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第1話

記憶に残る両親の面影はひどく曖昧で、私はいつも温かくなって少しだけ重くなる。私は両親を思い、涙を流したことはない。悲しくはあるけれども、私の奥のところでそれを許さない自分が居る。けれどその自分は私が知らない自分なんだ。


 それは六月の梅雨がたっぷりと空気を潤ませ、紫陽花が鮮やかに咲きはじめた時期だった。前の日から続く長い雨がすっかりと街を濡らし、朝だというのにところどころで街燈がつくほどに厚い雲が空を覆っていた。

 その日私は傘をさして歩いて登校した。雨の日は正直言って嫌いだった。

すっかりとぬれた傘の水を切ってから傘入れに突っ込むと、私はハンカチで少し雨に濡れてしまったシャツの肩をたたきながら教室に入った。

教室にはすでに半数ぐらいの生徒が集まっていて、互いに友達としゃべったりしながら思い思いに時間を潰していた。

私はというと極力誰とも目を合わせないように自分の席に座ると、とりあえずカバンから文庫本を出して読み始めた。たまにちらちらと視線を感じたけれど、本に集中して気づかないふりをした。

「よくまあこんなじめじめした日にまでつけてくるよね」

 ぼそりと小さな声で、そういうのが聞こえた。それと同時に何人かの押し殺したような笑い声が重なった。

「やばいって、聞こえちゃったかもよ」

笑いを含んだ声で誰かがそういった。私の席の三つ後ろに座っている野口さんの声だとわかった。いくら小さな声で言ったってこれだけ近ければ聞こえるよ、と心の中で突っ込んでやった。

「だけど、なんかここまで毎日つけてこられるとさ。笑えるの通りこしてきもいよね」

 「きもい」か。野口さんざっくりといってくれるね。やばい、思ったよりもダメージでかいぞ、ちょっと目から汗がにじんできたぞ。

なんて感じで私は一人心の中で実況しながら地味に傷ついていたのだけれど、表情にはおくびにも出さなかったのだから自分で自分をほめてあげたいくらいだ。

陰口を叩かれるのには慣れている。昔なんてもっとストレートな言葉を浴びたものだ。思い出したくもないけれど、突き刺さった言葉の毒は即効性のくせになかなか消えてくれない。

気を取り直して本を進めようとするのだけれど、私はどうしても周りのクラスメイトたちの話声が気になってしまい、目で文字を追うものの内容が頭を素通りしてしまう。そうこうしているうちに学校の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 だが、その日はホームルームの開始を告げるチャイムが鳴ってもなかなか担任の織原先生は教室に現れず、クラスメイト達が自習なんじゃないかと淡い期待を抱きはじめた頃にひょっこり現れたりしたものだから、教室は非難の声であふれ返った。

「なんだ、お前たち。先生だってな、別に理由なく遅れてきたわけじゃないんだぞ」

 生徒たちの風当たりの強さに、まだ若い織原先生は若干腰が引けて、意味のない愛想笑いを浮かべていた。そんな先生の姿を見て私が教職の大変さに大いに同情していると、クラスメイトの男子の一人が口をとがらせながら問いただした。

「じゃあ、なんで遅れてきたんですか?」

「それはだな。実は、今日からこのクラスに新しい生徒がはいるんだ。まあ、そのこのことで朝少しバタバタしてな―――」

 先生はしどろもどろになりながら説明していたのだけれど、途中から生徒たちの歓声で声はかき消されてしまった。かくいう私も態度には出さなかったけれど興味が湧いた。こんな時期に転校生なんて珍しい。いかにもいわくつきって感じがするではないか。なんとなくドキドキしてしまう私は漫画の読み過ぎなのだろうか。

「男っすか、女っすか?」と先ほどの男子が尋ねた。

「女の子だ」

 織原先生がそう答えると、クラスの男子たちはすごい盛り上がりを見せ、女の子たちは少しだけ熱が冷めたようだった。

「それじゃあ、入ってきてもらおうかな」

 そういうと、先生はちらりと教室の扉の方に視線を送った。それにうながされたかのように教室の生徒たちの視線がそこに集まるのを感じた。

 少しだけ間を開けてから、転校生の女の子が颯爽と入ってきた。「颯爽」という言葉がこれ程当てはまるのも少ないんじゃないかというほどに、彼女はすっと背筋を伸ばして、何のためらいも、てらいもなく歩を進めると教壇の前で立ち止まった。そして彼女は正面を向くとゆっくりと教室全体を見渡した。

 正面から見た彼女は少し珍しいほどに整った顔をしていた。小柄で、目に髪がかからないほどのボーイッシュなショートカット。そして肌は透き通るほどに白かった。それなのに「可愛い」という言葉が思い浮かんでこないのは、恐らく突き刺さるような鋭さを秘めたその瞳が彼女をそう表現することをためらわせるのだ。それがどれほどの鋭さかというと、いつもなら野次を入れてはやし立てるであろう男子たちが黙りこむほどに、だ。

 織原先生は黒板に大きく「高坂真」と書くと、チョークをおいて振り返った。

「今日からこのクラスの一員になる高坂マコトくんだ。まだ――――」

「高坂シンです」

 転校生の高坂さんは表情一つ変えずに、そういって先生の言葉をばっさりと断ち切った。

「そ、そうだったな。すまん。高坂シンくんはお父さんの仕事の関係でこの街に越してきてからまだ日が浅いそうだ。なにかとわからないことも多いと思うから皆でちゃんと助けてやるんだぞ。じゃあ、高坂、自己紹介を頼む」

 慌てて取りつくろうように名前を言いなおすと、先生はそういって一歩下がった。

「高坂真です。北海道から来ました。よろしくお願いします」

 じっと正面を見据えたままそれだけ言うと高坂さんは口を閉ざした。その余りの自己紹介の短さに教室の空気は凍りついた。

「そ、そうか。じゃあ、高坂は野口の隣の空いている席にすわってくれ」

 先生は冷汗を垂らしながらそういうと、席を指差した。先生が指指した方向に私の席があったので一瞬私は高坂さんと目があってしまった。いや、あった気がした。というのも私はそれだけで無様なほどに動揺してしまったというのに、彼女はなんの反応も示さなかったので判断がつかなかったのだ。

 彼女が無言のまま生徒の間を縫って歩いて席に着くまで、私を含めてクラスの皆が彼女の一挙手一投足までを知らずのうちに目で追ってしまっていた。しかし、高坂さんは我関せずといった具合に堂々と歩き、席に座る時も隣の野口さんの存在になんて完全に興味をはらわず、ちらりと見ることもなく着席した。

 教室に、なんとなく気まずい空気が流れた。それを一番敏感に感じ取っていたであろう先生はわざとらしい咳払いを一つすると、何事もなかったようにいつも通りのホームルームを始めた。


 変わった転校生のうわさはその日のうちに学校に広まったらしく、昼休みには教室に高坂さんを一目見ようとほかのクラスからも人が集まって、なんだか賑やかになっていた。そんな光景をしり目に私はお弁当を片手にこそこそと、誰の注目も浴びないように静かに教室をでて、いつものように屋上に向かった。

 生徒の屋上への出入りは禁止されていて扉には鍵がかけられているのだけれど、実は屋上へと繋がる階段の途中にある小さな窓から出入りが出来る。この抜け穴を知っている生徒は学校ひろしといえども私ぐらいなものなのではないだろうか、と一人優越感に浸ってみたりする私であった。

 けれど、その日は雨が絶え間なく降り続けていて屋上には出られないと途中で気がついた私は、仕方なく体育館の方にきびを返した。そして私は体育館の脇を抜けていき、人目をはばかりながらその先にある体育倉庫に入った。背後のスライド式の重い扉を閉めるとようやく一息ついて私はお弁当を広げることが出来た。

 このように私の場合、食事をとる時が一番大変だった。教室で食べればいいじゃないかと思われるかもしれないけれど、そういうわけにはいかない。そんなことをしたら間違いなく学校に何台もの救急車を呼ばなくてはならなくなるだろう。

 それにしても、と思う。昼休みを体育倉庫で一人過ごす青春というのはなんと寂しいものだろう。さすがにもう慣れてしまったが、それにしてもまあ何とも情けない気分になってくる。だがそれもしょうがない。ふと視線を上げるとそこには埃をかぶった大きな姿鏡が置いてあった。そして私は鏡を覗き込むと何度目になるか分からないため息をついた。

 薄暗い体育倉庫の鏡に映し出されていたのはやたらと髪が長く、口から鼻までを大きなマスクで覆っている女学生の姿だった。なんとも怪しい風貌の女だ。こんな奴がもし隣に立っていたらさぞ不気味であろうといったような感じで、何やらどす黒いオーラの様なものを出しているようにも見えた。うん、そしてそれが私、茅原夕、十七歳の実像だった。


さんざん思わせぶりな口調で話を進めてきたので、ここらへんでネタばらしをしたい。私は物心ついてから小、中、高と三百六十五日、毎日マスクを着けて生活をしている。もちろん学校だけではなく、私生活の場面においても私がマスクを外すことはほとんどない。数少ない例外を上げるとすれば、お風呂に入る時と、そして食事をとる時である。それ以外は家にいる時も、テレビを見ている時も、寝ている時も欠かすことなくマスクを着用しているのだ。

 そんな生態の女子高生なんて他人から見たらさぞかし気味の悪いことだろう。私が高校に入りたてのころは周りも「花粉症? つらいよねこの時期」などと言って心配してくれたものだが、一か月もすると話しかけてくる人はいなくなった。ちなみに私が雨の日が嫌いなのもこのマスクが原因で、湿度が高いとマスクが湿って息苦しいことこの上ないし、また口周りが何やらむずむずして気持ち悪いのだ。

 ではなぜそこまでマスクにこだわるのか。これには明確な理由があって、私だってなにも好き好んで着用しているわけではないのだということを弁明しておきたい。

 私が三百六十五日、一日も欠かさずに着用しているこのマスク。ただのマスクではない。見た目からはうかがい知ることは出来ないだろうが、私のマスクは市販のものとは異なり防毒フィルターが内蔵された、この世に一つしかないスペシャルな防毒マスクなのだ。

 では何故、私が平和大国日本で暮らしていて防毒マスクを片身離さず着用しているのか。それは外部からの毒を体内に吸い込むことを恐れてではない。逆である。内部からの毒

を体外に吐きだすことを恐れて、である。

 そう、私の吐き出す息は「毒ガス」なのだ。冗談や誇張ではなく、現実として。


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