Prelude - 2
「お前にそんな芸当ができるとは思わなんだ」
その辺に生えていた草を煎じた茶を飲みながら、ドクター・ファウストがしみじみ言う。
「他の魔物はともかく、吸血鬼には美味い食事は必要ないからな」
返すユニヴェールは白いブラウスを肘の上までまくり上げ、ボロボロな木のテーブルの上で淡々とマスを捌いていた。
かまどの横にザルやら麻袋やらに入った野菜が無造作に置かれているだけの土間、これを厨房と称するのかどうかはアヤシイ。
「デュランダル時代に鍛えたのか?」
「……任務で外地へ行ったら自分たちでどうにかするしかない状況も多々あったが……」
ユニヴェールは手を止めて視線を遠くに、苦虫を噛み潰す。
「ミトラは食うものがなきゃないで構わない男だし、カリスにやらせると新しい薬草の実験台にされるし、ソテールは何でもかんでも甘くする」
「結局お前がやるしかまともなものが食えなかったというわけか」
「環境が人を育てる良い例だな」
他人事のようにため息をつき、ユニヴェールは再び川魚に向き直る。
パルティータが動けるようになるとすぐに、一行はユリアン・アルプスを望む美しい湖の療養所を離れ、ザルツブルクから東、こちらもまた壮麗な景色が広がる湖水地域へとやってきていた。
見渡せば、山また山。
太古の昔は海の底であった石灰岩の峻峰は灰色の陰影を際立たせ荒々しい。連なる頂が武骨な冠を成し、清廉な白い氷河を護る。夏でも消えることのない悠久を流れるその雪の一滴が、岩を穿ち石を割りいくつもの隠された氷穴を創る。大地に積まれた時代と時代の間隙を縫い、長く長い旅をして、やがて冷たく澄んだ湖へ湧き出でる。
そびえる雄々しい岩山の群れ、真っ直ぐに天を刺す黒い針葉樹の森、氷河に運ばれた湖岸の迷子石、淡い蒼空と山にかかる不穏な濃い白雲、その絶景を逆さに映す静謐な碧の湖面。
「高貴だねぇ。音楽の練習か」
ファウストの別荘であるという小さな木造の家の外からかすれた笛の音が聞こえてきて、ファウストが耳に手をやった。
「バルツァー卿がパルティータにくれたんだよ」
「笛をか?」
「詫びだと。侯爵殿も、くだらんことに加担した自覚はあるんだろうさ」
ユニヴェールは目を上げることもなく二匹目に取り掛かる。
目の前の湖で自身が釣った、内陸ではなかなか貴重な新鮮な魚だ。
「なんでまた詫びに笛なんか」
「パッセ曰く、パルティータが奴の屋敷でじっと見ていたらしい。あそこのメイドも気付いていて、侯爵殿に進言したんじゃないか」
あの屋敷には息が詰まるほど良く出来た小間使い達がわんさかいる。
「……しかし欲しがったわりには下手クソだな」
ファウストがぼそりとつぶやく。
耳を澄ませばルナールが何やら指南している声が聞こえていた。
もらったその笛でパルティータが練習しているのだ。
「あのお嬢の目に留まったんだ、おそろしく高価な代物なんじゃないのか?」
「さぁ。バルツァー卿は、楽器庫に置かれていた数ある内のひとつだから、いつから屋敷にあったかなんて覚えていないと言っていたがな。それに、高価なら自分で吹くまいよ」
「あぁそうか」
山間に点在する明媚な湖。それぞれの湖畔の町々は先史より採掘されてきた岩塩によって栄えており、どこも賑わいと活気で溢れている。権力者所有の土地も多い。
しかしこの湖には町がなかった。というかここ以外家はなかった。近くに岩塩坑がなく、しかも主要な街道からは離れているため、ファウストのような奇人以外居を構えなかったのだ。
ユニヴェールでさえ口笛を吹いたこの風景を独占できるのは、至上の贅沢と言えよう。
「──なぁ」
発せられた声がいつになく真面目なのでユニヴェールが顔を上げると、“医者”の顔をしたファウストが彼を見ていた。
「ユニヴェール邸に入って生きて出て来られる人間なんているわけがないぞ」
「いたんだから仕方なかろう」
「いるわけがない」
「セーニの血が」
「セーニはお前の主であって、“ユニヴェール”の主ではない」
「……言いたいことは分かるが、」
小麦粉をまぶしたマスをバターで焼きながら、吸血鬼は嘆息した。
「生憎、私はお前を納得させられる答えを持っていない」
「お嬢は死人でも魔物でもない、生物学的には正しく人間だ。だが──」
言い淀み、ファウストが声のトーンを上げて台詞の向きをやや変える。
「伯父だという──」
「フニャディ・ラースロー?」
「その男は?」
「おそらく吸血鬼だな。まぁ、史実どおりなら彼は謀殺されているから、あり得ない話ではない」
カトリック教会の栄光細る東の果てでオスマン帝国の侵攻を食い止め続けたフニャディ家。偉大な父亡き後、その跡取りがハンガリー国王の謀略によって処刑された出来事は記憶に新しい。権力をめぐっての内紛は珍しいものではないが、ハンガリーが荒れればオスマン帝国の侵攻を防ぎきれない。
ラースローの処刑から長く時を置かずハンガリー国王が死に、新たな国王にラースローの弟マーチャーシュが選ばれたことに安堵したのは、国民だけではなかった。教会も秘かに息をついたのだ。
「ラースローは、パルティータが物心ついた時にはすでに傍にいたらしい」
「ヴァチカンに吸血鬼がいたって?」
「驚くべきことに。そしてサマエルと共存していた」
皿にマスのムニエルを並べ、暗黒都市経由で持ち込んだレモンを添える。
「パルティータは幼くして父を──先代のセーニを亡くしたが、彼女の母は──ラースローの妹は、その後すぐにヴァチカンを出た。だからパルティータは幼少のほとんどをサマエルとラースロー、侍女、それからミトラの四人に世話されて育ったんだと」
「なんだか──鋼の要塞だな」
「個々の能力だけ見ればな。だが協力体制は望めない」
「なんだ、暗黒都市そのものじゃねぇか」
「違いない」
その辺に転がっていた野菜を適当に出汁で煮込んだ大麦のスープをカップによそい、ルナールがバート・イシュルの露店で買ってきたパンを並べれば、完成。
ユニヴェールは難しい顔をしたままのファウストを残し、陽光眩い表へ出た。
家の前から湖岸へ続くなだらかな草地の上に、黒尽くめの剣士と灰色尽くめのメイドが座っている。
創世からの大地の鳴動に圧倒されるこの場所へ配置するに最も不適当だろう二人。
「──ルナール」
パルティータが横笛に口をつけていたので、反射的に従者の方に声をかけた。
「はい?」
彼はメイドが笛に置いた指の位置を直していて、
「……お前、ガラにもないこと出来るんだな」
そのあまりに似合わない光景に、思わず目的とは違う台詞が出る。
「楽器の扱いは、父が教えてくれたような気がするんです。この歌も」
「ハインリヒか?」
「たぶん」
父帝フリードリッヒ2世に反逆し、敗北、幽閉の後、自ら命を絶った幻のドイツ王。
「先にもっと教えるべきことがあっただろうが……」
だがらしいと言えばらしい。彼は政治には向いていなかった。父の芸術に長けた部分の血だけを引いたのだ。
ユニヴェールが言葉を続けなかったので、パルティータが習った歌を奏で始めた。
クロウタドリの囀りだけが響いていた湖に、柔らかな音色が走る。キラキラとした陽光の反射に彩られ、どこか色褪せたその音は高くもなく低くもなく。穏かな調べは氷河より出ずる流れのように。絶壁に囲まれた森と湖を覆う静寂は帳を下ろしたまま、うつろう森に染み入る旋律は古の歌。
ひたすらゆったりと、まるで時を止めようとするかの如く。
「はい、上手上手。飯にするぞ」
いつまで経っても終わりにならないので、ユニヴェールは適当なところで手を打った。
ところが、それでいったん音を切ったパルティータが何故か怪訝そうな顔をして、さらに続きを吹き始めた。
「……え?」
疑問形を声に出したのはルナールだ。
こちらを見上げ、
「まだ教えていない部分なんですけど」
首を傾げてくる。
パルティータも首を傾げてこちらを見てきた。
ようやく笛から唇を離し、
「どこかで聴いたような気がします。それも、はっきりした旋律じゃなくて別の歌に混ざって」
うーんと眉を寄せている。
「…………」
ユニヴェールは視線を連なる岩山へと上げた。
クロウタドリも黙ってしまった今、世界が広大な静謐に包まれている。生き物の気配も、風さえもなく、己の存在すら見失う重苦しい無音。
それが原始ならば、第一音を爪弾いたのは誰か。
「考えるのは後にしろ。食べるぞ」
ユニヴェールが目で家の中を指すと、今度は二人とも素直に立ち上がった。
「議題は、バルツァー卿が消息不明であることについて」
世界が夜に包まれる一歩手前。
山々の鋭い稜線が塗り潰された影となって黄昏の残照に浮かび上がる。見る者の目を焼く切り絵のような鮮烈なそれはしかし、次の瞬間から刻々と輪郭を失い紺色の暗闇に取り込まれてゆく。
何日見ていても飽きないその様を、ユニヴェールは今日も二階の窓から眺めていた。
傍らにはローマから闇を渡ってきたアスカロンがいる。
「“早々に城へ来い”とベリオール卿が」
「子どもが迷子になったわけじゃあるまいに。そんなことでいちいち」
すでにフリードからの伝言は報告されているが、まぁあれはそう簡単に死なないはずだ。
「早々に片を付けた方がいいのは確かだがな」
ユニヴェールは意地の悪い弓型の笑みを作って、アスカロンの耳元に口を寄せた。
囁いた言葉に彼の使徒が目を丸くする。
思い通りの反応に紅の双眸を細めて喉の奥で笑った吸血鬼だったが、すぐに真顔に戻った。
立てた指で唇をなぞりながら、
「問題は、片付け方が分からんことだ。何が相手かも分からん」
吐息混じりにつぶやく。
「──サマエルはパリへ行ったぜ。カタリナに預言をもらいに」
「預言、ね」
下の草原からは軽やかな笛の音が聞こえている。
パルティータがファウストとルナール(まだかろうじて人間)を相手に昼間の練習の成果を披露しているのだ。
普段はこの湖にいない白鳥が二羽、ファウストの隣りにでんと座り込んでいて、丸い灯に照らされむっちりした影が伸びている。
「お前は、パルティータが本当に、敬愛する伯父様奪還のためだけに暗黒都市へ乗り込んだと思うか?」
「……あいつは何がどこまで本気か分かんねェからなぁ」
太陽を失い下がり始めた気温に、霧の忍ぶ気配がする。
「レンツィの言うとおり、“聖女”の役目から逃げてパーテルへ来たと思うか?」
「逃げることの何が悪いんだか俺にゃ分からんが、それは否定させてもらおう。逃げるのが目的ならもっと完璧に身を隠すはずだ。それこそ、今のアンタみたいに」
そうだ。わざわざヴァチカンと対立する暗黒都市の犬の下にもぐり込み、目立つ必要はない。
「物事を片面から見るのはよろしくない。それを実践してるんじゃねェの?」
──だとすれば、何のために。
ユニヴェールは夜空の瞬きを映し始めた湖面に目を落とした。
パリの聖女は現在の教皇とは対立するローヴェレ枢機卿の庇護下にいる。神託を携えたサマエルが己の掲げる千年王国へと突き進めば、ボルジアの権力が霧散するのも遠くはない。ヴェルトールがそれに迎合するかは、あの男の考えではなく状況次第だ。あれは己の信念のために犠牲を許せるほど冷徹にはなれないし、護るものが多すぎる。
その盤上で“パルティータ”をどこへ置くべきか、彼はまだ迷っていた。
「アンタには三使徒という目があり耳がある。でもパルティータにはない。だったら自分で“知る”しかない。そういうことだとしたら簡単だろ?」
薄暗い部屋の中で、アスカロンの鳶色が肩をすくめている。
「やってることはアンタと同じだ。来たるべきいつか、高笑いして切り札を叩き付けるためにあらゆる情報を集めておく」
白鳥が騒いだのは、ルナールが猫に変わったからだろう。
「……嫌な構図だ」
げんなりしたユニヴェールが階下へ視線を移すと、ゆるりとこちらを見上げてきたパルティータの漆黒と目が合った。
光の届かぬ大海の底、炎をまとう炭の影、“駒”であることを拒否する冷然たる矜持、人であることの証である熱を帯びた矜持、相反する色が横たわる不安定な黒。
しかしそれは何事もなくふいと逸らされて、置いていかれたこちらの喉元には名前の付けようのない憂いと渇きが残る。
「なぁ、アスカロン」
「あ?」
笛の音は途切れたが、世界をたゆたう歌は終わらない。
「預言の──言葉の意味というものは、世界の本質ではない。おそらく」
有限の命にとって明日は今日の続きではなく、しかし歌は変奏を繰り返しながらどこかへ続いて行く。
THE END
Sub Pub Music [Anger of Honor]