、王都の外に広がる荒野に蹴落とされた。
夜の荒野に手ぶらで捨てられてから既に四日。
幸い純潔を奪われるような事は無かったし、蹴落とされた時は奇跡的に擦過傷のみで済んだが、正直な所、今自分が生きているのが不思議だった。
水は運良く小川を見付け、そこで手に入れられた。
人差し指の半ば程の深さしかない小川の周りには貧弱だが木立があって、そこで木の実は幾つか見つけたがどれが食べられるものか解らない。
恐る恐る口に入れては渋さや硬さに吐き出し、ごくわずかな物だけが吐き出さずに飲み込めたものの、到底腹を満たすに足りる量ではなかった。
かつてはこの辺りも肥沃な森が広がっていたと言うが、数百年に渡り王都の人々が使う薪や木材を伐採し続けた結果、今は荒野となってしまっている。
植林を進める計画もあったそうだが、薪や木材が近隣の町や遠方から運ばれる様になり、値上がりしてからは若木を植えても警備の目を掻い潜って引き抜く者が続出し、更には魔石を使って火を起こす道具がある程度安価に作れるようになった為に木材はともかく薪は必要なくなり、頓挫してしまった。
薪をさして必要としなくなった王都の民は木材にするには貧弱すぎる荒野の木々に手を出さなくなったが、それでも一部の貧民は近隣の木々を育つ端から切り取っていくので荒野が森に戻る日はまだ遠いだろう。
もしここが森のままであれば、獣の危険はあれども食料は今よりも手に入ったろうに、と虚しい事を、人や動物の目を避けて潜り込んだ灌木の繁みの中で仰臥したままぼんやりと考える。
野獣は恐ろしいが、今は獣よりも空腹の方がエルミーナの命を確実に脅かしていた。
捨てられた場所は城壁からかなり離れていて遠目にうっすらと壁が見える程度だが、それでもこの近辺には定期的な騎士団の巡回が入るおかげであまり凶暴な獣や盗賊はいない。
しかしここを離れてしまえば狼や魔物の類、盗賊も多くいると聞くから離れる事も出来ず、小動物の足音にすら怯えながら三度の夜をやりすごした。
最初の夜は這いまわる虫のおぞましさに震え、逃げ惑ったが四日目にもなれば毒虫以外は気にする気力も尽きる。
無力な女の身で最も恐ろしいのは人間で、この辺りまで薪にする木材を採りに来る貧民の目を避けて、まだ動けた時は昼の間だけ木立を離れ、大岩の陰に隠れて過ごしていた。
王太子妃に、ひいては王妃となる娘として受けた厳しい教育はこの状況では何の役にも立たなかった。
それでもどうにか数日を生き延びたとはいえ、既に飢えと疲労で身動きすら出来ない。
父は勿論、贅沢な生活と愛人にしか興味の無い母からも放置されたまま、幼い頃から短い睡眠以外は全ての時間を厳しすぎる程の王妃教育に費やし、常に己を律し、耐えて来た人生を全て否定された悔しさと、エルミーナを捨てた者達への憎しみでどうにか四日間をやりすごしたが、それでももう限界だった。
朦朧とした意識の中で、過去の記憶が蘇る。
十歳ばかりの頃にはまだ親しくしてくれていた王太子を、家族の愛情も知らないエルミーナは縋るように愛していた。
それは依存だったのだとは思うが、それでもいずれ彼と結ばれれば自分には与えられなかった穏やかな家庭を築けるのではないかと、そう思っていたし気紛れに与えられる言葉は胸に刻み込まれ、辛くて折れそうな心を支えてくれた。
勿論、エルミーナ自身もレオナルドの支えになれるよう、決して寄りかかるばかりにはならないよう、必死に努力した。
しかし、結局彼は未来の王妃にふさわしい行動を心がけ、己を律していたエルミーナよりも、男爵家で、内密ではあれど寄り親たる公爵家の血を継ぐ娘として勘気に触れぬ様甘やかされて育った天真爛漫なミルカに心を惹かれ、同じ血を半分継ぎながら公爵令嬢として育ったエルミーナを憎む彼女に言われるまま断罪し、追放を命じた。
確かに公爵家は裕福だったが、父母に顧みられることの無かったエルミーナの生活は寂しいもので、ドレスや宝石は家格にふさわしい物を誂えられたがそれも家として出席する夜会、婚約者に会う時の衣装のみ。
自室には他愛ない飾り物一つ、花の一輪も無く、二間続きの広い部屋には飾り気の無い寝台と鏡台、学習や執務の為の厳めしい机とやはり学習に必要な書物だけが並ぶ本棚があるばかり。
年に二度程婚約者から贈られる新年と誕生日の祝いの花は唯一部屋に彩りを与えるものだったが、それが枯れてしまえばがらんとする部屋が寂しく、せめても、と庭の隅でこっそり摘んできた野の花はすぐに捨てられてしまったし、父に報告されてみすぼらしいものを飾るなと叱責された。
宝石や衣類の類は専用の部屋で管理されていたから使用する時以外では見る事も出来ず、必要な時以外は部屋を出る事も許されなかったから、婚約者と会う時や夜会、茶会以外は家庭教師達に教育を叩き込まれるか各種の自習を行うのみ。
食事も自室で一人きりで、沈黙の中で摂るのが常だった。
それに比べ、伝え聞いただけでも実母には可愛がられ、血の繋がらない父には寄り親の娘として腫れ物に触るように丁重に扱われ、様々な夜会に参加しては取り巻きの男性達を侍らせていたミルカの方が遥かに華やいだ生活をしていたのだが、彼女からすれば裕福な公爵家の暮らしを、そしてレオナルドの婚約者と言う地位をエルミーナのせいで得られなかった、エルミーナに全てを奪われたと言う事らしい。
二人だけになった時に投げつけられたその言葉に、代われる物なら立場を交換して欲しいとすら思ったが、それが叶う筈も無かった。
レオナルドとミルカの噂が流れ始めた頃に対処していればまだましだったのかもしれないが、いつも通り決められた茶会や夜会以外では外出も手紙のやりとりも許されないエルミーナに為す術はなく、天真爛漫に振舞って様々な夜会に出席し、高位の令息達と親密になったミルカの思う通りの噂が流されるのを見ているしか出来ないまま今に至る。
並べ立てられた罪状に心当たりはなく、むしろ殆ど軟禁状態だった自分が一体どうやればそんな事が出来るのか解らない様な物ばかり。
王宮での王妃教育や未来の王太子妃としての公務は勿論、王太子や父、果ては国王までもがエルミーナに押し付けてくる書類の処理が忙しく、入学以来数える程しか通っていない学園で存在しない取り巻きと共にミルカを毎日のようにいじめ、父の意向で上位伯爵家以上の家の催しにしか参加していないエルミーナが子爵家の茶会でドレスに紅茶をかけ、王太子の婚約者として飲み物の一口も摂れないままずっと壇上から動かなかった夜会で会場の片隅にある階段から突き落としたなどと、一体あの場所の誰が信じたのであろうかとつくづく思う。
勿論王も王妃も信じる筈はないが、それでも了承したのは彼らが溺愛する王太子の強い希望、高い権力を持ち、王を傀儡にしているとすら言われる父の横槍だろうか。
王妃教育に真面目に取り組んで知識を得たエルミーナより、男爵家で甘やかされて育ちはしたものの教養は低く、派手な安物と地味な高級品なら安物の方が高価と思っているから安上がりで扱いやすい、と父が以前言っていたから、そういった側面もあるのだろう。
そう思うのならばエルミーナも同じように育てれば良かったのにと思いもするが、エルミーナが幼い頃には父の権力も今ほどではなかったから、王太子の婚約者に選ばれる為に高い教育が必要だったのだろうか。
そんな大人達の身勝手で幼い頃から抑えつけられ、何一つ思うままにはならない暮らしを送って来た結末がこの身を焼く様な激しい飢えと絶望なのなら、神は余程エルミーナを嫌いなのだろう。
大人しく従順な、いつも微笑んでいる娘と周囲に評されてはいたし、抑圧されていたとは言え強く誰かを憎んだりした事は無かったが、エルミーナとてこんな仕打ちを受けて誰も恨まずにいられる様な聖女では無かった。
飢えを凌駕するほどの強い憤りに、ぎりぎりと歯が鳴り、既に傷だらけになっている指先で固い地面に爪を立てる。
怒りと屈辱、死への恐怖、誰の救いも得られなかった事への苦しみや孤独感、己の不甲斐なさ、他のあらゆる感情が暖かな水となって目尻を湿したが、歯を食いしばってその雫が零れぬよう堪えた。
泣きたくない。
小さく胸の内で呻く。
泣けば心まで負けてしまう様な気がして、必死に堪えた。
エルミーナがここで泣こうが泣くまいが、エルミーナを虐げ、不要物として投げ捨てた者達には一かけらの影響さえ与えはしない。
それでも、短い人生の最後の涙を彼らの為に流すのは嫌だった。
必死に歯を食いしばっているうち、体力の限界が訪れてその力が緩む。
幸いにして涙は既に引っ込んでいて、その事にぼんやり安堵しながら掠れた呻き声を零して天を見上げた。
木の葉に縁どられた小さな空は薄い雲に覆われていて、刺すような日差しからエルミーナを守ってくれている。
たったそれだけの、エルミーナ只一人に与えられているわけでもない天の慈悲が無性に心に染み込んだ。
多分もう、このまま起き上がる事は出来ないだろう。
僅かに手を上げる事すら億劫な体を抱えたまま、エルミーナは迫りくる死の恐怖にただ唇を震わせた。
お読みいただきありがとうございます。
大半書き終わっていますがあと少し残っているので追いつくまでに完結させておく予定です。
三作目でちょっと慣れてきたので割と好きな様に書いています。
毎日13時更新予定。
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