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冷笑主義  作者: 不二 香
第四章 Seeking the Baltzer,Seeking the Weltall
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第26話【ボヘミアの敗北】-2. disappear



 ゆらりと意識の覚醒を覚えるが、まぶたが重い。

 未だ高熱に侵されている身体も、寝台に縫いつけられたかのように重い。

 ひどい疲労感だった。眠っていたとは思えないほどに。

 それでも彼がどうにか目を開けたのは、傍らに人の気配がしたからだ。それも愉快な類ではない気配が。

「おや、お目覚めですか」

 寝台の横に座り手元の書類に目を落としていた金髪碧眼の青年が、顔を上げこちらをのぞいてくる。まとわりつく暑気など素知らぬ顔で今日もご機嫌麗しい。

「ご気分はいかがです? カリスの薬は効きました?」

「不愉快」

 ソテールが短く答えると、白い聖衣に身を包むサマエルが苦い笑いを浮かべてくる。

「申し訳ありませんね。皆に仕事を割り振った後は、私だけヒマなもので」

「ヒマな隊長殿が直々に危険因子の見張りか?」

「それは貴方の自惚れが過ぎます。病人を放り出しておくほど冷たい組織ではない、ただそれだけのことですよ」

「そうかい」

 軋む身体を叱咤しながらソテール・ヴェルトールは身を起こした。部屋に満ちる陽光から昼間であることだけを認識し、水差しの中で生ぬるくなった水をコップに注ぎ喉奥に流し込む。

 肩で息をつくと、こちらの様子を眺めていたサマエルと目が合う。

「──鍵を見つけても開けるなよ」

 思わず口をついて出た。何の根拠もなく。

「絶対に、だ」

「カタリナの予言は『開け』、です」

 こちらを正視してくるそこに柔和な『ルカ・デ・パリス』の顔はない。神の足下に額をつけ盲目の忠誠を以て赦しを乞う死の天使の顔がある。

「開かなければ意味がないのです」

「何が入っているかも分からないのにか」

「何を開けるのかも分かってはいないのですけどね」

 誰に対する嘲りか、歪んだ笑みが一瞬過ぎり、立ち上がったサマエルが窓辺に寄った。白い聖衣が揺れる。

「開けてはいけないという言葉が何を意味しているか貴方は理解していますか」

 逆光になり天使の表情が影に隠れた。

「それは、開けた後のことに責任が持てない者が語る言葉です。だから貴方たちが私を止めようとすることはある意味正しい。貴方たちには手に負えないものが出てくる可能性が高いわけですからね、賢明な判断です」

 開け放たれた窓から太陽に焼かれた風が入り、誰かが──神学生たちだろう──声を荒げ不毛な議論を繰り広げている声が運ばれてくる。

「しかし私は何が出てこようと構いません。それが神の導きならば、何であろうと受け入れます。そして従う。今ここにいる不本意を受け入れているように」

「ご立派なことで」

 ソテールとサマエルでは前提が違う。ソテールは今この世界を護ろうとするが、サマエルは己が望む千年王国建国が潰えなければよいのであって、ヴァチカンだのフランスだの神聖ローマ帝国だの、そんな些末な国々の存亡など気にもかけていない。

 開けた中からアバドンが現れ食べ物という食べ物を喰い尽し救いのない飢餓と果て無い荒廃が世界を覆ったとしても、サマエルは欲に塗れた大地を漂泊する手間が省けたと言って喜ぶだろう。

 護る対象がそもそも異なっている以上、開けるなと言ったところで無意味だ。

「レンツィたちが行った先は」

「ボヘミア」

 答えを聞いてソテールは額に手をやった。

 熱い。

「また面倒なところに」

「武力行使がしやすい場所です」

 ボヘミアはつい先だってフス戦争を起こしてカトリックに反旗を翻した。現在は鎮静化しているとはいえ、ヴァチカンに対し負い目がある。それにもしヴァチカンが再度ボヘミアを攻めたとしても、世間はフス戦争の延長だと思うに違いない。

「たかが“鍵”のためにまた戦争を起こす気か」

「猊下も私もレンツィに一任していますが、鍵を得るための手段は問わないと伝えてあります。彼は良くも悪くも、躊躇をしない男です」

 知っている。ヴェルトロ・レンツィは、明るく爛漫らんまん、周囲に不快な思いをさせずにしれっと我を通すタイプの人間だ。

「…………」

 黙って寝台を出ようとすると、

「オートクレールも命令がなければ動けないないんですよ、ご存知でしたか? 自由人」

 高慢な静止が降ってくる。暑気を払うすずしい声。

「行ったところで──貴方は人間の軍隊を潰すおつもりですか? 吸血鬼始末人クルースニクは化け物だけが相手では? あぁ、先日マスカーニ女史が規約を変えたんでしたっけ?」

「……お前たちがレンツィに許可した駒はモラヴィア軍か」

 チェコ王国を形成する一画、モラヴィア公国。ボヘミアと双璧を為す強国だが、こちらはフス派にのっとられたボヘミアを鎮圧した功績があるため、カトリックに信頼されている駒だ。

 レンツィはいざとなったらそれを動かす権限を与えられているわけだ。

 たかが鍵ひとつのために。

「パリス隊長、お前は出て行け。クレメンティを呼べ」

「呼んでどうします? あの男はただの飾りです、権限などありません」

 こちらを見据えてくる偽りの碧眼は真っ直ぐ清々しいほどに澄んでいる。揺らぐ感情が映ってしまう人間には到底できない硝子ガラスの眼差し。風切り羽を失くしても、天使は天使。

「ただの飾りならつべこべ言わずに呼べよ」

 風にわずかな雨の匂いが混じる。

 再びうずき始めた頭痛を奥歯で噛み締め、

「預言は間違っている」

 ソテールは断言した。

「どうしてそれが貴方にお分かりに?」

 死の天使の問いに、病床の狩人は意地悪く笑った。

「鍵を開けた先はただの花畑だ」



 目の前に広がる美しい白亜の花園(ホワイトガーデン)

「…………」 

 パルティータは既視感を覚え記憶の底を探った。

 足下にこぼれ咲く白い小花、ゆらゆらと蝶のように揺れている白い花、かぐわしい香りを漂わせる白薔薇の茂み、城壁沿いに列を成し整然と天を指すベル型の白花、溢れる花々の間隙を彩る柔らかなシルバーリーフ──呼吸することさえためらわれるほど濃密な静謐をたたえた庭。

 ──あぁ、バルツァー邸の。

 暗黒都市に存在する、かの大吸血鬼の私邸もこんな圧倒的な白に埋め尽くされていた。

 しかしあちらの白が諦観ていかんに支配されていたのに対し、こちらの白はパラノイアめいた敵意に支配されている。

 まとわりついてくる芳香さえこちらを監視しているようで、このままひとりで踏み込んで行くのは得策ではない──パルティータはアスカロンに声をかけようとして振り返り、ようやく背後の扉が閉ざされていることに気付いた。

 先程までただの朽ちかけた木戸であったはずなのに、今はこちらを睥睨へいげいする堅牢な木扉に様変わりしていた。中央には大きく、アイヴィーの紋章が焼かれている。柔らかく、厳正。下から左右に伸びた蔦が中央の空白を護るように天頂で交差しているその紋章はどこの貴族のものか、パルティータの記憶の中では心当たりの欠片さえなかったが、その真ん中の空白がひどく不安定で空虚で、しかし世界とはそういうものであるという哲学めいた安堵も漂う不思議なフォルムだった。

 手の届く一部分をそっと撫ぜる。

 そしてそのまま扉を検分し、誰が早業でかけたか錠がしっかりかかっていることを確認した。つまり、出られない。

「やってしまった……」

 深いため息をついた。

 長年暗黒都市と接していれば、何が起きたか今更混乱するまでもない。

 アスカロンといたボヘミアが人間の領域だとすれば、パルティータが今いるボヘミアはおそらく魔物の領域なのだ。

 物事が転がる時は回避しようがないが、せめて単独で巻き込まれるのは避けようとアスカロンを護衛につけてもらっていたのに、全く意味がなかった。

 先の暗黒都市の研修の件で彼女は珍しく反省したのだ。

 世の中には確かに人間が超えるべきではない一線が存在していて、楽観していたつもりも奢っていたつもりもなかったが、しかしそれは想像以上に手前にあり、踏み越えた先は垂直の崖だった。

 ──人間ひとりのなんと無力なことか。

 それは、あのユニヴェールの身にさえ刻まれている虚無だ。あれほどの者であっても飲み込まれた、人間の理性の代償である原始の呪詛。

 恐怖の源泉であり歴史の動力であるこの呪いは、簡単には剥がせない。

 抗う者たちが選び行く道は様々だが、パルティータは“無力なら無力なりに対策をたてるべし”を胸に誓い、

「まだ甘かった…」

 誓ったが、このザマだ。

 いっそのことアスカロンと手でもつないでいればよかったかもしれないが、後悔役立たず。生きていれば逃げ場のない状況くらい幾度もあるのだ、仕方がない。

 もう一度大きくため息をついてから、白い花々に埋め尽くされた中庭を抜け城の中へ足を踏み入れる。

「あ、きれい」

 地面に落ちていた赤い鳥の羽根を拾い、

「あ、これユニヴェール邸に植えたい」

 名前も知らない花の種を次々ポケットに落としながら、進む。

 アスカロンと一緒だった時の印象は「遺跡」。しかし今は“生きている城”であることが感じられた。

 家具に埃がたまっていない。空気が錆びていない。新鮮な野菜と果物が転がっている。

 つまり、誰かんでいる。

 しかしこの城の立地も造りも戦時に使う要塞のものだ。

 では誰が棲んでいるのか。

「……うわぁ」

 奥の広間にいたソレを見つけた瞬間、思わず心の声がだだ漏れてしまった。

「…………」

 その空間では非常に面倒臭い生き物が剣を磨いていた。

 咲き乱れる花園には不似合いな、しかし武骨な城塞には似つかわしい、若い兵士だった。

 くすんだ金髪の、歳の頃はヴァチカンのフリード・テレストルほどだろうか。だが少なくとも外見は全く正反対だ。

 父譲りの貴族然とした雅やかな風をまとっているフリードに対し、目の前の若者は筋骨隆々、目つきも三角で大型の肉食獣を思わせる血生臭さを漂わせている。平たく言えばならず者。傭兵としては使えるが、組織には馴染まない者。戦場では英雄、終われば厄介者。

 机に足を投げ出していることからも粗野な育ちがうかがえる。

 その若者が、顔も上げずに口を開いてきた。

「なぁ、もういいだろう? シスター・アネシュカ。いい加減俺をここから出せよ」

 ──それは誰だ。

「いい加減暴れさせてもらわないと腕がなまっちまう。俺は何のためにいる? そう、戦うためだ、花畑の管理人に就職したんじゃねぇんだよ」

 口調は軽妙だが、部屋は鬱屈した気配に満ちている。檻に入れられた獣がじっと伏せて襲撃の機を窺っているような──。

「私はシスター・アネシュカではありません」

 他に何も言うべきことが見つからず、パルティータはとりあえず否定から入った。部屋の入口に立ち、中には足を踏み入れないまま。

「……んなわけねぇだろう」

 ようやく顔を上げた坊ちゃんが、不思議な台詞を吐く。

「お前はシスター・アネシュカだ」

「ご期待に添えず誠に申し訳ございません」

「嘘つけ。ここには俺とシスター・アネシュカしかいないんだから、お前はアネシュカだろうが」

 あ、話聞かない系か、こいつ。

「貴方はシスター・アネシュカのお顔をご存知でない? ふたりしかいないのに?」

「……あいつの顔なんて忘れた。ものすごく長い間見てねぇ気がするな、そういえば」

 こちらを睨みつけたまま、のたまう暴君。

「お前がアネシュカじゃねぇなら、お前は誰だ?」

 もはやどこからツッコミを入れればいいのか分からない。

「……私はシスター・アネシュカではなく、パルティータ・インフィーネと申します。ヴァチカン生まれ、フランスのパーテル在住です」

「ヴァチカンねぇ」

 パーテルに反応しない魔物は珍しい。

「私はここから出たいのですが」

「奇遇だな、俺もだ」

 言って、暴君がこちらへ歩いて来る。

 その歩みに既視感があったが、記憶の影はすぐに霧散してしまった。

「女、俺をここから出せ」

 寄られるとデカイ。ユニヴェールも上背はある方だが、それ以上にデカイ。

 一歩退きそうになるが、こらえる。

「貴方のお名前は?」

「タウ」

 どちらかと言えば暗黒都市の黒騎士ベリオールにタイプが近いが、あちらの方が女王側近の一個隊を率いている品がある。

「ご出身はどちらですか?」

「知らねー」

「貴方、戦争がお好きでしょう」

「あぁ、派手なのが好きだ」

「最近戦った相手はどなたですか?」

「ドイツ王」

「依頼者はどなたですか?」

「シスター・アネシュカ」

 彼の話すシスター・アネシュカが城下の民人が慕うボヘミア王国王女アネシュカ・チェスカーならば、確かにその晩年、チェコ王国はドイツ王と戦火を交えている。

 13世紀後半、ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家がフリードリッヒ2世という異才を失い瓦解してゆく中、チェコは賢く立ち回って着実に領土を拡大し、歴史の栄華の一点を築いた。しかし例によって歴史は繰り返し、巨大になり過ぎた権力は他国の怖れを生み、時を置かずチェコ王オタカル2世とドイツ王ルドルフ1世との戦争を呼んだ。そしてアネシュカの甥である王は、激戦の末、モラヴィアの戦場で力尽きたのだ。

 ちなみにそのルドルフ1世は、ハプスブルク家最初のローマ帝国皇帝である。

 ──お前が加勢したのにチェコが負けたのかよ

 という嫌味は置いておいて、

「その前の戦争は?」

「忘れた」

「一番昔の戦争は?」

「忘れた」

「…………」

 パルティータが半眼で呆れても、暴君は弁解すらしない。

 最新の記憶が13世紀でそれ以前のことは忘却の彼方ということは、少なく見積もってもこの暴君はユニヴェールより古い生物ということになるだろう。

 王道の予想をすると、おそらくこの暴君はチェコの落陽と共にこの城に封印されたのだ。シスター・アネシュカによって。

「貴方の仲間は? 戦争はひとりではやらないでしょう?」

「兵士の眠っていない大地はない」

 生ける屍(アンデッド)で埋め尽くされたいつぞやのカステル・デル・モンテと同じ光景が広がるわけだ。

「それは大層な軍隊をお持ちですこと」

 パルティータは平坦に褒め、目の前に立つ若者を見上げた。

 確かにここにいるのは人間ではない。

 これまでの経験とこれまでの会話を混ぜると、この暴君は、古は戦神と祀り上げられていた暑苦しい戦争狂であるという仮説が成り立つ。

「お前を女王にしてやることも容易いさ」

「ドイツ王には負けたのに?」

 意地悪く返すと、こちらを見下ろしていた灰色の三白眼がゆっくりと細められる。歴史の先を探るような眼差し。そしてぽつりと言った。

「……負けたのか、あいつは」

 あいつとは、シスター・アネシュカの甥オタカル2世のことだろう。

「負けたのか。そうか、やっぱりな。アネシュカには忠告してやったんだぜ。あいつだけであの戦争を勝つのは無理だって」

「つまり戦況が決する前に貴方はここに閉じ込められた、と?」

 暴君が軽く肩をすくめた。

 そして視線を天に向け──

「久しぶりに人と話したら思い出したぞ。そういえば昔、ローマ帝国も叩き潰してやったことがある。あの頃は俺にも自分の民がいたな」

 あごに手をやりひとり悦に入る。

 どうせ叩き潰したそれは東西分裂前のローマ帝国に違いない、もはや彼の話し相手が務まるのはパリのメム店長しかいなさそうだ。

「さて、シスター・アネシュカではない女」

 戦火の赤い煙がくすぶる双眸が再び彼女に下ろされる。

「パルティータです」

「シスター・パルティータ」

「私はシスターではありません」

 修道女の格好をしておいて説得力のない否定だとは思ったが、脊椎反射で言葉が出た。

「お前はどうやってここから出るつもりだ?」

「ひとまず、閉じ込められた場所から出るための基本行動をしましょう」

「この城、俺でさえどうやってもぶっ壊せなかったんだが、どうする」

「貴方たちの場合は“破壊”が基本行動になるんでしょうね、分かります。でも一般人は扉を開けようとするんですよ」

「?」

「私が通ってきた扉には鍵がかかっていましたから、手分けして城中の鍵を集めてみましょう」

 パルティータは顔の横でウォード錠を回す振りをしてみせた。


 ……が、手分けしてと言ったにも関わらず、暴君タウはパルティータの背後から離れなかった。ひよこではあるまいし、しかも体格が良すぎるのでかなり邪魔である。

「ふたりで同じところを探しても仕方ないでしょう。どうして私の後をついてくるんですか」

 我慢できずに問うと、タウは質問の意味が分からないと言いたげな顔をしてきた。

「外に出られる鍵を見つけたら、お前はひとりだけで出て行くだろう?」

 ──寂しがり屋さんか!

「……なるほど。そういう可能性もありましたね」

「その可能性しかねぇよ」

「私は効率しか考えていませんでした」

 パルティータは住人のいない寝室の飾り棚を静かに閉めた。

 中から取り出した鈍色にびいろの鍵を窓にかざし陽光にあてしばらく眺めてから、始まりの広間へと戻る。

「お前は、俺を外へ出すことへの躊躇がないのな」

 タウは、そこが彼の定位置なのか窓を背負う椅子に腰かけ、会った時同様テーブルに足を乗せた。

「は?」

「“もうすぐ戦争が疎まれる世になる、そうなったら戦禍しか呼ばない俺は外にいてはいけない”、シスター・アネシュカはそう言ってたぞ」

「そうですか」

「戦争がやりたい、戦争しか知らない、そう言った俺を、明らかに人間ではない俺を、お前は外に出せるのか? 良心は痛まないか、シスター」

「何で魔物に説教されているのか分かりませんが、」

 パルティータは彼が座るテーブルに寄った。

「人間が全員良心を持っていると思ったら大間違いです」

 シスター・アネシュカの言は、半分本当で半分嘘だ。彼が外にいてはいけない理由は、戦争が疎まれる時代になったから、ではない。彼の強大な力が歴史の渦の中心になってしまうからだ。力は恐怖を生む、恐怖はやがて──アネシュカは、自らが目の当たりにしたチェコ王国の崩壊が世界全土へと波及することを怖れただけに過ぎない。

「シスター・アネシュカは、“私のせいで”“私のせいで”が口癖だった」

 タウの目はテーブルに並べられた鍵の数々に落とされており、その右手が脚の上で一定のリズムを刻んでいた。

「責任感が強い方だったのでしょうね」

 確かに敬虔な修道女ならば、囚われから逃れることと引き換えに大層な魔物を世に解き放ってしまうことに苦悩するかもしれない。いや、苦悩すらせず即時に自己犠牲を選ぶかもしれない。

 しかしパルティータは敬虔でもなければシスターでもない。

「私が貴方を外に出しても構わないと思っている理由はみっつあります。ひとつは、貴方より遥かに強い人物を知っているから。貴方が野に放たれたところで、まぁどうとでもなるでしょうと楽観しています」

「それは手合せ願いたいね」

 気のない相槌だった。嘘だと思っているかもしれない。

「ふたつめは、──貴方を今の貴方にした責を負うべき者が外にいるのではと考えているから。私は因果応報が嫌いではありません」

 軽やかなリズムが止まる。

 窓から差し込む光によって先程より少しだけ伸びた影がタウの表情を消す。

 城内は無音だ。鳥の声も、虫の声も、木々のざわめきもない。

「みっつ。戦争というものは貴方がいるから起きるのではなく、誰かが起こすのです」

 パルティータは黒くにっこり笑い、持ってきた鍵をテーブルに置いた。大小様々、簡易的な鍵から芸術的な鍵まで数十に及ぶ鍵がずらりと並ぶ。

「シスター」

 タウの低い声が石造りの広間に響く。

「どれが俺をここから出してくれる鍵だ?」

「……さぁ、どれでしょうね」




「どの鍵だ」

「……さぁ、どれでしょうねぇ……」

「…………」

 外の暑さを他所に、石積みの古城の中はひやりと薄暗い。幾分のカビ臭さが、時の流れに取り残された空間に滞留している。歴史家さえ見向きもしない、辺境の放棄された城塞。その広間と思しき場所で、大小様々、簡易的な鍵から芸術的な鍵まで数十に及ぶ鍵をずらりと並べたテーブルを囲んでいるのは、三人の男だ。

 不機嫌を隠さないパーテルの吸血鬼ユニヴェール、柔和な苦笑いを浮かべているパリの仕立て屋メリル・ジズ・メム、そしてこの町の聖騎士隊隊長の寡黙な大男イグナーツ・ミルリーフ。

「メム、そもそもお前の探している鍵がこの城にあるのは確実なのか?」

「さぁ」

「…………」


 暗黒都市へ出仕していたユニヴェールのもとへアスカロンが現れ、パルティータの失踪が告げられた。吸血鬼は会議には戻らずそのままボヘミアへ向かい失踪場所の検分を行い、そこへ仕立て屋を伴った聖騎士殿がやってきた。

 仕立て屋は騎士殿には古物を扱う商人だと説明していたようで、フランス界隈の“面白い鍵がある”という噂を辿って出向いて来たのだという。

 ユニヴェールは面倒臭かったのでメムの同業者ということにしておき、連れがここで行方不明になったことを明かした。そしてアスカロンをふもとへ帰し、騎士隊に事前連絡しなかったことを儀礼的に詫びた。

 しかし聖騎士というより盗賊の頭領然としているイグナーツという男は、元々表情に乏しいのか快も不快も表さずぼそりと言った。

「連れは見つかるまで好きに探したらいい。鍵は──突然“鍵を寄越せ”と言われても、どれのことか分からん。こんな場所にそんな大事なもんがあったら、とっくに盗まれてるだろうがな」

「ヴァチカンも鍵を見せろと言ってきているようなんですよね」

 メムは、並べられた鍵を片っ端から明るい窓の方へかざして眺めている。じゃらじゃらとつけた金色の腕輪の方に光が反射してうるさい。

 椅子に深く腰掛け足を組んでいるユニヴェールも、目についたひとつを手に取った。

 棄てられた城には不釣り合いな、質の良い紅玉ルビーがはめこまれた複雑なウォード錠。白い手袋の指で擦ると煤埃が取れ、哲学めいた言葉の細工が現れた。

 “何を望む”、“何を知る”、“何を紡ぐ”、“何を──”

 4番目の問いには傷がついていて読めない。

 そもそも何語が書いてあるのか判別できていないのに意味が分かるのも奇妙だが、その鍵はユニヴェールの眼であってもいつの時代の代物か測りかねた。

 先人の誰かが刻んだ警句エピグラムをなぞりながら、声を落とす。

「“鍵”そのものは重要ではあるまい。何を開けるのか、中身は何か。お前は知っていてここへ来たんだろう?」

「いやぁ、それが」

 仕立て屋が逆光の中に立ち、弧を描く笑みだけが影の中に浮かぶ。

「よく分からないんですよねぇ。本当に、断片的な噂だったもので」

 ゆるく波打つ黒髪を褐色の指がかき上げる。猫のような金色の目は吸血鬼を射抜いているが、ユニヴェールは顔を上げない。

「ボヘミアとしか場所が分からなくて困っていたんですけど、ヴァチカンも動いたと聞いて先回りしてみました」

「ヴァチカンの方が情報精度が高いわけか」

 鼻先でわらうと、メムが目を逸らす。

 そんな不確かな情報でメムが動くわけがない。しかし、今この年増を追及するのは得策ではなさそうだ。

「ヴァチカンは何故ここに?」

 矛先を変えユニヴェールが問うと、

「聖女様が預言されたとかで」

 微動だにせず立哨りっしょうしているイグナーツが短く答えてきた。

 くすんだ金の短髪にユニヴェール以上の上背。それが純白の隊衣をまとっていると圧迫感がありどこぞの左遷された隊長殿よりよっぽど正義の番人だが、いかんせん死んだ目と無精髭がすべてを台無しにしている。

 総合すると、恐喝で地位を手にした傭兵崩れにしか見えない。

「扉を開くために、ここに隠された鍵が必要だそうだ」

「……扉」

 紅の視線を仕立て屋へやると、

「ヴァチカンの矢は、クロージャーとレンツィだそうです。ちなみにソテール・ヴェルトールは病欠」

 求めたものとは違う回答が返ってくる。

「病欠……」

 メムが捜しているものと同じ鍵なのかを確認したつもりだったのが、答えをはぐらかされた……ということは、同じなのだろう。

 魔物やヴァチカンの気を惹く宝が一地点にゴロゴロしているわけがない。

「──卿、行方不明なのはパルティータ嬢ですか?」

 一拍の間を置き、メムが口を開いた。

「……そうだ」

「そうでしょうね。そのご様子ではね。しかし、とてもお怒りなのはごもっともなんですけどね、もっと気配を鎮めてもらえませんかね」

 仕立て屋がぎゅっと眉を寄せ、己の眉間を指す。

「ずっとこんな顔なさってますよ。息苦しくてかないません」

「それは失礼」

 ユニヴェールは手にしていた鍵をするりと黒衣の中に入れ、大きく息をついた。

「開けるのが扉ならば、鍵など必要ないと思わないか。蹴破ればいい」

「卿、それにしたって扉がどこにあるか──」

「クロージャーかレンツィに訊けばいい」

 血生臭い“訊く”であることを察してか、メムが顔をしかめる。

「開けても、そこにパルティータ嬢がいるかは分かりませんよ」

「ヴァチカンが盲信する神様とやらが出てくるかもな」

 言い捨てて、ユニヴェールは広間の隅の闇のわだかまりへと目をやり唇を撫でた。

 仕立て屋は無意識に扉を開けることを避けたがっている。開ければ鍵の価値が失われるのか、それともユニヴェールと一緒では都合が悪いのか。

「卿、」

 メムがこちらに歩み寄ってくると、傍らに膝をついた。

 彼はユニヴェールにしか聞こえない音量で、

「お強いとは言え、貴方だって所詮は力を持て余しただけの生ける屍。“世界”には敵いませんよ」

 歌うように囁く。

「貴方にも抗えないことは起こるのです」

 金色の目は慰めの笑みを浮かべているが、言外には挑発が潜んでいる。

「パルティータ嬢のことも──」

「店長」

 ユニヴェールは柔らかいさえずりを遮った。

 イグナーツに聞こえないよう、低く、静かに、吐息に声を混ぜる。

「私自身を含めて、世界は“ユニヴェール”には抗えんよ」

「…………」

「世界の大きさなど関係ない。長さも広さも深さも美しさも残酷さも、何ひとつ関係がない。“ユニヴェール”が譜面に終止記号フィーネを書いたらそこで音楽は終わる。世界とは、それだけの存在だ」

 どこかで鳥が鋭く鳴いた。

 古い城壁の窓に切り取られた蒼空から、埃っぽい風が通り抜けてゆく。

 吸血鬼は通るテノールをその蒼の断片へ向けた。

「目に見えているすべて、目に見えないすべて、どれも譜面の上のひとつの音に過ぎない。昨日巣立った鳥の子も、幾多の王を見送ったお前も、世界を奏でる同じ尊い一音だ。誰にも聴こえない、絡まり合ったその響きこそが世界の正体」

 イグナーツが訝しげにこちらを見ている。

 メムが何か不満げに口を結ぶ。

 しかしユニヴェールは淡々と続けた。

「パルティータは先代チェコ王の姪だからボヘミアには深い繋がりがある。葬られた因縁を派手に目覚めさせる性質タチのあれを、安易にここへ近づかせるべきではなかった。──それは私の失態だ」

「彼女が迷い込んだ先にいるのが言葉の通じる相手なら良いですね」

「…………」

 確かにそれはマズイとユニヴェールは己の唇をなぞったが、どうやってもあのふてぶてしく無表情なメイドが怪物に追われて焦っている姿を想像できなかった。

 彼は顔の前で両手の指の先を合わせる。

「あれは私の呼び方を知っている。呼ばれていないということは、まぁなんとかなってるんだろうさ」

「貴方は、」

 こちらを見るメムの金色がかげに歪む。

「彼女が本物の“セーニ”ではないとしても、貴方の正当な主でないとしても、それでも何処いずことも知れない場所へ助けに行きますか?」

「もちろん」

「何故です?」

「…………」

 ユニヴェールは片眉を上げた。

「店長、その質問は実に人間的だ。実に。まさかお前がそれを言うとはね」

 本物だとか偽物だとか、歴史の中のどの時点で結び違えられたのか本人も分からないだろうが、もはや権力闘争では使い古された手法で、ありえない話ではない。しかし、

「助けることに理由が必要か? 殺すことに理由が必要か? 本物の魔物は、あらゆる理論的で道徳的な動機付けからは自由だ。やりたいようにやる。自らの意志のまま、他人から見てすべてが破綻してていても、だ」

「意志は理由から生まれるのでは?」

 ユニヴェールは長い睫毛の下で笑いを噛み殺した。

 何千年魔物をやっていようと可愛らしい感情が残るらしい。

「そんなに美しい理由で己の手足を縛りたいなら、与えてやろう」

 吸血鬼は、姿勢よく遺跡と同化している仕立て屋を流し見た。

 そして薄く笑って唇に指を立て、音には出さない声を紡ぐ。

「(ユニヴェールが従えば、それが(本物)だ)」

 



 炊事場と思しき一郭から望む小さな中庭もまた、白い花で溢れていた。

 井戸も見えるが植物たちに阻まれ到底近付くことができず、パルティータは小さくため息をついた。

 こちらのものを食べてしまうと元の世界には戻れない──昔話にはよくあるパターンなので水を汲んで飲むつもりはなかったが、井戸が放置されているこということはいよいよ人間は存在していなそうだ。

 誰かが楽しくしゃべりながら果物を剥いたり野菜を刻んだりしていた時代があったのだろうか、炊事場の古びた小さな椅子に腰かけテーブルに肘を付き、白い花園(ホワイト・ガーデン)を眺める。

 城内を検分して探偵ごっこをするつもりだった彼女はしかし、指で軽くリズムを取りながら、カラスの紋章──母方のコルヴィヌス家の印──が描かれた小さな皮紙ヴェラムにメモではなく音符を連ねてゆく。

「何してる」

 やはり付いて来て手元をのぞき込むタウに

「世界は音楽で出来ています」

 棒読みで返すと、

「シスターは詩人でいらっしゃいますねー」

 すぐに興味を失った彼は言い捨てて中庭に下りて行った。

 どこからか降り注ぐ光に、その背が黒い影に染まる。

 破壊と死の権化とも言うべき城塞にあって全く用途のないこの白い花々は、鎮魂なのか、懺悔なのか、郷愁なのか、誰の意図なのか。

 半永久的に咲き続けているのだろう花園が憐れんでいるのは囚われた者か、捕えた者か。

「ここは貴方が手入れしているのですか?」

「するかそんなもん」

「でしょうね」

 風が空を渡ることさえない、静寂の山巓さんてん

「なぁ、アンタを人質にとったら俺はここから出られると思うか?」

 名案だとでも言いたげに、顔を明るくしたタウが振り向いてくる。

「誰に対しての人質なんですか」

「え」

「シスター・アネシュカは私の命なんてどうでもいいでしょうし、──あぁ、でも私がここで死んだら彼女の故郷が焦土になりかねませんが……」

「もういいもういい、撤回撤回!」

 彼が背を向けて上空を仰ぐ。ただ茫漠とまばゆい空を。太陽も、白雲もない、どこかの空を。

 伸びだか体操だかを始めた化け物を目の端に、パルティータは皮紙を小さく丸め、おそらくハーブが保存してあったのだろう瓶の中へ詰めた。ついでにさきほど拾った鳥の羽根もくるりと丸めて入れる。不死鳥フェニックスの落し物ではないかと思うほど美しい赤の羽根は、暗い城内で良い目印になると思ったからだ。

 と、

「──めろ!」

 タウの鋭い怒声が響いた。

「え? 何か大事な瓶でした?」

 その声量に驚き思わず手を放したパルティータだったが、

「ヤメロヤメロヤメロ、うるさい!」

 両耳を押さえて目を見開き虚空にえている男の姿に、その怒号は自分に向けられたものではないと悟った。

「俺に指図するんじゃねぇ!」

 気迫だけで城壁を破壊できそうな咆哮。

 空気がビリビリと震え、踏み荒らされた白い花弁が無残に散り、漂泊された芳香が濃く立ち昇る。

「お前が開けろってんなら俺は絶対ェ開けねぇよ!」

 ……何の話だ。

 さっぱり読めないが、タウが見えない誰かと応酬していることだけは理解した。

「だーーまーーれーーーッ!」

 悲鳴にも近い痛みを伴う絶叫。

「何事ですか」

 パルティータは腰を上げ、庭園へ寄った。

 自失して荒ぶる獣は危険だが、怖いという感情はない。目が笑っていない微笑のカリス・ファリダットの方がよっぽど恐ろしいからだ。

「黙れ黙れ黙れ!! 黙れーーーッ!」

「お前が黙れ」

「うぉ」

 パルティータが投じたすりこぎが後頭部に命中し、タウがたたらを踏んだ。

「何す「落ち着きなさい」

 彼女は、牙を剥く勢いで怒りを向けてくる化け物を静かに制した。

「誰の声が聞こえるんですか」

「知らねぇよ!」

 まだ毛を逆立てている様子はあるが、明瞭な回答は返ってくる。

「シスター・アネシュカではない?」

「違げぇ」

「それは何と?」

「“扉を開けよ”」

「開けたらいいじゃないですか、貴方は出て行けるでしょう」

「ダメだ」

 声が聞こえなくなったのか、問答で己を取り戻したのか、頭をさすりながらフラフラと戻って来たタウが炊事場と中庭との段差に腰を下ろした。

 そしてつぶやく。

「開けたらダメだ」

「そうですか」

 本人もダメな理由は分からないのだろう、彼の言葉は続かない。

 パルティータは暴君の横に膝をついた。

「知らない声に命令されるとは、不愉快ですね」

「あれが聞こえると頭が割れそうに痛ぇ」

「それはそれは。今は痛みますか?」

「別の場所がな!」

 軽口が叩けるなら大丈夫だ。

 パルティータは、踏まれ折られてむしろ生気が宿った花畑を見やる。

「貴方は何者でどこから来て何故ここにいるんでしょうね」

「世界の災いになるから閉じ込められたんだろ」

「シスター・アネシュカは貴方よりお強いのですか」

「……女にゃ負けねぇ」

「では貴方より弱い彼女は、どうやって貴方をここに閉じ込めたんでしょうね」

「知るか」

 自ら牢獄に入った可能性に気付いているのかいないのか、思考を放棄した様子の猛獣が鼻を鳴らす。

 パルティータはその頬を両手で挟み、灰色の双眸を自分の方へ向けた。

「聞こえた言葉のすべてを信じて生きていくことも美徳の一種でしょうが、何が自分にとっての真実か判断するための努力を怠ってはいけません」

「……は?」

「貴方はたぶん、切り離された存在ではありません。まだあちらと繋がっています」

 暴君の呆けた顔が、水平な半眼に変わってゆく。

「……たぶんって何だ」

「間違っていた時の保険です」

「なんだそれ!」

 パルティータは立ち上がり、修道衣に着いた砂埃を払った。

「私はどんな手を使ってでもここを出て行きます。貴方はどうしますか?」

「出て行き方なんて知らねぇくせに」

「長い間ここに居たにも関わらず手掛かりのひとつも掴んでいない貴方に言われたくありませんよ」

 目を離した隙に、白亜の庭園は再び完璧を取り戻していた。

 花びらの一枚落ちていない、足跡のひとつもない、音さえ吸い込まれる、まるで絵画のような美しい一瞬の永遠。

 ──息が詰まる。

「お前だって諦めるさ、そのうちに。この箱庭には何もありはしねぇって、嫌でも分かる。俺にもお前にも何も出来ない」

 タウの声に虚ろが滲む。

「私の主さえこの場所に至るのは容易ではないでしょうが──あの方が私を捜し続ける限り、私が諦めることはありません」

 パルティータは壁を這う白い薔薇を見据えた。

「そしてあの方は捜すことを止めはしない」

 ここで血を流しても、きっと彼は来られないだろう。それほどの断絶には気付いている。だがそれも絶望するほどのことではない。

 何も変化がなかったというこの閉ざされた場所に、彼女は入ってきたのだから。

 何かは起こるのだ。

「アンタの主ねェ……神様か?」

 胡乱うろんな視線に見上げられる。

 彼女は無表情に笑った。

「いいえ。吸血鬼です」




 ふと世界中の音が途切れたの空白の後、パリの仕立て屋は大仰な仕草でため息をつき顔を左右に振ってきた。

「貴方のそういう傲慢全開なところ、嫌いではありませんけどねぇ」

「私にはヴァチカンの思惑もお前の思惑もどうでもいい。パルティータに関係ないならば、面白くなりそうな方の味方をしよう」

「そういうテキトーなところも嫌いではありませんけどねぇ。関係ないわけないと思うんですけど」

 商人特有の胡散臭い愛想の良さを取り戻したメムが、再びテーブルの上の鍵を手に取り、窓にかざす。

「扉は──」

「開けてはなりません」

 店長の穏やかな調子を遮って、教科書を読み上げるような明確な発音の女の声が石に反響した。

「……まだ何も言ってないのに」

「扉は開けてはいけません。それが例えヴァチカンの要請だろうと、許されません」

 現れたのは褪せた表情の骨ばった修道女だった。衣擦れの音だけを従えて彼女が入ってくると城塞の空気が変わった。余所行きの顔でそっぽを向いていた城が、ふいに現実感を伴って馴染んだ。

「シスター・アネシュカ」

 聖騎士が声を上げた。

 それをちらりと見やり、

「わたくしは近くの修道院で院長をしておりますアネシュカと申します」

 彼女がこちらに向き直る。

 退色した白──黒尽くめの修道衣だが、それが彼女の印象だ。

 老齢ではないが老成している。厳格ではあるが鋭利ではない。半分伏せられている双眸は、ユニヴェールもメムも映してはおらず、しかし強い意志だけは灯されている。

「皆様何を期待してお出でになるのか分かりませんが、鍵はご自由に探していただいてかまいません。我々もどれがお探しの鍵かは存じませんので。ただし、扉は決して開けてはなりません」

 まとっている空気はヴァチカンの堕天サマエルによく似ていた。

「初代アネシュカの時代からずっと、我々アネシュカはそれを護ることを受け継いでいます」

 丁寧に、慇懃に、自分の要求だけを通そうとする。

 そしてまばたきをほとんどしない。

「何故、……開けてはいけないのです、か」

 ユニヴェールは今更ながら一般人を装った。店長がものすごい顔で睨んできたからだ。

 そのやりとりさえ視界に入っていないのか、シスター・アネシュカの黒い双眸は過去のどこか一点を見つめていた。

「扉の中には大きな過ちが入っています」

「…………」

「…………」

 ユニヴェールは思わず店長と顔を見合わせた。

 果たしてそれはヴァチカンがメムが手にしたい何かと同一なのか。それにしては“過ち”という言葉には違和感がある。

「…………」

 ユニヴェールは無意識に柳眉を寄せ、こめかみに手をやった。

 死人にはあるはずのない頭痛が、さざなみのように寄せている。




 これは夢だ。

 ソテールはそう自覚したまま、身体を過ぎてゆく映像を見続けた。

 雪に埋もれた山城。刺すような寒風が頬を打つ。

 魔物が巣食った城の制圧を担ったヴェルトール隊が、速やかに任務を完遂した後の記憶だ。

「雪崩なんだからしょうがないだろう。自然の脅威だ。我々ちっぽけな人間にはどうにもならんさ」

 ソテールの前では、毛皮のついたフードを目深に被り、雪だるまもどきになっている男──まるで悪びれていないユニヴェール──が飄々とした笑顔を浮かべていた。

「手間が省けたじゃないか。雪山登山させられたうえに聞き分けのない村人の尋問なんて、仕事というより拷問だ。退屈すぎて士気が下がる」

 城の魔物と共謀して近隣の村々から食糧や金品を強奪していた村の制圧を任されていたユニヴェールの隊は、しかしその村が大規模な雪崩にあい丸ごと埋もれたため、引き返してきたのだ。

 ──そういえばそんな出来事もあった。遠い昔。

「雪崩ね、雪崩。お前、途中で自分の隊を置いて行ったんだって?」

「自分の部下を休ませて、率先して偵察に行ったんじゃないか。むしろ褒めろよ」

「……春になったら斬り刻まれた死体がごろごろ出てくるんじゃないだろうな」

「さぁそれはどうだろうか」

 逸らされた蒼眸からは真意は読み取れない。

「城の魔物は全滅。悪事に加担していた村人は深い雪の下。関係者が誰もいなくなった方が未来に禍根が残らなくていいさ。さっぱりした正義になるぞ」

 不敵に笑ったユニヴェールの言葉どおり、任務が完了するや周囲の町や村からは感謝と賞賛の声だけが届いた。

 ヴァチカンが世界を護る白の始末人の名声は、こうして漸進的に醸成されていく。


「お前はどうしていつもヴェルトールの足をひっぱるんだ」

「雪崩だって言ってるだろうが。ソテールだって村が埋まってるのは確認したさ。自然現象だよ、誰かさんたちが上の方で暴れるから」

 傾いた陽が差し込む教皇庁。ぶつくさ文句を連ねながら緋色の枢機卿の後ろを歩いてゆくユニヴェールの影が伸びる。

「雪崩のことじゃない。雪崩で隠したもののことを言ってるんだ」

「それは誰も見ていないし確認もしていないな。つまり、無いのと同じだ」

「……お前なぁ」

 二人が向かっている先は地下室だ。窓のない、いわゆる謹慎部屋。

「シャルロ」

 ソテールは思わず友の背に呼びかけた。

 そうだ、昔は名前で呼んでいた。

 だが長い廊下の先を行くユニヴェールはこちらを振り返ることなく、手だけをひらひら振って見せてきた。

「気にするな、合法的な数日の休暇だ」

 ソテールが何か返す間もなく、

「お前全然反省してないな!」

 枢機卿に頭を引っ叩かれているその姿が鋭い逆光に黒く塗り潰される。

 そういえば初めて会った時もこの男は黄昏を背負っていた。世界が闇に沈む前の禍々しい輝きを背負い、ヴァチカンに現れたのだ。今思えばそれは彼自身の暗喩──闇の代名詞である“ユニヴェール”半歩前──だったのだろう。

 ソテールは彼を追おうとしたが、聖なる都を焼かんばかりの陽光に目がくらみ、壁に手を着いた瞬間、廊下は消えた。

 そして目の前に転がっている杯。

 赤々と爆ぜる炎。

 己が地に伏しているのだと悟った時、頭上から声がした。

「みんな、怖かったんでしょう?」

 それは女の声だった。動かないこの身体は知っていて、ソテールは知らない、声。

「彼は人間じゃないわ。化け物よ」

 炎の周りには何人かの影があった。

 反論は上がらない。

「彼は竜も悪霊も蛮族も何もかも殺していく死神になってしまったわ。きっと最期は私たちが飲み込まれる」

 あぁ、前に見た夢と同じだ。

 転がっているのは毒杯で、急速に冷えていくのはこの男の身体と精神。

「この人はもう英雄じゃない」

 ゆっくりと閉じたまぶたの裏で、零れた言葉が美しく滑らかな波紋を描く。

 一枚の枯葉が北風にくるくると舞い踊り、泉に吸い込まれるように。

 冬の足音迫る冷えた大地に湧く、黒々とした底のない泉。

 のぞいても己の顔しか映らない、静かな内省の泉。

 ソテールの意識さえもその深淵と同化し──そして夢は醒めた。

「ヴェルトール隊長は意外と軟弱ですね」

 ヴィスタロッサのミもフタもない感想によって。

「……そういうことは本人がいないところで言え」

「うわ、起きた」

「起きましたか」

 デュランダルは忙しいとかで部屋にパリスの姿はなく、代わりにヴィスタロッサとクレメンティがいた。大量の食べ物と書物が持ち込まれているのを見ると、看病と称してサボっていたのだろう。

 ソテールが寝台に起き上がりヴィスタロッサが注ぎ直した水を口にしていると、クレメンティが暗褐色の法衣を払い傍らに座った。

「頭痛は?」

「今はひどくはない」

「カリスの薬が効いたか?」

「絶対認めない」

 眼鏡の奥が一瞬笑う。しかしすぐにいつもの面白味のない真顔に戻った。

「クロージャーとレンツィがボヘミアへ発った。どうやってでもパリの聖カタリナの預言を成就させたいようだな、デュランダルは」

「愛する神の言葉には盲目的に従う、絶対の忠誠心をもって。パリスはそういう奴だよ」

 正義の旗と折れない聖剣をかざす彼を止められる者は誰もいない。

「クロージャーは始末人クルースニクの本分を理解しているとは思うが、」

 彼ら白い始末人の使命は、いつか来たる審判の時、ひとりでも多くの者が神の国の住人となれるよう人を護ること、だ。例え、己は神を裏切り堕ちることになったとしても。

「思うが、あの人がパリスの息のかかったレンツィを止めるとは思わない……」

 ソテールは万年サボリ魔の叔父を思い浮かべ苦笑した。

 クレメンティでさえロクに動かせなかった御仁だ。それをどうにか働かせているパリスの手腕は買ってやらなくもないが、狂気の正義が暴走したとしても、あの人は徹頭徹尾傍観するだろう。何かが自分の身に降りかからない限り。

「ふたりをボヘミアへ送る理由は、預言の正しさを証明し、聖カタリナの神性を内外に知らしめて、聖女としてのパルティータはヴァチカンにとってもはや無用だと示したい、パリスは会議でそう発言していたが」

「建前だな」

 あの屈折した天使が本心を公にするはずがない。

「本当にそうしたいのであっても、そうする理由が別にあるはずだ」

「だろうがな、フランスがナポリを狙っている話が現実的になってきて、会議はボヘミアどころではなかった」

 クレメンティの琥珀の双眸にソテールが映る。

「カタリナが聴いた神の言葉は“扉を開けよ”。しかしお前は閉ざしたいらしいな」

「あぁ」

「何故」

 問われても、その答えを持ち合わせていない。ただ嫌なのだとしか言えない。

 ソテールは未だ熱気をはらんだ風を運んでくる窓へ目をやった。陽はだいぶ傾いている。

「クレメンティ、アンタ、ヴェルトールとは何者だと思う」

「我々の世界を暗黒都市の魔から護る者の長」

 出戻り司教は逡巡なく答えてきた。

「ではユニヴェールは」

「シャルロ個人ではなく?」

「ユニヴェール家」

「我々の世界を暗黒都市の魔から護る者。長と双璧を為す者」

 ヴァチカンの人間としては模範解答だ。

 だが記憶と夢が混ざった雪山でのユニヴェールの冷笑が過ぎる。

 輝かしい栄光の足下を侵食しようとする負を、一身に受ける者。

「ある意味正しい。だが違う。……違うと、ようやく分かった気がする」

 ソテールはまだ冷たさを保っているガラスをそっと指先で撫でた。

「ヴェルトールは領土を持たない。貴族でもない。出自さえ正しく遡れない。なのに何故デュランダルの長だった? 何故、権力争い激しい万魔殿パンデモニウムで長年特別扱いされてきたと思う?」

「…………」

「疑問に思わなかったことの方がおかしい。慣習として当たり前になり過ぎていて、誰も不服を唱えなかったが、おかしいんだよ、ヴェルトールが権力を持っていること自体」

 クレメンティが眉を寄せるのを横目、ソテールは蒼眸を閉じてその脳裏に南フランスの吸血鬼の輪郭を探した。

「それは、ユニヴェールがヴェルトール以外に従わなかったからだ」




 ユニヴェールはひとり、薄暗い城内を歩いていた。正確には探索。

 鍵を探すためではなく、この城に堆積した歴史を知るためだ。

 今のところ分かったことは、城の上物うわもの自体はアネシュカ・チェスカーの生きていた時代より少し前のものが大半を占めるようだということ、だが城の土塁はここが遥か昔から砦だったことを示していること、いずれの時代も完全な住居としては使われていなそうであること、城の石積みに「T」と刻まれた石が点在していること。

 ここが要害の地であることを鑑みれば、当然とも言える結果だった。

 そして城下で聞き込みを行っていたアスカロンから受けた報告は3つ。

 酒場の職人たちが旅人たちに語る、アネシュカ・チェスカーの甥であるチェコ王オタカル2世とドイツ王ルドルフ1世との戦争において、どこからともなく現れた傭兵部隊がルドルフの軍を蹴散らしたという一夜伝説。

 店番の若い娘たちが隣家の子どもたちに聞かせる、丘の上の廃城──つまりここ──には古の獰猛な竜が閉じ込められており、アネシュカ・チェスカーは死してなお、それが解放されないよう監視しているという竜の伝承。

 ルナールがボヘミア到着。

「一筋縄ではいかない地だということだけしか分からんな」

 伝承や民話には一握の真実が混じる。細かく割って繋げていけば解が出るはずではある。

 吸血鬼は歩きながら手袋を取り、直に石壁を撫ぜた。指に付着する砂粒を弄りながら、この昏迷の地にどれだけ長い年月の因縁が埋まっているのか思いを馳せる。

「おや」

 歩いているうちに、中庭に臨む明るい空間に出た。

 燦々(さんさん)と降り注ぐ陽光を浴びた夏草が繁茂している庭の奥には、蓋がされた井戸。屋内には土造りのかまどと炉が並んでおり、今にも崩れ落ちそうな大きなテーブルが置かれ、察するにここは炊事場だったのだろう。

 人間が生きていた時代があったことを色濃く思わせる、古色蒼然とした空間。しかしここで生きて動いていた人間たちはおよそすでにこの広大な大地の糧になっている。誰かにとっての生々しい一瞬一瞬は、やがて必ず色褪せこうして“歴史”と呼ばれるようになるのだ。

 ユニヴェールは無意識に足下へ視線を落とした。

「…………」

 だが、浮かんだ感慨に対してつぶやくべき適当な言葉が見当たらず、彼は諦めて視線を戻し──、

「!」

 息を止めた。

 これまた生活の残骸と化している木製の大棚の中に、鮮やかな緋色の鳥の羽根が入った瓶が並んでいるのを見つけたのだ。保存食や食用ハーブの簡易置き場だったのだろうが、その炎のような美しさは一際目立った。

 引き寄せられるように手に取る。

 漂う砂がチラチラと煌めく中で外の光にかざして見れば、彼の掌より大きなそれは暖かな火焔の色合いで揺らめいた。

「何の鳥だ? 分からん」

 ひとしきり愛でてから、とりあえず仕立て屋への土産にでもするかと彼は黒衣の胸ポケットに羽根を挿す。そしてもうひとつ、一緒に詰められていた小さな皮紙の一片を取り出した。

「これは……」

 広げればすぐ、見覚えのある烏の紋章が目に入る。

「コルヴィヌス」

 彼は眼差しを険しくした。

 羊皮紙の上部で澄ましていたのは、パルティータの母方の紋章である(コルヴィヌス)だったのだ。

 そしてその下に描かれた五線譜とリズムよく踊る音符。

 ユニヴェールはその通りに指で壁を叩いた。

 そして深く息をつく。

「……あぁ……ルナールがパルティータに教えていたハインリヒの歌か」

 ボヘミアへ来る道中で滞在したザルツブルク東部の湖畔が眼前に広がる。彼女はバルツァーから拝領したという笛の練習をしていた。その時奏でられていた歌が、今、手元にある羊皮紙に連なっている。

 これを見つけるのがユニヴェールとは限らない。だからこそ言葉は忌避された。

「……フ」

 知らず、笑みが零れた。

 糸口を見つけたのだ。

 彼女自身の意志によってユニヴェールへと伸ばされている手、その指先を見つけた。後はしっかり掴むだけだ。

 吸血鬼は黒衣を翻した。



 城の側塔はいずれかの戦いで上部が破壊されたようだったが、二階に設えられた礼拝堂は形を残している。人間ならば更なる崩落を怖れて近付かないかもしれないが、ユニヴェールには関係がない。足音を響かせ石灰岩の階段を昇って行くと、しかし先客がいた。

「シスター・アネシュカ」

「……ユニヴェール様」

 同じ石灰岩で造られた簡素な祭壇の前にひざまずいていた修道女が、おもむろに立ち上がる。

 左右の高窓クリアストーリから光が入り、そこは城内よりも光(まばゆ)い。

「お連れ様はまだ見つかりませんか」

「はい」

「残念なことですが、我々にはどうしようもありません」

 パルティータとはまた別の、傲慢な天使のような無表情。

 年齢不詳の白い仮面。

「どうしようもない?」

 ユニヴェールは数個並べられているだけの長椅子の背に手をやった。

「まだ大丈夫ですよ」

 私が正気である間は世界はまだ息を出来るでしょう──彼は続けようとして台詞を切った。シスター・アネシュカはまだこちらが商人だと思っている。

「ところでシスター、幾つか質問をしてもよろしいですか」

「……はい」

 変なところで警戒の色が浮かぶ。

「貴女は何故ここで修道院長をなさっているのですか」

「町のためです。貴方たちのような方からアネシュカ様の城を護るためです」

 “アネシュカ様”とは、初代のアネシュカ・チェスカーのことだ。ややこしい。

「いつから?」

「さぁ、いつだったでしょう」

「では何故鍵をヴァチカンへ渡さないのですか。僭越ですが、ボヘミアは、フスの件で損ねたヴァチカンの機嫌を取っておいた方がよいと思うのですが。またモラヴィア軍に包囲されかねない」

 吸血鬼は長椅子ひとつ分、彼女に近付く。

「あの人たちは扉を開けるつもりです」

 畏れのない、きっぱりとした拒否。

 しかしこの場合、「渡す鍵がどこにあるか分からない」が正答だ。

 でないと、鍵についての解は得ていることになる。

 ボヘミアが護る鍵、ヴァチカンが開けたがる鍵、パルティータを隠す鍵、メムが手に入れたがる鍵、ケット・シーが捜す鍵、それらは同一なのか否か。

「神が開けろと言っているならば、従った方がよいのでは?」

「アネシュカ様は開けてはならないと仰せです」

「貴女は、神の言葉よりも聖アネシュカの言葉優先すると?」

「それが我々の使命です」

 “我々”、複数形。

 人間の修道女がユニヴェールを見据えてくる。それは彼が“ユニヴェール”であることを知らないがゆえに出来ることなのか、それとも別の何かなのか、興味が湧いた。

「貴女は扉の中には“過ち”が入っているとおっしゃっいましたね。それは、貴女が扉の中身が何かご存知だという意味ですか?」

「いいえ。我々は扉の中に何を閉じ込めているかは存じません」

 ──“閉じ込める”、つまり鍵をかけなければ自ら出てこようとする何か。

 そして吸血鬼は気付いた。

 パリの仕立て屋は何と言っていた?

 “彼女が迷い込んだ先にいるのが言葉の通じる相手なら良いですね”

 あの男もまた扉の先に“能動的に動く何か”が存在していると思っている。

 ユニヴェールはふたりを隔てる長椅子がなくなったところまで近づいて、

「シスター、最後にひとつ。それは誰の過ちなのでしょう」

 頬に手をかけ──

「ユニヴェール卿~、手掛かりはありましたかァ~?」

 お約束のように邪魔をされる。



「パルティータはここにいる。黒い森と暗黒都市が繋がっているように、この城もどこかへ繋がっているはずだ」

 ユニヴェールは階下へ降り、冷たい石壁に背を預けていた。

「鍵はそこへ通じる扉を開くということですか?」

 パリの仕立て屋が芝居がかった様子で眉を寄せる。

「だいたい、パルティータはどうやって入ったんでしょうねぇ。まさか行方不明のバルツァー卿まで入ってたりしませんよねぇ」

 腕組みをして唸った彼が、顔を上げた。

「それで、どうするんです?」

「あれは帰ってくる気だ。であれば、どこにいようと連れ戻す」

 しばしの沈黙があり、見やればメムがこちらの顔を正視していた。

「……彼女にとってはその中の方が安全で平和かもしれないのに? 貴方にとっても世界にとってもその方が安全で平和かもしれないのに?」

 何が気に入らないのか、今日はやけに絡んでくる。

「生憎と私は、誰かの幸せと安寧を願うほど人格者ではない。生憎と私は、保身を考えねばならないほど弱くはない」

「それが彼女を潰すことになっても?」

 ──あぁ。

 仕立て屋が案じているのは一般論だ。彼が過ごした歳月の中で経験した、(他人の)後悔や悲劇の物語を重ねているのだ。かと言ってこの男は決してパルティータという個人を気にかけているわけではない。また歴史を繰り返すのかと、単純な興味で言っているだけだ。

「卿は彼女が大事なんでしょう? そういう存在こそ、手元から離れていても心平穏に過ごしていてほしいと思うもんなんじゃないですか?」

 すべて伝聞形なのが生粋の魔物である彼の限界。

 ユニヴェールは半眼で睨んだ。

「店長。パルティータは化け物に喰われているかもと最初に言ったのはお前だぞ」

「そんなこと言いましたっけ?」

 オリエントの魔物がうそぶいて口端を上げる。

 彼の腕の金環に斜陽が反射して目が痛い。

「でも彼女は──」

「あれは、私には決して手に入れることができない類の人間だ」

 ユニヴェールは静かに仕立て屋の口上を遮った。

「……それは、生者と死者という意味で?」

「いいや。例え死んだとしても、殺したとしても、もしあれにこちら側に堕ちる意志があったとしても、暗黒都市の者には手に入れられない。サマエルが余裕をかましているのもそのせいだ」

 いぶかるメムに、

「推測だがね」

 ユニヴェールは浅い嘆息を漏らした。

「あれは、半分あちらのもの。そういう契約だろう」

 指を一本立て、灰色の天上を指す。

「あちら……」

「おそらく、ソテール・ヴェルトールも同類だ」

 仕立て屋の目が指先を追い、石灰岩の天井を仰いだ。

 ふたりのどちらも立ち入りを拒否されるだろうおおいなる聖域。

「珍しいですね、貴方が初めから降参しているなんて」

「……降参? そう聞こえたか?」

 その言葉は心外だった。

「そう聞こえましたよ」

「では言い直そう」

 ユニヴェールは外していた白い手袋をはめ直した。

「あれはお前が思うほど現実に従順な人間ではない。気に入らなければとことん抗う。そして私は、私の主(セーニ)仇為あだなすものはすべて排除する」

「いずれ分かたれる道だとしても?」

 メムがやれやれと呆れた笑みを浮かべていた。

「その時は、真ん中に、もう一本道を造るか」

「貴方に造れますか? 壊すことしか出来ない御人だと思っていましたけどねぇ!」

 ケラケラと笑って吸血鬼の肩を小突こうとしたらしい仕立て屋が、

「…………」

 ふいに黙った。

「…………」

 古の視線がじっと黒衣の胸元を凝視している。

 ゆらめく赤い赤い鳥の羽根。

「ユニヴェール卿、これを……どこで?」

 凍てつく声音。

「炊事場らしいところで拾った」

「…………」

 メムが羽根にそっと指を伸ばし、しかし触れずに引っ込める。そしてゆっくりとユニヴェールへ視線を上げてくる。

 滑らかな顔貌が驚愕に引きつっていた。

「……卿は、その羽根をもつ鳥をご存知ですか?」

 どうにか絞り出された吐息。

「ここまで美しく赤い大型の鳥はボヘミアには生息していまい」

「そのとおりです。……その羽根を持つ鳥は、ボヘミアどころか、この地上には存在しません。……フェンリルやサイクロプスと同じ、いわゆる伝説上の生き物です」

 メムは、一言一言、自身に確かめるように言う。

 彼の顔に表れているのは緊張と動揺だった。ユニヴェールなど吹けば飛ぶような歳月を重ねているはずの魔物が、感情を取り繕えていない。

「……きっとどこかにアイヴィーの紋章も残されているでしょう」

 それはほとんど独り言。

「その鳥の名は、“シムルグ”。すべての鳥達の王です」

 鋭利なはずの金色の双眸がボヘミアではないどこかを見つめる。 

「彼がここを訪れていたということは、扉の鍵をかけたのは相当厄介な輩かもしれないということです。あるいは──扉の中身はすでに空かもしれない」

「…………」

 メリル・ジズ・メムは元々暗黒都市の地下都市アジ・ダハーカの商人だ。女王は厳格な政治を布いているわけではないから、アジ・ダハーカにもほとんど口出しはしない。代わりに有象無象の商人たちを束ねているのはナルバートン商会という組織である。

 メムの絶句は個人の範囲なのか、それとも商会全体に広がる動揺なのか。

「…………」

 ユニヴェールは目を細めて仕立て屋を見下ろした。

 一体この男は、何を目的にここへやって来たのか。

「でも、まさかな……」

 考え込むメムの向こうから、イグナーツの不機嫌な顔が現れた。

「──これはご両人おそろいで。シスターは上にいるか?」

「はい。どうなさいましたか?」

 ユニヴェールが物柔らかに応じると、騎士は苦虫を噛み潰した顔をする。

「ヴァチカンの使者が町に到着した。ひとり瀕死だがな」

「クロージャーだな」

「クロージャーですね」



To be continued.


Dwayne Ford [Peace and Chaos] [End Times Lullaby]

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