第26話【ボヘミアの敗北】-0. Nowhere
既視感のあるその風景は、白い光で満ちていた。
林立する木々の葉を縫って降り注ぐ輝きは、しかし丸みを帯びて柔らかい。熱量はなく、鋭さもなく、それでも思わず手を掲げて影を創ろうとするほど眩いのは、ありとあらゆる白い花々がこぼれるように咲き乱れ飽和しているからだ。
点在する墓石の周りを埋め尽くす小花の群れ。刻まれた名前にふわりと寄り添う花。箱庭の墓地を囲む茨の茂みさえも可憐な白で覆われ、その奥に横たわる巨大な生物の骨にはツルが巻きつき、釣鐘の形をした白花たちが所狭しと並んで世界の歌を奏でるのを待っている。
今の地上には存在しないだろうその大きな怪物の亡骸を仰いでも、蒼空は見えない。太陽も月もない。この光源がなんであるかさえ分からない。
しかしまるで牢の格子の如き象牙色の肋骨の間からは、ひっそりと佇む一本の林檎の樹が見える。
枝にひとつだけ赤い実をつけたその樹はその実が落ちるのを待っているのか、それとも落とさぬように息を殺しているのか。
──誰も歌ってはならぬ──鳥の声すらしない世界に純白の静寂が溢れていた。
生者の真似事を忘れるほど美しく、淀みのない清浄。
ロゼットの白薔薇が彩る、逃げ場のない花園。
しかしここは生きてはいない。
これだけ花が咲いていても、深い森に包まれていても、香りは透明だ。水の湿った匂いも豊かな土の匂いもなく、花々を揺らす風さえない世界の間隙。空気は生物を殺せそうなほど澄み切っている。
視界には蝶も蜂も横切らない。
そして花弁は一枚も散っていない。落ち葉の一枚もない。
その場所は生死が交錯する世界とは全く異なる場所だった。
命が踊るヴァチカンやパーテルとも、死が蠢く暗黒都市とも異なる、第三の庭園。
バルツァー邸の白亜の花園によく似た、時の狭間。
「これはこれは。影の王のご訪問とは珍しい」
目を細めて立つ吸血鬼の前に白い一羽のうさぎが現れて、慇懃に一礼をした。
彼がゆっくりと瞬きすれば、その姿は手品の如くキツネに変わる。そして落ち着くことなく橙鮮やかなコマドリになって飛び回る。
──千変万化の魔物、バルトアンデルス。
永遠に変わることのない世界にあって、唯一絶え間なく変わる番人。
「ここは墓場か」
「いかにも」
「誰の」
「竜殺し、その栄光の一族の始まりから未来の終わりまで」
「……竜」
ユニヴェールは自身の唇に指をやり、白に埋め尽くされた墓場の背景に横たわる怪物の骨を見やった。
竜とは比喩に過ぎない。理解を超えるもの、どうにもならないもの、畏れ平伏すしかないもの、逃げ惑うしかないもの、それが形を為したのが竜だ。古より人々はそうやって世界を己の掌に収めようとしてきた。
だからこそ、本質を見失う。
「“世界”が眠る場所だな?」
吸血鬼は墓石の上のネズミを見据えた。
「未来が含まれるならば、ここに“救世主”もいるのか?」
「もちろん」
「…………」
並ぶ墓石に目を凝らしてみたが、記された名前も享年もどれも薄ぼやけて読めない。
サン・ピエトロ大聖堂の地下墓地とは真逆の開放感、天上からきらきら注がれ踊る光の粒子に邪魔をされる。
「…………」
すぐに努力を放棄した彼は、唇から指を離し両腕を広げて黒衣の肩を整えると胸の前で手を揉んだ。
「迷子の行方を聞きたい」
「お前に彼女は救えない」
「せっかく墓守を連れて来てやったのに?」
「……名前がすべてだ」
「変奏?」
眉をひそめて目を逸らした瞬間に、バルトアンデルスの姿がかき消える。
辺りに再び満ちかけた無音を嫌って、彼は清廉に彩られた英雄の墓所へとテノールを張った。
「ここがどこか確かめたい」
「時の定点」
無視はされず、見えない林冠から暗示が降ってくる。
「…………」
吸血鬼はこめかみを叩きながら大急ぎで膨大に読んできた古書の記憶を繰り、各国の遺跡に遺された文字を繰り、そしてひとつの単語を拾った。
口端と視線をゆっくり上げ、指を鳴らす。
『どこにでもあってどこにもない場所』
別名、
「ここは“欠けない月”か」
「──いかにも」
薔薇の葉の上のベストを着たカエルがニヒルにうなずいた。
Audiomachine [Unbroken]