表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷笑主義  作者: 不二 香
第三章 After GENOCIDE
82/88

第25話【ユニヴェール家のメイドに自主退職を勧めた結果】後編



「どうだ、教皇やらマスカーニやらにこき使われる気分は」

「何も」

 畑なのか荒野なのかさえも見分けがつかないイタリアの田舎。

 年月をかけて荷馬車が付けたのだろう一本道はあるものの、町からも村からも離れた丘の上に、その寂れた城館はあった。

 ヴィスタロッサを追ったソテールとカリスを追ったデュランダルが途中で合流するのは避けられないことで、ソテールとパリスの二人は今、一階の大広間に飾られた巨大な絵画の前にいる。

 華やかな催しを行うはずの空間には相応しくないと思われる、暗い夜の森を描いた絵だ。白く美しい月が雲間に輝き、湿った黒い木々の群れを蠢く化け物のように映し出している。

 今夜の月と同じように。

「利害が一致していれば、何だっていいのです」

 馬上のパリスは、その碧眼をじっと絵に向けている。

 人間の皮を被れば視覚が戻るのか、その姿には両眼を焼かれた堕天の影はない。

「私と私の主人の目指すべき世界は一致していて、事を遂行するためにはデュランダルであるのがちょうどいい。それだけのことです」

「……主人?」

 サマエルが唯一(ひざまず)くのは、天上の神だけではないのか。“主人”とは、神の代名詞にしては俗っぽい。

「おや、ご存知ありませんでしたか。かつてヴァチカンの中に堕天と取引しようという不届きな人間がいましてね、傲慢にも私を欺いて契約を成立させて私の主人に納まった男がいたんですよ」

「ヴァチカンの人間とアンタが契約?」

「通称フォリア・アラート。本名フォリア・デ・コンティ・ディ・セーニ。パルティータの父上です」

「……は?」

「彼はもう生きてはいませんが、契約はまだ続いています。私は彼との約束を果たさなければ自由になることができない。彼から逃れることができないのです」

 貴族のお坊ちゃんの仮面は言葉以外の何も語らない。しかし暗黒都市との境界を前にしてさすがの隊長殿も昂揚するのか、彼はいつになく饒舌だった。

「彼との契約が成立した時、私にはフォリアの最期が見えていましたし、彼が夢見た世界の姿と私が身を捧げるべき世界の姿はおよそ一致していました。だからそんな契約など何の不都合もないと思ったのですが」

 ふと、パリスが視線を落とした。

 まだ肌寒い夜気が沈黙をさらう。

 慣れない異国の言葉を探るように何度か口の中で空の言葉を転がしてから、ぽつりと呟く。

「そういえば、そもそも契約さえなければこんな宮仕えをする必要がない気がしないでもない」

 世界各地、歴史の端々に不穏と畏怖の足跡を残してたゆたう悪魔が、今更そんなことを言い出すことが可笑しい。

「一体どんな不当契約を結ばされたんだ?」

「…………」

 口にしてはいけないのか、口にすべきことではないのか、さりげなく訊いた核心には品の良い薄い笑みが返ってきただけだった。

 しかしフォリアなる人物の為人は知らないが、あのパルティータの父親となれば、神を敬愛し過ぎたがゆえに堕天したサマエルと同じ理想郷を描いているとは到底思えない。どちらかと言えばその正反対を望むのではないだろうか。

「──それは契約じゃなく呪いだな」

 絵画を見つめたままのパリスの碧眼が少しだけ開く。

「アンタも俺と同じだよ。遊ばれてるんだ、どうしようもなく性悪な過去の亡霊に」

「…………」

 会ったこともないパルティータの父親は、何故かパーテルの吸血鬼と重なった。

 世界の騒乱こそが至上の享楽、剣戟の響きと精神の凌ぎ合いこそが人生の華。あの男が世に留まり続ける限り、フリードが人の手に託されている限り、ソテールは舞台からの退場を選択することができない。

 おそらくきっとそのフォリアという男も、サマエルに容易く自由と理想郷を与えるつもりはないだろう。契約という名の共闘は──ユニヴェールが魔物と人間とは契約などすべきではないと常日頃言っているとおり──呪いのような毒をはらんでいるはずだ。

 人のための正義かフリードの命か、いつかソテールが迫られるだろう未来と同様に、その呪いはサマエルに何かを与えて何かを失わせる。

「もしもこれから、アンタの信念に沿わない命令が下されたらどうする?」

 シエナ・マスカーニはデュランダルを教皇の私軍に貶めた。

 対立する者の暗殺も、従わない勢力の焼き討ちも、異教徒の殲滅も、すべてデュランダルの仕事になる。

「……貴方だって知っているでしょう?」

 あどけなさの残る青年の顔がソテールの方をちらりと見、

「教皇も枢機卿も代わりはいくらでもいます」

 視線は再び戻される。

「意に沿わなければ、沿う者へ首を挿げ替えればいいだけのことです。人間が使い古した方法なのがいささか気に入りませんが」

 城壁をくぐってから人さらいの馬車は忽然と消えたが、パリスはこの絵が鍵だと断言して自ら監視を始めた。

 彼に従い広間の入り口に控えているのはクロージャーとヴェルトロで、ミトラとフリードは城壁の外で見張り番をしている。

「あぁ、アンタには簡単に出来そうだ」

「第一」

 パリスが静かにソテールの嫌味に重ねてくる。

「真に神の御心の寄り添い己に課された使命のために生きようとすれば、私の意に沿わないことなどありえません」

「そんな人間はアンタの王国にはいらないか?」

「私は貴方と違って失望はしません」

「人間に期待なんかしていないから?」

「それがその人間に課せられた役目だからです。反抗的な学生も、怠惰な農夫も、汚職に塗れた官僚も、贅に溺れた王族も、いかに出来損ないに見えたとしても、彼らには彼らなりの役割があるのです」

 馬の耳がぴくりと動いた。

 風の音だけが渦巻いていた夜に、微かな歌声が聴こえてきた。風にかき消されることのない不思議な声に感化されて、ゆるやかに夜の匂いが変わる。

「世界が奏でる音楽の中で、不必要な音などひとつもありません」

 言いながら、パリスがヴェルトロに合図を送る。

 赤毛のクルースニクが何かを伝えに外へ駆け出し、クロージャーが面倒臭そうに馬装を整え始める。

「慈愛に満ちた貴方が憐れむとすれば、その者たちの役割が神の王国の土台の中に砕かれ埋められる白骨に過ぎないということでしょうか」

 デュランダルの新しい隊長がゆっくりと抜剣した。

「私は、それだって過ぎた栄誉だと思いますけどね」

「そりゃ、煉獄めぐりをするよりは遥かに楽そうだからな」

 荒野の城館は人が去って久しくすでに生活の気配は風化して大地の景色の一部となっていたが、それでも井戸と厩は使われた痕跡があり、誰かが出入りしていることは確かだった。

 フリードの調査で城館の持ち主は零細貴族であることが判明している。ここから一番近い町に本宅を構えていて、もちろんその屋敷は聖騎士隊に監視させている。単に、城として維持することができず朽ちるままにしておいたところを使われたのか、それとも当人が事件に関わっているのかは定かではないが──。

「俺の目的はヴィスタロッサとさらわれた娘たちを取り返すことだ。……そっちは?」

「同じです」

 クロージャーとヴェルトロが馬を促して近付いて来る。

 二人にも聞こえるように、パリスが声のトーンを上げた。

「この絵の向こうは暗黒都市。ですが今回は戦争が目的ではありません。化け物どもの駆逐よりも救助が優先です。いかなる場合でも、目的を誤らないように」

 夜の荒野は生き物の気配で満ちている。

 日に日に背を高く緑を深くする草木、日に日に数を増し活発に動き回る虫たち、日に日に強くなるハリエニシダの甘い香り。土手をスミレが覆い、ノバラの茂みの中を野ネズミが走り回り、月明かりの下で狐が駆けまわる。

 そんな静かな喧噪を背に、馬上のクルースニクはじっと時を待った。

 細い歌声は止まない。

 憂いと郷愁を帯びた旋律が荒れ果てた城に染み入り、外界の若々しい春との落差が一層の寂寞を生む。

 そこへ、唐突に鐘の音が響いた。

 ひとつではなく次々と音が重なり、その柔らかい金属音は家のない平原に不釣り合いな重唱を奏で始め──

「準備はいいですか?」

 絵の中から月が消えた。

 森も消えた。

 彼らの前には、ただ黒に塗り潰されたキャンバスがあった。

 ある者には恐怖を与え、ある者には陶酔を与え、ある者には不安を与え、ある者には安堵を与え、手を伸ばしただけで呑み込まれそうな空虚な穴。

 ソテールは剣を抜き、クロージャーとヴェルトロも聖剣を掲げた。

「行きますよ」

 パリスが馬の腹を蹴り、白い馬体と白い隊衣が闇に踊る。


 ほんの僅かだけソテールの奥底に過ぎった影は、明確な形になる前に古城の広間に置き去りにされた。

 ──何故誰も、この昏い道の先にカリスとヴィスタロッサと連れ去られた娘たちがいることを疑わないのか。



◆  ◇  ◆



 箱庭の衛兵たちが迎え討ちに行く咆哮に、クルースニクたちの気合の叫びが重なり、鈍い剣響と肉を断つ重い音が混じり始める。

 沈黙に覆われていた灰色の世界は、生臭く耳障りな戦場に変わった。



「クロージャー! まだですか!」

 パリスの鋭い声が飛ぶ。

「姉ちゃんたちが言うこと気かねェのヨ!」

 ベルセルクは雑兵ではない。

 一撃必殺で首と胴体を離さない限り闘志を失わず、敵を恐れることもなく、人間の軍隊など一匹で一師団軽く葬ることができる。

 それだけでも厄介なのに、暗黒都市の中枢には距離など無意味な闇を渡る住人たちがわんさかいるのだ。目的が戦争や殲滅でない限り、交戦はできるだけ短く、速やかに戦場を離脱する必要がある。

 現にたおれているベルセルクはほんの数匹で、多勢に無勢、パリスとヴェルトロとソテールをもってしても“人助けついでに”駆逐なんて都合のいい離れ業は望めない。

 パリスは人間の皮を脱ぐわけにもいかず、あげくグズグズしていれば都市中枢のがやって来る。

 闇を渡ることのできる彼らは人間のように移動時間など必要としないのだ。

「Credo in unum Deum, Patrem omnipotentem,factorem coeli et terrae, Et in unum Dominum, Jesum Christum.」

「Et in unum Dominum, Jesum Christum. Filium Dei unigenitum. Et ex Patre natum ante omnia saecula.」

『Deum de Deo,lumen de lumine, Deum verum de Deo vero.』

 パリスとソテールの口から独り言のように紡がれ次第に唱和となってゆく聖なる音が、魔物の動きを鈍らせてはいる。

 それは薄氷の聖域を創り、魔物たちに一斉の突撃を許さない。

『Genium, non factum, consubstantialem Patri,Per quem omnia facta sunt.』

 魔物を牽制して蹄鉄が閃き、聖剣が閃き、槍の穂先が空を裂き、振り下ろされた大剣が地面をえぐる。

「──撤退!」

 鐘楼から合流したカリスが最後の一人を馬車に乗せた。

 同じくヴィスタロッサも彼に続いて馬車に駆け乗ろうとして、

「!」

 白い騎士と黒い魔物の群れが交差するその先に、彼女は見た。

「パルティータ!」

 高い城壁が作り出す濃い影の中、どこから来たのか銀髪の少年がメイドと対峙していた。

 目の前で罵声と怒号を上げている獣たちとは全く異質な静謐さをたたえたそれは、しかし獣たちよりも性質の悪い何かであると彼女の本能が告げている。

 子どもには大人の道理が通じない。子どもは加減を知らない。そしてその子どもの無表情の中には暴力的な強さとは別の根の深い何かが潜んでいて、これだけの騒ぎにも関わらず呪術めいた沈黙がその一郭だけに満ちていた。

 その領域は明らかに箱庭ではなかった。

「パルティータ! それから離れろ!」

 ヴィスタロッサがもう一度叫んだ声は別の者達に届いたらしい。

 ベルセルクの一部が振り返ってパルティータに向かって地を蹴り、それに驚いたか少年が何事か叫び、一方で目を見開いたルカ・デ・パリスがメイドの方へと馬を向け、

「パリス! 勝手に隊列を乱すな!」

 ソテール・ヴェルトールの鋭い声が飛んだ。

「お前の穴を誰が埋める!」

 その叱責に皆が気を取られた一瞬。

 ベルセルクが振りかぶった大剣はそのまま時を止め、少年とメイドの姿は忽然と消えていた。

「お前はデュランダルの隊長だろう! 俺の過ちを繰り返す気か!?」

 しかし虚空を凝視するパリスには、先人のありがたいお言葉は聞こえていないようだった。

「──ヴェルトロ」

 聖なる主人に名前を呼ばれて、猟犬の耳がぴくりと動く。

 ふたりまとめて離背りはいする気かとソテールが目を吊り上げ、何事かとカリスが馬車から駆け降りてくる。



 そして。



 すべてが静かになった。



「これはどういうことだい?」

 それは、さっきまで少年とメイドが立っていた影の中に現れていた。

「ギヨーはどこにいるの。説明してもらわないと」

 どこからどう見ても南の大地の軽い軽い優男。この木々の化石に囲まれた墓場のような村には清々しすぎる若者。

 黒髪の下の瞳が紅でなければ、口先と愛嬌だけで世界を渡り歩く商人だと紹介されても疑わないだろう。

 ただし、笑顔のまま戦争を煽る武器商人だ。

「──イルデブランド様……!」

 吸血鬼やベルセルクたちの狼狽ぶりからしてどうやらかなりの親玉らしい。

「ねぇ、どうしてデュランダルとオートクレールがこの庭に入り込んでるのか、怒らないから誰か説明してよ」

 黒衣の下のベストは、灰色がかった霜の薄い青。やがて来たる凍てつく冬を憂う冴えた冷たさが、静かに箱庭の空気を制圧していた。

 それまで混乱に混乱を重ねたせいでクルースニクの白の方が優勢であったのに、口端に凄味をちらつかせる若者は、まるで風が季節を変えるようにごく自然に自分がこの領域の主であることを知らしめた。

「じゃないと僕が殺されそうなんだけどな。あの人に」

 明瞭な発音だったのでその場の全員が聞き取ったが、それは説明の乏しい独り言だった。

「パルティータ・インフィーネを連れて行った少年は誰だろう? 逃げられちゃったよ。それに何故クルースニクがこんなにも入り込んでるんだ? 歩哨ほしょうは全員昼寝でもしてたのかい?」

 上空の強風に吹かれた雲の影が柔らかい白皙を照らし陰らせ、途切れることのない葉擦れの音だけが広がる灰色の情景を彩る。

「それから──ここを任せてあったギヨーはどこへ行った?」

 聖剣を構えているソテール・ヴェルトールも、箱庭の主を前に殊勝にしている衛兵たちも、ヴィスタロッサを含めたクルースニクたちも、次にどう動くべきか探っている状態で、緊張の糸は途切れていない。

「イルデブランド様!」

 その緊迫感を真正面から破ったのは、あの小さな吸血鬼だった。

「早くパルティータお姉様を助けに行ってください! それかユニヴェール卿へ連絡を!」

 どこかに隠れていたらしいパッセは若者のところへ一生懸命駆けて来た。

「早く行かないと! クルースニクがお姉様を追いかけていっちゃいましたよ!」

「──え?」

 パッセの声に反応したのはソテールで、彼は己の横を確認して硬直していた。

 ルカ・デ・パリスどころかヴェルトロ・レンツィさえも馬上に姿がない。

「いつの間に……」

 オートクレールの隊長が昏い天を仰ぎ、娘の恰好をしたカリスがヴィスタロッサの隣りで意地悪く笑う。

「いつも隊長と副隊長に勝手な行動をされていた私たちの苦労を思い知ればいいんです」

「いや、そういうこと言ってる場合ではないのでは……」

 ヴィスタロッサが流し見ると、カリスも御者台のクロージャーもこの状況を前にニヤついていた。

 ここの状況からどうやってイタリアへ戻るのか、いなくなった二人は置き去りにするのか、考えることはたくさんあるはずなのに、まさか敵の前で怒鳴り散らすわけにもいかず、彼女は口をへの字に曲げた。

 そこへ若い魔物の芝居がかった声が響く。

「小さなお嬢さん、ユニヴェール卿に連絡する必要はないよ」

「……でも!」

「あの人はここで何が起きているかくらいご存知だから」

 気障な仕草で肩をすくめる。

「今頃、こめかみに指を躍らせて考えていらっしゃるよ。何故この事態が引き起こされたか、僕がデュランダルを引き入れた裏切り者か否か、そしてこの村をどんな演出で消し去るべきか」

「でもパルティータお姉様が!」

「あの人は今、パルティータ嬢のところへは行かれない。彼女を助けるのは無理だ」

 陰鬱なトーンで語られるべき言葉は、無責任な軽さで宙を滑った。

「でも悲観することはないよ。僕が最後に聞いたユニヴェール卿の言葉は、“C'est() bien fait(ビアンフェ)!(いい気味だ)”だったからね。誰に向けたものかは知らないけど」

 結局あの人が困ることなんてないのさ、笑いながら言い放つ魔物だが、裏切り者と断じられればその“あの人”に葬られるに違いない。しかし目の前の優男は、そんな運命の理不尽さなど微塵も感じさせず完璧な麗しの魔貴族を続けている。

 それが逆に不気味に映るほど、かげもなく虚無もなく──。



◆  ◇  ◆



「僕を助けて」

「どうして」

「本当の“ユニヴェール”を見せてあげる」

「興味ない」


 話の通じない少年に手を引かれ、次に気が付いた時に彼女の周りにあったのは一面の闇だった。

 澄んだ美しい闇ではなく、全身にへばりつくような闇だ。

 自分の手も足も見えない。

 重く、寒く、息苦しく、おまけに吐きそうなほど頭が痛い。

 このままここに居たらこの闇に同化される。

 それは理論的ではなく直感だったが、大方外れていないはずだった。

 ちょっと忘れ物を取り戻そうとしただけなのに、魔物と関わるとロクなことがないとは、全く先人は正しいことばかり言う。

 だが魔物の方だって思っているだろう、パルティータ・インフィーネと関わるとロクなことがない。

 彼女は立ち上がり──月明かりさえない黒の中では相当に難しかったが──深呼吸した。

 毒だということは本能的に分かっている。女王の居城に漂うものよりも濃い毒だ、吸うより吸わない方がいいに決まっている。

 しかし彼女は敢えてゆっくりと息を整えて無意識に湧いてくる私情の流れを消し去った。死の天使(サマエル)吸血鬼ラースローが彼女の横にいたヴァチカン時代がその術を身に付けさせたのだ。彼らは博識で世話焼きだが、彼らの目的と倫理でしか動かない。彼らの為すことすべてが彼女の望むことであるわけもなく、ヴァチカンそのものも含めて幾度となく各々の事情を突き付けられた。

 しかも彼らは結果が出るまで多くを語らない性質だった。

 相手の心理であれ、目の前の事象であれ、分からないということは恐怖を生む。肥大した恐怖は判断を遅らせ、時に賢明となるが、多く誤らせる。

 今は、怖れも逃避も必要はない。

 そして彼女は今度は自らの意志で闇に触れた。

 すべての色を混ぜ合わせると黒になる、それが具現化されたような闇が手を這い覆ってゆくのを感じる。

 あらゆる歴史や感情が溶かされた、世界の始まりとも世界の終わりとも思える情熱と冷酷。黒でありながら色鮮やかで、虚無でありながら雑多で、豊かでありながら何もなく、完璧を装いつつ傷だらけの不完全。

 温かくもなく冷たくもなく。

 まとわりついてくる断末魔の残響やかつて誰かが誰かに囁いた愛の言葉を指先で弄びながら、パルティータは目を閉じその流れ込んでくるイメージの共通項を探った。

 丁寧に、しかし迅速に、ひとつひとつの破片を分類していく。

 平衡感覚は失われていて歩くことはできなかったが、歩かなければとは思わなかった。脈打つたびに頭痛がひどくなるからだ。これで歩いたら即倒れるか吐くだろう。

 ここがどこかは知らないが、人間が長く存在できる場所ではないことは分かっている。

 次第に息が途切れ、彼女は片手を下につき、残る手でこめかみを押さえた。

 膨大な年月が我先にと大声を上げ、切実に高らかに彼女を押し潰そうと訴えてくる。

 頭痛の脈動とあいまって声を出したら本当に吐きそうだ。

 しかし彼女は口を開いた。

「……ユニヴェール」

 途端、闇が黙る。こちらの出方をうかがっている、そんな静けさ。

「…………」

 この闇は“ユニヴェール”だ。

 “ユニヴェール”のすべてを真っ黒になるまで煮込み続けたらこうなるのだ。

 始まりは遠すぎて分からなかったが、連綿と蓄積されてきたユニヴェール家のあらゆる歴史と亡霊がこの闇の正体だ。

 だがこの混沌の闇は、を極度に怖れている。

「ユニヴェール。……シャルロ以外の」

 ──恐怖が歴史を創る。それはどこで聞いた台詞だったか。

 パルティータは手探りでブーツの中からヴィスタロッサにもらった銀の短剣を取り出した。

 ソテール・ヴェルトールが聖別したのだというそれは、この闇の中でも形を成した。

「これは、あの魔物がまとっている“ユニヴェール”」

 つまり“ユニヴェール家”ではあるがシャルロ・ド・ユニヴェールの本質ではない。

「ねぇ、この剣が見えるかしら? ユニヴェールが大嫌いなヴェルトールが命を吹き込んだ剣よ。美しくて何でも斬れそうよね。何でも」 

 彼女は声で睨みつけた。

「切り刻まれて炭の燃えカスみたいになりたくなかったら、私をここから出しなさい。そしてカイラスを連れてきて私の前にひざまずかせるのよ」

 闇は息を潜めている。

 そうだ、それは賢い。何もしなくたって人間の小娘など毒気にやられてすぐに死ぬのだから。

「早くしないと──」

「──その必要はありません」

 パルティータがさらに凄もうとした時、いきなり別の声が降ってきた。

「…………っ」

 パルティータは人生の中であまり驚いたことがない。

 しかし今回はあまりに驚いて銀剣を落としてしまった。

 煌めく光が一筋、黒の中をからからと転がり、精神を引き裂く悲鳴を上げて闇が蠢き、

「こっちです」

 差し出された白い手にひっぱられる。

「どうしてここにいるの」

 顔は見えない、声は変わっている、それでも分かる。

「クロワ」

「たまたま通りかかりました」




 皆に向かって自己紹介したイルデブランドは、パッセが事の次第を説明している間、驚いたり眉をひそめたり笑ったり、とにかくめまぐるしく表情を変えた。演技なのか本質なのかは見抜けないが、とにかく何がどうなろうとこの箱庭が終焉の時を迎えたことは彼の中で揺るぎない確信のようだった。彼がこの箱庭の未来について一切口にしなかったからだ。

「うかつだったな。警備全員が誰かに操られるような事態は想定してなかった。……僕が真っ先に操られて、その僕がみんなを操っていたってこともありうるしな」

 自分が容疑者の一員であるという仮説を排除しないそのシビアさは、柔和な物腰には似つかわしくない。

「僕が常に正常だったって、誰か証明できるかな……。あぁ、違う、今すべきことはそれじゃない」

 イルデブランドが突然手を鳴らした。

「速やかにここから退避した方がいい。僕らも、」

 彼の白い手袋が立ち尽くす彼の部下たちへと向けられ、

「君たちも」

 翻された手の平がヴィスタロッサたちへ向けられる。

『…………』

「ここは君たちに場所も開錠の仕方も知られたからこのままにはしておけない。こんなもの他にもたくさんあるからひとつくらい潰れたって経営には差し障りはないけど、ユニヴェール卿や女王陛下の整地はとんでもなくえげつないからね。周囲一帯文字通り無に帰されて、その後には山脈か大河になってるよ、たぶん」

 そんなのは神話の中の出来事だ。神や巨人がやる仕事である。

 極端な比喩なのだろうが、

「あの人たちには敵も味方も関係ないし」

 言葉には曖昧な虚無感が漂う。

「つまりお前は農園の責任者であって、門番でも衛兵でもない。見逃してやるからさっさと帰れということか?」

 ソテールの確認にイルデブランドが笑った。

「君たちは誘拐されたお嬢さんたちを馬車に乗せることを真っ先にやっただろう? つまり盗まれたものを取り返しにきただけで、僕らに正義の鉄槌を与える気も暗黒都市と戦争する気もない。僕の見立ては間違っているかい?」

「いや、そのとおりだ」

「だったら僕が君たちを引きとめる理由はないね。僕は君たちを逃がしたことでは怒られない。怒られるのは追撃が遅れた野蛮な黒騎士連中だからね。僕だけ責められるなんて嫌だから、奴らも道連れさ」

 実に楽しそうに笑う。

「……それじゃあ遠慮なく……」

 ソテールに指示されてヴィスタロッサとカリスが鞍上あんじょうをなくした二頭の葦毛に乗り、クロージャーが馬車を駆り、空虚な箱庭を後にしようとしたその時。

怖気おじけづいたな」

 その他大勢に分類されていたベルセルクのひとりがひどく低い声で水を差してきた。

 言葉の意味を理解するための僅かな間が空き、

「──は?」

 部下から侮辱された形になったイルデブランドが聞き返す。

 しかし怪訝な顔をしたのは上司本人だけで、他のベルセルクや吸血鬼は微動だにしていなかった。

 声の主を探す素振りもなければ、咎める者もいない。

『赤い月の光の下には暗黙の平和など必要ない』

 それどころか彼らは一字一句乱れず唱和した。

『女王陛下に捧げるべきは流し合う血。死を懸けた闘い』

 その様は、修道士サヴォナローラの言葉に心酔し惑溺しているフィレンツェによく似ていた。

 歪に矯正された意志。盲目的な遵従じゅんじゅう

「みなさんのお顔が、さっきと同じです…」

 窪んだ眼窩に虚ろを灯した魔物たちを前にパッセが拳を握って一歩後ずさり、

「まさか、全員操られて──」

 イルデブランドがあえいで仰け反り、

「全力で門を抜けろ!」

 ソテールが叫ぶ。

『殺し合おうじゃないか。どちらかがいなくなるまで』

 魔物たちの爪や剣はクルースニクたちだけでなく、箱庭の主にも向けられていた。

 城門が閉じられていく地響きの中、パッセを背後に隠したイルデブランドが赤い月に吠える。

「“ジーク”! どういうことだよ!」

 ──これがお前の望み

 それが外から聞こえた声なのか、内部で反響した声なのか、彼には判別が付かなかった。




 その屋敷の前には、純白の聖騎士と漆黒の小間使いという可笑しな組み合わせの男女が立っていた。

 誰もがそうであるように、目の前に広がる景色に言葉を失って。

 バルツァー邸をはるかに凌ぐ多種多様な薔薇で溢れた庭は、薄青のニゲラ、白いカモミール、ビロード色のダイアンサス、銅葉のリグラリア──薔薇を彩る下生えの草花も自由奔放に享楽的で、微かに聞こえてくるせせらぎが視線の届かない奥に広がるこの世の春を夢想させる。

 すっきりと甘い薔薇の香りの中にほんのわずか潜む薬草の新芽の気配。

 視覚は色に圧倒され、嗅覚は爽やかに癒される。

 花や庭に興味がない者にも今ここに埋められて死んでもいいと思わせてしまう、魔の花園。

 その中に無言で溶け込んでいるのがゴシック建築の粋を集めて造られた屋敷だ。それは繊細で、堅牢で、鏘然しょうぜんたる芸術。

 主張はせず、見せつけもしない、気が付けばそこに存在している。

 抱いている闇の濃さと深ささえ神性をまとい、淡い夜の中で浮かび上がる白霜の壁は見る者に畏懼いくを与え触れさせず、しかしこちらを見下ろすその耽美的な傲慢は決して神のものではなく、神への冒涜と謳われたバベルの塔を思い出す。

 ──何度来ても居心地が悪い。

 バルツァーは騎士とメイドの会話を聴きながら独りごちた。

「めまい? 瘴気にやられただけです。こんなところにいたのでは当たり前ですよ。しっかりしなさい」

「クロワ。私はこのお屋敷へ来たくて来たわけじゃないの」

「暗黒都市へも?」

「……そっちは正当な用事があったの」

「どうだか」

 デュランダルの新しい長だという男が、涼しい顔をして赤いたてがみ葦毛あしげにまたがった。

「分かっているでしょうけど、貴女は一刻も早くここを離れるべきなんです。ここは人間どころか魔物も足を踏み入れるべき場所ではありません。おぞましい……あらゆるものをあるべき理想の姿とは相反するものへと変えてしまう、底無しのよどみのようなものです。生は死へ、希望は絶望へ、戦うことさえ許されない」

 男の言葉につられて彼女が見上げた屋敷の真正面には、黒い蝶の紋章が刻まれている。

 ただ屋敷の歴史と主を告げているだけのレリーフは、黙して世界のすべてを嘲っている。

「あの中から出してくれたことにはお礼を言うわ。ありがとう」

 馬上から伸ばされていた手に、パルティータが軽く口づけた。そういう意味で伸ばされていたのではないことくらい分かっているだろうが、その動作はごく自然だった。

「……パルティータ」

「でも私はあの人のお屋敷に行く途中だったのよ、たぶん」

 ふいにこちらを指差される。

「…………」

 デュランダル隊長殿の一瞥が飛んでくるや、彼は無言のままこちらへ馬の歩を進めて来た。

 夜露の湿気を含んだ柔らかな庭は枯葉ひとつ折れた枝ひとつ落ちておらず、その完璧な様は管理者の執念さえ感じる。

 いつだってここにはひとつの手落ちもない。

 吸血鬼はサンザシを忌避するなど誰が言ったものか、この屋敷の庭ではその白い花がたわわに咲き誇り、根元を覆うデルフィニウムの青、キンポウゲの黄色と相まって、生命の歓びに満ちたかぐわしい春が永遠に留め置かれている。

「──随分遠回りをしたようだな」

 バルツァーはクロワを無視してパルティータに声をかけた。

「御者が行先を勘違いしていたようです。お約束の時間に伺えず申し訳ありませんでした、バルツァー卿。今からでも間に合うでしょうか?」

「間に合うかどうかはともかく、一度屋敷にお越しいただく必要はありそうだ」

「…………」

 無視され続けたクロワが挙手をしてくる。

「……何?」

 応じたのはパルティータだ。

「私が貴女を彼に渡すと思いますか? このままヴァチカンへ連れ帰ればいいだけなのに」

「渡すと思います」

 彼女が視線だけを動かす。

「貴方の目的は私を連れ帰ることではなく、ヴィスタロッサや娘たちを回収することです。ここでバルツァー卿やユニヴェール卿ともめるような、任務に支障が出るかもしれないことをするはずがありません」

「それは褒められていますか?」

「もちろん。目先の利益で闇雲に動いて第一の目的を見失う将ほど使えない者はいないもの」

「光栄です」

「それにそもそも貴方は私を助けに来たわけではないでしょう? ここまで足を踏み入れることができるという事実を残すのにちょうど良かっただけ」

「……私は貴女に言ったはずです。どうしても貴女が必要だと」

「フォリアとの契約を遂行するためにね」

「…………」

「でも、死んでる私でも構わないって聞いたわ」

「生きている貴女である必要がないのも事実ですが、生きている方が良いに決まっています」

「嘘つき」

「…………」

「…………」

 どちらも本音を言わない会話は、緩やかに上滑りする。これ以上続けても単なる言葉の浪費にしかならないことは、双方が分かっているだろう。

 花に誘われた黄蝶がひらひらと横切ってゆき、頃合いを見てバルツァーは会話を引き継いだ。

「我々オンズとしては貴殿にこのメイドを持って帰ってもらった方が都合がいいのだが、かと言ってここで素直に渡してユニヴェールの怒りを買うのはそれはそれでまた面倒臭い」

 ため息と共に漏らされる心底の本音。

「しかしいかに死の天使といえど、扉が閉まり鍵がかかれば向こうへは帰れないのでは?」

「…………」

 パリスが目を細めて赤い月の架かる夜を仰ぐ。

 大気を伝わる微かな鐘の響き。

 暗黒都市に置き去りにされたところで堕天のサマエルには何の支障もないだろうが、デュランダルの隊長のルカ・デ・パリスが暗黒都市へ突入したまま行方不明では大事になるに違いない。

「箱庭の持ち主は諦めが早くてね。さっさと厄介払いしたいんだろう、戦いもせずにクルースニクを逃がしてしまう気らしい」

「……私が今、力尽くでパルティータを奪おうとしたらどうなりますか?」

 それは純粋な疑問のようだった。

「まず私を葬って、それからユニヴェールを滅ぼす必要がある。場合によっては他のオンズや黒騎士隊や近衛隊も」

「どうやら、賢い選択とは言えなさそうですね」

「あぁ」

 ふふっと笑みをこぼしパリスが手綱を握り直した。

「暗黒都市を掃討するなんて、面白そうな誘惑ではあるんですけど」

 そして彼は笑みを消して鞍上からパルティータを見下ろす。

「貴女はずっと私と人々の期待から逃げ続ける気ですか」

「逃げ切れたら私の勝ちね」

 謹厳な糾弾は挑発的な返答に吹き飛ばされた。

 馬上のクルースニクは教師のように──出来の悪い生徒を前にした時の──盛大なため息をついた。

「では私はご忠告通り扉が閉まる前に帰ります。御機嫌よう、バルツァー卿」

 パリスは軽く敬礼を見せて

「──レンツィ」

 馬の腹を蹴った。

 駈歩キャンターからやがて襲歩ギャロップへ。

 赤い鬣、赤い尾をなびかせて、白い隊衣を翻らせながら、闇へと続く一本道の中へその姿は溶解していく。

 その姿を見送って、バルツァーはユニヴェール家のメイドを自家の馬車へと促した。

 パルティータだけでなく彼自身も、あまりこの屋敷の領域に留まっているべきではないのだ。少しでも気を緩めようものなら見えない毒に確実に蝕まれてしまう。

 この場所はエデンの園のようなものなのだ。

 一見すると楽園だが、底の無い沼を内包している。

 足早にユニヴェール邸の領域を離れ自分の馬車に乗り込み一息ついたところで、彼は蒸し返した。

「私には彼が力を誇示するためにここまで来たようには見えなかったが」

「……そういえば研修の方は、」

 あからさまに話を逸らした彼女は、こちらの圧力に気付くや今度は窓の外へと目を逸らした。

「クロワが私を助けに来たと言ったその言葉に偽りはないでしょう」

 だが言葉は真面目な回答に修正されている。

「しかしあれは、信じる正義のためならどれだけ大切なものであっても、仲間であっても、私であっても、涙を流しながら壊そうとする天使です。本人がどれだけ苦しんでも、その正義を疑うという発想にはなりません。苦しむことは世界の完成への試練だと思っているから」

 必要な間は祀り上げ執着するが必要がなくなれば貶め放逐しようとする──それは歴史の上で人間が何度も繰り返してきた行いだが、サマエルはまさか自分の正義がその最先端にいるとは思ってもいない、そういう意味だろう。

「クロワは完璧な羊小屋を作ろうとしているけれど、羊一匹一匹の生死は大きな問題ではないと考えています。もしかしたら、羊が全滅するまで気が付かないかも」

「どれだけ忠誠心があるように見えても、サマエルは信用できない?」

 バルツァーの問いかけにパルティータがゆるやかに首を振る。

「信用の問題ではありません。彼の忠誠は始めから私には向けられていないのです」

 優先順位の問題か。サマエルにとって神の理想は、何よりも優先される。

「彼はどうあっても──人間の小狭い組織の中に入り込んでまでして──神の理想郷を築く気でいます。私がヴァチカンに戻れば、理想郷建国の速度は増すでしょう。私は大義名分のための飾りに据えられ、神の意に沿わぬ羊は躊躇なくほふられ、世界は大量の白骨で白く染められていくのです」

「…………」

「でもきっと成就はしない。過ぎた正義が悪になることは、歴史が何度も証明しています」

 愛憎と同じくらい、正義と悪は表裏一体だ。

「彼には王の資質も聖人の資質もありません。世界を動かす扇動は可能でしょうが、持続的なものにはできない」

 パルティータが目を閉じた。

 美しく抗い難いユニヴェール邸を過ぎた今、窓の外は潔い白さを誇る巨木の森が延々と続いている。

 単調で、荘厳で、陰気な森。

「しかしあれだけ純粋に正義を追い求める私の元家令を世紀の大罪人にはしたくないのです。それに、いつの間にか悪として糾弾される側に陥っていた時、彼がどういう行動に出るかは分かりません。愛のために断罪されるのは二回目になりますから」

 サマエルはアダムとイヴの楽園追放の原因を作ったために堕天したとされている。人間如きが神の寵愛を溢れるほどに受けていたことへの強烈な嫉妬がそうさせたのだと言われているが、真実は暗黒都市の者であっても知らない。

 今彼は、人間を理想郷へ導こうとしている理由は神のためだと公言しているらしい。

 その神のための粛清がいずれ悪へと変貌した時、きっと愛する神は今回も彼の弁明を聞き入れはしないだろう。

 その時何が起こるかは推して知るべし。

「それでも、その懸念をどれだけ説明したとしても彼は今の道を突き進むでしょう。“神のため”──それは彼の中で最も優先されるべきことなのです。彼には妥協も譲歩も不正もありません」

 目を閉じたままのパルティータが続ける。

「サマエルは私の父フォリアと何らかの契約を交わしていますが、推測するに、終着点は神の国の実現だと思われます。しかもあのこだわりようを見るに、その陣営に私がいることが条件になっているような気がします」

「お前がヴァチカンに戻らない限り彼は契約を果たせず契約から自由にはなれない。しかしお前がヴァチカンに戻れば神の国を建国するための犠牲は拡大し、歴史に倣えばやがて彼は正義から悪へと転落する」

「あくまで推測にすぎませんが」

 あの明敏な天使のことだから民衆の移り気は計算済みかもしれないが、一方で人外の生き物は概して己を過信する傾向がある。

「サマエルが正気を失ったら、ユニヴェール卿くらいしか相手にならないかもしれませんね」

 メイドはくつくつと肩を揺らして笑った。

「…………」

 今の台詞のどこに笑う要素があったのか謎だ。

「理想郷を諦めれば永遠に自由は奪われる、理想郷を創ろうとすれば再び愛は裏切られる、そしてもしサマエルが細い光の糸を辿って理想郷を創ることに成功したら──」

 パルティータが目を開けて区切った言葉を、もう一方の窓に頬杖をついたバルツァーは引き継いだ。

「今度はその国をユニヴェールが滅ぼそうとする」

 あの吸血鬼が、永遠の安寧だなんて退屈に耐えられるわけがないのだ。

「サマエルが建国を進められないように、サマエルとユニヴェールが剣を交えないように、ユニヴェールが退屈しないように、お前がバランスを取っているというわけか」

「……バルツァー卿」

 他人の家のメイドに半眼を向けられた。

「世界がそんなに単純ではないことくらいご存知でしょうに」

 それはそうだ。

 彼女が手に入らないからといってサマエルが事を中止することはないだろう。そもそもフォリアとサマエルの契約内容の予想は的外れかもしれない。サマエルの近くにはあのヴェルトールがおり、諸刃の剣であるダンピールのフリードがおり、到底物事が穏便に進むとは思えない。

 人間は人間でフランスが各国に火の粉を振りまいたせいで、ヴァチカンを始め王侯貴族たちはそれぞれの都合で打算をめぐらせている。

 世界は不確定要素で満ちているのだ。

「本当に私がそんなに重要なら、戦争のひとつも起きてますよ。トロイア戦争みたいに」

「まぁ、あれはトロイアのパリスがバカだったからな……」

「少なくともデュランダルのパリスはあれほどバカではありません」

 言ってから話が逸れたことに気が付いたのだろう、彼女は咳払いをして続けてきた。

「ドクター・ファウストによる吸血鬼絶滅計画は着々と進んでいます。今日はどうやって安全な食料を確保しているかまでバレてしまった。……暗黒都市はこのまま静かにしているつもりはありませんよね?」

 あろうことか、挑発だ。

「今度は我々を焚き付ける気か?」

「いいえ。世界で起きている全部をいちいち皆さんに代わって考えてあげるほど、私はヒマでもないし有能でもないのです」

 彼女は淡々としている。

「今だって私は、こんなに頭が痛くて目を開けているのも苦痛なのに、これから性格の曲がった老獪な魔物どもに何か申し開きをしなければいけないのかと、憂鬱で死にそうです」

「……我々なんてそんなものだろう。世界の生死より、差しあたって己に迫っている問題の方が重要なのだ」

 暗に、性格の曲がった老獪な魔物どもに申し開きなんかしたくない、と言われている気がするが、鈍感なふりをする。

 メイドは大きなため息をついてきた。

「やっぱり、魔物と関わるとロクなことにはならない……」

「…………」

 フォリアという人間はサマエルと世界に遅効性の毒を盛ったのだ。

 緩くかけられた縄は徐々に絞まり、気付いた時にはどちらを向いても破滅。逃げ場はなくなっている。

 サマエルはフォリアと関わるべきではなかった。

 もしかしたら、パルティータの母を含め、誰もフォリアと関わるべきではなかったのかもしれない。

 そこではたと思い至る。

「……フォリアは、暗黒都市のことは知っていたのか?」

「彼はヴァチカンの要人でしたから、もちろん知っていたでしょう」

「とすると、筋書きの中に暗黒都市が全く入っていないのはおかしい」

「…………」

「それだけ世界を引っ掻き回したがる未来視が、魔物の巣窟のことを配役から除外すると思うか?」

「……思いません」

 何回目かの苦々しい嘆息。

 彼女の顔には血の気がないが、心を痛めたわけではなく単純に体調が悪いのだろう。

「ちなみにお前は、最終的に何がどうなっているのが望みだ?」

「……ユニヴェール卿にお給料をいただきつつ、昔のようにサマエルをこき使えたら楽ですね。彼は家令としては非常に優秀です」

「おそろしく近視眼的な回答だな」

「人間なんてそんなものです」

 軽く受け流される。

 頭痛がひどいのか窓にもたれて目を閉じたメイドは、しかしそれでも口を開いてきた。

「もしユニヴェール卿がサマエルと同じような状態に陥ったら、突き付けられた条理の方をへし折ろうとするでしょう。しかもその状況は彼にとっては苦難でも何でもなく、刺激的で心躍る待ち望んだ逆境なのです」

 死の天使が連れてくる運命の死が免れ得ないものであるのだとしても、あの吸血鬼が不安を抱くことはないだろう。その運命を蹂躙するために情熱を注ぐのだ。完全なものなどないことを証明するように──それは自らの不滅性をも否定することに他ならないのだが──彼はその矛盾を怖れはしない。

「“ユニヴェール”はフォリアの誤算となるはずです。ユニヴェール卿ご本人でさえご自分が何者か把握しきれていないご様子ですから」

「!」

「私は感情を支配する術をヴァチカンで自然と身に付けましたが、ユニヴェール卿の理性はそうした技術によるものではないように感じます」

「…………」

「彼の中に存在する本人も分からぬ激情的な何かを冷徹家の“ユニヴェール”が制御している、そんな印象を受けます」

「……あぁ」

 ユニヴェール本人でさえ掌握していない、ユニヴェールの中身。

「そのことが貴方たちにとって良いのか悪いのかは知りませんが」

「貴方たち?」

 問い返すと、

「ユニヴェール卿が、私にとって悪いようにするはずがありません」

 メイドがニヤリと笑い、しかしすぐに無表情に戻る。

 彼女の笑みは感情の発露である笑みではなく、ただのポーズだ。表情は意志を伝達するための手段に過ぎないと言わんばかり、人間が動物とは一線を画しているはずの豊かさを全否定せんばかりの、技術的な動作。

 中身がなんであれ、真面目に人間の芝居をしようとしているユニヴェールの方がはるかに人間的に思えた。

「頭が痛いので眠ります。着いたら声をかけてください」

「……直に着く」

「…………」



◆  ◇  ◆


 パッセはすりこぎしか持っていなかった。

 パルティータと一緒だったさっきまではそれでも全然怖くなかったのだが、今はとにかく必死でイルデブランドの外套にしがみついていた。

 人畜無害そうな顔をしたこの優男は、それでも元傭兵らしく戦うことには慣れているようだった。

 部下を両断することに躊躇いはなく、魔物の首やら腕やらが地面に転がって行く。

 腐った血の臭いと理性を欠いた叫び声、闇雲に響く金属音。

 地上であろうと暗黒都市であろうと、戦場の空気は同じだ。

 その生死を運だけに委ねられた子どもたちは、無残に壊されてゆく日常に耳を塞ぐことしかできず、それでも迫る破壊から逃げ回らなければならない。

 勝っても何も残らず、負ければすべて略奪され、親や友達の屍をただ埋める。

「…………!」

 彼女は突然、切羽詰った恐怖に襲われた。人間だった頃の何かが首をもたげたのか、身体が震えて立っていられない。

 そういえば、エーデルシュタイン卿のところにいた時も、ロートシルト卿のところにいる今も、戦争とは無縁だった。それが特異な環境であることを忘れてしまっていたのだ。

 この世界は本当は常に血生臭い──と、傍らに剣が落ちた。

 魔物の血に塗れた、装飾艶やかな剣が。

「……イルデブランド様?」

 気付けば、騒乱の音が止んでいた。

 剣を落とした優男から返事はなく、ベルセルクや吸血鬼たちは見える限り全員地面に昏倒していて、クルースニクたちは一方を凝視して固まっている。

「──これは何の遊びだ? バンビ」

 降ってきた声は十分に聴き覚えがあった。

「ユニヴェール卿!」

 優男の影から飛び出したパッセは、そこでようやく自分の感じた恐怖が幻覚ではなかったことを知った。

 距離を保った白い樹の下に現れたその魔物は、彼女が知っているパーテルの吸血鬼ではなかった。

 怖くてまともに視線を向けることができない。

 他のみんながどういう顔をしているかも、確かめられない。

 その吸血鬼の形を視界に入れた途端、恐怖に身体を縛られた。心臓を強く冷たい力で握られる恐怖、その恐怖から逃れられない恐怖、持続させられる恐怖が徐々に理性を壊していく恐怖。

 ゴルゴーンやバジリスクに出会った者の方が幸いに思えた。一瞬で石になり、一瞬で命を奪われ、こんな恐怖は続かないのだから。

「ソテール、荷物を持ってさっさと帰れ」

「お前それものすごく勝手」

 ……軽口を叩くオートクレールの隊長殿は何も感じていないのか。

「鍵は?」

「開いている」

「お前が血相を変えて飛んできたってことは何かが想定外なんだろうが、聞かないでおいてやる」

 これは血相を変えてという程度じゃない。

「無理矢理貸しを作るな」

「そういうわけで、ヴァチカン組は撤収。そういえば、死んだ奴いるか?」

 吸血鬼の無色透明な声音を無視して、号令をかけるクルースニク。

 しかし返事のひとつも聞こえない様子からすると、やはり平常でいるのはソテール・ヴェルトールひとりだけなのだろう。

 てきぱきと続くクルースニクの指示に重ねて、

「──バンビ、パッセを連れてバルツァー邸に戻れ」

 ユニヴェール卿の声先がこちらに向けられた。

「この箱庭は……どうなるのでしょう?」

 この状況で尋ねたイルデブランドの太い神経は賞賛できる。

「無に帰す。このあたりにある農場も含めて、だ」

 返答は非音楽的だった。

「陛下は大きな川にしたいそうだ」

「……パッセは僕が連れて行くとして、彼らは……」

 おそらく地に伏している部下たちのことを言っているのだろう。

「ここが川になるのなら、衛兵は必要ない」

 それは反駁を許さない断言だった。

「……農場の人間は……」

「ひとつふたつの農場が消えたところで、商売に差し支えあるまい」

「……えぇ、そうですね」

 台詞はそれしか用意されていない。

 さもなくば、強制退場だ。

 箱庭ごと、パッセもろとも、消しても構わない。

 どうにか見上げた吸血鬼の赤い双眸は、冷徹にそう告げていた。

 神の定めた運命に逆らうことは許されても、今、この化け物に逆らうことは許されていない。


 ただ、ひとつひっかかる。

 イルデブランドはこう言った。

 “君たちは誘拐されたお嬢さんたちを馬車に乗せることを真っ先にやっただろう?”

「…………」

 パッセは濡れ犬のような顔をしている吸血鬼をそっと見上げた。

 彼はその場にはいなかったはずだ。



◆  ◇  ◆



「だーかーらー、どうしてこうなったかはさっぱり分からないって! でも謝ってるじゃないか! 監督不行き届きでしたって!」

「どうしてそうなったか突き止めるのが責任者の仕事じゃねぇのかよ」

「さっき起こった出来事について、今原因を述べろって!?」

「あの前庭はヴァチカンに場所を知られたんじゃろ? 始末はどのように?」

「ユニヴェール卿と陛下が」

「──始末は終わっています。すでにあの場所には前庭も出入り口もありません」

「ほう」

「バンビの責任がどうであれ、こちらに入り込んだデュランダルを取り逃がしたのは騎士隊の責任じゃないのかしら?」

「突然の出来事だったとはいえ、あれに対応できないようでは先が思いやられる」

「それは白狼と私への侮辱ですか?」

「だって事実じゃん」

 バルツァー邸の大広間は研修関係者の会話が入り乱れ、とても何百年も永らえてきた大人たちの集団とは思えないほどの大騒ぎとなっていた。

 バルツァーとパルティータが入ってきたことに誰も気付かないほど。

「──諸君、お待たせした」

 華やかに飾られた長いテーブルの両側には正装をした主人たちが、それぞれの背後には研修を終えて修了証をもらった小間使いたちが銀盆を抱えて控えていて、主人たちの前に置かれたティーカップの中では琥珀色をした紅茶がまだ温かな芳香を漂わせている。

「一部を除いてはつつがなく研修が終わったようで何より」

 パルティータはバルツァーの横に立っていた。

 だからこそ、バルツァーの第一声で広間はしんと静まり返ったのだ。

 あるいは彼らが静まり返ったのは、そのメイドが濃く煮出したハーブティーの水差しを手にしていたからかもしれない。少しでも暗黒都市の瘴気を遠ざけようという努力の結果だが、異形の者にとっては好ましい代物ではない。シャムシールのように声を上げて抗議をする者はいないとしても。

「イルデブランドの農園の前庭で異変が起こり、デュランダルの侵入を許し、あげく調達してきた娘たちを奪われたことは事実だ。しかしまだ関係者への聞き取りも始まっておらず、事の推移の正確なところも原因も分からない。乗りかかった船なので私のところで調査し、後日ご報告申し上げる。異論のある者は?」

 皆の視線が黒髪のメイドに注がれる中、バルツァーは淀みなく定型文を言い切った。

 もちろん聞き流されているので異論は出ない。

「さて──」

 居並ぶ魔物たちは彼の横に佇むその小間使いを値踏みする目で見ていたが、奇妙な違和感を覚えていた。

 自分たちがこの場の主導権を握っているはずなのに、彼女の黒い両眼にじっと観察されている──逆に値踏みをされている──居心地の悪さがあった。

「こちらは研修に間に合わなかったパルティータ・インフィーネ嬢。本物をご覧になるのは初めての方も多いでしょう」

はじめまして(ピアチェーレ)

 ざわついたのは、彼女がイタリアの言葉で挨拶をしたからだ。本来の主人(ユニヴェール)の母語であるフランス語ではなく。

 それはユニヴェールのメイドとしてここにやってきたのではないと宣言したも同然だった。

 第一、テーブルの一番遠くの端に座しているユニヴェールの後ろには、暗黒都市のユニヴェール邸から出席したメイドがすでに立っている。研修を完璧な成績でクリアしたモレラは、暗黒都市の面々にとってはパルティータよりも馴染み深い。ユニヴェール家のメイドといえば、白い肌に銀の髪、ノルマン人かノース人か北欧の血が流れていることをうかがわせる少し冷たい顔立ちの彼女なのだ。

「遅い到着にはなってしまったが、ようやく──」

「お嬢さんが遅れた理由は何かね?」

 テーブルのどこかから上がった老人の声がバルツァーの口上を遮った。

「それは──」

「道に迷いました」

 そして吸血鬼が始めた説明を遮ったのはパルティータ本人だった。

「バルツァーが迎えにやった馬車に乗ったのに?」

「こちらの馬車はとても速いので。主も留守にしていましたし、観光の良い機会かと」

「それにしたって、バルツァー卿の御者が暗黒都市で道に迷うなんてことあるかしら?」

「ローマ近郊の観光です。ユニヴェール卿がご一緒の時は安易にローマには近付けませんから」

「…………」

 テーブルの中程に座っているベリオールが眉を上げる。

「ローマ観光をしていたはずがいつの間にか暗黒都市に入ってしまったあげく、イルデブランド様のお庭で起こった出来事に巻き込まれてしまいました。昔から厄介ごとに引き寄せられる性質なのです」

 誰から見ても愛想を笑いだと分かる愛想笑いを浮かべていたパルティータは、しかし魔物の重鎮たち一匹一匹の顔を覚えようとでもするように視線をゆっくり動かしながら続けた。

「デュランダルに化けているサマエルが人間である私を連れ戻そうと追って来ましたが、バルツァー卿が助けてくださいました」

 デュランダルは人間を護る存在であり、パルティータ・インフィーネは人間だ。サマエルの行動は特別ではなく論理的で、バルツァーが彼女を助けたというのも語弊がある。

 だが彼女はさりげなく自分を暗黒都市側へ置いた。

「迷子になって研修に大遅刻したうえにサマエルまで呼び込んでしまって、大変申し訳ありませんでした」

 地上にあわせて夜の帳の降ろした庭の静けさと相まって、メイドの真摯な謝罪の声音は広間に凛と響いた。

 手元の紅茶へ目を落とす者、テーブルを彩る様々な薔薇を眺めている者、真っ直ぐメイドを見返す者、バルツァーへと目をやる者、反応は千差万別だったが、空気は針のように尖っていた。

 白露の一滴、水紋のひとつもない湖面の如く、誰も身じろぎひとつできない静謐。

 ややあってそれを破ったのは、破っても許される者の声だった。

「──サマエルが現れたのはお前のせいではない」

 場の視線が広間の最奥へと向けられる。

「デュランダルを暗黒都市に引き入れた者がいる」

「ユニヴェール」

 バルツァーが咎めの声を上げ、ロートシルトが不安を顔に浮かべ、イルデブランドが口を尖らせた。

 名指しで怒られた吸血鬼は、しかし黙ることなく爪でテーブルを叩いた。

「私が何も知らないと思うなよ、バンビ」

「ええー?」

 イルデブランドは緊張感のない反応を返していたが、

「ユニヴェール、だからその話は私が預かると言ったはずだろう。まだまともな検証ができていないのだから」

 バルツァーは苛立ちを隠そうとはしていなかった。

 しかし空気を読むユニヴェールではない。

「イルデブランドが議会に出入りし始めた時の後見人は貴方ではありませんでしたか? バルツァー卿」

「そのとおりだが、私が調査に手心を加えるとでも?」

「貴方はいつだってバンビに甘い。そいつの部下は、泣いて逃げ回る私のメイドを追いかけ回していた。死刑だ」

「泣いてません」

「ユニヴェール卿、空気が汚れるから動かないで」

 大仰な仕草で立ち上がったユニヴェールに、小さな魔女(コーネリア)からクレームが入り、

「……しかし、どうして彼女が箱庭の衛兵たちに追いかけられていたことを知っているのですか、ユニヴェール卿」

 アルビオレックスの一言で場が凍る。

「デュランダルが暗黒都市へ乗り込んで来た時、貴方は我々と共にいたように思いましたが」

 柔らかい丸咲きの白薔薇のような口調だが、葉に隠された下は大きく鋭い棘だらけだ。

「…………」

 ユニヴェールは特に困った様子もなく爪先でリズムを取り続けていたが、彼は皆の視線と注目が十分自分に集まってから口を開いた。

「先日、弟のロイが私の邸宅から逃げ出しました。それがあの箱庭に迷い込んだらしく、何を混乱したか、断片的に自分の見たものを私に共有してきたのです」

 吸血鬼はそこでパルティータを見据え、爪先の軽快なタップを止めた。

 対するパルティータは手にしたカップにどばどばとハーブティーを注ぎ、それを一気にあおってからうなずいた。

「私をユニヴェール邸へ連れて行ったのは貴方の弟君だったのですね」

「……ちょっと待て」

 身を乗り出したのは黒騎士ベリオール。

「パルティータ嬢、アンタはこっちのユニヴェール邸へ行ったのか?」

「そうだ」

 バルツァーの代返の簡潔さに黒騎士は一瞬詰まり、しかし気を取り直して声を低く続けた。

「アンタも知ってるだろう、バルツァー卿。アイツの屋敷(ユニヴェール邸)は単なる住居じゃねェ。意志を持った化け物だ。屋敷が招いた者の目の前にはそれがどこであろうと現れるが、こっちから行きたくても絶対に辿り着けやしねェ」

 どこにでもあってどこにもない場所。

「パルティータ嬢が“ユニヴェール邸”に辿り着けたってことは、“ユニヴェール邸”がパルティータを呼んだってことじゃねェか。サマエルまでおまけにつけて」

「もちろんベリオール卿のおっしゃるとおりの解釈も可能なのですが、」

 控え目な調子で口を挟んだのは、ユニヴェールの背後に佇むメイドのモレラだった。

「ロイ様が行方不明になり、我々はすぐユニヴェール様にご報告申し上げました。結果、当家の家令であるカイラスが責任を持ってロイ様の捜索にあたることになりましたが、カイラスが箱庭に隠れていたロイ様を見つけお屋敷へ連れ戻す時、パルティータ様やサマエルも巻き込んでしまったのではないかと思われます」

 話の筋は通っていた。

 聞いて、イルデブランドが手を挙げる。

「あの~、そのロイ様って、吸血鬼の集団催眠みたいな芸当、できる?」

「できるとも、できないとも、申し上げられません。お小さくともユニヴェール家のお血筋ですから素質はおありだとは思いますが、実際に見たことはありませんので」

「なるほどね」

 若い吸血鬼は結論を出さずに矛を納めたが、彼の意図するところは全体に伝わったはずだった。

 すなわち、箱庭の衛兵たちが機能不全に陥ったのはユニヴェール邸から逃げ出したロイにるものだと。

「アンタの危ねェ弟が逃げ出して、箱庭の衛兵を使い物にならなくしてくれて、パルティータ嬢がイタリア観光でデュランダルにつけられて、デュランダルに箱庭へ殴りこまれるわ、カイラスはパルティータ嬢もサマエルもまとめてユニヴェール邸に呼んじまうわ……」

 ベリオールが半眼をユニヴェールに向ける。

「おい、ほとんどアンタの家が原因じゃねェかよ!」

「どれも不可抗力だろうが」

 もちろん、そんな単純な話ではない。

 そもそもパルティータがローマ観光をしていて道に迷ったという前提部分からして嘘なのだから。

「私はユニヴェール邸へ召喚されてしまったようなので箱庭での後半の出来事を存じ上げませんが、デュランダルを無傷で逃したのですか?」

 パルティータの慇懃な質問に、アルビオレックスとベリオールが同時に渋面を作った。

「ご友人を皆殺しにした方が良かったか? パルティータ嬢」

「いいえ。黒騎士隊の紳士な行動に感謝します」

 パルティータをあの箱庭へ連れて行った者がいるのと同様、デュランダルを暗黒都市へ導いた者、ロイをあの箱庭に導いた者がいるはずだ。そうでなければ、三者があのちっぽけな村に集合することなどほとんどありえない。

 それが同一人物なのかはともかく、舞台に姿を現していない登場人物は確実にいる。

 もしかしたら何気ない顔でこのテーブルを囲んでいるかもしれない。

「デュランダルとオートクレールが今回掲げていた目的はただひとつ、さらわれた娘たちの奪還です。相手が人間だろうと暗黒都市だろうと、彼らには関係ありませんでした。たまたま娘たちの囚われた先が暗黒都市だっただけのことです。そして彼らは任務を完遂し、しかも、」

 パルティータはユニヴェールの背後の壁に飾られているレリーフを見つめながら、続けた。

 石の中で造形化された首と尾が長いその不思議な生き物は、ムシュフシュ。古代メソポタミアの盛衰を物語る遺物は、瞳のない目で世界の先を見ている。

「彼らは吸血鬼の食糧供給システムを理解したばかりか、こちらとあちらを隔てる扉の鍵の開け方まで知ることができた」

「鍵の開け方はひとつではない」

 聴こえた反論は無意味だ。何も知らないことと、ひとつだけでも知っていることの違いは例えようもなく大きい。

「こちらに残った事実は、デュランダルにさらってきた娘たちを奪われたあげく反撃のひとつも出来ずに見送ったことと、サマエルにユニヴェール邸にまで侵入されたことです」

 ユニヴェールはレリーフの前で黙って腕と足を組んでいる。

「デュランダルを侮っているのでしょうが、彼らは武官としてだけではなく文官としても非常に優秀です。鍵の開け方を応用していつどうやって奇襲を仕掛けてくるか──そういえば、カプラの実験から何日経ちましたか? 彼らが対吸血鬼用の薬の精度を高めるのにそんなに時間は必要ないはずです。あぁ、でも」

 彼女は手を叩いてバルツァーを振り返った。

「吸血鬼でない魔物にとっては、農園が潰れて薬が完成した方が都合が良いでしょうか」

 暗黒都市の中枢には吸血鬼が多いが、それに不満を持つ魔物も相当にいる。

「パルティータ、」

 バルツァーの叱責を右から左へかわし、

「私がわざわざご忠告差し上げることではありませんが」

 彼女はつぶやく。

 彼にしか聞こえない音量で、唇をほとんど動かさず。

「フォリアの呪いは貴方たちにもかけられています。絶対に」

 ユニヴェール邸でバルツァーが言ったとおりなのだ。あの男が、“世界”の枠組みから暗黒都市を除外しているわけがない。必ず、役名と台詞は割り当てられているはずだ。

「貴女の目的は何ですか、パルティータ・デ・コンティ・ディ・セーニ。我々を疑心暗鬼にさせたいのでしょうか? それともヴァチカンと戦争をさせたいのですか?」

 優男アルビオレックスから──否、席上のロートシルトとユニヴェール以外から敵意の眼差しを向けられる。

 彼女は視線を泳がせた。

「私の目的もデュランダルと同じくひとつだけですが、遅刻しています」

『?』

 今度はロートシルトもユニヴェールも含めた全員が眉を潜めた。

 それから口を真一文字に結びテーブルに飾られた珍しい薔薇──中心がクリーム色で縁取りが紅──を穴が開くほど凝視することしばし、焦れた魔物たちがぽつりぽつりと隣と言葉を交わし冷めた紅茶に手をつけ始めた頃、それはようやくやってきた。

「やっと捕まえましたよ~! やっと入れてもらえましたよ~!」

「ルナール! 遅い!」

 バルツァー邸のメイドたちが「困ります」と言いまくるのを押しのけながら広間に現れたのは、パーテルのユニヴェール邸に棲む黒猫剣士だった。

 そのルナールが強引に連行してきたもうひとりを見て、

「おい、そいつは!」

 今度こそ立ち上がったのはベリオールだ。

「私の目的はただひとつ、この研修に参加して彼を連れて帰ることです」

 長身痩躯、ゆるく波打つ髪と意志のない双眸、あの日ルナールを取り返しに女王の居城へ行ってベリオールに薙がれた蒼の吸血鬼。

「ご紹介します。私の伯父のラースローです」

 ルナールが吸血鬼を羽交い絞めにしたままパルティータの横に立った。

「そいつは俺が殺ったよな?」

「ベリオール卿、吸血鬼の滅ぼし方をおさらいしますか?」

 吸血鬼の本場、陰鬱な東欧の由緒正しい吸血鬼が魔剣イブリースで一閃されたくらいで滅びるわけがない。吹けば飛ぶようなその辺の野良吸血鬼と一緒にしないでほしい。

「彼は私の母が私につけてくれた護衛ですが、少し前に諸事情により暗黒都市で行方不明になってしまいました。このとおり自我がないので自分から戻ってくることは見込めません。そこで」

 パルティータはごそごそとラースローの外套の中を探り、内ポケットからこの研修の招待状を取り出した。

「招待状は必ず宛名の人物の元へ届き、招待された主人は必ずバルツァー邸へ召喚されるという便利な仕組みを利用させていただきました」

 洒落た招待状の中にはパルティータの筆跡でラースローの名が記されている。

「私は粛々と研修を受け、ルナールが現れたラースローを回収する予定だったのですが、色々と余計な出来事が挟まってしまいました」

 見える限り、優男アルビオレックスもベリオールもユニヴェールもそのメイドも、目と口をぽかんと開けている。

「ルナール、ペンとインク」

「はぁい」

 ラースローを押さえつけたままルナールが器用にペンとインクをテーブルに並べる。

 パルティータはラースローの手を取って、無理やり招待状に合格のサインを書かせた。

bravi(ブラーヴィ)!」

 そして無表情のままぱちぱちと大仰に拍手した彼女は、バルツァーに向き直る。

「それでは私は用事を終えましたので帰ります。とってもお世話になりました」

「──あぁ、いや……」

 ホストが正しい言葉を探している間に席上の面々へと軽く一礼し、

「みなさん御機嫌よう」

 くるりと身を反転させると、黒猫剣士と青の吸血鬼を従えて煌びやかな広間を退出して行く。

 ラースローが現れてからの一連は淀みなく迅速で、それこそ流星が消える間の出来事であるかのようだった。

「ルナール、帰りの馬車は用意してある?」

「もちろん、フランベルジェがね」

「それなら完璧ね。きっと今度こそ目的地に着くわ」

「それより僕はいつまでこの人を引きずってればいいんですか?」

「うーん、パーテルまで」

「えぇ……この人力強いからけっこう疲れるんですけど……」

 のんびりとした会話が徐々に遠ざかる。

「…………」

「……お前の目的は研修ですらねェのかよ……」

 ベリオールの常識人な言葉が空虚に響き、バルツァーは彼らの去った方をじっと見つめるだけ。

 やがて呆気にとられていた魔物たちが我に返ってぱらぱらと視線を交わし合い始めたが、しかし第一声をどうしたものか全員が戸惑っていた。

「はっ。だから言っただろうが」

 カチャカチャと音を立てて紅茶をスプーンでかき回し、鼻で笑ったユニヴェールが毒突く。

「お前たちの手には負えないと」



◆  ◇  ◆



 商売道具である箱庭のひとつと農場のひとつを女王陛下とユニヴェールによって潰され、これからアルビオレックスとバルツァーからの尋問を控えている若者は、蔵書室の出窓に半身を預け、帰路にく魔貴族たちの馬車をぼーっと見下ろしているようだった。

「バンビ」

 声をかけてはじめてバルツァーが入ってきたことに気付いたようで、彼は膝の上に置いていた古びた一冊の本を閉じた。

「お前に答える義務はないが、ひとつだけ聞いておく」

「何?」 

「お前の箱庭の衛兵を操っていた者に心当たりは?」

「はぁ? だってそれはユニヴェール卿のところの弟さんが」

 若者は素直に首を傾げてきた。

「お前が箱庭に現れて、衛兵たちは一度正気に戻ったと聞いている。それなのに時を置いてもう一度おかしくなった。しかも主人であるお前にまで刃を向けたんだろう? だが、その時ロイはパルティータとユニヴェール家にいたはずだ。一回目の術をかけたのがロイだったとしても、二回目はロイではない」

 蔵書室には吸血鬼二匹しかいない。

 火も灯されておらず、窓から入る月光が絨毯に長い影を創っていた。

「……あのお嬢ちゃん(パッセ)か」

「彼女はこうも証言している。衛兵たちが剣を取った時、お前が“ジーク”と叫んだと」

「へぇ」

「……ジークとは誰だ?」

「…………」

 長い沈黙が落ちた。暗黒都市が刻んできた歴史に比べれば瞬きほどの時間だが、無言を耐えるには長い時間だった。

 イルデブランドがぽつりと零す。

「……違うな」

「?」

「違う。“(who)”じゃない。正しくは、“(what)”だ」

 そう言ったきり、また黙る。

 バルツァーは目を伏せた。

「もう一度聞く。お前の箱庭の衛兵を操っていた者に心当たりは?」

「それを今聞くってことは、アルビオレックス長官との尋問では聞かないってことだね?」

 公正であろうとする魔物などいない。身内にはとことん甘く、敵対者にはとことん辛く、それはごく当たり前のことで非難されることなどありはしない。

「情報の占有はいけないと思うけどな」

 若い死人の白い指は、膝にのせた古書を軽くタップしている。

 ──ギルガメシュ叙事詩。

 キリストが現れる遥か昔、ユーフラテスの流れを母として栄華を誇ったシュメールの古代都市で楔の文字を使って紡がれた偉大なる王の物語。

 しかしそれは、典型的な地中海性気質の愛嬌屋が読むには似つかわしくない代物だ。

 前半の英雄譚はまだしも、辛気臭い後半なんて特に。

 良き友であり良き好敵手であったエンキドゥを失ったことにより、ギルガメシュは己にもやがて「死」が訪れることを知り、怯え、永遠の命を探しに世界を彷徨さまよい歩く。

「バルツァー卿は由緒正しい吸血鬼だから知らないだろうけど、神に創られた者は、神の定めた運命には逆らえないんだよ」

 知らなかったでしょ? 屈託なく笑いかけてくるイルデブランドの台詞はあまりにも意外で、バルツァーはただ眉を上げた。

「ギルガメシュとエンキドゥはさ、杉森の番人である怪物フンババとイシュタル女神の天の牛を殺したことで神々から咎められたでしょ」

 ギルガメシュはウルクの王だった。フンババを打ち倒したのは良質の杉を国へ持ち帰るためだったし、天の牛を殺したのはギルガメシュへの求婚を断られたイシュタル女神が逆上してその牛でウルクの町ごとギルガメシュを滅ぼそうとしたからだ。

「でも罰を受けたのはエンキドゥだけだった」

 そもそもどこまでが罪になるのかはともかく、神々は話し合い、罰としてエンキドゥに死を与えることにしたのだ。彼は重篤の病の床につき、やがて死ぬ。

「“エンキドゥが死ぬべきである。ギルガメシュは死なせてはいけない”」

 エンリル神の言葉をなぞったイルデブランドが、指を立てくるくる回してくる。

「どうしてだと思う?」

「…………」

 バルツァーはイルデブランドの方へ歩みながら答えた。

「──ギルガメシュは三分の二が神だったからだ」

 一方エンキドゥに神の血は流れていない。彼はアルル女神が泥から創った創造物だ。

「シュメールの時代からそうだったんだから、もう仕方がないよね」

 イルデブランドの双眸が窓の下へ向けられる。

 小さな白薔薇がまるで雪の壁のように咲き誇り、天を刺すバーバスカムの純白が豪奢にそれを護り、足下ではどこまでも続く雪草セラスチウムが“個性”なんて陳腐な言葉を圧倒している。

 そこにあるのは、壮麗な色の孤高。

「神に創られた者は、神の機嫌と理屈で死を与えられる。それが僕らにとってどれだけ理不尽な理由であろうとも、異論は認められない」

 金色が剥がれかけた本の題名を無意識になぞる指。

「生きている時は天上の神の玩具で、死んでいる時は死神の玩具だよ。勘弁してほしいよね」

 イルデブランドが顔を上げた。

「暗黒都市で重用してくれて今の地位と名誉をくれたのは貴方だけど、僕を暗黒都市の住人にしたのは貴方じゃない」

 バルツァーはイルデブランドの横に立った。

「それがお前の“神”か」

「最初、僕の部下に催眠をかけたのはロイじゃない。僕さ」

「何故だ」

「いいの? 長官に言わなくて」

 イルデブランドが向けてくる紅は、意外と楽しそうだった。

「“神”に首輪をつけられたエンキドゥは僕以外にもたくさんいるよ」

 それはつまり、事が起こった時、女王陛下の命令ではなく彼らの“神”の命令に従う裏切り者が数多く紛れ込んでいるという警告だが、

「長官殿に奏上して早急に対策を練って何かが起こる前に封じた方がいいのか?」

 口端に薄い笑みをのせたバルツァーは、

「……?」

 怪訝な顔する若者に警告を返した。

「バンビ。お前の目には私も長官も、秩序を重んじる良識人に映っているのか? そうだとしたら大きな間違いだ。見る目がない。あの城にまっとうな者などいないさ」

「ん?」

「階級は何のためにある? 会議はなんのためにしている? 尋問は何のためにする? ──ただの暇潰しと矜持の保守のためだ」

 窓枠に手をかけ見下ろした白い庭には、ひと組の主従しか残ってはいなかった。

 佇んで言葉を交わしているユニヴェール本邸の主従、それ以外の客人はすでに皆帰ったのだろう。

「暗黒都市は常に何かが起こるのを待っている。ジェノサイドの時にユニヴェールが殴り込んでこなかったことを心底残念に思うくらいに」

「へぇ」

 相槌を打ってから、それなら貴方も怒らないよね、と続けるイルデブランドの言葉の意味が分からずバルツァーが問い返そうとすると、

「──!」

 化け物特有の強い力で襟元を掴まれスカーフを抜き取られ首筋に牙を突き刺された。

「バンビ」

 生まれて初めて味わう獲物の側の感覚に、ぐらりとめまいがした。

 吸血鬼の吸血行為が同族に向けられることはほとんどない。死が死を得ても何も変わらないからだ。

 視線を上げると、目の前のガラスに二匹の吸血鬼が淡く映っていた。

 喰う側と喰われる側、貴族と平民、ある意味で暗黒都市を象徴する甘美な倒錯。

「……バンビ!」

 喘ぐように息を吐くと、イルデブランドが緩慢な動作で離れる。

 名残惜しそうに傷口を舐めてから。

「何かが起こってほしいなら、自分が僕らの仲間にされたって怒らないよね?」

「…………!」

 バルツァーは思わず首元を手で押さえた。

 吸血されたわけではない。その逆、何かを入れられたのだ。

「どういうつもりだ、バンビ」

 徐々に傷口が熱を帯びてくる。

 耳鳴りがしはじめる。

 今日起こった出来事がうまくつながらない。誰が何を企んでこうなったのだ。

「だんだん聞こえてきたでしょ。途切れることのない旋律が頭の中をぐるぐる回るんだよ。これは滅びへ向かう歌だ。世界が生まれた時から奏でられている音楽だよ」

 バルツァーが絨毯の上に膝をつくと、イルデブランドが手を差し出してくる。

「I'm so sorry. でも僕には選択の余地がない。これでも貴方のためなんだよ……」

 手を振り払うバルツァーに対し、イルデブランドはその手を虚空に彷徨わせ、ゆっくりと握る。

「“神”は古いよ。貴方よりずっと」

 そしてその柔らかな声音は時をさかのぼる。

「ニーベルンゲンの歌からローマ帝国、ペルシア帝国、遥かメソポタミアのシュメールの時代まで、すでに砂に埋もれてしまった世界中のたくさんの文明の中にそれは潜んでる。“神”と崇められ、“悪神”と怖れられ、」

「そんな奴がいたとして、私が知らないはずが」

「知ってるさ! みんな知ってる。でもみんな、その怪物はこの都市の地下に繋がれてると思ってる。フェンリルみたいに、陛下の足下で大人しく寝てると思ってるのさ」

「…………」

 バルツァーはゆっくりと視線を上げた。

 イルデブランドがこちらを見下ろしている。

「たくさんの思惑があちこちに向けられたせいで当初の目的はなにひとつ達成されなかった。デュランダルとパルティータ・インフィーネの目的以外」

 紅の虹彩には愛嬌が戻っているが、唇はわずかに震えている。

「カイラスを筆頭にユニヴェール家はユニヴェール卿の下からパルティータを追い出したかった。だからロイをわざと逃がしてからユニヴェール卿をユニヴェール邸へ連れ戻し、人間に近寄れない状態にした。そしてパルティータを箱庭に誘拐したんだよ」

 役者にでもなったつもりか、今度はゆっくりと片手を自身の胸に当てた。

「僕は、この傀儡の平穏を疎んだ。僕の供給するワインに溺れて怠惰に過ごしている吸血鬼どもの安穏を壊したかった。だからデュランダルを箱庭に呼んだんだ。カイラスの筋書きではそこでデュランダルがパルティータをヴァチカンへ連れ帰ってくれることになっていた。でも僕()の脚本は違う」

 月がかげる。

 白い庭を巨大な影が覆ってゆく。

「まずロイを箱庭に閉じ込めた。カイラスはすぐに回収するつもりだったらしいけどね」

 影に飲み込まれたものから徐々に、色を失ってゆく。

「それから“神”はパルティータを殺せって言ったんだ。そうすればサマエルは人質の奪還なんて生ぬるい目的を見失って、暗黒都市そのものに刃を向ける。そこへ黒騎士団が駆けつければ戦争だよ。そして最後に僕らの誰かがロイを捕まえる。……さぁ、どうなると思う?」

 空を滑る影。歪なそれは大きく身をくねらせ、箱庭のあった方角へと向かう。

 バルツァーは暗闇の中、イルデブランドの輪郭を捉えたまま口を開いた。

「パルティータが死ぬ。ヴァチカンと暗黒都市の全面戦争になる。その戦場でロイが捕まる。お前がカイラスの関与を証言する。──すべてカイラスが、ユニヴェール家が仕組んだことだと判じられる」

「それだよ」

 月光が戻り、明るい言葉とは裏腹に虚ろな表情の吸血鬼が目に映る。

「僕が農園を壊そうとしていることなんて、余興だったんだよ。“神”は“ユニヴェール”を滅ぼすつもりなんだ! ユニヴェール卿個人じゃなく、ユニヴェール家丸ごと」

 自ら口にして、自らおののく。

 そして言葉の余韻さえすぐに消し去りたいのか、彼は息つく間もなく話を続けてきた。

「世界には、パーテルみたいに暗黒都市と接している場所がいくつもあるでしょう? ……ナルバートン商会のメムがお宝のついでに発掘しちゃったんだってさ、“神”を。数十年前に」

「あの男……」

 食えない笑みの商人が脳裏でにっこり笑って消える。

「本人は悪趣味に“ジークフリート”を名乗ってる。ムシュフシュも、アジ・ダハーカも、ヴリトラも、ファーヴニルも、ラードーンも、人間が与えた名前はどれも気に入らないらしいよ」

 メムが掘り起こしたのが数十年前だとすると、それから“神”はどれだけのエンキドゥを創り出したのか。その毒が暗黒都市の深部まで浸透しているのだとしたら、意のままになる兵力はどれほどか。しかもその毒が暗黒都市だけに留まる理由はない。

「ジークフリートが言うにあの吸血鬼(ユニヴェール)は、」

 囁きは冬の訪れを告げる淡雪のように、深い絨毯の上で溶け消える。

「“世界の敵”」

 地平の彼方まで雪に埋もれ凍り付く本物の厳冬は、足音を立てない。

「…………フ。フフ」

 世界の裏側の重大な秘密を共有するかのようなイルデブランドの真剣な眼差しに、つい笑いが漏れた。

 なるほど確かにあの道化を表現するには、そんな陳腐な言葉がしっくりくる。

「バルツァー卿、何で笑うんだい」

 不満げな若者を横目に、古の吸血鬼は鈍痛が巡る身体を起こして立ち上がった。

「何故かって?」

 サマエルは神のために愚かな民衆を正義に染め、王国の建設に邪魔なものはすべて排除しようとする。

 組織に入り込み扇動し漸進的な変革を試みる、実に人間的なやり方で。

 “神”は黒死病ペストの如く奴隷を増やし、愚かな民衆のために世界の異物を排除しようとする。

 自身の圧倒的な力と鎖で繋いだ大軍で叩き潰そうとする、実に原始的なやり方で。

 そしてどちらも遠くの何かを救おうとして足下を壊してゆくのだ。

 まさに今まで紡がれた歴史そのもの。

「滅ぼせるかどうかやってみればいい。ただし、」

 神というものは、いつでも代理人に血を流させる。

 だが生憎バルツァーは生前から何かに隷属していたことは一度もない。それはこれからも同じだ。

「ただし?」

「あいつは最後のひとり(ラスボス)ではない。常に最初のひとり(ファーストエネミー)だ」

 バルツァーが開け放った扉の先には、派手やかな琥珀色の光。小間使いたちが後片付けに忙しく行き交う暗黒都市にとっての日常が広がっていた。




「……お前たちは何をしようとした?」

 ユニヴェールは横に立つ“ユニヴェール家”のメイドへと視線を移した。

 モレラはちらりとこちらを見、バルツァー邸の庭へと戻す。

「単純な話ですわ。色々と誤算があってややこしくなりましたが、わたしくしたちユニヴェール家の目的はひとつ。パルティータがヴァチカンへ連れ戻されればそれで良かったのです」

 面倒なことになるのでずっと口をつぐんでいたが、ユニヴェールには大体の構図が分かっていた。

「デュランダルは娘たちの誘拐事件を追って箱庭への手掛かりを掴みつつあり、暗黒都市ではメイド研修が実施されパルティータが暗黒都市へやってくるという。ならば、箱庭で両者を遭遇させてデュランダルにパルティータをヴァチカンへ回収していただこう……という算段でした」

 彼の弟(ロイ)は逃げたわけではない、逃がされたのだ。

 ユニヴェールを“ユニヴェール家”へ呼び戻す口実として。彼を瘴気塗れにして安易にパルティータと接触できない状態にしておくために。

「嘘を付くな。そもそもはあの箱庭の衛兵にパルティータを殺させようとしたな。そうでなければ、衛兵の催眠を解いた理由がない」

 パルティータは衛兵に追いかけられていた。

 しかしデュランダルに円滑に彼女を持ち帰ってもらいたいのなら、始めから終わりまで衛兵は機能不全にしておく方がいい。戦闘などしない方がすべてが円滑に進む。

「私たちは途中で催眠を解くなんて聞いていませんでしたわ。私たちの今の主は貴方です。無駄に不興を買う手段を取るはずがありません。私たちはただ、彼女がユニヴェール家から遠いところへ去ってくれれば良かったのですから」

「衛兵たちを操っていたのは?」

「イルデブランドのはずです」

 告げてから、モレラが形の良い眉をひそめる。

「あの時点で催眠を解いたら、デュランダルと衛兵がまともにぶつかってしまうことになって、事と次第によっては大変なことになったでしょうに。デュランダルが奪還即退却を徹底していたから良かったものの、カイラスが怒っているでしょうね」

 あの人は自分が築いたものを壊したかったのでしょうか、言い添えて理解できないと首を振るモレラだったが、おそらくその言葉は真実の一端を語っているに違いなかった。

 創り上げることによって自分の存在意義を確かめるには多大な労力が必要だが、破滅の中に身を置けば簡単に()()()()()ことを実感できるものだ。

「パルティータがユニヴェール邸へ来たのは?」

「それも誤算です。ロイ様が連れてきたようなのですが、そもそもどうして彼が箱庭にいたのか分からないのです。ユニヴェール様がいらっしゃたらすぐにお屋敷に連れ戻す予定でしたのに、本当に行方不明になってしまわれて……。そのせいでサマエルに屋敷まで踏み込まれる事態になりました。申し訳ありません」

「“ユニヴェール家”が是としなければパルティータもサマエルも屋敷には辿り着くことはなかっただろう。お前たちの責任ではない」

 ユニヴェールはその紅にバルツァー邸の庭を映した。

 同じ吸血鬼という生き物の屋敷でも、創られる世界はその家の性格によってこんなにも異なるのだ。

 黒に堕ちた身でありながら白の変奏だけで彩ろうとする気韻、各々が抱く色の意味などこだわらずあらゆる美しさを取り込もうとする貪欲。

 そんなものが端々でぶつかって出来ている大きな世界の中で、誰かの筋書きだけがうまくいくなんてことは稀だ。多く頓挫して、少しずつ勝って、常に台本を書き直す執念を絶やさない者が最終的に勝者と呼ばれる。

 だからこそ世界は複雑な色彩を帯び、美しい。

「それにしても、カイラスにしては雑な筋書きだな」

 ユニヴェールがつぶやくと、モレラがほんのわずか夜を仰ぐ。

「彼は噂されているほど緻密な人間ではありません。以前に購入したのを忘れて、同じ銘柄の葡萄酒を何本も何回も購入してしまうような、大雑把な人間です」

「……小包から出てくるくらい頭がおかしいからな。しかしそんなのが家令で大丈夫か?」

「彼が大雑把なうちは、それほどの脅威ではないということです。あるいは、イルデブランドは緻密な策略を共謀すべき相手ではないと判断したのかもしれません」

 “ユニヴェール”に仕える者たちは、“ユニヴェール”を敬愛し、忠節を尽くす。

 喜びの島マグ・メルの如き平穏と幸せを、帝国の将ベリサリウスの如き報われぬ献身を。

 血族の因縁は紺碧の溟海よりも深く、向けられる世界の畏怖は峻厳たる峰々より大きく、それゆえに彼らは一個の主を超えてその黒い蝶の紋章を護らねばならない。

 時に盾となり、時に矛となり。

 主とその家に仇為すあらゆるものを排除することこそ、彼らのただひとつの使命。

「私たちにお怒りですか?」

「お前たちは私と契約を交わしているわけではない。ユニヴェール家と契約を結んでいる者がユニヴェール家のために動くことに口を差し挟む気はないさ」

 しかし、最も基本的な疑問が宙に浮いている。

「もし仮に計画が成功してパルティータがサマエルに連れて行かれていたら、私はイルデブランドの管理責任を強く問うだろう。バルツァーがなんだかんだ言って庇うのは目に見えているがな。あの若者はそんな危険を冒して、何故お前たちに協力したのだ?」

「さぁ、私は存じません。詳細はカイラスにお尋ねくださいませ」

 おそらくカイラスも正答は持っていないだろう。

 イルデブランドは協力したわけではない、彼もまた何らかの目的を持っていて、カイラスの計画を利用したのだ。

 ロイがあの箱庭にいたのは偶然か? ──否。

 しかしともかく、舞台上の役者が目的を共有せず各々異なる思惑をもって動いた結果、物語は破綻し寸劇は瓦解した。

「…………」

 ──あの人は自分が築いたものを壊したかったのでしょうか

 モレラの言葉を反芻して、吸血鬼は無意識に己の唇を指でなぞった。

 それにしては中途半端だ。

 ユニヴェールを怒らせたければ、部下にやらせるのではなく、自分でパルティータの首をねればよかった。

 戦争を起こしたいのなら、衛兵ではなく黒騎士隊をデュランダルにぶつければよかった。

 滅びの美学に溺れたにしては、消極的、自分の恣意的な関与を最小限に留めようと計っているように感じられる。

「それにしても彼女は──パルティータは何故、箱庭に迷い込んだのはローマ観光の末だと嘘をついたのでしょう?」

 ユニヴェールが押し黙っていると、モレラが沈黙を払って口を開いてきた。

「自分は拉致されて箱庭に辿り着いたのだと本当のことを証言していたら……」

 偶然の過失が積み上がって起こってしまった不幸な出来事は、何者かが──複数の者が各々の目的を秘めて──仕組んだ謀略の結果へと変貌する。

 彼女の偽証がゆえにカイラス始めユニヴェール家もイルデブランドも深い追及を免れたのだが、

「あれは、早く帰りたかっただけだな。瘴気にやられて目が吊り上ったものすごい形相になっていたから。本当のことを言ったら相当ややこしいことになるとは察していたのさ」

 ユニヴェールは簡単に言い捨てた。

「……ずっと無表情に見えましたけど…」

「そうか?」

 門の方から、バルツァー邸の小間使いが小走りにやってくるのが見えた。ユニヴェール家から迎えの馬車が着いたのだろう。

「貴方が本邸こちらのソファに落ち着いていてくださればそれでみんな幸せになれますのに」

 モレラがため息をつく。歴史の澱みにうず高く堆積されてゆく同じ台詞。

「残念だったな、世界の不幸こそ私の幸せだ」

 ユニヴェールは赤い月の夜空を仰ぐ。

 偽証で得られるパルティータの利益は、一刻も早いパーテルへの帰還だ。

 しかしそんなものはたいした特典ではない。あの場にはルナールもいた、フランベルジェも彼女の味方だろうし、そのうえテーブルにはユニヴェールがいた、いざとなれば強引に尋問を終わらせることもできたのだ。

 それなのに敢えて彼女は明確な嘘を付いた。真実が明らかになった時、言い逃れなど到底できそうにない嘘を。

 そしてその嘘によって救われたのは確かにユニヴェール家とイルデブランドだ。

「…………」

 どこまでが偶然の結果でどこまでが意図された終幕なのか、分からない。

 彼女に関して分かったことは、ひとつ──。



◆  ◇  ◆



「二回目の催眠は貴方の仕業でしょう? 僕ごと殺そうとしたよね?」

 箱庭のあった場所は大きな川になっていた。対岸は霧がかかっていてよく見えない。

 これからオンズがこの大河の名前を決めるらしい。

 ──だが、滅びの瀬戸際に立たされて、お前は昂揚したはずだ

「…………」

 意外と激しい波間に影がちらつく。

 ──何故、パルティータを殺せなかった?

 当然されるだろうと思っていた質問に、イルデブランドは両手を外套のポケットへ突っ込んだ。

「催眠を解いた時、衛兵の動きが鈍かったんだよね。ロイの干渉があったんじゃないかと思うんだけど。あの子にもパルティータを殺させようとしたけど、命じても受け付けなかったし。ユニヴェールに情報の横流ししてたみたいだし。あげく自力なのかカイラスの力なのかパルティータごと逃げちゃうし。一応彼女はユニヴェール家の上司になるわけだから、護ろうとしたのかもね」

 あのメイドを殺した瞬間すべてが前に押し流されて行き、何もかも元には戻せなくなるのは明白だった。

 確かに何もかも壊したい瞬間はあった。だが、目の当たりにしたものが戯れではないと気付いたその時、足がすくんだ。

 それはまともな理性が残っていた証だと思いたい。

 ──世界は生物の身体と同じだ

 空がかげる。

 巨大な影が夜空を滑り、強烈な風が吹き荒ぶ。

 ──病巣があればそれに対抗する勢力が防衛にあたる。失敗すれば身体は死ぬ

 メムが掘り起こした怪物は、“神”であり世界の摂理だ。重ねられた歴史の中に必ず潜んでいた。

 そして世界の代謝を司っている。

 ──俺には世界を生かす義務がある

 分かっている。神にとっても世界にとっても、自分たちは単なる一兵卒に過ぎないことなど。

 分かっている。だったら小細工なんてせずにそのデカイ口でユニヴェールをひと呑みにすればいいじゃないか、と言ったら終わりだということも。

 ジークフリート曰く、「歴史の転換は劇的であるべきだ」。

 くだらないこだわりに付き合わされる身にもなってほしい。

「それで? 次は何をするの?」

 バルツァーは堕ちなかった。

 自分とは何が違うのか、自問しても聞こえてくるのは歌ばかりだ。

 あの男とは出自も地位も力も持っているものすべてがそもそも違い過ぎて、頭が思考を拒否する。

 終わりのない死人の歌が、空っぽの身体からまとわりついて離れない。



◆  ◇  ◆



「ようやく見つけたぞ、ジジイ」

「よく見つけたな、ジジイ」

 端が朽ちかけている木製の扉を押し開き現れた吸血鬼に、薬草の選別をしていたドクター・ファウストが顔も上げずに応じた。

「うちのメイドを返せ」

「返せとは随分な言い方をする。暗黒都市で随分無茶をしてきて死にそうになってたのを治療してやったのは誰だと思ってる」

「どうせ治療費は腐るほどもらったんだろうが」

「まぁな」

 ユニヴェールがパーテルの屋敷へ戻ったのは、事件から数週間ほど経った後。

 暗黒都市の中でも毒気の薄いロートシルト邸へ転がり込んで瘴気も薄れてようやくと思ったら、今度はパーテルのユニヴェール邸からパルティータの姿が消えていた。

 ルナールに問い質しても、三使徒に問い質しても、それぞれに自責の念があるらしく頑として口を割らない。

「貴方ならもうちょっとやりようがあったでしょう」

 ルナールからもフランベルジェからも同じ憤慨をぶつけられ、味方はいないことを知る。

 一応人間なんだから研修へ参加するなと言いつけた覚えはあるが、“本邸”に気を取られ過ぎて何もかも後手に回ったのも確かだ。

 彼女がまんまとラースローを取り戻して揚々と帰って行った時も、そこまで身体的にダメージを負っていたとは気付かなかった。

 パーテルに戻りラースローを再び封印してから、具合が悪いと訴えて眠りについたまま目覚める気配がなく、焦ったルナールがユニヴェールの主治医であるゲオルグ・ファウストを呼んだとか。

 医者は清浄な地での療養が必要と診断し、パルティータを連れ去ったのだ。

「返してほしけりゃ、自分で探せ」

 そう伝言を残して。



「それにしても、よく見つけたな」

「小娘ひとり捜し出すのにこんなに時間がかかるとは思わなかったがね」

 美しいユリアンアルプスを望む山間に、ひっそりとした時間の流れる湖畔の町がある。

 緑深いその湖の中の小島には古く小さな教会があり、所有者はファウストと接点のある北イタリアの司教だった。

「アンタが診療所として利用しているらしい場所に片っ端から行ってみたのさ」

「そりゃご苦労さん」

 湖の漁師に船を出してもらい、戯れる魚影の上にゆるやかな波紋を描いて島へと渡り、教会へ続く白く長い階段を昇り、教会の横に建つ小屋の扉を開けたこの場所が、何ヶ所目の賭けだったのかは忘れた。

 空気中を漂う塵がちらちらと輝く影の中、継ぎだらけの長い上着を羽織ったみすぼらしい男が干乾びた薬草たちを模写しながら煙を燻らせていた。

「人間だった頃の不便さを思い出したよ」

 闇を渡れば距離など大したことはないが、それでは偏屈の医者がメイドを返さない気がしたのだ。

「そんなこともいとうようだったら、大天使様サマエルの執着には敵わんだろうさ。暗黒都市のユニヴェール邸まで乗り込んでおいて、パルティータが拒否したら退却? そいつも相当の甘党だな」

 医者というのは概して情報通だ。しかもこの医者は仕入れた情報は全力で手札にする。守秘義務だとかいう良心や倫理を持っていたところは見たことがない。

「ドクター、私はアンタの説教を聞きにきたわけでは──」

「あのメイドにも金以外に執着するものがあったとはな。自我のない伯父を助けるために暗黒都市へ乗り込むなんて泣ける話じゃないか。親兄弟で殺し合うこのご時世に」

「…………」

 ユニヴェールは小さく奥歯を噛んでから、今にも崩れそうなデスクに片手をついた。

「最初から最後まで聞き出したわけか」

「医者の特権だ」

 睨みつけると顔に煙をかけられる。

「自分じゃなくて悔しいか」

「……何が」

 そのままの姿勢で憮然と問い返すと、医者はペンを置いて書棚へと立ち上がり、その場には腹立たしい余裕のニヤつきだけが残される。

 男はこちらに背を向けぼろぼろの紙束をめくりながら、

「ご苦労だったが、まだ医学的な観点から返せんな。お前にもまだすすが付いてる」

 ようやく医者らしい発言をした。

 ユニヴェールは己の肩を見下ろす。

「……では、待とう」




 雲ひとつない蒼空。夏の日差しを浴びて輝く山々の深緑。反響するクロウタドリの高いさえずり。湖を背にして断崖にそびえる堅牢な護りの城。太古の氷河から与えられたエメラルドの湖と豊かな生命。咲き誇る白い蓮の花。取り残された孤島にはロマネスクの色をまとう質素な教会。

 政争に巻き込まれることなく、戦禍を被ることもなく、定められた日々をただ真っ直ぐに全うする自然と同化した時の流れに、旅の目的さえ失いそうになる。


 訪れてから数日。

 抜けるような晴天が広がる微睡まどろみの午後、ユニヴェールは教会を見上げる階段の一番下、湖の水際に座り、パンをちぎっては魚にくれていた。

 ここでは魚までもがのんびりしているのか、先を争って必死に食らいついてくるような輩はいない。目の前に落ちてきたら食べる、それくらいの愛想だが、しばらくすれば目敏い水鳥たちがやってきて魚たちの頭を踏みつけるだろう。

 熱を吸収し続ける黒衣を脱ぐためパンを傍らに置いた時、ふいに静かな湖畔に鐘の音が鳴り響いた。

 島の教会の鐘が寄せては返して湖の上を駆け、木々を揺らし、山麓に反響し、おおいなる喜びの歌を奏でた。

 それは、黄昏の胸を打つローマやパリのそれよりも遥かに自由で伸びやかで、太陽が燦々と輝く今こそ鳴らされるにふさわしい音をしていた。

 吸血鬼がゆっくりと肩越しに教会を仰ぐとヒワの群れがぱらぱらと億劫そうに飛び立ち、やがて白亜の階段の一番上に荒んだ医者の姿が現れた。

 木漏れ日でまだらになった粗野な顔が、もったいぶって大きくニヤつく。

「ユニヴェール、待たせたな。お前の小間使い、持って帰ってもいいぞ!」

「それはご苦労」

 鐘の響きの余韻を聴きながら、彼は立ち上がってパンくずを払った。

 いつの間にかやってきていたカモが必死の形相で大きなパンの塊をくすねて一目散に逃げていく。それを横目にしていると、頭上からさらなるダミ声が降ってきた。

「それから、パルティータからお前に言伝ことづてを預かっている」

「……言伝?」

 吸血鬼は眉を寄せた。

 ファウストが大きく手を広げる。

 着飾った大観衆を前にした野外劇場の俳優の如く。

 そして勿体つけてその台詞を口にした。

「“Je vous(ジュ ヴ) demande(ドゥマンドゥ) pardon!(パルドン)”(ごめんなさい)」

「はっ」

 ユニヴェールは吹き出して、黒衣を片手に階段を昇り始めた。


 教会まで九十九段。

 それは、神と人ほどには遠くない。




 THE END



Two Steps From Hell [Love&Loss][Cry][For The Win]

Phoenix Music [Guardians Of The Earth]

Impact Music [Pride and Glory]

Within Temptation [And We Run]

Coldplay [Viva La Vida]

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ