2.桜と桜の兄妹 ~紫苑の失踪(2)
「どうしたんですか? 」
にっこりと‥いや、違うな‥微かに笑ったって感じがする‥品のいい青年‥いや、青年かな‥? どうなんだろ‥が目の前に立っていたのは、だけど、突然のことだった。
気配がないってこういうのを言うんだろう。
総ての世俗から切り離されたような、その人が、僕を見た。
僕は、言葉を発することも忘れたみたいに、その人を見た。
その人が着ているのは、着物だった。だから、‥身内だって思って、咄嗟に逃げようとしたんだ。
西遠寺の人たちは、普段から着物を着ている人も多いからね。
でも、‥この顔は見覚えがない。
西遠寺の顔じゃない。あの、見るからに全員同じ血が通ってるよね、って感じるあの感覚がない。
冷たく、何処か拒絶されたような‥そんな感覚がない。
「迷子? 」
その人が僕を見下ろす。
僕の視線は、小さな岩の上に座っているので、その人よりだいぶ低い。でも、立ち上がったところで、多分、その人より低いだろう。
小さい子供を心配するような眼差しに、ちょっとムッとした。でも、あからさまに嫌悪感を抱いたわけではない。そういうのじゃなくって、ちょっと困った‥そんな感じだろうか。僕は立ち上がって首を振り、その人の正面に立った。
「お散歩ですか? ‥濡れてしまいますよ」
穏やかに微笑んで、手にしていた和傘の中に招き入れてくれる。
僕は、やっぱり黙ってそれに従う。近くなった距離に、自然とその人を見上げる。
何なんだ。声が出る気すらしない。こんな馬鹿みたいに、呆けたみたいにぼんやり顔を見たり、聞かれてるのに答えずに首を振ったり‥。
だけど、目の前の人物はそれを気にする様子はなかった。
ただ、穏やかに目を細めて僕を見ていた。
「名前をお聞きしても? 」
「紫苑」
驚く程、さらっと出た声に驚いたのは、だけど僕だけじゃなかった。
その人も、少し、ほんの少し目を見開いた。そして
「紫苑君ですね」
と、今度は華が咲くみたいにふわりと微笑んだ。
「さあ、こんなところに居たら、身体が冷えてしまいますよ。少し動きませんか? 」
そりゃあ、そうだな。
とも思う。
しっとりと湿った服が、冷たい。
さっきまでの朝霧は、今では霧吹きで吹いた様な雨に変わっていた。もう早朝だというのに、雨のせいで辺りは薄暗い。いつの間にか雨脚が大きく成って来た。
公園には他に誰もいない。普段は、散歩を楽しむ市民も多いであろうが、今は、ただしんと静まり返って、まるで森の中に迷い込んだような錯覚を覚えた。
公園というには、広すぎる公園。
ちょっとした川があって、林(?)がある。川には、欄干もない細い木の橋がかかっている。雨でも降れば、つるつる滑って危ないので、今日みたいに小雨が降っているときには、ここに散歩に来るものはいないだろう。足元も悪くなるし、細く繊細な樹々は、雨宿りには向いていない。
ざ、ざ、全く危なげなくない足取りで、草履を履いたその人は、歩く。僕の方が、時々ぬかるみに足を取られてふらついて、それをその人がさりげなく支えてくれた。
小川に降る雨が小さな波紋をつくり、りーんという細い音が辺りに響いている。
しとしとしとしと、りーん
それだけ。
そこは、ただ静かな空間だった。
見上げると、樹々の間に、真っ白な空が見えた。雲すら見えない、‥ただ真っ白な空。それを細い枝の樹々が取り囲んで、雨が上から上から降ってくる。
傘から出て、暫くその様子に見入った。
視界に、赤い和傘が入り、その人が僕の後ろに立ったことに気付いた。僕を傘に入れるために、その人が濡れたりしないだろうか。ふと、心配になった。
‥着物は洗濯が困難だし、‥なにより、風邪をひかせてはいけない。
そう思って、傘を断ろうとしたら、タオルを渡された、
濡れた自分の手に、その人の柔らかで温かい手が触れ、咄嗟に手を引っ込めた。
「濡れますよ‥」
僕がそういっても、その人は只穏やかに笑うばかり。またタオルを勧めてくれた。
「‥すみません」
手渡されたタオルを遠慮なく借りる、
ふんわりとして、なんだかいい匂いのするタオルだった。
これは‥お香だろうか? 柔軟剤やなんかの人工的な香りとは違う、優しい香りがして、いかにもこの世俗離れした持ち主に似合っていた。
一応は、僕も名家の子息という奴だ。危機感、とか常識なんて、掃いて捨てる程あるつもりだ。
考え得るだけの、『危機的状況』も頭に叩き込まれている。
だけど、‥その統べてが今の状況に一致しないように思えた。
この人は、本当に‥身内じゃないのだろうか。とすら思える。
兄だとかそういった親しい間柄の様な気安さをその人に感じた。
「帰るよ」
って言われても、何ら自然に頷けるくらい。
「そうだなあ。雨だしなあ。濡れるしなあ。仕方が無いなあ」
って。
だから、僕はその人の後ろをぽつりぽつりとついて行った。