うわぁあああ!
焦れば焦るほど物事は悪い方に転がってゆく。これは多分、真理であろう。
山田もそう思う。というか、そう信じざるを得ないのだ。
山田はいつも肝心な時にしくじる。それは小さい時からそうだった。今思い返してみても自然と汗が滲み出てくる様な数々の出来事。それを意識の中で反芻しては、叫び出したくなる事もしょっちゅうだ。
いわゆるトラウマ。山田は今もそれをしていた。数あるしくじりの中でも最も多く登場するそれは、初めての受験の時の事であろう。十五の春。そう、高校受験のあの時。
前日の夜は緊張して眠れなかった。当然と言えば当然なのだが、彼は焦った。
「どうしよう? このまま眠れなかったら?」
そう考えれば考える程、嫌な想像を止める事が出来ない。
多分、テスト中には寝不足で実力を出し切れないかもしれない。いやいや、それよりも中途半端な時間に寝てしまい、入試に遅れてしまったら? 当然受験は失敗。中学浪人の身になるかもしれない。そうなれば…俺の人生はどうなってしまうんだろう?
枕元に置いてある腕時計が午前三時を知らせる電子音を響かせた時、彼は覚悟した。よし! もうこのまま朝まで起きていよう。寝過ごしてしまうよりもマシだろう。それにもう一度、苦手な数学の公式をおさらいするのもいいかもしれない。このまま不安に思っているよりもずっと前向きだ。
覚悟を決めた山田は、とりあえず頭をスッキリさせようとコーヒーを飲む事にした。普段はコーヒーなど飲む事は無いのだが、今の状況を考えてみれば自然とその考えが浮かんだのだ。コーヒー=カフェイン=眠気もスッキリ=公式もスッキリ確認、と。
さて、そう決めたはいいが、普段は自分からコーヒーなど煎れた事も無い山田。父親がコーヒーに凝っていて、道具一式と豆がある場所は分っている。しかし、手順が全く分らない。暫く考えた末、インスタントコーヒーでよしとする事にした。これなら猿にでも出来る。
早速インスタントコーヒーを取り出し、カップも用意し、後はお湯を注ぐだけ。そうそう、お湯はちゃんと沸騰させてと。
ヤカンを火にかけ、暫くその前で待っていたが、そういう時に限って時間が過ぎるのは遅いものだ。山田は考える。お湯が沸くのは結構時間がかかるものなのだな。よし、この待ってる時間も有効に使おう。
山田は自分の部屋に戻って、数学の公式をおさらいする事にした。一度始めたそれに山田は熱中し、いつしか火にかけたヤカンの事は…凄まじい警報機の音がなるまですっかり忘れていた。
急いでキッチンに駆け込むと、両親がすでにキッチンに居て、空焚きになっていたヤカンを前に大騒ぎをしていた。天井に設置してある警報機を止めようと父親は椅子の上に乗り、やっとその警報音を止めたはいいが、慣れない行動に焦って椅子から転げ落ち、顔面血まみれに。
それを見て母親は絶叫! 山田も焦り、何を思ったか、消火器を取り出すとヤカンに向かってレバーを捻った。このやり方だけは学校の避難訓練の時に経験済みだったのでスムーズに出来た。
しかし、よく考えれば火は止まっていたのだ。ガステーブルには自動消火装置がついている事を山田は知らなかった。
キッチンは泡まみれ。父親は血まみれ。取り乱した母親が救急車を呼び、母親が付き添いで救急車に同乗。一人残された山田は、とりあえずキッチンの掃除。それが終わった時には時刻は五時を過ぎていた。
その時山田は改めてハッとした。ああ、今日は本命校受験当日じゃないか。でも、家を七時半に出れば余裕で間に合うな。今はまだ五時だから…よし、早いに越した事は無い。念には念を入れて失敗しないよう、今から出発の準備をしよう。俺のせいで父親は怪我をした。しかし、たった今、病院からの母親の連絡によれば大した事はなかったらしいしな。
「あんた、今日の受験は大丈夫? もしなんなら…」
携帯越しにそう言う母親に、山田は余裕で言ったのだ。
「大丈夫さ。もう準備は出来ているし。じゃあ、父さんによろしく」
それから山田は軽く食事をし、服を着替えてから、もう一度念の為に忘れ物が無いかを確認した。筆記用具、受験票、夕べのうちに母親が用意しておいてくれたお弁当。よしよし、完璧だ。後は家を出て受験会場に向かうだけ。
ここで山田は少しだけホッとした。考えてみればずっと緊張のしどうしだったのだ。食事をしたせいか、少しだけ眠くなった。
「今はまだ五時半か。家を出るまで後二時間。少しだけ横になるか」
これがいけなかった。考えてみれば当然だ。ふと気がつくと、時刻は七時四十五分。
「うわぁあああ! しまった! 早く家を出なくては!」
服はもう着替えてある。弁当持った! 筆記用具、大丈夫。受験票、大丈夫…あれ? 受験票は? 先ほど確認した時は確かに鞄の中に。これだけは大切だからと何度も確認して…
山田は慌てて鞄をひっくり返し、荷物を全部ぶちまけた後、
「あ! そうか、これはすぐ出せるように鞄の別ポケットの中に…あった! よし、出発だ!」
こうして山田は家を出ようと…しかしここでまた新たなトラブルが! 家の鍵を閉めようとしたが、鍵が無い! うわぁああああ! いつもは専業主婦の母親が居るので鍵を自分でかけた事など無かったのだ。どうしよう? ただでさえ時間はギリギリだ。よし! 決めた。
山田は鍵はかけずにそのまま家を出る事にした。一瞬泥棒が…とも考えたが、そんなコトは滅多に無いだろう、そう思って慌ててバス停へと急いだ。
受験の会場へはコンビニ近くのバス停からバスに乗って5つ目のバス停で降りればいい。これはすでに確認済みだ。そう思いつつバス停に近づくと、バスが走り出そうとしている処だった。山田は焦った。うわぁあああああ! これに乗り遅れる訳にはいかない。ただでさえ時間がないのだから。山田は全力疾走しながら叫んだ!
「乗ります! 止まってください!」
運良くと言おうか、山田の必死の努力のお陰と言おうか、バスは山田に気づいて止まってくれた。
「すみません、ありがとうございます!」
山田は運転手さんに何度も頭を下げてから空いている座席に座った。
「あ~、良かった! これで何とか間に合いそうだ。今日の俺にはまだ運が残っているのかもしれないな」
額の汗を拭いながら、山田はやっと人心地がついた。
暫くはバスの振動に身を任せながら窓の外を見ていたが、ちょっとした違和感が山田に訪れた。そこで改めてバスの中をキョロキョロと見回してみると、バスの各停留所の名前が書いてある表示に目が行った。ん? うわぁああああああ!これ、系統が違うバスじゃないか!
山田は知らなかった。同じ停留所から乗るにしても、バスには系統がある事を。山田の乗るべきバスはもうひとつの系統のバスだったのだ。慌てていてバスの~行きを確認しなかった山田が悪かったのだ。
山田は慌てて次に止まります、のボタンを押した。
バスが止まると、山田は大急ぎでバスを降り、次にすべき事を頭の中で確認した。もうバスを待ってる時間は無い。タクシーを使うんだ! 携帯でタクシー会社に連絡をしてここまで迎えに来てもらおう! 携帯携帯。あれ? 携帯は? うわぁあああああああ! というか、鞄が無いじゃないか! さっきのバスの中に忘れたのだ。
うわぁああああああああ! 終わった! 山田の初めての受験はこうして終わった!
後日談としては、この日入試は受けられず、高校は第二志望の所へと進学する事になった。そして鍵をかけてなかった家には泥棒が入り、金目のものはあらかた盗まれてしまった。山田の自慢の記念切手のコレクションも全部持っていかれた。
うわぁあああああああああ!
山田はここで我に返った。またいつものアレを思い返していたのか。山田は大事な場面になるといつもアレを思い返してしまう。いや、ダメだダメだ。ネガティブになってはいかん! 今日は大事な挨拶がある日じゃないか。そう、大切な得意先の、部長の息子さんの結婚式だ。そこで一言挨拶をと、部長に頼まれた。まだまだ若輩者の山田ではあるが、部長さんに気に入ってもらい、そして息子さんと同じ年の彼が一言挨拶を是非にと。
親族の結婚式には何度か参列していたが、仕事関係の式参列は初めての山田。しかも挨拶をしなくてはいけない。彼は何度も何度も挨拶の言葉を考えた。そして無難な中にもユーモアたっぷりの例の三つの袋の話をすることにした。
そう、新しく家庭を持つものが大切にしなければいけない三つの袋。給料袋、堪忍袋、お袋、という昔から親しまれているものだ。
子孫繁栄に【金●袋】のパターンもあるのだが、これだけは言ってはいけない。得意先の部長さんの息子さんの、とにかく大切な式での挨拶だ。品がなくてはいけない。だから山田は人情話路線でいこうと決めて…昨日は緊張のあまりあまり眠れなかった。しかし今回は大丈夫。何度もスピーチの練習もしたし。そうだ。自分を信じるんだ。
そして遂に山田の挨拶の順番がまわって来た。それまで彼は緊張のあまり、普段は飲みなれないお酒を注がれるまま飲み干していたのだが、酔ってるという感覚はまったく無い。司会者が山田の名前を呼んで新郎のお父様の…という説明をし終えてから、山田はマイクの前で挨拶を…挨拶を、あれ? 最初のフリは何だっけ? あ、そうか、三つの大切な袋がありますが…だったな…
「新しく家庭を持つものにとって大切な袋が三つあるといいます」
ここまではすらっと口に出た。次は、なんだっけ? ええと…
山田はここで焦った。頭が真っ白になった。そして酔いが一気に回ってきたように思えた次の瞬間、自然と言葉が口をついて出た。そう、言ってはいけない、絶対に言ってはいけないその言葉を。
「一つ目の大切な袋は【金●袋】です!」
うわぁああああああああああ!
こうして山田には、新たなトラウマがひとつ出来た。この処、意識の中で反芻するしくじりは、高校受験の件はあまり出番がない。もっぱらこのスピーチしくじり事件が大半を占めているのだ。それが良かったのかどうかは、彼にも判らない。
こういう性格は死ぬまで直りません。今日も山田はかつてのしくじりを意識の中で反芻し、叫び声をあげるのです。