センチメンタルになんかならない
自分の生活を客観的に考えると、聡美はイヤになった。
今日も、冷凍のブロッコリーとパックに入った五種の蒸し豆、味付きササミでサラダを作り新しく買ってきたノンオイルごまドレッシングをかけて食べた。
前使っていたごまドレッシングより今度のは酸味がやけに強くて、食後も不満足だった。
不満足な食事をすると、聡美は心にぽこっと穴があいて、後から後から食べてしまう。
何か食べてしまわないように、バイクに乗って出かけた。
お金を使わずに今日一日を過ごす為に図書館へ向かった。
図書館への道のりには二つのネズミ捕りスポットがある。
いずれもいかにも運転者が油断しそうな、のんびり道で、一時停止違反を見張っている。
一つ目のネズミ捕りスポットで注意深く一時停止をして、しばらく走り、二つ目のネズミ捕りスポットで先を行く乗用車が徐行も一時停止もせずに走り抜けるのを見て
「やられるぞ!」
聡美は思った。
が、サイレンもホイッスルの音もしない。
聡美はまたしても注意深く、一時停止線で停止してから、いつもくぼみに停まっているパトカーが今日は居ないのに気がついた。
さっき走り去った乗用車がお咎めなしだったのがなんだか理不尽に思える。
聡美がこの土地に引っ越してきたばかりの時、丁度ここでネズミ捕りに引っかかり、二点点数を引かれ、六千円払った。
それから気をつけるようになった聡美は、そこを通るたびキッチリ一時停止をし。
次々と引っかかっている、車や原付を横目で見て通り過ぎるのが、意地の悪い一つの楽しみになっていた。
なのに、今日に限ってパトカーは居ない。
図書館に着くと棚の間をブラブラして、前にも読んだことのある、虐待された子どものドキュメンタリーを手に取りカウンターに向かった。
聡美はこの手の本が大好きだ、あと、猟奇殺人調査官の話や殺人鬼の手記など。
似たような話で、いくら残酷な描写や恐ろしい殺人鬼が出てきても、フィクションではダメなのだ。
「本当にあった話」を興味津々と読む。
それらの本は「英米文学」「精神医学」のコーナーに沢山あるが、聡美はあらかた読み尽くしている。
今日は一年ほど前に読んだ、とりわけ酷い虐待を受けた少年の話を選んだ。
かなり分厚い本なので、一週間はもちそうだ。
駐輪場に向かうと、聡美の停めたバイクの隣に、後から無理矢理割り込んで、押し込み駐輪してあるママチャリに目がとまった。
母親が子どもを乗せようとしていた。
聡美は一歩下がった位置で、母親が子どもを自転車の後部に乗せ、ヘルメットをかぶらせ、出ていくのを待った。
出て行き際、母親は聡美に
「すいませーん。」と言った。
聡美はにっこり微笑んで、
「いえいえ、暑いのに大変ですね。」と言った。
母親は、
「本当にねえ。」と言って、やっと出て行った。
ベビーカーには道を譲る。
電車の中で子どもが騒いでも、微笑みかける。
しかし、聡美は子どもと、その母親が大っ嫌いだ。
聡美は、「優しい」「母性的」「明るい」「人をジャッジしない」などと友人に言われる。
言われる度に、聡美はその的外れな品評を心の中でせせら笑い。
聡美の普段の人に対する振る舞いが成功しているのだ、と優越感にひたる。
虐待に関して書かれている、多くの本。
被害者に寄り添い、虐待を行なったような人物が、なぜ発生するのか。
起こらないようにするのには、どうすればいいのか。
起こってしまったら、どうケアすればいいのか。
という体を表向きにして。
子どもから辛い告白をさせるために、それを思い出させ、根掘り葉掘り、聞き出している。
そのことを、聡美はいやらしい行為だとしていつも腹を立てている。
しかし、聡美は自分もそういう話を読むと心落ち着く、罪人の一人だということも認めている。
図書館からの帰り道、聡美のマンションのすぐ近く、田園風景の綺麗なお気に入りの道で一時停車した。
青々と育った稲をデジカメに収める。
さっきの図々しい自転車の母親の事も、これで忘れられそうだ。
バイクにまたがり、田園を左折するとサイレンが鳴り「そこのバイク左へ寄せなさい。」スピーカーからの声がした。
一時停止違反ということで、二点点数を引かれ、六千円徴収されることとなった。
「人もめったに歩かず、車も普段走ってない様な田んぼ道で、ネズミ捕りとはヒマだな。」
警官に心の中で言いながら、
実際の口は「申し訳ありません。」「以後気をつけます。」「お手数かけました。」を連発した。
六千円の出費は正直、聡美にとって激痛だ。
そして、マンションの近くが新しいネズミ捕りスポットとなったことを、聡美は心に刻み込んだ。
この出来事で聡美はイラだって、味付きササミ一本、0キロカロリーゼリーを二つ、貪り食べた。
食べ終わって煙草を吸っていると、聡美は急にだるくなって、ベッドに身を投げ出した。
借りてきた本に手を伸ばす前に、聡美は眠りに落ちた。
眠りながら聡美は、十年前自殺を図った時、重傷を負ったので、入院していた時に戻っていた。
自殺患者だということで、拘束帯で拘束されていた。
拘束帯には、何をどうやっても外すことの出来ない磁気錠がついている。
トイレに行きたいときは、ブザーを押して看護師を呼ぶのだが、看護師が特殊な鍵と車椅子を持ってくるまで、十五分だったらまだ早いほうだった。
聡美は尿意を覚えてから、三十分はガマンできる体質を、入院生活で身につけた。
拘束し続ける病院が、聡美を生かしたいのか、殺したいのか、聡美はわからなくなってきた。
そんな状態で二ヶ月経って、新しく同室になった右足先を切断したババアが、痛みを感じるとすぐに
「いたいよおー。いたいよおー。お母さんー。お母さんー。」
と喚くのに、聡美は瞬間的に耐え切れなくなって
「ぶっ殺すぞババア!」
実際にそう叫んで、聡美は目覚めた。
食べてすぐ眠ったからか、聡美の胃はムカムカしていた。
起き上がった時に、ストライプのショートパンツが血でヌメっているのに気づいた。
毎月の処理をして、ショートパンツを水に浸した。
ショーツはゴミ箱に放り込んだ。
別に悪夢ってほどじゃない。
現実に起きたことを、記憶がなぞっただけだ。
空はもう夕暮れになっていた。
寝覚めの一服を吸いながら、さて、と聡美は考えた。
やることがとにかくないので、聡美は困り果てて、もう一本タバコに火をつけた。
部屋は綺麗に片付いているし、ササミを食べた皿は洗い上げてある。
冷蔵庫には、ポットに入った冷えた麦茶と水出しコーヒー。
明日食べる、味付けササミと、冷凍ブロッコリー、五種の蒸豆のパック、0キロカロリーゼリー。
愛用している方のノンオイルドレッシング二本。
それらも買い足すことがないように、用意されている。
聡美は何年も、このメニューしか、自宅では食べていない。
太ることを異常に恐れているのだ。
食べるものに変化があるとしたら、ノンオイルドレッシングを変えてみて、後悔し、また元のノンオイルドレッシングに戻るというくらいだ。
とりあえずやることとして、夕方の分の精神科の薬を麦茶で飲んだ。
そのあとはひたすら、ボケっとしていた。
これじゃあ、ただ、生きてるだけじゃないか。
自分の生活を客観的に考えると、聡美はまたしてもイヤになった。
でも、また失敗して、拘束帯をつけられるのもなー。
それで聡美は、明日が十五日だということに意味を見出そうとした。
毎月十五日、聡美はある団体に寄付をしている。
私がどっか行ったら、寄付金が振り込めなくなって、あの団体が少しは困る事になる。
聡美は寄付していることを、誰にも明かしていないので、実際、聡美がどっか行ったら聡美がしている分の寄付は途絶えるだろう。
ボケっと考えながら、聡美は手持ちのカードがもう一枚あることに思い当たった。
思春期からの夢、というより夢想。
「刑務所に居る受刑者と文通する事。」
が現在進行形で、叶っているのだ。
聡美は思春期から
「受刑者と文通したい、でも、どうやって受刑者と知り合えるのだろう。」
と夢想していた。
殺人鬼に関する本を読むようになってからは、服役中、人気のある派手な殺人鬼は、沢山の手紙を貰う事を知った。
中には、手紙を通じて、獄中結婚したりしているのも居る。
さすがに結婚はしたくないが、受刑者と文通はしたい。
その願いは、コロっと叶った。
聡美の友人の男が、クスリで逮捕され、二年の刑をくらったのだ。
受刑者と文通をしたり、面会に行ったりすることは、スリリングで楽しいことだった。
その男と文通して、はや一年半、聡美が手紙を書くと、次の週の水曜の午後、必ず便箋七枚にギッチリと書かれた返事がもらえる。
便箋の右下にはブルーの検閲済みを記す印が押されていて、正真正銘の刑務所感が、たまらなく聡美を喜ばせ、満足させるのだ。
馬鹿な夢が叶った事は、聡美をどっかに行かせずすませている。
両手に大輪の花束、という訳でもなく、しょぼくれた感じがしないでもないが。
電話が鳴った。
付き合っている悟からだ。
もう、枯れてしまった聡美の花束。悟。
聡美は三日前に、悟に電話で、
「もう、家へ来ないで。」と言った。
遠まわしに「別れたい。」と言ったつもりだが、悟には「距離を取りましょう。」と捉えられているのだ。
だから、仕事が終わると、毎日悟は聡美に電話してくる。
「明後日の日曜日どうする?」
悟は言った。
悟は、週一回は聡美に会うつもりらしい。
聡美も断りきれない。
「上野の西洋美術館に行きたい。」
「今、美術館、何やってるの?」
「分からないけど、私はあそこの常設展が好きなの。」
「上野ならガンダム展がいいなあ。」
「私はガンダムを一度も見たことがないし、興味も無いの。」
「しょうがないなあ、じゃ西洋美術館でいいよ。
で、何時にする?」
お酒が絡む夜のデートを、聡美は避けたかった。
「十一時に公園口で。
私と一緒にお昼食べたい?」
「食べたい。
でもあそこらへん、コッテリした食いもんやしかないぞ。」
「回転寿司でも食べようよ。」
デートの約束をするスタート地点から、なんだか、噛み合っていない。
聡美は、これだったら、一人で美術館に行った方が楽しそう、と思う。
電話を切ったあと、日曜日、悟が聡美の部屋に持ち込んで、置いていったものを、いっそまとめて持って行って行こうかと考えていた。
DVD、本、マンガ、タオル、CD。
大した量ではないけれど、それを見た悟は、大した騒ぎを、上野の公園口で起こすかもしれない。
それを恐れて、聡美は悟の荷物を持っていくのを先延ばしにすることにした。
先週の日曜日、聡美のベッドで眠る悟を見て
「この人はどうしてここで寝てるんだろう。」唐突に思った。
それまで、どちらかというと聡美の方が熱烈だったのに。
付き合って丁度一年くらいだった。
憑き物が落ちたように、聡美の悟に対する思いは、綺麗さっぱりなくなっていた。
この人と、キスしたり、セックスしたりしていたのが、嘘みたいに、思える。
まるで見知らぬ男のように、悟のことが思える。
初めての経験だった。
聡美は男と付き合うと、相手にいつも振られていた。
振られたあとも、しばらく相手を思って苦しんできた。
日曜日のデートを気重に思いながら、聡美は自分自身にとまどった。
聡美は、自分がますます人間らしさを失っているのではなかろうかと恐れた。
このまま感情というものを失って、廃人になってしまうんじゃなかろうか。
恐れる気持ちで、その夜はよく眠れなかった。
日曜日、十一時十分前、聡美は上野の公園口から道路一本隔てた石段の上に座って悟を待った。
十一時丁度に悟はやってきた。
二人は公園口からそう遠くない回転寿司屋に入った。
お盆だからか、街全体も回転寿司屋も人はまばらだった。
二人は話らしい話もせず、黙りがちに寿司の皿を選んでは食べた。
聡美は三皿食べ終わると、熱いお茶を飲み、悟が食べ終わるのを待った。
悟は、終始伏し目だった。
特に楽しそうでもなかった。
これから起こること全てが、悪いことになる。そんな気がして、聡美は気分が晴れなかった。
そして、悪いことは起こるし、それは聡美が起こす。
西洋美術館まで二人は手を繋いで歩いた。
二人の、少なくとも聡美の心は繋がっていないのに。
美術館にはボルドー展が来ていた。
聡美はぼんやりと絵を観ながら、考えていた。
「美術館のいいところは。
ひんやりといつも涼しい所と、
口をきかなくていい所、
そして、騒ぐ子どもが居ない所。」
美術館自体も人はまばらだった。
ボルドーが来てるというのに。
夏休みの課題だろうか、ノートを持って何やら書き付けている、高校生らしき集団がいたことぐらいが目に付いただけ。
ボルドーを観ても、今の聡美の心は特に何も感じなかった。
いったん美術館を出て、喫煙所でタバコを吸いながら。
常設展を見るのはまた今度にしよう、ということで二人の話はまとまった。
膨大にあったボルドーの展示で、二人共疲れてしまったのだ。
こうして一緒に居ても、聡美の悟に対する思いが全く無いのを、聡美は再確認した。
悟が何を考えているかも分からない。
少なくとも、不機嫌そうではないのが聡美にとって救いだった。
「少し疲れたから、アイスコーヒーでも飲もうよ。」
聡美の提案に、悟は
「いいよー。」
と答えた。
その口ぶりから、悟がリラックスした心持ちであることを、聡美は汲み取ってホッとした。
少し歩いてルノアールに入った。
今度は、何となく手は繋がなかった。
喫煙可のテーブルにつき、聡美はアイスオレを頼み、悟はアイスコーヒーを頼んだ。
注文してから二人の前に飲み物が置かれるまで、二人は黙ったままだった。
「あの・・・・」
聡美が口を開くと
「別れたいんだろ。」
悟が遮った。
「俺は、聡美の俺に一生懸命なところが好きだ。
聡美と一緒に過ごす時間が好きだ。
ただ、お前の部屋でくつろぎすぎて、知らないうちに嫌な気持ちにさせていたら、謝る。
俺は、また、聡美と一緒に聡美の部屋でDVDを観たり、話をしたいんだ。」
悟は言葉を続けた。
「訳がわかんないんだよ。俺が何かしたか?一週間前の俺と、今の俺、どこも変わっていないのに、お前の態度は変わってく。
頼むから、俺を混乱させないでくれよ。」
「飽きたの。」
聡美は、我ながら酷い言葉だと思いながら、静かに言葉をぶつけた。
「え・・・・」
悟はしばらく、言葉を失った。
「飽きたって・・・・聡美、俺はオモチャじゃないんだ。
少しは、俺の心のことを考えてくれよ。」
「あなたの心の事を考えて、同情もとっくにしてる。
でも、もう私はあなたの事に興味が持てないし、好きでもないから。」
「俺のどこに飽きたんだよ。好きじゃなくなった理由をせめて教えろよ。」
「理由は・・・・無いよ。
気がついたら、好きじゃなくなってただけ。」
「他に好きな奴でも出来たのか。」
「好きな人なんて、誰ひとり居ないよ。」
「訳がわからなすぎるよ。
俺を納得させてくれよ。
あんなに俺に、夢中だったじゃないか。」
「そういうことも、あるよ。
部屋にある荷物どうする?」
「お前は人らしい心を持ってないよ。
荷物は後で送ってくれよ。」
「別にお互い嫌いになった訳じゃ無いから、これからも・・・・」
聡美のこの言葉が、何故か悟を一番不快にさせたらしい。
「お前なんかと付き合ってられるかよ。」
悟は静かに言うと、席を立って出て行った。
その背中を見ながら、聡美は言うべきことを言い残したことに気づいた。
(さよなら悟さん。)
その言葉を、心の中で呟くと、聡美は晴れやかな気持ちになった。
センチメンタルになんかならない。
そういうところが、
「人らしくない」のだろうか。
平坦な気持ちで、そんな事を考えながら聡美は帰りの電車に揺られていた。
少なくとも悟は悪くない。
傷つけてしまって悪かった。
帰ったら、悟の荷物をまとめて、シャワーでも浴びよう。
聡美は電車の中で予定を立て始めた。
聡美は聡美のマンションに到着し、いつものようにポストの中を覗いた。
一通の白い封書が入っていた。
ダイヤル式のポストの鍵を開け、封書を手に聡美は部屋に入るとクーラーをつけ、ペーパーナイフで封書を開けた。
手紙は聡美が寄付を続けているNPOからだった。
「拝啓、土田聡美様。
暑い日が続きますが、お元気でいらっしゃいますでしょうか。
当NPOは設立してから三年が経ち、同時に土田様からの、ご寄付も三年・・・・」
そこまで読むと、手紙の隙間から何かが、パサっと落ちた。
拾い上げてみると、ピンクの折り紙で折った「奴さん」だった。
奴さんの顔は緑のクレヨンでニッコリと描かれ、お腹のところには、幼い筆跡で「さとみちゃん」とオレンジのクレヨンで書かれていた。
裏返すと背中には、ブルーのクレヨンで、同じく幼い字で「ありがとう」と書かれていた。
聡美はピンクの奴さんを、そっと手で包んで、泣いた。
数年ぶりの涙だった。