2.桜と桜の兄妹 ~紫苑の失踪(5)
雅之が風呂から出て来たところを、待ち伏せする様に立っていたのは彼の兄、実親だった。
常の部屋着とはちがい、背広を着ていることから、彼が時間的に余裕があまり無いらしいことが分かり、雅之は小さく息を吐いた。
部屋着に着物を好んで着るのは、忠継と雅之で、実親はラフなカッターを二段目迄ボタンをはずして着ていることが多かった。そんな彼が、きちんとした背広を着ているときは、仕事に行く直前と帰った直前だけだ。
時間がない中で、それでも聞いておきたいことといったら、‥自分に心当たりは一つしかない。
「それで、彼はどこの誰なんだ? 」
「それとなく雅之に客人のことを聞いておいて? 西遠寺の縁者ってことは伏せてね」
とは忠継のお願いだ。
だけど、実親は長男に頼まれなくても聞くつもりだった。‥自分だって気になる。
実親の問いかけは、予想はしていたものだったが、(というか、むしろ予想通りだった)雅之はほんのちょっと眉を寄せた。しかし、その表情をすぐ常の笑顔に戻すと、「‥すみません」と謝った。
何を考えているのか、いつもテンプレの様に笑顔な表情からは、彼の考えは透けてこなかった。
実親は、この3つ年下の弟が少し苦手だった。
‥怒ってるのも見たことないし、表情がいつも変わらないし‥ちょっと不気味だ。
感情が表情に出やすいと、忠継によく注意される自分なんかより、「よっぽど雅之の方が家業に向いているんではないか」と思う。
‥それにしても、さっき雅之は何について謝った?
彼の素性が分からないってことか?
そんなことを考え少し首を傾げて弟の次の言葉を待つ。
「‥夕方には、私の家に連れて行きます。ちょっと散歩のつもりで歩いて出ましたし、二人とも濡れていたものですから‥」
雅之はここに紫苑を連れてきた理由を説明して、改めてもう一度詫びた。
私の家、というのは、紫苑が大学に行くために借りているアパートのことである。大学が家から遠いというわけではない。ただ、学校に実家の住所を知らせるのに問題があるだけのことだ。
雅之が謝ったのは、どうやら、自宅に友人を連れて来たことについてだったようだ。
‥ああ、そっちか。
そういえば、それも問題だったな。
そういうことに、咄嗟に気がいかなかった自分の迂闊さにも腹が立った。
だけど、それを表情に出さないようにだけ心がけた。
驚いていない振り、‥怒ってない振り、笑っていない振り。表面上だけでも、平静を装う。大学を卒業して家業を手伝ってからは、随分慣れて来たつもりだ。
‥にしても、雅之がここに人を連れて来るなんて初めてじゃないか?
ここは、雅之たちの実家である。
『職場』とも、『雅之の家』とも違う、家族のプライベートな空間である。そこに、誰とも知れないものを連れて来た自分の失態を、雅之は詫びている。
「場合が場合だったんだ? 仕方が無い」
雅之と、あの少年が濡れて帰って来たのは、実親も見ていた。
実親は、兄弟の中で一番人間味があって、優しい人間だったので、雅之は、「少し、家にあげてもいいでしょうか」と迷わず実親に、許可を求めた。実親にしてもたら、ずぶ濡れの弟と弟の友人らしい少年を追い返すなんて念頭にもなくて、そのまま了承して、部屋の用意をさせた。
優しく、素直で、自分を隠せない。そんな「家業」には不向きだけど人間味あふれる兄のことを、雅之はわりと気に入っていた。
逆に、表情が読めず、しかしながら確実に『したたか』だと分かる忠継は(自分と似たところがあるせいか)苦手だった。
同類相憐れむって奴だ。
だけど、忠継からしてみたら、別に雅之と自分が同類だなんて思っていない。
忠継から見た雅之は、多少人の表情をよむのが上手く、その場を切り抜ける機転がちょっと利くくらいの子供だ。そういうのは、末っ子に自然と身に付きやすい「よくある末っ子気質」であり、忠継が実親に求めている「表情に出さない」だとか「常によりよい対応が出来るように、冷静な判断を心がけろ」だの、「サービス業に必要なのは忍耐だ」が実践できているわけではない。
感情が表情に出ないのも、常に変わらない口調や、冷静な態度も、ただ、雅之が何に対しても興味関心を抱かないからというだけだ。
つまり実親は、実は何も持っていない弟に、嫉妬に近いわだかまりを抱えているのだった。
そんな風に、次男と三男は色々誤解やら理解が足りないところが多少あったのだが、長男だけは冷静にそんな二人を見ていた。
別にどちらが特別に可愛いとかは、無い。どちらが優秀だとかも、ない。
どちらも、まだまだだなあ。使えないなあ。
と思うだけ。
使えないながら、何とか使っていかないとなあ。
と思っているだけ。
「兄さん? 」
弟の「自分が気付かなかったことに対する謝罪」を耳にし、少し顔色が悪くなっていた実親(←やっぱりまた直ぐに表情に出ていた)を、雅之が心配そうにのぞき込む。
「え? いや‥入っていいと言ったのは私だしね。確かに普通だったら困るんだけど。直ぐには動く必要はない」
実親は、小さく息をつくと、にこりと微笑んで言った。
「それよりも‥。彼がどこの誰か分からない事の方が、私には気になるな。彼の紹介をまだ私は聞いていないのだが」
少し、兄として厳しい顔を見せる。
突如、雅之がはっとした様な顔をして、実親は「おや? 」という顔になる。
「すみません。‥忘れていました。私は‥ああ‥どうかしていたのかな。彼の事、そういえば何も知らないんです。名前も「紫苑」君としか」
「え? なんて? 」
‥つい、変な顔になった自覚がある。
「ええと、‥彼は、苗字は名乗りたくないのか、名前だけしか‥」
「いや、名前だけでもいい‥。(←あまりに驚いて自分が変なことを言っているのに気付いていない)で、何ていったっけ? 」
「紫苑君」
「‥‥‥」
‥なんと! ‥西遠寺家の本家の次男坊か?! 西遠寺の縁者どころじゃなくって、まさかの本家!?
咄嗟に大声を出さなかった自分を褒めてやりたい。‥顔が引きつりそうだ、頭痛‥急に頭痛がしたとでも誤魔化そう‥。
こめかみに、拳をあてて俯く。
‥西遠寺 紫苑。
西遠寺家本家の現当主の次男。
たしか、今年で18歳だったっけか? 幼いと思ってたら、未成年か‥。
‥なんか、いろいろヤバい。
兎に角セキュリティーを強化しよう‥。西遠寺のネットワークは侮れないからな‥。
‥いや、でもまさか‥本名を名乗ったりなんかするか?? でも‥ちょっと(ってか、だいぶ)頼りない感じだったし、雅之に心を許してるって感じだったから、咄嗟に名乗ってしまったって感じかな?? 苗字を名乗らなかったらいいかって感じ‥なのかな?? 馬鹿?? ちょっと‥まずい感じなの??
「兄さん‥どうかした? 」
きっと、自分ではわからなかったのだが、実親の顔色やら表情はえらいことになっていたのだろう。
雅之がまた心配そうに実親を見ていることからそれがわかった。
「いや? ‥変わった名前だなって思って」
実親が、小さく唾を飲みこんだ。
喉が痛い程、乾いている。
「いい名前だと思うけど」
雅之が首を傾げて不満そうな顔になる。
「はは、そう‥かな」
実親は、嫌な汗を背中にかくのを感じた。
誤魔化せただろうか?
自分がもどかしく、‥嫌になる。
そして、小さく深呼吸すると
「まあ、彼もつかれているだろうから、今日はここで泊まってもらったらどう? 外は雨が強い。お家の方に電話をするなら、電話をかけてあげて? 」
プライバシーの関係上、ここに他人が入る場合、入り口で総ての通信機器を預かることになっているから、現在紫苑は携帯を持っていない。だから、家に連絡をしようと思ったら、電話を使用しないといけない。
勿論、場所の特定ができない、特殊な電話だ。
出来る限り、平静を装って「今すべきであろう」対応を弟に告げた。
変に警戒させない。
家から出さない。
「家に電話をするか」と聞いて安心させ、かつ、紫苑(推定)の出方を見る(家出か、迷子かを確かめる)
「電話‥そうですね帰らないといけないですよね‥」
友達が帰ってしまうことに、ちょっと残念な気持ちになったらしい雅之が、消え入るような小声で呟いた。
こんな顔をする雅之は今まで見たことがない。
そのことに、実親は再び目を見開いた。
「わかりました‥」
‥弟は、彼が『何者か』少しも分かっていないし、彼も弟が誰かわかっていないようだ。
そして、常日頃何にも興味を持たない弟が彼に何かしらの興味を抱いたようだ。
そして、それは、家業に何ら関係が無いらしい。
友達になれそう。
多分、そう思ったのだろう。
話さずとも、事情が常とは違う家の『はみ出し者』同志、何か通じるものがあったってことだろうか‥。
出来れば、そっとしておいてあげたいな‥。
常より表情が豊かな弟を見ながら、そう思ったのは、でも、東館脇としてではなく、ただの雅之の兄としての意見でしかないのだった。