Prelude - 1
躍動する夏の陽光が石積みの古都に反射して、まばゆく輝く。道行く人々はその強い陽光に目を細め、知らず日陰へと歩を寄せている。砂っぽい街のあちこちに植えられた背の高い笠松の陰、色鮮やかな露店の幌の陰、どこへ続いているかも分からない狭隘な路地を覆う陰。
焼けつくような暑さの中、しばしの涼を得て心地着くのだ。
「完全に間違えたぜ。なんで灼熱の昼間に来たんだよ、俺ァ」
「知らないよ」
黒騎士の嘆息に少年は声を水平にして応えた。
「こっちの時間なんてイチイチ気にしてねぇんだよ。仕事終わってから来てみりゃ真昼間じゃねぇか、ふざんけんなよ」
「ちゃんと働くなんて、真面目だね」
「白狼が怖ェからな」
色硝子に溶解された弱い光が注ぐ教会の中で、ガリガリとデカイ氷を削っている影がふたつ。
その教会は賑やかな界隈から離れた場所にあるせいか珍しく緑濃い大樹の陰に建てられており、うだる外気と比較すれば随分と涼しいはずだが、それでも常闇に生息している客人からすれば大差ないようだった。
「あのじーちゃん怖いの? 会うとお小遣いくれるよ」
「マジか」
ユニヴェール家のシャムシールと黒騎士ウォルター・ド・ベリオール。
ふたりはそれぞれ身の丈ほどの氷を芸術作品にすべく奮闘している。涼を取りたいだけならばその氷柱を風の通る入り口にただ置いておけばいいのだが、それでは可愛くないというのが──
「ベリオール卿、ユニヴェール様にお話があっていらしたのでしょう? アスカロンを呼んで参りますわ」
──氷を提供してくれた魔女の仰せである。
そしてシャムシールが氷の塊を“可愛くする”仕事に勤しんでいた中盤、ユニヴェールへの伝言を携えた黒騎士が僅か吹き込む風と共にやってきたわけだ。ローマ市民のためにいつでも開け放たれている教会の聖なる扉をくぐって。
「あの野郎を呼ぶより、ユニヴェール卿の居場所を教えていただけた方がありがたいんですがね、我々暗黒都市としては」
奥から現れたフランベルジェの姿を認めて、ベリオールが手を止め立ち上がった。
「いつまでもパーテルを不在にしてもらっては困るんです」
「原因はそちらでしょう?」
ローヌ氷河を織った紗をまとう魔女が面白そうに首を傾げる。
「暗黒都市のせいでパルティータの具合が悪くなっちゃったから療養しているのよ。それなのに滞在場所を教えるもんですか」
三使徒の主であるユニヴェールは本調子に戻らないパルティータの療養に付き添っていることが多く、最近はパーテルを不在にしている。
未だ土着の神々の痕跡が色濃い東欧の国々を転々と移ろう療養場所。それは暗黒都市には報告されていないらしく、何かある度にアスカロンの拠点であるローマにメッセンジャーが送られてくるのだ。
「有能な方がたくさんいらっしゃるんだから、頑張って探しなさいな」
「ユニヴェールが本気出して隠れてるのに探すバカがいるかよ。時間の無駄だ」
大型の肉食獣を思わせる伸びをひとつ、男は再び氷を削り始める。
「重要な会議をするから集まれってだけの伝言だぞ」
「……でも重要なんでしょ?」
少年のまっとうな指摘は、ベリオールの不機嫌に吹き飛ばされた。
「あのな、 11ってのはな、次の会議で飲むワインの銘柄を決める会議も重要だって言い張るような連中なんだよ!」
「あ、そう」
「……まぁ今回はワインじゃなくバルツァー卿のことらしいがな」
「へぇ。珍しいね」
彼らの主は暗黒都市においても異端であるため問題の主役を飾ることが非常に多い。だが嘘か真か吸血鬼の始祖とも噂されるウェンデル・バルツァーは静かな堅物で、議題にされるようなタイプの人物ではない。
あのユニヴェールが一定の敬意をもって接している数少ない御仁だ。
あと折に触れて律儀にお土産をくれる。
「──まぁ、珍しいっちゃァ珍しいが……あれも珍しいんじゃねぇか?」
ベリオールが気配を影に潜ませながら声を落としてきた。その視線の先を振り返れば、
「ユニヴェール卿に伝言があります」
若い、凛とした声が高いドームに響く。
声の主は、人間の聖域を護る者の証である白い隊服に身を包んだ蒼い目の青年。
真昼の光を背に教会の入り口に立っていたのは、フリード・テレストルだった。
吸血鬼ユニヴェールの令息でありながら、吸血鬼始末人の最高峰たるヴァチカン・デュランダル特務課に籍を置く数奇な運命を負う若者。
「ユニヴェール様はここにはいないのだけど……」
一拍呆けた顔をしていたフランベルジェが、すぐに柔らかい笑みを取り戻す。
「アスカロンなら闇を渡れるから。少しお待ちいただける?」
「…………」
フリードの無言を是と受け取って、魔女が側廊へと姿を消す。
シャムシールとベリオールは気配を影に溶け込ませたままだ。
まだ子どもとはいえデュランダルの隊員がこの程度で魔の気配を感知できなくなるとは思えないが、交戦の意思がないことは伝えることができる。
デュランダルは魔・即・斬ではないし、暗黒都市も聖・即・斬ではない。特に組織の上位者は、無意味に血を流すことの愚かさを知っている。
──いいか、絶対アンタは触んなよ! 絶対だぞ!
奥からアスカロンの謎の叫びが聞こえてきた。
──ダメだ。離れてろ! 鍋にもナイフにも近づくな!
確かアスカロンは昼ご飯を作りにいっていたはずだが、そんなに危険な料理なのか。
フリードの様子をこっそり伺うと、
「…………」
全部聞こえていたらしく半眼になっている。
現れた時の黒髪の下の白皙は人形めいていたが、そうした表情がのると途端に歳相応の生意気加減がのぞく。
父親とは正反対だ。
シャルロ・ド・ユニヴェールは外部には道化の顔を通し続けたのだ。見透かした斜めの笑顔を絶やさず、人間の部分を見せることはほとんどなかった。
「──デュランダルが何の用だ? 立ち退き命令?」
黒鳶色の祭服の袖を直しながらアスカロンが聖堂に入ってくる。
「今更退けって言われても、ここはけっこう前からやってるんですけど」
「いえ。お伝えしておきたいことがあって」
フリードがさっと目を逸らす。
「最近、ソテール・ヴェルトールの体調が安定せず、高熱が続くことが多くなっています」
「……うん?」
「クロージャー・ミルトスも同様です。元々があぁいう方々ですから寝込むようなことにはなっていませんが、任務には支障が出始めています。ドクター・ファウストでも原因が分からず、カリスの薬でも良くならず、お二方とも状態は徐々に悪化しています」
そこまで一気に言ったフリードが口を結び、アスカロンを正視し直す。
彼の用意してきた言葉は終わったのか。
「……それで?」
「その事実だけを伝えていただければ。何かをしてもらう気はありません。でも、たぶん、報せておいた方がいいと思って」
「へぇ」
自分の直感を優先し、正邪の境界を軽く飛び越える。ある意味驚くべき天然の豪胆さにアスカロンが片眉を上げた。
そして大仰に胸に手を当てる。
「謹んで承ります。神に誓って」
再び半眼になったフリードは、しかしそれ以上何も言わず教会から出て行った。
「ソテール隊長とクロージャー、親戚だと同じ病に罹りやすいとか?」
白い始末人の後ろ姿を見送って教壇に寄りかかったアスカロンが独りごち、
「バカじゃねぇの」
黒い氷職人が鼻で笑う。
「……てめェ、さっさと帰れよ」
「だってフランベルジェ嬢がお食事を一緒にいかがですかって「言ってないけどね」
シャムシールは空虚に否定。
「俺の手料理ですけどねェ」
アスカロンがにやける。
「誰が作ったって関係ないんだよ。誰と食べるかが重要だ」
「暗黒都市に帰ってジジィと喰えよ」
「冗談じゃねぇ。あのジジィ見かけによらず細けぇんだよ! あれを食べろこれを食べろ、まんべんなく食え、これとワインは一緒に食べるな、ナイフはここに置け、フォークはそこに置くな、てめェの面見て見ろってんだよ、お貴族様か!?」
「溜まってるねぇ…」
放任主義な上司の下で好き勝手やっている神父はいよいよ憐憫の笑顔を深くする。
黒騎士がさらに何か言い募ろうと口を開きかけたが──
「あのー、お邪魔しますぅ」
のんびり爽やかな来訪者がそれを遮った。
「……今日はまた関係者の客人が多いな」
聖堂の入り口に立っていたのは、目の覚める紅緋の髪の始末人、ヴェルトロ・レンツィ。
「フリードがここへ来ませんでしたか?」
屈託ない笑顔で首を傾げる。
「お前らなぁ、仔犬の首輪にくらい紐つけとけよ」
「いえね、りんごのパイを頼んだんですけど、やっぱり病人にはきついかなと思って。ベリーのパイにしなさいって訂正したかったんです」
「どっちも病人に喰わせるもんじゃねぇよ」
「人間は甘いものが好きだって聞いたんですけど」
「は?」
「いえ、こっちの話」
言葉を交わしながら、レンツィが教会内の気配を浚っていた。ベリオールとシャムシールに気が付いたところで少しだけ碧眼を開く。
「お前ら組織ならちゃんと団体行動しろよ。ひとりで菓子を買いに行かせたり、ひとりでパリにお遣いに行かせたり、単独行動は良くねぇよ? 俺たちの時代でさえ、ユニヴェール卿はソテール隊長と動いてたし、俺らは3人で動いてたし、もうちょっと協調性あったからな」
「──パリ」
アスカロンがささやかに混ぜた牽制にレンツィが眉を寄せる。
「アンタたちの親玉のことだよ。行ったろ、パリに」
「……貴方たちのところにいる聖女がいっこうに責務を果たしてくださらないので」
レンツィの声が尖った。マルセイユの開放的な海と空が、突然冬の灰色に覆われる。
「だからパリの聖女様のところへか。忠誠心の欠片もねぇのな」
アスカロンが教壇に置かれた聖書の表紙を指で叩き、喉の奥で笑う。
「どんな大層な預言を聞いてくるんだろうな」
「人には与えられた使命があります」
「そりゃあ、自分のやってることを正当化する時の常套句だ、覚えとけ」
アスカロンが腕を組む。
「使命感に燃えて自分の人生を懸けるのはいい。頑張れ。だが他人に押し付けるな」
「パルティータが課せられた使命を果たさなければ、我々の使命が遂行できないんですよ。大きな目的を達成するために、各々が与えられた使命を全うする。それが世のあるべき姿です」
「正しいな、そりゃ正しい。だがパルティータはその大きな目的に賛成なのか?」
神父の拍手が天高いドームに響き、高窓の光に消える。
「全否定はしないだろうさ。人が在る目的はひとつじゃねぇことをあの聖女様は良くご存知だ。お前たちの理想郷も、女王陛下の理想郷も、ユニヴェール家の理想郷も、どれだって否定はしねぇだろう」
「…………」
レンツィが顔の半分でアスカロンを睨む。それを受けてアスカロンが意地の悪い薄笑いを浮かべた。
「仲間ァ泣かせて創った理想郷なんざ、まやかしだ。クソ喰らえ」
そして教壇に肘をつく。
「いいじゃねぇの。力尽くで奪いに来いよ、そっちの総力でさ。うちの大将は喜んで相手してくれるぜ。最近退屈気味だからな」
ヴァチカンの狗と、暗黒都市の狗の狗が静かに視線をぶつける。
氷が解けて大理石に王冠の散る音がした。
ひとつ。
ふたつ。
「──ねぇ」
みっつめの音がする前に、何故かエプロンをつけたフランベルジェが奥から出てきた。
「味見してほし──」
ものすごい勢いでガバッと振り返ったアスカロンが目を剝く。
「ちょ、アンタ、その格好は何なんだよ! 鍋いじってねぇだろうな、オイ! あれだけ近づくなって言っただろ!? 言ったよな!?」
「言ったかしら?」
「絶対言ったぞ! あれ? 聞いてませんでしたか? あれだけ言ったのに!?」
両腕をわななかせて怒鳴っている神父の背後、流れに取り残されぽつねんとしているレンツィのさらに後ろに、新しい影がもうひとつすっと現れる。
しかしもはやシャムシールもベリオールも気配を消す意味を見失い、ぼーっと成り行きを見つめた。
「この方は、アスカロンの奥様ですか?」
背後の人物に気付かないまま、レンツィが蒼い魔女と鳶色の神父を交互に指差しこちらに問いかけてくる。
できれば関わり合いになりたくない。
シャムシールがどうしたもんか台詞を探していると、
「違います」
人間を鈍器で殴りつける音がして、気付けばレンツィが沈んでいた。というかめり込んでいる。
動かなくなったそれを冷めた目で見下ろしているのは、鞘に入ったままの聖剣をぽんぽんと掌に打ちつけているカリス・ファリダット。
「貴方は見回りの途中でどこへ行ってるんですか」
伸びたままのレンツィの片足首を持って、回れ右。ずりずりと引きずって行く。
「フリードは勝手に走って行くし、ミトラは日陰から動かないし、貴方も突然いなくなるし、どいつもこいつも命令を全く聞かない──」
怒りなのかぼやきなのかよく分からない内容が次第に小さくなり、炎天下の石畳に血生臭い一本線だけを残して聖なる始末人たちの姿は消えてゆく。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
聖堂にはしばしの静寂が満ち、
「ところで、アンタ、鍋いじったか?」
アスカロンが目だけをフランベルジェへ動かした。
「ちょっとだけ♪」
「!」
血相を変えてアスカロンが奥へ走ってゆく。
上機嫌で後を追う蒼の魔女。
──アンタなぁ! どうやったら鍋の中がピンクになるんだよ!
──可愛いでしょう~?
──そういう問題じゃねぇから!
「それじゃあ俺は……」
シャムシールは、踵を返そうとする黒騎士の外套をはっしと掴んだ。
「!?」
引きつった笑みの魔物と目が合う。
少年は子どもらしく太陽のようなキラキラの笑顔を浮かべた。
払いきれない暑気に氷がゆるりとほどけてゆく。
磨かれた床石を跳ねる氷河の水は、一滴一滴軽やかに空気を震わせ、澄んだ音を紡ぐ。
それは並べられた椅子を撫でる風の旋律に混ざり、光が遊ぶ木々のざわめきに重なり、路傍の土煙と共に空へ舞い、聖歌のコーラスを連れ、森奥に眠る英雄の墓所を巡り、やがて世界を流れる歌となる。
THE END
Nightwish [Elan]