前世の記憶がカムバック!
ごきげんよう。
アリスティア・クランベルス、5歳。
エストリオ王国、クランベルス辺境伯家の長女です。
突然ですが前世の記憶というものが生えました。
階段を踏み外しまして、ええ。
あぁなるほど頭を打ったのかと思ったそこのあなた、残念。
打ち付けたのは、膝小僧でした。
足を踏み外してゴツン!
神経から脊髄、そして脳へと衝撃がピシャーン!
前世の記憶がカムバック!
なぜなの!
そこは頭をぶつけるところでしょう⁉
「アリス、大丈夫⁉」
ぶつけた膝がどうでもよくなる事態に頭を抱えていると、音を聞きつけたらしきお兄様が駆けつけた。
「大丈夫ですわ、お兄様」
お兄様を心配させないよう、何でもなかったようによそおう。
本当はちょっぴり大丈夫ではありませんけれども。
「それよりも、そのお姿をどうにかなさいませ」
髪はぼさぼさ、服も土埃で汚れ、その手には木剣が握られている。
自主鍛錬でもしていたのでしょう。
「いや、もうしばらく続けるからこのままでも……」
「ダメですわ。こまめに綺麗にしておかないと、後で困るのは洗濯や掃除をする使用人なのですよ?」
汚れは早いうちに落とすのが鉄則、と前世の記憶が早速訴えてくるのです。
それになにより。
お兄様は、亡きお母様にとてもよく似た美少年なのです!
一度だけ見た絵の中のお母様は、それはそれは綺麗な人だった。
新雪のような白銀の髪に、透き通った湖のような水色の瞳。
女神を描いたと言われても信じてしまいそうなほどだった。
そんなお兄様が!
キラキラと汗を輝かせて!
シャツが若干透けているのです!
目に毒ですわ!
まだ10歳だというのに色気を振りまかないでくださいませ!
……さすがにそんなことは口に出せませんけれど。
「わかったよ、アリス……【清めよ】」
苦笑したお兄様が詠唱省略で清めの基本系魔法を使う。
お兄様の周りで軽く風が起こり、スッと汚れが消えた。
「うーん、使いこなせるようになるのはまだまだ先かな」
「詠唱省略しておいて何をおっしゃってますの……」
魔法使いの中で詠唱省略ができるのは二割から三割ほどだといわれている。
今お兄様が使った清めの基本系魔法の詠唱は、本来なら【積もり積もった汚れを洗い流し、清めよ】という長ったらしいものだ。
それを【清めよ】の一言で発動してしまえるのだから、お兄様ってばもしかしなくても天才ね。
「母上は無詠唱で様々な魔法を使いこなしておられたそうだよ」
お兄様、年齢を考えて?
「では、お兄様が大人になられた時にはきっとお母様のような魔法使いになられるでしょうね!」
「そうであってほしいと、私も思うよ」
一応辺境伯家の後継ぎだからね、とお兄様はほほ笑んで頭をなでてくださった。
「さて、そろそろ私は戻るよ。足元には気を付けるように」
ばれてたのね、膝ごっつん。
「気を付けます。お兄様も、無理はなさいませんよう」
「ありがとう」
お兄様の後姿を見送り、今度は慎重に階段を登ってとある部屋に向かう。
扉の前で一度立ち止まり、ワンピースのポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。
開錠して扉を開けると、ほこりっぽい空気に迎えられる。
壁は全て本棚で埋め尽くされ、窓際に机が置かれているだけの殺風景な部屋だ。
「うーんと、これと、これと……あとこれと……」
選んだ本を机の上に積み重ねる。
といっても本はかなり希少、それほど冊数はない。
本棚だって本が並べられているのは半分ほどであり、残り半分には木を薄く切った板や叩いて平らにした木の内皮といった書写材が詰め込まれている。
羊皮紙?
高価なので公文書などにしか使えません。
植物紙?
使い物にならないくらい低品質なものしかありません。
これがいわゆる典型的な中世の文明レベルっていうものかしら?
領主邸の外に出たことはまだないから、なんともいえないけれど。
そんなことをつらつらと考えつつ、木の内皮を加工した書写材を一つかみ分引っ張り出す。
これもまた机の上に積み重ねる。
そして全体重をかけて椅子を曳き、おしとやかに座り……おしとやかに……おしとやか……。
「無理ね。よっこいしょ」
体格的な問題でしとやかさは放棄して椅子によじ登った。
誰もいないから、大丈夫よね?
それにここは別棟、建物内にもろくに人はいないもの。
本邸になら普通にいるんだけれど、ね。
そんなことより、今は調べものの方が先よ。
机の引き出しからインク瓶を取り出し、羽ペンと書写材を使いやすい位置に置く。
一番上に積んであった本を手に取り開いた。
私が選び出したのは、歴史や法律、政治などに関する本。
特に爵位や領地経営が絡む項目を重点的に読み込んでいく。
私は今5歳。
外に出たことはないし、ようやく字を覚えて本が読めるようになったばかりだ。
だから、何も知らなかったし、今の生活が当たり前だった。
でも私は、前世の記憶というものを手に入れた。
そして違和感を覚えた。
夢中でページをめくり、必要だと思われる箇所を拙いながらも書き出していく。
違和感を、確信へと変えていく。
「やっぱり。この家の現状は、おかしい」
結論を得た直後、集中力が切れた私はめまいに襲われて意識を手放した。