第2話
私の両親はまだ私が五つのころ、私も乗り合わせていた車で交通事故を起こし他界してしまった。私はそれからずっと父方の祖父母の家で育った。小学校、中学校と祖父母の家で暮らしていたのだけれど、高校に進学する際に都内に住む一人暮らしの叔父が声をかけてくれて、それから私は叔父のマンションに厄介になっている。
私が生まれた当初、まだ私の息の毒性は弱かったようで、在命中だった私の両親もそれに気がつくことはなかったそうだ。しかし自ら立ち上がるようになり、歩くようになり始めると次第に毒性が強まっていったらしく両親は始終原因不明の体調不良に悩まされていた。両親が初めて私の異常性に気がついたのは私が二歳になったころ。飼っていた小鳥の籠の前で私が小鳥に顔を近づけて遊んでいたら、小鳥が突然ぽとりと止まり木から落ちて痙攣をし始めたそうだ。
それを見た私の父親が私を友人の医者に連れて行ったところ、私の息から毒性が認められた。さらに、その毒はほかのどの毒とも異なり私という個人固有の毒であるということも分かったらしい。と全体的にあいまいになってしまったのだけれど、なにぶんこの話は私の両親の話を聞いた叔父からまた聞きしたものなのでしょうがない。
どういうわけか私は自分の幼かったころの記憶というものを、よく思い出すことが出来なかった。叔父いわく両親が死んだ交通事故の際に私も頭を打ったことが原因なのではないかということだった。そして私は両親の記憶すらもあまり鮮明ではない。
それからというもの、定期的に私はその父の友人の医者の所へ通い「半数致死濃度」を計りに行くことを義務づけられた。そしてその習慣は今も続いている。この「半数致死濃度」というのは「ある物質をある状態の動物に与えた場合その半数が死に至る量」をさすそうで、毒の致死量は対象や環境、条件によって変化するので、厳密に値を求めることは出来ないらしい。
私の息の毒は小学校、中学校までは一酸化炭素や催涙ガス程度の毒性にとどまっていた。そして幸いなことに私の毒は酸素に弱く、吐き出してからしばらくすると分解されて無害になる。だから、給食の時間ぐらいの僅かな時間マスクをとっていても、細心の注意さえはらっていれば、さして問題はなかった。
しかし、私が高校に上がるのと時期を同じくして私の息は急激に毒性を増し、今では当時の三倍ほどの毒性を吐きだす女になってしまった。正直言ってこれはかなりやばい。「半数致死濃度」を計ってくれた父の友人の医者の引きつった顔が今も忘れられない。
大げさではなく、私は生物兵器とカテゴライズされてもおかしくないほどの毒性を秘めた女になってしまったのだ。
これでお分かりいただけただろうか。なぜ、私が毎日マスクを着け、昼休みには食事を一人寂しく取るのかを。もし私がマスクを着けることなく、日常生活を送れば私の周りの人たちはみんな気絶して倒れるか、または最悪死んでしまうことになる。そして私は捕まって幽閉されるか、手術台の上に磔にされて解剖。もしくは「世紀のフリーク。毒を吐く女!」なんてアホらしい立て看板と共に見世物にされることだろう。
そうして寂しく一人お弁当を食べていた私は何故だかふと転校生の高坂さんのことを思いだした。
雪のように白い肌、鋭いけれど大きくて黒目がちの瞳、きゅっと一文字に結ばれたほんのりと紅い唇。彼女は私よりも小柄でやせているのに、私よりもずっと毅然としていて弱弱しさや媚などをみじんたりとも感じさせない。
まだ話したこともないし、彼女のことについて私が知っていることなんてなにもない。それなのに不思議と、もし彼女が私と同じ境遇だったとしても、彼女ならばきっと私とは全く違った人生を歩むのだろうなという確信があった。それくらい彼女の容姿や立ち振る舞いには意志の強さをたたえる光があった。いつのまにか私の中で彼女の存在は無条件に強烈に印象付けられていた。
高坂さんが転校してきてからあっという間に一週間がたった。しかしたった一週間のうちに学校で彼女のことを知らない生徒はいないのではないかというほどに彼女は有名になっていた。彼女はこの一週間、あらゆるところで数々の武勇伝を生んだのだった。
最近、私のクラスはもっぱら高坂さん関連の話題でもちきりだ。そのおかげで私は聞き耳を立てているだけで彼女の武勇伝を知ることが出来た。
例えば、お弁当をひっくり返してしまったクラスメイトに頭突きを食らわせて泣かしたとか、体育の授業のバレーボールの時間にボールを相手チームの子の顔面に叩きつけて気絶させたとか、不良で有名な上級生の女学生たちにからまれたところ逆に返り討ちにしたとか、しつこく声をかけてきた男子生徒を二階の窓から放り投げたとか。
とにかく彼女の武勇伝はことごとくバイオレンスの香りに満ちていた。残念なことに私は彼女の活躍をこの目で見たことがなかったので、果たしてどこまで信憑性のあるものなのかはわからないのだけれど、余りに非日常的な彼女の活躍の数々は日常に退屈し切った生徒たちにとってこれ以上ない最高のエンターテイメントだった。そして、彼女の容姿がそれらの暴力的な影をみじんも感じさせないほどに、凛々しく端正であることがさらに謎をよび、人々の憶測や想像を掻き立て、噂が噂を呼んだ。
けれど皮肉なことに、それほどまでに知名度が高くなった高坂さんだったけれど、みんな彼女のことを遠巻きに眺めるだけで自分から近づいていこうとする者はいなかった。その様はまるで猛獣を遠巻きに眺める群衆のようで、みんな彼女と一定の距離を保ったまま、決して近寄ろうとはしなかった。そして彼女もまた自分から歩み寄ろうとはしなかった。
私は一週間高坂さんと同じクラスで過ごしていて彼女が誰かとしゃべったり、笑ったり、怒ったりしているところを見たことがなかった。ただ噂だけが流れて、そのたびに彼女はどんどん孤立していくように傍目からは見えた。
高坂さんはいつも一人だった。けれどかといって、そのことについて私みたいにウジウジと悩んでいる様子もみじんたりともなかった。だから、その彼女が私の席に歩いてきて私の顔を覗き込んできた時、私はぽかんと口を開けてしまった。まあ、マスクをしていたので気がつかれなかったと思うけれど。
「お前さ。なんで毎日マスクしてくんの?」
私が彼女の声を聞いたのは転校初日の自己紹介の時以来だった。自己紹介の時とは異なり、見かけに似合わない男子の様なざっくらばんとした口調だった。しかし、不思議とその口調は違和感なく彼女になじんでいた。
「え、えっと・・・・」
私がおどおどとうろたえていると、いつの間にかクラス中が静まり返っていて私と高坂さんの会話にみんなが耳を傾けているのが分かった。それでどうにもいたたまれなくなった私はとりあえず逃げ出すようにして教室を飛び出した。すぐに次の授業が始まってしまうことに思いあたったけれど、いまさら教室に戻るのも気まずいのでしょうがなく授業をさぼることにして私は屋上に向かった。
屋上にでて、それから私は脇の壁に備え付けられた梯子を上って、屋上からもう一段高い所に設置してある貯水タンクの傍に腰を下ろした。ここだと、向かいの校舎の死角に入るので誰かに見つかる心配もなくなるのだ。
それにしても。なぜ高坂さんが私に話しかけてきたのだろう。しかも直球でマスクのことについて触れてくるなんて。さぞかし私は間抜け面をさらしていたんだろうなと思うと少し気分がめいった。
「ああ、そんなとこにいたのか。茅原夕」
唐突に声を掛けられて、心臓が飛び出るかと思った。どこから聞こえてきた声なのか判断つかなくてきょろきょろあたりを見渡すと、高坂さんが下からこっちを見上げていた。
「よお」
高坂さんは下から眩しそうに日差しを手で遮りながらそう声をかけてきた。
「お前それどうやって上ったんだ?」
そう尋ねられて私は混乱しながらも答えようとしたのだけれど、その前に高坂さんは「まあ、いいや」と呟いて、少し下がってから走り出した。
助走をつけた高坂さんはそのまま壁をけり上げ、ジャンプすると腕を目一杯伸ばして縁をつかんだ。それから彼女は軽々と腕の力だけで身体を持ち上げて上ってきた。
二メートル以上の高さがあるんだけどね。梯子無しでも上れちゃうんだ。とか考えていた私に高坂さんは歩み寄ってきた。その鋭く大きな目が正面から私をとらえた。
「なんで、逃げるんだよ」
なんでって、それはあれだけクラスメイト達に注目されたら私の様な小心者は逃げ出したくもなるんだよ。とは言わずに私は押し黙ったままうつむいた。
「しかし、屋上出れたんだな。一回チェックしに来たんだけど鍵かかってたからあきらめてたんだ。窓から出られるとはね。まあ、かなり間抜けな図にはなるけど」
そうなのだ。屋上には窓から出れるのだが、小さい窓なものだからよじ上って這い出るときの恥ずかしさときたら、もし他人に見られでもしたらもはや生きていけなくなる。
「後ろからパンツ丸見えだったな」
うわ、死にたくなった。
私が恥ずかしさのあまり震えているのを見て、高坂さんは楽しそうに目を細めた。
「変わってるな、お前。人としゃべらないし、いつも難しそうな本読んでるし、昼休みには一人でどっか行くし、毎日マスク着けてくるし」
私は高坂さんが意外に周りのことを観察していたことに驚いた。全然興味がないように思えていたのに。大体私の名前を知っていたこと自体がなによりも驚きだった。
「なんで」
「ん?」
「なんで追いかけてきたの」
いろいろと聞いてみたいことはあったのだけれど、まずその質問をぶつけてみた。すると、予想に反して高坂さんは眉を寄せて考え込んでしまった。あまりにも長い時間、彼女が考え込んでしまったので、私は彼女の返事を待つのを止めて珍しくよく晴れた六月の空を見上げることにした。
「あ、そうか」
だいぶ時間がたってから、ようやく思い至ったようで高坂さんは嬉しそうに声を弾ませながら言った。
「わたしはお前に興味が湧いたんだ」
「・・・・・は?」
高坂さんの返答は私にとって理解の及ばないものだった。
「だって、面白いぞ、お前」
「面白い?」
「そうだ。わたしはお前が何考えて生きているんだろうとか、どんな人間なのだろうとか知りたくなったんだ」
高坂さんは、そう言い切った。私は思った。きっと彼女は思ったことを、感じたことをそのままに言葉に出来る人なのだろうと。
なんて眩しいのだろう。こんな率直な言葉で、人と向き合うなんて私には絶対に出来ない。彼女の放つ光はきらきらと輝いて夏の太陽のようだった。けれどその光を見た時、不意に私の心を夏の嵐の夜に吹くような、重く冷たい風が撫でていった。
「面白くなんか、ない」
そう答えた自分の声が余りに冷たくて驚いた。
「そんなことないぞ。なんでそんなマスクにこだわるのか知らないけど、毎日マスクしてくるやつなんて聞いたことない。お前、面白いよ」
屈託なくまたも高坂さんはそう言い切った。
その言葉を聞いて、私は自分の中に湧き上がってくる感情にどうしようもなく呑み込まれた。それは自分でもぞっとするほどに甘く冷たい、誘惑にも似た衝動だった。
そんな光を放つ彼女を私は傷つけたくなった。残酷な言葉を投げかけて心をえぐってやろうと、その光に影を落としてやろうと、そう思ったのだ。
そして私は言の葉に毒をこめて、吐き出した。
「面白くなんかない、面白いわけないでしょ? 私がどんな思いで生きているのかなんてあなたは何も知らない。『私がどんな人間か興味がある』? 苦しいとか、悲しいとか、ほかの人がうらやましいとか。そんな感情が心に届かないように全部に目をそむけて私は生きてるんだ。そしてこれからもそれは変わらない。あなたにはわからない。だから、興味本位で私に近づいてきて、かき乱すのはやめてよ!」
言い終わってしまってから、あれっと思った。
なんでだろう。私は高坂さんを傷つけてやろうと思ったのに、なんで自分の胸がこんなにも痛むんだろう。こんなはずではないのに。
高坂さんは突然私が怒鳴ったりしたものだから、さぞかしびっくりしただろう。それなのにしばらくして黙りこんだ私にそっと近付くと、泣きたくなるほど優しく私の肩に手を置いた。まるで傷ついた子供をあやすように。
「触らないで」
私はそういってその手を乱暴に振り払ったけれど、悔しいことに私の声は消え入りそうに弱弱しかった。
「ごめん」
高坂さんは静かにそういうと、振り返らずに去って行った。私は彼女の後姿が消えてしまった後もしばらく呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
「何やってんだろう、私」
その後は泣きたくなるぐらいの自己嫌悪の波が襲ってきた。こんなのただの子供の癇癪だ。彼女の眩しさに嫉妬して、八つ当たりしてしまったんだ。
なんでこんなことをしてしまったのだろうとひどい後悔が押し寄せてきた。
けれど心のどこかでは分かっていた。私は嬉しかったんだ。高坂さんが私の名前を呼んでくれて、面白いって言ってくれて純粋に嬉しかった。けれど、私に向けられたそのほんのわずかな好意を、その瞬間にはもう失うのが怖くなってしまった。だから拒絶してしまった。
毒を吐く私の様な人間にしてみれば、私の現状は上等過ぎる。この平穏を守り通さなきゃいけない。だから、これでよかったんだと思う。
私はぐっと奥歯を噛んで、おなかに力を込めた。ぐちゃぐちゃに丸められた新聞紙みたいな感情が外に飛び出さないように。