第26話【ボヘミアの敗北】-1. Nightmare
狼の毛皮の上に横になり、暗闇に爆ぜる火焔を見つめる。
先程まで参謀たちと討議していた明日の作戦を反芻しながら、彼は妻が差し出した酒の椀を受け取った。
「そろそろお休みになっては?」
「あぁ」
戦いが世界のすべてだった。
荒々と広がる原野は力と力の衝突によって奪い奪われてゆく。馬を駆り、槍で薙ぎ払い、鈍器を振り降ろし、転がる幾多の屍を越え、敗れた部族は潰れ名を失い勝った部族はそれを飲み込みさらなる前線へ進軍する。
大地は流された鮮血を吸い、その泥濘を蹄が叩き軍靴が踏み打つ。
彼は常にその奔流の先頭にいた。
剣をかざし、馬を追い、蠢く死の中へ斬り込んで行く。
「明日には決するだろう、そうすればしばらくは落ち着──」
酒を呷り、椀を置く。
その手が震えた。
「──!?」
理解する間もなく変調が全身を支配し身が凍る。
口を開けて喘いでも呼吸が出来ない。
胸に強烈な激痛が走り思考が停止する。
「ごめんなさいね、あなた。でもこの方がみんな幸せなのよ」
何かを問う余裕も伝える余裕もなかった。
「少なくとも明日の戦いで夫を亡くす女はいなくなるわ」
歪む視界の中で妻がため息をつき、そしてその肩を抱く男が現れる。
まさに明日首を討ち取ろうとしていた敵部族の将が、下卑た笑みでこちらを見下ろしていた。
「戦とは、何も棒っきれ振り回すだけじゃねぇのよ、英雄様」
「……そうか」
命の火が消える瞬間に生まれたその感情を表す言葉を彼は知らなかった。
知らないまま、湿った荒野の土の一片を握り締め、渾身の力で殴りかかる。
──!
「……!?」
ソテール・ヴェルトールは荒く息をついたまま、現状把握に努めた。
自分が殴った相手は見知らぬ敵将ではなく寝台横の水差しだったようで、絨毯にはガラス片が散乱し、サイドテーブルの角からは水が滴っている。
彼は窓から差し込む青白い月光を含んで落ちてゆくそれをしばし呆然と見やり、そして握り締めたままの己の手が無傷であることを確認し、
「夢か」
今どき三流芝居でも言わないベタな台詞を口にした。
ソテール自身はまだ死んだことがないので、知らない男が知らない男に殺される夢を見たことになる。まったくもって意味不明ではあるが、夢なんてそんなものか。
死んだことのある奴といえば……一瞬パーテルの吸血鬼の冷笑が脳裏に過ぎるが、頭を振って追い払った。死んだ状況が全く違う。あれは自ら死の沼に沈んだのだ。
振った頭を静止させた途端、全身の関節が軋む痛みを思い出してソテールは低く呻いた。
彼はこのところずっと、今まで経験したことのない高熱に苛まれていた。
生まれて此の方、寝込むほどの病を引き込んだことは数えるほどしかなく、それも大抵が原因が明確なものだった。西アルプスで遭難しかけたとか、ヴェルザスカの谷川に落とされたとか、冬のボスニア湾で溺れかけたとか。そして全部元凶は先程の冷笑の主だ。
「ソテール、大丈夫ですか!?」
フリードが駆け込んで来るのが視界の端に入ったが、頭痛が脈打ち世界がぐらつく。
自分は返事をしたのかしていないのか、
「ドクター・ファウストを起こしてきます!」
入って来たばかりの若者は慌てふためきながら跳び出して行った。
──鍵を
まとわりつく寒気と止まない頭痛に、とうとう幻聴が聞こえ始めた。
──鍵を開けよ
非常にマズイ状態であると頭の片隅が警鐘を鳴らしてきたが、そのわずかの理性でさえ響く痛みと声とに侵食されていく。増水する川が驚くべき速さで石と石の間を泥水で満たしていくように、神経と血管の間を何物かに汚染されていく悪寒。
苛立ちと焦燥の濁流が溢れかえる。
耐えているうちに沸々と怒りが湧いてきた。
今の状況に置かれている理由と意味が分からない。
──鍵を開けよ
「開いてただろうがーッ!」
彼は腹の底から叫んでがばりと身を起こした。
「……はい?」
そして再び呆然と瞬く。
おかしい。
彼は今、吸血鬼始末人の精鋭達が住む隊舎の一室で高熱に悶えていたはずだ。
それがどうして、白い花ばかりが咲いている小さなお花畑のど真ん中に立っているのだ。
森厳な木々に囲まれた秘密の花園。ソテールはカリスほど植物学に造詣が深いわけではないので個々の名前は分からなかったが、そこにはとにかくたくさんの種類の白い花が所狭しと集っていた。
吸い込む空気までが蛋白石色の柔らかな煌めきを帯びているようで、思わず息を潜める。
「夢か。絶対これは夢だろ」
でなけりゃ死んだな、と付け加える。
だがあれだけ歴史の裏で色々やらしかした最期が高熱にうなされて自室の寝台で死にましたでは何のオチもつかない。格好がつかない、微妙に笑えない。ユニヴェールあたりは腹を抱えて笑いそうだけれども。あいつは窒息してもう1回死ねばいい。
「さっきの夢とは無関係か?」
おっさんとおっさんが牙を剥いていたあの場面とは世界観があまりにも違い過ぎる。
ここには戦争の「せ」の字もなさそうだった。死も裏切りも。というよりも森と花畑以外何もない。
視力の届かぬ森の奥を探索しようとしてはじめて、自分がクルースニクの白い隊衣に身を包んでいることに気が付く。
「いつの間に」
帯剣しているか確かめようと視線を己が身に落とし、
──鍵を開けよ
声を聞いた。
だがそれは大気が震えた音ではない。耳は何も聞いていない。花の香を連れた軟風の一片もなく、この舞台には鼓膜を揺らすものが何もないのだ。
深く息を整え、全身を研ぎ澄ます。夢だと断じたことも忘れて、次の何かに備える。
──鍵を開けよ
ソテールは息を止め、伏せたままの蒼眸を横に滑らせた。
影が、巨大な生物の淡い影が、広大な糸杉の森を滑り花畑へ迫り来ていた。
反射的に上空を仰いだが、そこに何もいないことは何故か知っていた。
実体のないその影は、羽ばたく音もなく花も揺らさずソテールと花畑を過ぎ、森の薄闇へと消えてゆく。
──鍵を開けよ
バカの一つ覚えみたいな言葉だけが空虚な世界に残される。
「──鍵って何だ?」
「鍵ですか?」
独りごちたはずの呟きに返事があり目を見開くと、眼前に涼しい顔をした男の顔があった。
「は? カリス?」
「そうですよ。貴方が死にそうだとフリードが言うので、来てみました」
心配して来たのか冷やかしに来たのかは、いつも通り澄ました顔からは判別がつかないが、どうせ後者だろう。彼ら古参のクルースニクは、ユニヴェールのような規格外を相手にしてきているせいで、自分たちも死なないと錯覚している節がある。
半眼で見返していると、枕元に置かれた椅子に座ったヨハン・ファウストが、
「昼間は良かったのに、夜になってまた熱が上がったみたいだ。ちゃんと薬飲みました?」
メガネの奥から疑わしげな視線を向けこちらの額に手を当ててきた。
その背後には心配が駄々洩れになっている顔のフリードが立っている。聖なる庭の中でソテールの味方はきっとこの弟子ひとりだ。
「飲んだ。そもそもあの薬は全然効いてない」
「噴水の中にでも浸けておけば下がるんじゃないですか?」
聖母の笑みを浮かべるカリスは、病を治すためという大義名分の下ならばどんな実験をしてもいいと思っている。
思い付いた荒療治の方法を嬉しそうに並べ立てていくカリスを横目に、
「全く、ヴェルトール家はってのどうなってるんだよ」
ファウストが苛々とサイドテーブルを叩いた。明るい夏の夜に、それはむしろ軽快に響く。
「家? クロージャーのことか?」
「あの人も調子が悪いって、」
クロージャー・ミルトスはソテールの叔父だ。ヴェルトールはヴェルトールを継いでいる者以外ヴェルトールを名乗らないが、彼も正当なヴェルトール家の一員ではある。仮にソテールに何かあればヴェルトール家を継ぐのはあの要領のいい飄々とした御仁だ。
「具合悪い具合悪い言ってげんなりしながら任務に行ったよ。貴方が気にしていた鍵のことで」
「鍵」
ソテールが単語だけを反復すると、カリスがそれを流れるような文章に展開してくる。
「パリスがパリでカタリナから受け取った預言は“扉を開け”。その扉の鍵はボヘミアの森が隠しているそうです。なので、クロージャーとレンツィが回収に向かいました。ボヘミアはヤン・フスの一件でヴァチカンに負い目がありますから、揉め事にはならないとは思いますが」
「……あんなところまで病人に馬を駆れってか。お前たちの上司は鬼だな」
「常に想定の斜め上をやらかして部下たる我々に迷惑をかけてくれた貴方たちも、同等です」
「……!」
反駁しようとして言葉が出てこないソテールに、
「そんなことありません、大丈夫です、ソテール隊長」
フリードが根拠なく拳を握る。
「フリード、貴方はこの人間の昔の所業を知らないでしょう?」
「……知らないので聞きたいです」
「あー、頭が痛い! 誰も治せないんだったらさっさと出て行ってくれないかな!?」
「扉を開けるには、鍵が必要です」
パリの夜空を切り取った窓枠の前で少女が声低く言った。
就寝前、天啓があったのだという。
──時が来た 扉を開けよ
彼女の前に跪いていた上司が「それではすぐにその鍵を取り戻しましょう」と立ち上がる。
「お願いね。気を付けて」
繊細なレースをあしらった白い夜着に身を包んだ少女がほんの少しの憂いを滲ませながら同じく曇りない白の騎士隊衣をまとった上司の手に口づけを落とすその様子は、古の伝承の中に登場する姫と英雄のようだった。
これこそが民衆が望んでいる聖女。
神の声を聞き、伝え、導き、静謐な慈愛を湛える、千年王国の使徒。
後見人であるデッラ・ローヴェレ卿が教皇選挙でボルジアに敗れて以来パリに留まっている事情で、上司の新しい主人であるという少女カタリナはフランス王国の手元にある。
ヴァチカンとパリ、人間にしてみれば随分な距離があるだろうが、彼の上司も彼も人為らざる者なれば、その距離はあまり意味を為さなかった。
だが、ヴァチカンの者がフランスと通じていることが公になっては面倒な時勢だ。若いフランス国王はナポリ継承を声高に叫んでいるが、教皇は認めていないのだから。
「レンツィ、クロージャーを連れて行ってください。それから近い街の聖騎士も」
部屋の扉をそっと閉じると、パリス──サマエルが言った。
「はい?」
カタリナの預言によれば、扉を開くための聖なる鍵はボヘミアの寒村に隠されているのだという。そんなものヴァチカンが神の御名において接収すれば済む話だろうに、何故わざわざ出向く必要があるのか。
疑問符を隠さなかったレンツィに、階段を降りていたサマエルが足を止め碧眼を向けてきた。
「パルティータがユニヴェールを伴ってあの辺をウロウロしているようです」
「え」
パルティータ・インフィーネ。上司の元主人だ。正確には彼女の父親と契約していたようだから、主人というのは語弊があるけれども。
「彼女は結局どこにいたんですか?」
今年の春、彼らデュランダル(とオートクレール)が、吸血鬼のエサとして誘拐された子女を暗黒都市から救い出したあの華やかな活躍の後、何故かその場にいたパルティータ・インフィーネは突然行方不明になった。
パーテルの屋敷には戻っておらず、サマエルやレンツィの情報網にも一切引っかからない。ソテール・ヴェルトールも知らない。それどころか彼女の雇い主であるユニヴェールの姿までが忽然と消えたのだ。
「さぁ、分かりません。しかし中欧のどこかにいたようですよ」
足音を立てないまま、再び階段を降りはじめるサマエル。
「そもそも人間が暗黒都市のユニヴェールの領地に足を踏み入れて生きている方がおかしいんです。暗黒都市の塵さえ入らない場所で療養していたんじゃないですか」
「それで元気になったからってあの辺を周遊ですか?」
「レンツィ。貴方は、我々の行く先にパルティータがいることが偶然か否かと問いたいわけですか?」
サマエルが乾いた笑いを漏らす。それは答えを知らない者の諦めた笑いだった。
「どちらでしょうね。私が訊きたいくらいです」
カタリナが滞在しているのはパリの片隅にある一般の住居だ。みすぼらしくはないが大きくもない、それこそ二言三言言葉を交わせば階下に着いてしまうほどの。
眠りに沈むパリの通りへと続く木戸に手をかけ、月光の交じる藍色に染められた上司が声を落とす。
「彼女は昔から本心を明かしませんよ、私には」
本心が分からないなら明かしているかいないかも分からないのではと出かかったツッコミを飲み込み、
「でも、彼女は最終的に貴方の手を振り払えないと思いますけどね」
レンツィは上司の後ろ姿へ言ってみた。長年考えていたことだ。
「……振り払ってヴァチカンを出て行きましたが」
そういう意味じゃない。
レンツィは上司の言葉を無視して続けた。
「少なくとも貴方を滅ぼしたくてユニヴェール卿の下にいるわけではなさそうですし」
アスカロンの人物評によればあの吸血鬼は身内に仇なす者に対しては明確な敵意をもって単身乗り込んで来るようだが、今のところ公務員業務以外の態度を見せられてはいない。
「むしろその方が分かりやすくて楽なんですけどね」
「……ユニヴェール卿も同じことを思っていると思いますよ」
パルティータはサマエルと絡む細い糸を本気で断とうとはしていない。それを察しているからこそ、あの化け物は動けないのだろう。ソテール・ヴェルトールの地位さえも奪った我々がいかに目障りであっても。
「…………」
しかし先を行く上司からはそれ以上返答はなかった。
神の導く白い箱庭を創り上げる──彼らにとってそれ以上に優先される事柄は存在しないからだ。パルティータがどうとかユニヴェールがどうとか、根本的にはそんな会話に意味はない。
野犬の影がうろつくパリの夜更け、白い聖衣は輪郭を失い月光に溶け──
「ああああああ、死ぬ」
「!」
いきなり横から絶望と怒りに満ちた叫び声が届き、レンツィは我に返った。
ボヘミアへの森を目指す道程の半ば、あまりにも単調な景色が続くのでつい目を開けたまま過去に耽ってしまっていたのだ。
レンツィは軽く頭を振って静寂の夜の残滓を払うと、
「大丈夫ですか? クロージャー」
並走する葦毛の鞍上を見やった。
「大丈夫に見えるかよ」
「……いつもと同じに見えます」
「パリスも同じこと言いやがったよ」
ヴェルトールの燦然たる看板を全身で体現しているソテール・ヴェルトールとは逆に、彼の叔父であるクロージャー・ミルトスは常に全力のやる気のなさを体現している。
隊服をちゃんと着ていることは滅多にないし、日中の大半は木陰の長椅子で寝そべって何やら読んでいて、与えられた任務はどうにかして簡略しようとする。効率が良いというよりは、合格のギリギリ最低ラインまでだけしかやらない、という方が正しい。
それでもデュランダルに在籍しているのは突出した才能があったからなのだが、加えて「俺は普通に生きたい」と反抗することさえ面倒臭かったから家に命じられるまま入隊したのだそうだ。
それでもソテールよりも長い間クビにもならず死にもせず勤めて続けているのだからバカにはできない。
「ったく、頭痛ェって言ってるだろうが。駈歩の一歩一歩が響くんだよ、勘弁してくれ」
今日はついに脱ぎ捨てられた隊衣が丸めて馬の背に括りつけられているのだが、それでも夏の日差しが堪えるらしく額に汗を滲ませ不機嫌を隠しもしない。
「どうしてソテールは休みで俺は仕事なんだ。差別だ!」
「それは上司が違うからですよ。次の町では聖騎士隊の宿舎を借りられるはずですから、もう少し我慢してくださいよ~」
レンツィはやさぐれ始末人を宥めつつ、道の前方に視線を戻した。
素朴な畑が折り重なって続くなだらかな丘陵地帯。
その向こうの空気に昏さを感じるのは、これから赴く国がカトリック教会に反旗を翻したフス戦争の火元であったからか、異教の大国オスマン帝国の風が匂う景色のせいか、それともローマ帝国が屠ってきた数多の古き神々の墓場であるからか。
「レンツィ……その町とやらにはいつ着くんだ?」
「……たぶん夜です!」
赤毛の始末人はきらめく陽光に負けない明るさを振りまいた。
クルースニクの二人組がどうにかその予定されていた町に辿り着いた頃。彼らの最終目的地であるボヘミアの某所では、奇妙な会談が行われていた。
「こんなところで高名なシャムシール殿にお目にかかれるとは、いやはや世の中何があるか分かりませんね!」
「僕、そんなに有名だったんだ?」
「そりゃあもう!」
会談の主役はユニヴェール家の三使徒、一番小さいシャムシール。
会談の相手は、
「我々の間では!」
肉球をぎゅっと握る黒い猫だった。
世界が夕闇に支配される前のひととき。
地元の人間と旅の商人が入り混じる街の大衆食堂は、仕事を終えた職人たちが酸っぱい麦酒を酌み交わす大声に溢れていた。とはいえ労働から解放された陽気な笑い声に満ちているわけではなく、単に隣のテーブルに負けじと声を張り上げているうちに収集のつかない騒々しさになっているアレだ。
食堂全体を見渡せる隅に身を置いたアスカロンが客ひとりひとりを観察していると、
「顔が煤けてる人たちはガラスの職人さんかしらね?」
その正面に座っているパルティータがぽそりとつぶやいた。
彼女は鴨の煮込みをつつきながらも、人々が喧々諤々しているのを面白そうに眺めている。埃っぽいのも、テーブルがガタガタするのも、店主に愛想がないのも、客のガラが悪いのも、食べかすが床に散らばっているのも、特に気にしている様子はない。
そして時々顔を斜め上に向けて目を閉じている。まるで聖堂に響く讃美歌の和声を聴くように。
「まぁ、だろうな」
背後に広がるボヘミアの森からは燃料となる木材が豊富に伐り出せる。谷沿いに流れる川からは質のいい珪砂が採れる。その恩恵によってこの場所は昔から教会や聖堂向けの色ガラス製造が盛んで、世間でもそこそこの知名度があった。
「ビザンツが死んだ時に一気に職人が増えたって話だしな」
つい数十年前のことだ。オスマン帝国の侵攻に屈してビザンツ帝国が滅びた時。
「……へぇ?」
パルティータの返答が曖昧だったのでアスカロンは補足する。
「あの時代はヴェネツィアのムラーノ島にガラス職人が隔離されてたんだけどよ、帝国崩壊のどさくさに紛れて逃げ出したのさ。ヴェネツィアは自治領とはいえビザンツの傘下だったからな、あそこも大混乱だった」
ガラス工房は火を扱うので火事を起こしやすい。それを疎まれて島に押し込められていたのだとも言われているし、ヴェネツィアングラスの製造方法を外に漏らさないためだったとも言われている。
「混乱に乗じて逃げ出した職人たちがこのボヘミアへ流れ着いて、それでまたココの技術が飛躍的に向上したんだとさ。ヴェネツィアはみすみす敵に塩を送っちまったわけだ」
皮肉げな笑いを口端に乗せながらもアスカロンは店内をくまなく警戒し──
「…………」
突然半眼になった。
「……なんだアレ」
彼は眉を寄せて首を傾げながら視線の先に手を挙げ合図を送る。
その相手こそが、深草色の法衣をひきずったシャムシールと二本足ですっくと立つ黒猫だった。
「鍵を探してほしい?」
シャムシールが木苺パイにフォークを突き刺しながら黒猫の言葉を復唱していた。
「はい」
ホットミルクを前にした黒猫は──彼はケット・シーと名乗った──神妙にうなずく。ケルトの妖精がなぜこんな東欧をうろついているのか尋ねたくもあったが、とりあえずシャムシールの客なのでアスカロンは黙る。
「我々の一族は代々由緒ある墓守だったのですが、何ゆえか墓への扉を開く鍵を失い墓守としての任を全うできない状態にあるのです」
「閉め出されちゃったってこと?」
「お恥ずかしながら」
ケルトの妖精がそう言うのだから、これは単純に「錠が開かない」とか「裏木戸も開けられない」とか「塀をよじ登れない」とかそういう類の話ではない。暗黒都市のような、特殊な方法でないと行き来が出来ない場所のことを指しているはずだ。
定められた鐘の音と郷愁の歌がなければ道が開かれなかったという暗黒都市の箱庭が脳裏に過ぎる。
「私は親から子へ伝えられてきた内容に従いこうして鍵を探し続けておりますが、一族の中には人間に媚を売り餌をもらう安穏とした生活に浸るうちに言葉も失い単なる猫に成り下がってしまった者も多く、このままでは遠からず墓守を任じられた記憶さえ失われてしまいそうで……」
どこか隔絶された空間の墓地が荒廃したところで困る者がいるとも思えないが、それは一般論に過ぎないのでやはり黙っておく。
「鍵はどうしてなくしちゃったの?」
まっとうな質問だが、子どもの姿のシャムシールが発言していると可笑しい。
「“一族の誇りに誓って人道的には誤りではない事柄”によってだそうです」
「よくわかんないけど、過失じゃないわけか。何か理由があったんだね」
うなずいたシャムシールが半分になった木苺パイをじっと凝視していたが、ややあってそろりと目を上げた。
「ダメもとで訊くけど、君たちを墓守に任じたのは誰?」
「……判りません。“功績輝かしい高貴な御方”としか」
「おとぎ話や神話によくある個人情報の護り方だねぇ。たぶんその“人道的には誤りではない事柄”は、雇い主に対して多少の裏切りか契約違反かを含んでるんだろうねぇ」
一瞬遠い眼差しをした名探偵はさらに質問を重ねる。
「それはまぁ置いておいて。ケット・シーってケルトの妖精でしょ? こんなところまで鍵を探しに来たの?」
「いいえ。我々は代々この辺りに住んでいるのです。ゲルマン民族が各地に広がりローマ帝国と摩擦を起こしていた時代、ゲルマンに取り込まれたケルトの民の中に我々の先祖もいたのでしょう。拡散したゲルマン民族の一部に同行してここに辿り着いたのではないかと」
「……そこまで遡るのかよ」
それまで黙って葡萄酒を傾けていたアスカロンが天井を仰いでうめくと、気を良くしたのかケット・シーが自慢げにヒゲを動かす。
「トイトブルクの戦いでゲルマン諸族を率いたアルミニウスの軍がローマ軍を壊滅させゲルマニアを護った武勇伝は、今も一族に語り継がれています」
緑色の目を輝かせる黒猫が語るその戦争は紀元前の話だ。
古代フェニキア人と商売していたこともあるらしいパリのメム店長ならばまだしも、ユニヴェール家の面々にとっては──ユニヴェール当人にとってさえ──歴史書の中の出来事でしかない。
「このボヘミア地域はマルコマンニ族の支配地域だったようですが、我々の一族との関わりは不明です。しかし罵詈雑言は伝わっていないので、おそらくは関係は良好だったのだろうと推察されます」
『…………』
シャムシールとパルティータの目が救援を求めてくる。
アスカロンはグラスを置いて咳払いをした。
「武勇伝が語り継がれているアルミニウスはゲルマンのケルスキ族。ボヘミアに居たのはゲルマンのマルコマンニ族。戦争が起こったことがあるくらい両者の仲は良くない。おそらくケット・シーの一族はケルスキ族の移動と共にボヘミア付近までやってきて、事情があってマルコマンニ族の土地に住むことになったんだろうが、険悪な関係の部族間をうまいこと渡って鞍替えしてボヘミアを棲家にしたようだ。……分かったか?」
『なんとなく』
アスカロンは暗黒都市の門番であるユニヴェールの翼だ。ローマを拠点としているのはもちろんヴァチカンの動向を監視しているからだが、諸国を巡り変化の兆しを探っていることも多い。だから各国の歴史や事情も広く深く把握している。
「ちょっとトゲのある言い方ですねぇ」
「これ以上どう説明しろってんだよ、お猫様!」
ばんっとテーブルを叩いてから、
「なぁ、鍵ってのは、俺たちが思い浮かべてるような鍵じゃねェよな?」
アスカロンは鍵穴に鍵を差し入れクルッと回す仕草をしてみせた。
「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません」
つまり、詳細不明。
「そりゃ難し──」
「わかった! 探してみるよ!」
今までの流れでどこをどうしたらその結論になるのか理解はできないが、シャムシールが元気よく自分の胸を叩いた。
それこそ迷い羊を探すくらいの軽さだ。
「……シャムシール、オマエ昼間動けねェよな?」
ワインを飲み干し半眼で見下ろすアスカロン。
「……あ」
というわけで、翌朝。
太陽への耐性があまりないシャムシールに代わり、昼間はアスカロンとパルティータが鍵を捜索することになった。とはいえあまりにも内容が漠とし過ぎている依頼なので散歩がてら町を見て回るだけしかやることはない。
「あんなによく分からない依頼、受けていいの?」
修道女の格好をしているパルティータが今更なことをのたまう。
宿で留守番をしていろとは言ったが、もう病人ではない(そもそも病気ではない)と言い張ってきかないので説得は諦めた。だいたいユニヴェール家周辺に忠告を聞く連中などいないのだ。
「仕方ねェなぁ。紀元前からの因縁じゃ、振り払うのも骨がいる」
ドクター・ファウストがパルティータの治療にユリアン・アルプスを望む湖畔を選び、ユニヴェールがその療養にダッハシュタインの氷河を望む湖畔を選び、全快した(本人談)パルティータが何を思ったかボヘミア観光を希望し、何を思ったかシャムシールが合流することになり、みんなで歩を進めたその地にはケルトの妖精が紀元前からの宿題を抱えて待っていた。
全知全能の神が定めた、それこそ創世から決まっていた運命だとしたり顔で嘯く詩人もいるだろう。だがその神が御せないユニヴェールが存在している時点で、それらの紙片は焼けて地に落ちる。
見下ろす足下の大地に埋まっている幾千幾万の生死こそが“現在”という化け物の正体だと気付かない者は多い。傲慢にも、まるで自分はひとりだけで世界に立ち尽くしていると思い込んでいるのだ。どんな栄光もどんな挫折も己ひとりで為されたものではなく、複雑に絡んだ音階の交わりの、その一瞬の出来事でしかないというのに。
「どうもこの因縁には従っといた方がよさそうだ」
普段は風にそよぐ地中からの無数の糸も、時にこうした強烈な引きを見せる。それは深ければ深いほど絡む糸が多くなり、結局どれを切ったとしても別の糸に同じ事象の前へ引っ張り出されることになるのだ。
最終結果は己の決断次第かもしれないが、向き合うことからは逃れられない事柄というものは確かにある。しかしてそれは、対峙する時を誤ると大変なことになるのだ。
「そう。じゃあ、何から考えるのが妥当かしらね」
アスカロンの最大限の勘を動員した決断にも、パルティータからはなんとも軽い同意が返ってきた。
「1.ケット・シーの雇い主を突き止める。
2.鍵の形をした鍵を探してみる。
3.鍵の形をしていない鍵を探してみる。
どれも絶望的に難易度が高いんだけど」
小さな川にぐるりと囲まれた山間の町。石畳も敷かれていない剥き出しの道は延々と緩やかに上り坂だ。
「とりあえず1~3を全部やれそうなのは、あの城へ行くことだな」
山の中腹、鬱蒼とした森の中にこじんまりとした城塞が見えている。
「町の連中に聞いても誰が使ってた城かはっきりしねぇが」
「使ってた? じゃあ今は誰のものでもない?」
「それもはっきりしねぇな」
チェコは、ボヘミア、モラヴィア、シレジアといった地方領の連合体であり、その各領主を束ねているのがチェコ王だ。ドイツ王や神聖ローマ帝国皇帝の冠を頂くこともあるほど、その権力は大きい。しかし15世紀前半に勃発した宗教戦争によって国内は荒廃し、最近では紆余曲折のうえパルティータの伯父であるハンガリー王のマーチャーシュ1世がチェコ王の座を手にしていた。
先だって彼が身罷り、ポーランド王の血統を持つウラースロー2世がチェコ王とハンガリー王に選出されたのだが、いかんせんフス戦争によって混乱した権力の地図は、国民もよく分かっていなければアスカロンでさえ詳細を把握はしていなかった。
「私たちはどこへ行くつもりだったの? ここが目的地ではなかったんでしょ?」
「カルロヴィ・ヴァリ」
「素敵な温泉地だって聞いたことがあったような」
「ボヘミア王カレル1世が見つけた、な。実際見つけたのは従者だっつーの」
適当に返しながら、それよりも彼女の言葉の方が気になった。“行くつもりだったのか”、それは行くことを断念する時に使う言葉ではないのか。アスカロン自身はテキトーに鍵探しに見切りをつけて数日中にそっちへ移動するつもりなのだが。
「そこへ行くにはこの町を通るのが一般的なの?」
「いや、普通はもっと大きい街道を通る。というか、目立たない裏道を選んだらたまたま町があったから泊まることにしただけで──」
そういえばこの町の名前を知らない。
「でしょうね」
ガラス製造以外は細々してるし、なんだか内向きの町だものね。川沿いに続くオレンジ色の屋根を見下ろし、パルティータが目を細める。通りすがった人間からはぼんやり景色を眺めているように見えるかもしれないが、鋭くつぶさに観察している目だ。
荷を運び行き交う旅商人、工場に声を掛け歩く道具屋、息を切らして駆けてゆくどこかの下男、川岸で水を汲んでいる飯屋の女、路傍で耳の裏をかいている野良犬、屋根の上で取っ組み合いのケンカをしている小鳥の群れ──。
何とはなしにアスカロンもそれらの動きを追っていると、突然パルティータがしゃがみこんだ。
「おい、どうしたよ。まさかまだ調子悪──」
「嘘をついている」
パルティータが唇に人差し指を当てていた。まるでアスカロンの主の如く。
「この町は、長い長い間嘘をつき続けているわ。嘘をついて何を護っているのかは分からないけれど、曝け出して早く楽になりたいとも思っている」
それは大地に語るかのような低い囁きだった。地中の何者かを煽っている響きも混じっている。
「使命、忠誠、懺悔、忘却、裏切り、勝利、敗北、畏怖、慈愛、悲哀、憎悪、それぞれが抱いたすべてを押し殺して時を待っている。ここは色々な人を待っているのね。いつ訪れるかも分からない登場人物をただ待ち続けて結論を先延ばしにしている。──シャムシールもそのひとり、私のことも、ユニヴェール卿のことも、デュランダルの──」
パルティータの漆黒の双眸がこちらを振り返り、そして突然口をつぐんだ。
アスカロンがその視線を辿ると、脇道から修道女と聖騎士の二人連れが歩いて来るところだった。厳格な教師を思わせる骨ばった女、聖騎士の白い隊衣が全く似合っていない流浪の傭兵然とした男。あのユニヴェールでさえ始末人の白にも染まっていたというのに、これほどまでに馴染まない人間がいるとは──無精髭のせいだ。アスカロンは胸中で手を打った。無精髭のせいで男は、神の下僕ではなく盗賊の頭目に見えるのだ。
そんなくだらないことを考えている間に、パルティータはすっと立ち上がり彼らに軽く会釈をしていた。
逆にアスカロンは彼女よりも引き、地に片膝を付き顔を伏せる。巡礼の修道女に従う下男を演じるために。
「どこからいらしたのですか?」
面倒は避けたいと思っていたが、本物の修道女がパルティータに声をかけてきた。
さりげない挨拶のようで、余所者に対する探りの声色は消されていない。こうした小さな町ではよくあることだが、警戒されている。
「どこから……ヴァチカンです」
──遡りすぎだろ!
真顔で答えているパルティータにアスカロンは胸中で盛大につっこんだ。
「まぁ──」
案の定口に手を当て眉をひそめ訝しげな驚きを露わにした修道女だったが、
「ボヘミア王国王女でもあらせられたアネシュカ様の足跡を辿る旅をしております。あの神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世にも認められていたほどの御方、我々が学ぶべきことは多いかと存じます」
「……そうでしたか」
パルティータの続けた言葉にとりあえず納得する素振りを見せた。しかし同じ理由の旅人が多いのだろうか、彼女は地元の偉人を褒め称えられて感銘を受けた様子もなく、
「彼女が建てた修道院はプラハにありますが、この先の修道院にもご逗留されたことがあるそうです。ぜひお立ち寄りください」
事務的な表情で自分たちが歩いて来た道の奥を軽く見やった。
「わたくしはそこの院長をしております、アネシュカと申します」
「?」
「ボヘミアには多いのです、アネシュカ王女にあやかろうとする親が」
にこりともせず現代のアネシュカ様が言った。
「ボヘミアのアネシュカを知ってたのか」
老けた修道女と老けた聖騎士の後ろ姿が小さくなったのを見計らい、アスカロンは頭上のパルティータに声をかけた。
「聞きかじってただけ」
ユニヴェールが死んだ少し後の時代、政略結婚ではなく宗教の道に入ることで自分の家族と国を護ろうとした王女がいた。それが先程の会話に出てきたボヘミア王女アネシュカである。
プシェミスル家のチェコ王オタカル1世の末娘である彼女は、時の皇帝や教皇と巧みな“政治力”で渡り合い、父の後を継いだ兄ヴァーツラフ1世、その息子であるオタカル2世と続くボヘミアの繁栄を支えたのだ。
しかしあまりに強大な力を持ち過ぎたオタカル2世は諸侯から危険因子と見なされ戦場に斃れ、その後ボヘミアは急転直下昏迷の時代を迎えることとなる。顕在化した恐怖は疑念を呼び、重ねられた疑念はやがて歴史の岐路を招く──。
「貧民救済にも熱心だった尊敬すべき王女様が何故まだ列聖されてないか分かる? 彼女が所属していたフランシスコ会と教皇庁の仲が悪いからよ。フランシスコ会は教皇庁のことを“聖書の教えから外れて己の利益に傾きすぎてる”って糾弾しているわけ」
「は?」
「つまり、彼らは無表情を通してたけど、私が何故“ヴァチカン”から彼女のことを調べにきたのか、ものすごく気になってるはず」
パルティータがフフフと自慢げに両手を腰に当てる。
「……何で気にさせるんだよ、監視でもついたら動きにくいだろうが……」
「搖動」
「はぁ?」
「あの人たちだって何か隠してるもの」
パルティータは彼らの後ろ姿をじっと見送っていたが、やおらくるりと向きを変え山腹の城目指して坂を登り始めた。
「鍵、早く探しましょう」
「は? え? おい!」
黙々と登り辿り着いた城は、とりあえず今はもう使われていないことだけは断言できた。門は朽ち、石畳はひび割れ、日陰は苔生し、城壁は旺盛な緑に侵略されている。
アスカロンは白味を帯びた花崗岩の城壁を撫でながら、
“国破れて山河在り、城春にして草木深し”
シルクロードを越えた先、遥か東方の亡国より流れ着いた一説を思い出した。
城というよりは砦に近いと思われる人間の建造物は、すでに深いボヘミアの森に飲み込まれている。かつてここで営まれていただろう誰かの暮らしはもう、鬱蒼とした木々の匂いの中にわずかな名残を残すのみ。
城ひとつ、町ひとつ、国ひとつ、季節が巡り表舞台から消えた者達はこうして歴史の大地に埋もれ骨と化し、時を超えた未来への因縁となる。
「紋章らしきものはないわね」
パルティータが石積の門をくぐりずかずかと中へ入って行った。
「一番古い部分はどこか…」
城というものは増築を繰り返していることが多く目に入った外見が彼の年齢だとは限らない。アスカロンはしばらく門に触れ城壁と見比べながら首をひねっていたがどうにも見当が付かず、とりあえず中に入ってみることにした。
ところが。
「……パルティータ?」
先に入って行ったはずの修道女の姿が見当たらず、アスカロンは前庭からさらに奥へ、小さく拓けた中庭へ歩を進めた。
ぽっかり空いた森の切れ間。雑草に覆われたそこには何に使われていたのか腐った木桶がひとつ転がっており、花壇の跡と思われる丸い石を円形に並べたものがいくつか点在している。
「パルティータ!?」
声を大きくすると、隅に植えられているニワトコの茂みから小さな鳥が羽ばたき逃げていく。
そして後に置き去りにされる無音。
青年は鳶色の双眸を細め、風を探した。
だが中庭を彩る木漏れ日は声を奪われたかのように黙って瞬いている。仰げば深緑の林冠が南風に揺れているのも見えたが、そのざわめきはこの箱庭まで落ちてこない。
「パルティータ!? いるなら返事をしろ!」
もう一度確認してもやはり返事はない。
彼は踵を返し、門まで戻って地面に顔を寄せ足跡を念入りに調べた。
「門から入ってはいるが、前庭には入ってはいない──」
足跡は境界で消えている。パルティータが前庭に入って行くのは上司に誓ってしっかり見たはずだが、足跡はそれを否定していた。
「はーーーーーー」
アスカロンは身を起こし立てた片膝に額を落とすと、盛大なため息をついた。
「昨日着いたところじゃねぇか、もう少しのんびりさせろよ。問題が起こるのが早ェよ。面倒なことが起こるのは分かってたが、せめてユニヴェール様が合流してからにしろよな」
ボヘミアに対して毒づく。
「シャムシールはまだ寝てたし。あのアホ」
言い捨てて顔を上げ、
「…………」
彼はそのまま動きを止めた。
眉をひそめ息を止め目を伏せ感覚を研ぎ澄ます。
巨大な影が──鷲や鷹よりも遥かに大きな影が──森の上を過ぎてゆく気配がしたのだ。
だが目に映っている城跡は一瞬たりとも翳らなかった。
見上げた夏の晴天にも雲ひとつない。
「まぁ、化け物が乗り込んできてから小細工かましたって勝ち目はねェか」
彼は緊張を解いて立ち上がりひとりごちた。
「だが残念。何やったって誰にも勝ち目なんてねェよ」
指に着いた灰色の砂粒を払い落とす。
太古の昔ボヘミアの大地を造った岩石は、その大地の切れ端を必死で守らんとする健気な人間の手で城と成り、町を見下ろすこの場所で風雨さらされ土へ還ってゆく。
その身に刻まれた記憶は明かさぬまま。
「あの男は右も左も分からないような子どもではない。おそらくこの場にいる誰よりも博識な男だ。知らなかったのか?」
ユニヴェールは天鵞絨のアームチェアに腰かけ足を組み深く息をついた。
「吸血鬼が一匹いなくなったくらいで騒ぐな。私を招集するな」
「ただの一匹? いなくなったのがウェンデル・バルツァーだから捜すんじゃないか」
ユニヴェールの呆れに抗じたのはバンビだ。イルデブランド・ハークネス。先日の『農場』の失態を、バルツァーの取り成しでほぼ無傷でくぐり抜けた強運の優男。
今日はまたランペドゥーザの遠浅の海を織ったかの如き鮮やかな青色のベストで口を尖らせている。風のない晴れた日には船が宙に浮くというあの海だ。全くもってこの昏い暗黒都市には似つかわしくない。
「僕らがただの一匹なんて捜すもんか」
「ただの一匹に捜す価値はない、バルツァーは捜す必要がない」
「バルツァー卿がいなくなったら困るじゃないか!」
「保護者がいなくなるお前はな。私はアレがいようがいまいが関係ない」
ユニヴェールが突き放すと、若者は黒髪の下で急に殊勝な眼差しを見せた。
「卿、真面目にお尋ねしますが、バルツァー卿は一体どこに行かれたんでしょうか」
「知るか」
ユニヴェールはバンビの殊勝を一言で蹴飛ばす。
「そんなぁ」
「あの男がいないと吸血鬼どもが好き勝手を始めて困る」
ユニヴェールとバンビとのやりとりに割って入り苦々しくクレームをつけてきたのは、図体も態度もデカい近衛隊隊長、白狼だ。後ろには澄まし顔の黒騎士ベリオールが控えていて、彼らの背景の大窓には暗黒都市名物の巨大な赤い月が架かっている。
何かあるとすぐに腕力に訴えようとする粗暴な軍人たちには勿体ない美しい窓辺。
「アンタたちはこの都市に“常識”や“規律”を求めてるのか? 理想が高いな」
「戦力がくだらない理由で共食いしてくのをただ傍観しているわけにもいくまい?」
飢えた狼の眼で心にもないことを述べられても困る。
「それはお優しいことで」
ユニヴェールはアームチェアに肘をつき、前髪をかきあげ額を押さえた。
「バルツァーは私よりずっと古い化け物だ。どこから来たのかも何者なのかも知らない。私がアレについて知っていることはただひとつ、我々に心配されるほど弱くはないということだけだ」
「でもバルツァー卿はユニヴェール卿の数少ないご友人なんでしょう? 行き先の見当くらいつかないんですか?」
バンビが再び身を乗り出してくる。
「…………」
ユニヴェールは今日初めてその若者にまともな視線をやった。
優男の紅の双眸下にはクマができていて、明るく振る舞ってはいるものの灰色の死相が浮かんでいる。……死人だが。
「バンビ、お前はどうしてそんなにバルツァーに執着する?」
「執着? 僕が?」
心外だとでも言いたげに、彼はきょとんとする。
自分で分かっていないのだろう。
彼は先程からバルツァーの居場所ばかり知りたがり、その安否に関しては全く口にしていない。それはつまり、彼はバルツァーの消滅を心配しているわけではないということになる。あるいはそもそも無事だと知っているか。
「吸血鬼の一匹や二匹、滅びようが消えようが知ったことではありません。しかし──」
ユニヴェールの対面に腰かけていた侍従長官のアルビオレックスが、優雅に背筋を直し紅茶を手に取る。今日も紅の燕尾にシワひとつない。
「──陛下が気にかけておられました」
霜の降りた目がテーブルに落ちる。
「バルツァー卿の真の素性を知っている者は陛下も含めておそらく誰もいません。我々が追える範囲の彼の痕跡はヨーロッパ全土にあって、そのひとつひとつは繋がりさえはっきりししません。おそらく時代や場所で姿も名前も違い、すでに記憶も記録も失われた時代があるためでしょう」
ユニヴェールは窓の外を見やった。禍々しい赤が流れる雲に映える心躍る夜。
「年寄なんだ、そういうこともあるさ」
「陛下はおっしゃいました。“彼は何かから逃げているのでは?”と」
「逃げている? バルツァーが?」
「聞き返しましたが、言葉通りの意味だと言われました」
アルビオレックスの氷の目にじっと見つめられているのを感じて、ユニヴェールは暗黒都市の夜空から侍従長官殿へと視線を戻す。
「……何か?」
「陛下はこうもおっしゃいました。バルツァーはユニヴェールに対する我々の切り札なのではないか、と」
「ほう」
微塵も心当たりがない。
向こうの方が恐ろしく年配なので顔を合わせれば説教ばかりされて多少削られるが、それを切り札とは言わないだろう。
「心当たりはありますか?」
問われてユニヴェールは更にうなだれた。
──何故バカ正直に当事者に尋ねる?
答えは簡単だ。この男は元々神だった。唯一神に暦が奪われるよりも前、混沌とした戦乱の時代に人々を率いていた部族神。人間下がりとは精神構造が違う。
「あー」
何と返したものかユニヴェールが言葉を探していると、丁重に樫の扉が叩かれた。
ゆるりと空気が動き、化け物たちの関心がそちらへ向く。
「ユニヴェール卿、アスカロン様が至急お伝えしたいことがあるそうです」
輝ける赤い月が雲に遮られ、夜が翳る。
To be continued.
Two Steps From Hell [New World Order] [Winterspell] [Children of the Sun]