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冷笑主義  作者: 不二 香
第一章 Before 1492
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第5話【背約の三使徒】 前編



 濃紺の空には、輝ける蒼白い半月。

 ヨタカの鋭い鳴き声ひとつ、フクロウの含んだ鳴き声ひとつない夜の静寂しじま。下草の根元を走り抜けるねずみの気配さえもない不気味な沈黙。

 南から来る灰色の突風が、黒い影絵となった大樹の葉をざわめかせ、眠れる原野と田畑を駆ける。

 嵐でもないのに妙な胸騒ぎがする、そんな夜だった。

 フランス王国を離れ、二歩ほど教皇領へ近づいたところにあるジェノヴァ共和国。その片隅、丘の上の小さな教会の前庭に、その夜、ふたつの人影が対峙していた。


「ここまで出てきたかいが……あったと言うべきだろな」

 落とされた自分の片腕を見下ろして、黒衣の紳士は薄い笑みを口端にのせた。

 その唇の端からは、粘性の低い紅の雫が伝い落ちる。

「そう思わんか? 白十字(クロワ ブラーンシェ)吸血鬼始末人(クルースニク)

「番犬が……」

 吐き捨て、白い法衣をまとった男が長剣を構え直す。

 それは聖なる言葉が刻まれた、世に何本もない剣だった。ヴァチカン教皇庁直属の精鋭達──“白十字団”だけが持つことを許された、古より伝わりし聖剣。

 彼の視界には、目の前で嘲った笑みを浮かべる男が映り──、鮮血に濡れた大地に重なり倒れている同僚たちの屍が映っていた。

 その数十二人。

 彼は、最後のひとりだった。

 十三人ひと組で七つある特別部隊、白十字団。そのひとつが、今、滅びようとしていた。

「女王陛下から貴様らが動き出したと聞いて迎えに出てみたのだが……己の腕を失ったのはなかなか久しぶりだな」

「勝ったと思っているか」

「常に、負けるつもりではいない」

 月光よりも冷たく冴えざえした銀髪。闇の中でわらっている双眸は紅。見ている者の背筋を凍らせる冷笑。少しばかり白過ぎる秀麗な細面の顔。青年という域はとうに超えている年齢不詳。

 それがその男だった。

 しかしどうやら今夜は酒が入っているらしく、動きも鈍いうえに時折その双眸が眠たげに瞬く。台詞にも険がなく、グレゴリオ聖歌のようにゆったりと奏でられる。

 それでもこの有様、白十字でさえ彼の腕を落とすのが精一杯なのだから、どれだけの力量差があるかは推して知るべし。

「シャルロ・ド・ユニヴェール……」

 クルースニクは呼んで小さく笑った。

「我々がここで滅んでも、それで終わりだと思うな」

「以前に同じようなことを聖騎士の小娘に言われた覚えがある」

 返すユニヴェールの声に感慨はない。

 獲物の死が確定した時点で、その男から興味の色は失せる。

 今思っていることと言えば、夜明けまでに自分の屋敷へと帰って就寝の床につくのは難しいか否か、というくらいのもの。

「ヴァチカンは動き始めている。……おりは開かれた」

「……檻、ねぇ」

 弧の字につりあげられていたユニヴェールの口元が、静かに結ばれた。下から舐めるように目を細める。

「ローランの剣──デュランダルが放たれたのだ」

「デュランダル」

 吸血鬼は、塵に埋もれた記憶を探るようにつぶやいた。

 白十字はおかまいなしに続ける。

「貴様が出奔してから封印された、白十字よりもさらに上の非公式な特別課らしいな。懐かしいか」

「…………」

 ユニヴェールは一瞬呆けた顔をして、それからすぐに吹き出した。

「懐かしいだと? 堅物ぞろいのクルースニクの中にもそんな冗談が言える奴がいたとはな! 傑作だ! ヴァチカンは教育方針を変えたのか?」

「笑っていられるのも今のうちだ」

 言われて、

「とは?」

 瞬時に笑いを納めるユニヴェール。その顔に浮かぶのは、緊張ではなく好奇。

「ソテール・ヴェルトール。そしてダンピール。……知っているだろう」

 丘を照らす月影の中に、ふたつの単語が落ちた。

「知っているとも。ふたりとも、知りすぎている」

「ならば自分の行く末を案じることだな。彼らも放たれた」

「…………」

 しばし過去と現在を行き来したユニヴェールの目が、白十字で静止する。

「ひとつ聞く。何故ヴァチカンは急に動き出した? 往生際悪くまだ教皇権を復活させたいなどと思っているわけではあるまいな? 暗黒都市を討ち、諸侯に権威を示そうとでも?」

「我々はいつでも、お前たちを滅ぼすために存在している」

「光があるところ必ず闇は存在するものだ。それでも消そうとするか」

「人が死ぬは世界のことわり。生きる者に牙をく死者を放っておけという方がどうかしている」

「死者、ね」

 ユニヴェールは鼻先で笑い飛ばして己の腕があった場所を見た。

 聖剣で断たれた箇所はやはり焼け焦げている。しかし致命傷ではない。格好が悪いのと、バランス感覚が乱れる、ただそれだけの問題だ。痛みも感じず、大量に流れ落ち失われた血液とて、全て自らのものではないはずだった。

 彼は、生者ではないのだから。

 人は彼のことを、生ける屍──“吸血鬼”と呼ぶ。

 生者の血を己のかてとして永遠に生き続ける吸血鬼。

 そしてその中でもこの男は、三百年もの昔から聖なる者たちに“吸血鬼の中の化け物”と呼ばれる存在だった。

 太陽に焼かれず、銀に滅びず、炎に屈しない。

 十字にひれ伏すこともなく、聖水など飲んでも平気。

 首を断たれても、杭を打たれても、その度どこからともなく甦る。

 フランス南部の黒い森。魔女や妖魔や悪魔が集う、不可視の暗黒都市なるものが隠されているという。そしてこの男は門番の如く森の前に屋敷を構え、入る者を監視しているのだ。

 忠実なる暗黒都市の番犬。

 ヴァチカンが闇を滅ぼそうと送り込む全ての勇者を、ことごとく蹴散らす脅威の力。

 シャルロ・ド・ユニヴェールを滅ぼさねば暗黒都市には指一本触れられない。或いは──、ユニヴェールを滅ぼしたその時こそ、神の勝利、光が闇をひざまずかせる瞬間なのだと、ヴァチカンでは言われていた。


「小物を蹴散らすのも飽いたところだ。丁度いい」

 言って彼は喉元のタイを緩めた。

 長い指に絡んだ血糊が白地の襟に移ったが、気にしない。

「──天のいと高きところ、(グローリア イン)神に栄光あれ(エクシェルシス デオ)!」

 白十字の低く神に祈り、その息吹と同時に白銀が閃いた。

 だが、

「誰も私を滅ぼせぬ」

 シャルロ・ド・ユニヴェール。吸血鬼の中の化け物は小さく笑い、その場を動かぬまま刃を受けた。

 月夜に響く重く鈍い、肉が断たれる音。

「…………」

「…………」

 ちぎれた雲が月を覆う。沈黙の後、雲が去り再び地上に光が注いだ後、生暖かい紅の雫が大地に弾けた。

 ひとつが落ちれば、後を追うように次々と滴り、固い地面に吸い込まれてゆく。

 高いところから少しずつ葡萄酒をこぼしたような、芸術。

 大地を潤す血脈は溢れ広がり池となり、双方の足元をも濡らす。

「──……ッ」

 血溜まりの中へと膝を折ったのは、吸血鬼ではなくクルースニクの方だった。

「空しい忠誠心など捨ててしまえば死なずに済んだものをな。だがそうしろとは言わんよ。それがお前たちの選んだ道なのだから」

 白き法衣に包まれたその身体は、無表情な吸血鬼の右腕に貫かれていた。

 開かれた目には夜闇以外何も映らず──、

「主よ……」

 血の塊と共に吐き出されたその言葉。

 吸血鬼はつまらなそうに一笑すると、一気に腕を引き抜いた。

 同時にクルースニクは、糸の切れた操り人形の如く地へと崩れ落ちる。

天のいと高きところに(グローリア イン)神の栄光あれ(エクシェルシス デオ)地に(エト イン)おいては(テラ パクス)意の人々に(オミニブス ボーネ)平和あれ(ヴォルンターティス)

 ユニヴェールが生きていた頃散々唱えたミサの式文。

 低くつぶやき、ユニヴェールは血に塗れた右腕を虚空で振った。そして無残に斬られた己を見やる。

「……この状態ではどうにも格好がつかんな……」

肩口から脇腹まで、見事に裂かれていた。

痛みも何もないとはいえど、衣装はズタズタ血でベタベタ。若い婦女子が見たら、美しさに恍惚するどころか悲鳴をあげて卒倒してしまうような猟奇。

 オマケに腕が一本足りないときたもんだ。

 彼は落とされた自身の左腕を拾い上げ、しげしげと見つめた。

「さーて、どうやって再生するんだったか……あまりに昔の事過ぎて覚えてないぞ……。くっつければ直るか? それとも燃やしてしまうのだったか。……困った」

 記憶が古すぎるのか、酒のせいで飛んでいるのか。

 頬にひとすじ本物の冷や汗なんぞを垂らしつつ、思案に暮れていた吸血鬼。

 どっと身体に重い振動が響いて初めて彼は気付いた。

「…………」

 見下ろせば、火であぶられる魚よろしく何本もの聖剣で串刺しになっている。

 腕は両方とも地面に落ちていた。

「もしや貴様らは……」

 喉を駆け上がってくる血の溢れと共に、吸血鬼は低い声を絞りだす。

「機械仕掛けの──!」

 紅を見開いて振り向いたユニヴェール。

 その首目掛け、白刃が一閃された。



◆  ◇  ◆



「お帰りが遅いですね、ユニヴェール卿」

 ルナールは嬉々として言った。

「そりゃ昼間じゃ帰ってこられないでしょうよ」

 散らかした絵札をきれいにそろえながら、パルティータが答えてくる。

 ルナールが言葉につられて見やれば、確かに食堂の大窓越しの景色はスカっとするような晴天だ。

 抜けるような蒼に白い雲。きらきらと光が踊りまわっている。

 雨の日ならばまだしも、こんな天気の日中に吸血鬼が動き回るわけがなかった。

 この屋敷の主がいくら物理的科学的な何かを超えてどこかへイってしまっている吸血鬼だとしても、大した用事もなく太陽の下をブラブラするほど人間でもない。

「色々なところに愛人がいそうですし、まぁ宿には困りませんね、あの方は」

 テーブルに突っ伏し、必要以上にのびのびする黒尽くめの剣士、ルナール。

 どこぞの魔女に呪いをかけられて、昼間は人間夜は黒猫、そんな妖怪じみた男である。本人は王家の血筋だと言い張っているが、一体どこの王家やら、真偽のほどは定かでない。

「すっごく楽しそうに出かけて行ったから、当分は戻ってこないかも」

「ずっと帰ってこなきゃいいんですけど」

「ルナール」

「はい?」

 聞き返した先には、真摯な顔つきをしたパルティータ。

 その真っ黒な瞳にはいつだって何も映らず、その意思を読み取ることはできない。しばしこちらを見つめると、彼女はため息まじりに言ってきた。

「私は時々貴方を尊敬するわ」

「どうしてです?」

「私はそんな恐いもの知らずな発言できないもの」

「……そうですか」

 ルナールはそれなりに頭がいい。だから、敢えて何も言わなかった。

 絵札を重ね終わり、肩をすくめて食堂を出て行く灰色のメイドを水平な視線で追うだけ。

「ま、夜まではお帰りにならないことは確かだから。それまでのんびりしてましょう」

 彼女は朝から掃除も、洗濯も、皿洗いも、さぼっている。

 だが、神様はいつだってお空の上から見ているのだ。

 悪行には報いが下る。

「──また何かやらかしたっ!」

 廊下から素っ頓狂なパルティータの叫び声が聞こえ、やっぱりねぇとルナールは嘆息した。

 そして彼が意図して面倒なことをまわりに押し付けるのと同様、彼女は意図せずまわりを巻き込むのだ。

【報いはみんなで受けましょう】

 半ばここの家訓のようなものだ。

「……どうしました?」

 ルナールはのろのろと廊下へ出てゆき──、しかし実際は聞くまでもなかった。

 食堂の入り口から真っ直ぐ伸びた赤絨毯の廊下。いかにも年代物な琥珀色の布紙が張られたその壁に、何とも悪趣味な装飾がなされていたのだ。

「これはまた……」

 吸血鬼の屋敷らしいといえば屋敷らしい。

 常人ならば腰を抜かすか気絶する。あるいは戦慄に言葉もなく立ち尽くすだろう。

 だが、パルティータは眉をひそめて両手を腰にあてていた。

「あの人は何様のつもりかしら!?」

「……たぶん僕が思うに貴方のご主人様だと思いますよ」


 壁には流れ落ちる鮮血で流麗に書かれた一文。


Venez me(ヴネ ム) chercher(シェルシェ)


 ──迎えに来い。





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