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66.少女の実家

「ただいま……」

「あら、こんな時間に誰かと思えば」

「あのねお母さん……」

「言わなくても分かってるわ。イリスにも大切な人ができたのね」

「えっ? 違う違う! この人はそういうのじゃなくて」

「まぁ良いわ。二人とも上がって」


イリスの実家へと招き入れられたレン。彼にとって女の子の家にお邪魔するのはいつ以来だろうか。最近、地元で姉貴の家に晩飯を食いに行ったが、姉貴を女の子として数えるのは如何なものだろうか……

とにかく姉貴以外の女の娘の家に上がるという機会はそうそう無いので、妙な緊張感を伴う。

イリスの実家はこじんまりとした間取りで、お世辞にも裕福とは程遠いものであった。しかしどこか家庭的で、優しい雰囲気を感じさせる空間だ。

余り物なのかどうかは知らないが、母親は二人分のスープを卓上へと差し出した。ほんのりと暖かいスープは微かに湯気を立てており、長旅を終えた彼女はあっという間に啜り終わる。遠慮しないでと彼女の母から視線を固定されるものだから、レンもスープを啜る。どこか懐かしい記憶を呼び起こす様な、野菜ベースの優しい味。イリスと母親の視線が集中するものだから、レンは急いでスープを飲み干す。

二人のカップが空になると、母はようやく本題を切り出した。


「彼がここに来たってことは、それと関係がある話で戻って来たのよね?」

「いや、あのね彼、レンがこの街に来たのは偶然で…… でも関係なくもないかも」

「そう、込み入ったことは聞かないわ。結論だけ教えてちょうだいイリス。この先も空を目指し続けるの」


ここからは暫しレンが口を挟める時間ではなさそうだ。イリスの決意をただただ黙って待つことしかできない。彼女の口が開いてから言葉が発せられるまでの刹那が永遠にも感じられる。彼女は膝の上で拳を強く締め、顔を引き締める。


「私は諦めたくない。まだ空を目指したい」

「なら、そうしなさい」

「でもお金が……」

「そうね厳しいわ。正直、今後は支援してあげられない。でも本気で夢を追うなら周りの目を無視してでも働くなり方法はあるはずよ」


彼女の堅い決意を耳にレンは一安心といったところか。しかし現実とは無情なもので資金面の問題は残ったままだ。母は働けば良いと簡単言い放ったものの、イリスにとってそれは容易な提案ではない。ほんの少し、周りと容姿が違うだけでイリスを働き手として受け入れてくれる場所は数を減らす。表向きは誰も差別的な発言や行動をしない社会でも、結局は何かと聞こえの良い理由をつけて彼らを避けようとする。

仮に彼女の受け入れ口があったとしても人を機材の様に扱う炭鉱だの、土木だの、それこそ体を売るぐらいしか道は無い。それは母だって知っている筈なのに、この提案はあまりにも酷なものである。

ならば発想の転換をしてみてはどうだろうかと、母がこんな事を言い始めた。


「それこそ彼のお嫁さんに行く、というのも一つの方法かもね」

「えぇぇっ? 俺の嫁に」

「嫌なの?」

「いえいえ、そういう話じゃなくて」


頬杖をついた母の不敵な笑みがレンへと向けられる。想像の斜め上をいく提案をあまりにも突然投げられたものだから彼もあたふたしてしまう。そんな少年を揶揄うように眺めながら、冗談だとフォローを差し伸べる母。

別に私はあなたの夢を止めるつもりはない、しかし金銭面でのサポートはもう出来ない。それだけは覚えておいて欲しい。母親の出した結論にイリスは静かに頷く。


「さて、都からの長旅に疲れたでしょ? 今日はもう寝なさい」

「えっでもお母さん、まだ話したいことがたくさん――」

「疲れたまま無理するとお肌に良くないわよ。お母さんみたいな美人さんになれないわよ」


そう言うと母は自分の頬を指で押し、肌が柔らかく指を跳ね返す様を見せる。以前イリスが自慢げに母は美人だと言っていたが、これには初対面のレンも頷ける。彼女はそそくさと自分の部屋へと性っていった。

ダイニングは歳も離れていれば種族も違う男女二人だけの空間となった。しかし改めてイリスの母を間近で見ると美しい顔立ちの人だと実感させられる。ふくよかな胸に、制服を着て学園に紛れ込んでいても違和感を感じない程の若々しさ。目の前にいるのは未亡人であって、そういった類の感情が湧くこともない筈なのに、レンにとっては何故か気まずい。


「じゃあ俺は帰っていいっすか?」

「ダメよ」


母、即答。やっぱりダメか。レンは想像していたが、彼女の母としても色々と聞きたいことはあるのだろう。それにまともな宿も無いような田舎で彼はどこに帰るというのだ。いずれにしても彼にとってイリスと学園に戻るにあたって、目の前の人とは話を付けておかなければならない。

先ずは念のためにと、恐る恐る確認しておく。


「二人で話ってまさか嫁入りとか、そういう類の話じゃないっすよね?」

「もう、そんなわけないじゃない。さっきのは冗談よ。それで、あの子は上手くやっていけてる?」


母はしっかりとレンの目を見つめ尋ねる。母が知りたいのはお世辞や濁した話では無く、普段近くにいる者だからこそ知っている彼女の在りのままであろう。

勝手に暴走してチームを解散させる程度には、上手い事やっていけている。

彼は包み隠さずイリスの現状を口にした。自分を良く見せようとするイリス本人の口からは絶対に語られないであろう話を偽りなく伝えた。その話を耳に、母は落胆するのかと思いきや以外にもそのような素振りは見せない。寧ろ話してくれてありがとう、とでも言いたげな優しい表情で彼の話を最後まで受け入れた。


「やはりトラウマみたいなものは簡単には消えないものね…… あなた、あの子からどれくらい話は聞いたの?」

「まぁ恐らく殆ど聞きましたよ」

「ごめんなさい。あなたにまで嫌な思いを追体験させるような真似をさせて」


母は謝りつつも、イリスの声に耳を傾けてくれたことに感謝しているとも付け加えた。次に語られたのは母の胸の内であった。


「本当はあの子を一人、都に送り出すのは心苦しかった。けど一日でも早く自立できるようになってほしい。すこし気が早いけど私が先にこの世を去ってしまえば、あの子は自分の身を自分で守らなければいけないでしょ」


その簡単な理屈は子供を持ったことの無いレンにとっても理解に容易いものである。


「他人の家庭に踏み入るつもりはありませんが、それでも言わせてもらって良いですか?」

「えぇあの子の為ならなんでも聞き入れるわ」

「もしかしたらお母様はイリスを見えない鎖で繋いでしまっているのかも知れません。故に彼女は未だに鎖をしがみ付いているのかも知れません」

「正直言うとね、私もあの子を呪縛するような存在に自分自身がなってしまっているとは思うの」


自分はイリスを縛り付けているかもしれない。しかし自分にはその縛りを解く手立てを持ち合わせていない。イリス自身の意志が無ければ抜け出すこと決してできない。

母は自分の行いを悔やむかのように少し俯き加減で思いを漏らした。自分が我が子に影響を与えすぎてしまった事を改めて実感したのだろうか。


「それこそイリスに大切な人、仲間ができ鎖を断ち切る事ができたなら…… 縛りから解き放たれた暁に、彼女がもうこの家に戻って来ないという選択をしても私は悔やまないわ」


最後の言葉を口にする頃には母親の綺麗な瞳に薄っすら涙が溜まっているようにも見えた。

神妙な話が続いたところで、母は席を立つとスープを飲み終え空になったカップを重ね合わせ、台所へと運び出す。そのままレンに背を向け家事をこなしつつ、彼と言葉を交わす。すっかり心の切り替えが完了したのか声のトーンが上がっていた。


「あの子、男女の秘め事とか慣れていないと思うから…… 大切にしてあげてね」

「いやいや、そんなつもりでは」

「あの子に対しては恋愛感情とか、男としての欲求を持てないと言うの?」

「いやいや、そんなつもりでは」

「じゃあ、どっちなの?」


イリス母、これはまた面倒な話題を掘り返してきたものだ。否定の言葉を返すたびに、攻め立てられるような言葉で返され行き詰るレン。優柔不断な彼に呆れたのか、気付くといつの間にか母親は説教のようなものを垂れ始める。


「はぁ。あなた女の子の一人や二人も幸せにしてあげられないの? それじゃあの子を任せられないじゃない」

「任せるとかそういうつもりは」

「そもそも、その歳して経験が無いとか恥ずかしく無いの?」


堂々と人のデリケートな事情に踏み入ってくるイリス母、意外と根性が座っている。イリスご自慢の優しくて賢明な母親像は何処に行ったのだろうか。早いところ話題を終わらせたいレンは適当に答えるが。


「いや別に……」

「私があなたくらいの歳の時には、あの子は私の乳を吸っていたわよ」

「へぇ…… そうですか」


おいおい待て『そうですか』じゃないだろ。レンは思わず内心に対し突っ込みを入れる。この人はいったい何歳なんだ……

レンがそんな事を考え始めると透かさず母が後ろを振り返り


「あっ今、私の歳を逆算しようとしたでしょ。失礼ね」


女の歳に探りを入れるなと忠告を差し入れる。この人には会話で勝てる気がしない、なかなかの手練れだ。


冗談交じりで母親から何度かイリスの事を託されたが、それは強ち本気で頼んでいるということはレンも承知していた。イリスの母も学園で夢を追い続けることを承諾してくれた。二人で、いや四人でまた空を目指そう。

翌朝、学園のある中央都市へ戻る為に窮屈な三等車に乗車したイリスとレン。空いているのに敢えてレンの横に座ったイリスは少し彼との距離を詰め、実家に別れを告げた。


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