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冷笑主義  作者: 不二 香
第三章 After GENOCIDE
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第25話【ユニヴェール家のメイドに自主退職を勧めた結果】中編



 ──お前の庭にデュランダルを招待すればいい

 トビアがしくじって追いかけられてるらしいから調度いい、足下を這う巨大な影が囁く。

 ──あれだけ人間が無様に飼われてるのを見たら、彼らはきっと目の色変えて潰しに来る

 底に響く低音が部屋に満ち、思考を絡め取る。

 正義のデュランダルが彼の農園へなだれ込む。飼われていた人間と聖なるクルースニクと暗黒都市の衛兵たちが交錯し、彼の築き上げてきたシステムは崩壊する。 

 安全で安定的な血液の供給は断たれ、地上にも暗黒都市にも新しい緊張と混沌が訪れる。

 古に溢れていた原始的で野卑な無秩序ではなく、高度な理性と矜持に縛られた、より複雑な戦場。

 ──カイラスの計略にも半分乗ってやれ

 付け加えられた言葉の意味を租借する間もなく、負の虚栄はさらに育てられていく。

 ──生きることへの渇望を忘れ戦うことまでも忘れた愚か者たちの命綱は、お前が握っている

 艶めかしく空を引掻く長い爪の間隙から、安楽に身を堕とした同朋たちの呪詛が聞こえてくる。食糧を買うことしか出来なくなった吸血鬼の抜け殻たちの呪詛。

 見下ろす側からしてみれば、そんな言葉など痛くもかゆくもない。

 ──お前は壊せばいい。それが世界の延命につながるのだから



◆  ◇  ◆



「どういうこと? パルティータが来てないって。集められたメイドたちが困惑してるわよ、いじめる相手がいないから」

 バルツァー邸の大きなソファに小さな身体をうずめたコーネリアが肩をすくめた。

 紗をかけない彼女の言にため息をつきつつ、屋敷の主の位置に坐したバルツァーは身体を起こした。

「パルティータ本人から出席の連絡が届いた。だが私がパーテルへ迎えをやった時にはもう出発した後だと」

「誰がそう言ってたの?」

「三使徒の一番小さいの」

「シャムシール。あのチビちゃんが嘘ついたとか」

「意味がない」

「じゃあ、彼女が自分で馬車を調達してこっちへ来ようとして迷子になったんじゃないかしら」

「ちゃんと迎えをパーテルにやることは彼女に伝えてある」

「バルツァー卿、貴方ってほんとにお人好し。貴方が計画したとおりに全員が動いてくれたら苦労しないでしょ? 昔も今も。とんでもない娘なんだったら突拍子もない行動くらい取るわよ」

「でもユニヴェール卿のところからはモレラ嬢が来てたの見けどね、僕。()ユニヴェール邸から」

 コーネリアの横に陣取った黒髪の若い吸血鬼が楽しげな目を向けてきた。

 イルデブランド・ハークネス。

 詳しい生い立ちなど誰も聞こうとしないが、本人曰くイタリア出身のイングランド育ち。オンズの一員だが、11人の中で唯一、貴族特権ではなく民主主義によってこの場にいる。暗黒都市の有象無象が集まって文句を言いあう都市会議(コンキリウム)の代表だ。もちろん、歴史や格を重んじる化石たちからは相手にされてはいない。

「この研修の最後の試験は自分の主人を正しいマナーでもてなすこと。だからメイドたちは自分の主人に招待状を送っている。研修は各家からひとりのメイドの参加しか認めていないから、主人は二通の招待状は受け取れない」

 彼は爽やかなフロスティブルーのベストの中から自分に送られた招待状を取り出してみせた。

「しかし今、ユニヴェール家からはモレラ嬢とパルティータ嬢のふたりが参加しようとしてることにならないかい?」

「……バンビ。あんたに言われなくてもここにいるみんなそんなこと分かってるわよ」

 誰もイルデブランドを本名では呼ばない。彼の愛嬌に乗っかって、あるいは爵位のない新参野良であることを蔑んで“バンビ”と呼ぶ。

「だからさ、ユニヴェール卿が来ない限り僕らの悩みは少しも解決しないってことだよ。まずは彼が誰からの招待状を持っているのか確認しなきゃ」

「ですがそれを確認しても判明しないこともあります」

 若いふたりに対面しているのは切れ長の美しい御仁だ。

「パルティータはどこへ消えたのでしょうか?」

 侍従長官アルビオレックス。

「……うーん」

 イルデブランドが視線を斜めに上げながら身体の正面で手を合わせた。

 それを口元へ持ってくると、彼の目が凶暴な白鳥と古い吸血鬼を交互に見やる。

「悪い人に誘拐されちゃったとか?」

「…………」

「…………」

「…………」

 正しい反応を選択するための静寂は、扉をノックする音で破られた。

「──バルツァー卿、ユニヴェール卿がお見えになりました」

 コーネリアとイルデブランドがアルビオレックスを見、アルビオレックスがバルツァーを見る。

 バルツァーは一拍置いて答えた。

「よろしい。随分遅刻だが、これで主人側は全員そろった。ユニヴェールが誰からの招待状を持っているか確認してから広間へ──」

「それが……とても広間で寛いでいただけるご様子ではないのです」

 部屋の中にいた魔物4匹は同時に肩を落とした。

 どうしてひとつもうまく前に進まない。

「彼は今どこに?」

「お屋敷の入り口に」

「入り口の中?」

「いいえ。外です。中には、とても入っていただくわけには」

 扉の外のメイドの声がくぐもる。

 イルデブランドが大袈裟に顔をしかめて両手で虚空を掴んでみせた。

「Incredible! 屋敷の中にも入れてもらえない状態ってすごくない!?」




 その男は中へ入れてもらえないことには特に不満はないらしく、扉の横の壁に背を預けて目の前に広がる庭を興味深げに眺めていた。

 どんな深窓の令嬢が眠っているのかと期待を抱かせる、白い薔薇と白い草花で統一された厳かな庭。

「バルツァー卿、よく手入れされているお庭でけっこう。うちなんてパルティータがそこかしこに穴を掘って適当に薔薇を植えるもんだから、色が散らかっていてね」

 悪びれないテノール。

「遅れるつもりはなかったんだが、」

「それよりユニヴェール、何なんだ──」

 小言が溢れ返り過ぎて捕まらず、バルツァーは言葉を切った。

 今日何度目かのため息をつきながら、もう一度その男を上から下まで眺める。

「その格好は」

 スカーフの純白を包む漆黒の外套は細かいサファイアの粒で刺繍が施され、それはまるで月のない海原のようにひっそりと深く、主の動きにあわせてさざなみ輝いていた。見目だけならこの場に十分ふさわしい。締め出される理由はない。

 しかし吸血鬼は自分に向けられている視線の意味を理解しているようで、

「うちで飼ってる化け物が一匹逃げ出したって連絡を受けてね、帰らざるをえなかったんだよ」

 言い訳めいたセリフを吐いてきた。

「本邸にか」

「あぁ。見ての通り。ほとんど誘拐状態でパーテルから連行されたぞ。あの家の召使どもは主人の都合は全く考えない」

 その男は、バルツァーでさえ無意識に口を覆いたくなるほど濃密な瘴気をまとっていた。

 視覚として例えるならば、地獄のプレゲトン(血の川)から這い上がってきたかの如く、全身鮮血塗れ。

 聴覚として例えるならば、世界中の絶叫と金切声と呪詛の声を大音量で垂れ流しているかの如く、歩く騒音公害。

 メイドが屋敷へ入れたがらないのもうなずける。

 こんなのを客人の前に出したら、大顰蹙(ひんしゅく)を買ってこの先ずっと陰口を叩かれ続けることは目に見えている。

「当分パーテルには戻れんな」

 肩のあたりの瘴気を払う仕草をして、ユニヴェールが嘆息する。

「この状態で帰ったらパルティータは言わずもがな、三使徒まで倒れかねん」

 世界にはおそらく唯一、女王の居城よりも濃く救い難い悪意と憎悪を抱えている場所がある。

 聖なるヴァチカンとは別の意味で魔物たちが忌避する場所、それが暗黒都市の郊外に存在する()ユニヴェール邸だ。

 “始まりのユニヴェール”の時代からそこにあり、今はこのシャルロ・ド・ユニヴェールが引き継いでいるはずのその屋敷一帯は、しかし継承者である当人さえ寄り付かない。

 何人なんびとも立ち入ることあたわず──その扱いは汚染されていると言った方が正しい。

 何に汚染されているのか?

 悪意。憎悪。悲嘆。憤怒。慟哭。哀訴。怨嗟……そして、強烈な白い忠誠。あの場所は人が持ちうるあらゆる感情の歪みと折り重なる歴史の喧騒に汚染されている。

「だがこの研修自体には差し障りあるまい? ここにいる老君方がこの程度の瘴気で倒れるはずもなし。ユニヴェール家から研修に参加しているのは貧弱な人間のパルティータではなくのモレラだ。あの女なら、この状態の私が抱き締めたって何ともない」

 メイドたちから主人たちへ発送された招待状を外套の中からひらひらさせて、ご丁寧にモレラからの文面まで見せながら、吸血鬼の紅の目が細められる。

「…………」

「そんなに怒らないで褒めてほしいね、まだ逃げた化け物は捕まってないが、自分の都合より宮仕えの方を優先してこうしてやってきたんだ」

 招待状には呪いがかかっているから、招待状を受け取った主人は最終刻限までには必ずこのバルツァー邸へ出頭することになる。ただそれは誰かの遅刻によって大きな肩書を持つ面々に影響を与えないための形式的な措置であって、脅迫でも何でもない。ユニヴェール級の化け物ともなれば、簡単に破棄することができる程度の呪いだ。

 破棄することだって出来たがお前たちのお遊戯に付き合ってやることにした──何故遅刻魔に偉そうに言われているのか理解ができないが、いちいち正すのもうんざりする。

「捕まっていないとは?」

「問題ない。カイラスに回収を命じてある。あいつの責任で」

 それならばその言葉は速やかに実行されるに違いない。水が上から下へ流れることを疑わないように、ユニヴェール本家の家令の優秀さは誰も疑わない。

「……分かった。だがお前には別の部屋を用意してやるからそっちで待っていろ。自覚しているだろうが、とても人前に出せる状態じゃない」

「屋敷へ入れてもらえて何より」

 口端でニヤリと笑ったユニヴェールがメイド長に呼ばれて廊下の奥へと消えると、

「…………」

 バルツァーは窓の外へ目を落とした。

 見ているだけで薫りたつ、いくつものアーチを覆い尽くす白薔薇の繚乱。

 だが今、その美しさがこの古の吸血鬼を癒すことはなかった。

 ユニヴェールは、ユニヴェール家の代表は本家のメイドであるモレラだと信じている。

 現にモレラは研修に来ているし、ユニヴェールが彼女のからの招待状を持っているのも事実だ。

 しかしパルティータから承諾の返事が来ているのもまた事実で、けれど彼女がパーテルにはおらずこの会場へも姿を現していない、それも事実だった。

 主人は一通分の招待状しか受け取れない。

 ユニヴェールが持っているのがモレラからの招待状ならば、パルティータは誰に招待状を出し、誰がそれを受け取ったのだ?

「……パルティータ嬢が消えたことをユニヴェール卿は知らない」

「バンビ」

 柱の影から戯曲を口ずさむようにイルデブランドが現れた。

「ついでに、ロートシルト卿のところのパッセ嬢も行方不明」

 華やかな黒衣が絨毯のすれすれを横切り、柔らかな双眸がバルツァーを見上げてくる。

「まったくさぁ。メイドたちを招集、主人に招待状を書かせて形ばかりの研修と成果披露を行って、集まった主人たちに合格を出させる。って、どうしてこれだけのことが素直に運ばないんだろうね」

 イルデブランドの吸血鬼歴はそれほど長くない。ロートシルトよりは上だが、ユニヴェールよりはかなり下だ。

「ユニヴェール卿には稼がせてもらってるし、女の子が怖い目にあってるなら早く見つけてあげたいんだけど」

「…………」

 何のことかと目で問うと、彼は少しだけ自慢げに口角を上げる。

「ヴァチカンがカプラでやっていた実験のことはバルツァー卿も聞いてるでしょう? 吸血鬼を滅びに至らしめる人間の血、その報告をあの人が城にしてからよく売れるようになったんだ。僕のところの農園は品質試験のための“前庭”を持ってるから。売ってる“ワイン”は絶対安全」

 爵位を持っていなかった新参者が大口を叩ける理由はこれだ。

 暗黒都市内で人間を飼い、その血液を採取して安定的に供給する。──この青年がこの農園というシステムを儲かる商売へと完成させ、吸血鬼の標準的な文化を完全に変えたのだ。

 もはや夜ごと狩りをする吸血鬼は少数派。古代吸血鬼が生まれた時から連綿と続いてきたはずの習慣は、音も衝撃も議論もなく、静かに変わった。バルツァーやユニヴェールでさえ──いや、高い爵位がある者ほど──狩りは日常ではなく高級なたしなみとみなすようになった。

「全部今日一日で片付いて、夜には美味しいワインが飲めるといいよね」

 イルデブランドは毒気のない笑顔でこちらの胸を軽くノックすると、控室へと戻って行った。

 その背を見送っていると、くるりと振り返って親指で奥を差してくる。

「突っ立ってないで、早く。これからどうするか決めないのかい?」



◆  ◇  ◆



「私は聖女ではないわ。ただの小間使いよ」

 パルティータが平坦に答えると、

「嘘」

 少年は瞬きもせずに否定してきた。

「嘘だというなら、嘘だという証拠を見せなさい」

 パルティータは引かなかった。

「みんなを助けて? そんな曖昧な頼み方じゃ誰も助けてくれないわよ。みんな? みんなって何人いるの。助けて? みんなは今どういう状態にあって、最終的にどういう状態になれば助かったと言えるの。具体的に私に何をしてほしいの」

「…………」

 もちろん台詞は非音楽的で無感情。

 少年は空っぽの顔で立っており、パッセは何かを言いかけたまま口を開けている。

「言っておくけど私は牢屋の鍵を開けるような芸当はできないからね。扉を蹴破るのも壁を登るのも剣を振り回すのも、汚れるからやらない。ミサの式文なんてとっくに忘れたし、そもそも私の言葉にはもう何の効力もないから魔物をやっつけることはできない」

「…………」

 少年の蒼い目は石のように動かない。

「さぁ! 私に何をやってほしいの」

 パルティータが見下ろして言い放つと、彼はくるりと身を反転させて、城塞の主塔へと走り去った。

 パタパタと小さくなっていく足音が大きく城壁に反響し、映像と音がズレて奇妙なめまいを引き起こす。

 パルティータは無意識にこめかみを押さえた。

 そしてしばし、

「…………」

「……相手は子どもですよぅ」

 ぼそりとパッセがつぶやいてくる。

 パルティータは半眼で返す。

「子どものわけがないでしょう。アレには影がなかったもの」

「!」

 パッセがぱっとその場を飛び退いた。

 自分とパルティータ、赤い月に照らされる地面を見比べてから、もう一度塔を見やる。

「ここは暗黒都市だから人間がいる方が驚くべきことでしたね。魔物はいて当たり前」

「あいつは、私が想定外の反応をしたから混乱して親玉に今後どうすべきか確認しに行ったのよ」

 パルティータは眉を寄せてその村を見回した。

「馬車が着いたのに、どうして誰も出迎えに来ないのかしら」

 ここがバルツァー卿の屋敷なのであれば案内係が出て来なくてはおかしいし、バルツァー卿の屋敷でないのであれば不法侵入を咎めに誰かが来なくてはおかしい。

 第三者に招かれた可能性もあるが、それならばやはり迎えが来ないのはおかしい。

 パッセも顔いっぱいでしかめ面をして自分で自分の両肩を抱いている。

「もう使われてないんでしょうか、ここ。それにしてはキレイだと思うんですけど。城壁もお家も壊れてないし……」

 本人が思っているより実は勇ましい性格をしている小さな吸血鬼は、ぶつぶつ言いながらパルティータから離れて行く。

 どうやら無意識に調査を始めたらしい。

「家はあるけど畑がないから、やっぱり定住するための村ではなさそうですよね。うまやがあるから移動手段は馬車……」

 全体を見渡せばそこは灰色の城塞の中の箱庭で、寒々しい絵ではある。しかし積み上げられた石の濃淡、調整のために挟まれている小石、建て増された時代を反映して少しずつ形の違う家々、細かく見ていけば決して無機質ということはない。

 泥はねを避けるために井戸の周りに砂利が敷き詰められているのなんか、ひどく日常的だ。

「あれ、あの家だけ明りが灯ってますよ」

 パッセの声を辿れば、比較的大きな家の中にロウソクの火の揺らめきが見えた。

「行ってみますか?」

「そうね」

 寒々しい箱庭の図を前に、ふと、吸血鬼が餓死で全滅したというカプラの城のことがパルティータの頭を過ぎった。



◆  ◇  ◆



「というわけです」

「…………」

 あっけらかんと示してくるカリスに、ヴィスタロッサはぽかんと口を開けた。

「どうなってるんですか?」

「さぁ」

 威圧的な佇まいの主塔の中。

 入ってすぐのホールには衛兵と思われる男たちが立っていた。

 そこからさらに奥、いくつかの執務室にも。偏見混じりの推測では、貴族的な格好の優男なのが吸血鬼で、いかにも傭兵なのがベルセルクやウールヴヘジンだろう。

 あるいは細剣レイピアを携えているのが吸血鬼で大剣なのがベルセルク。

 しかしそれらは全く動いていなかったのだ。

 死んでいるとか滅びているとか、そういう類ではない。

 全員壁際に直立不動で目は開けたまま、眼球の動きも含めて一切が機能停止していた。

 ひとつ大きな音を立てれば一斉に剣を抜き放ってこちらを向くのではないかと思うほどだったが、どれだけ歩き回っても彼らはぴくりとも反応せず、時が経つにつれ、当たり前の警戒心がひどく滑稽になっていった。

「たぶんここがこの村の責任者の部屋でしょうけど」

 カリスが入って行ったのは比較してかなり大きな部屋だったが、簡素を突き詰めたような内装で、教皇庁やパーテル聖騎士団の詰所とは随分趣が違った。

 壁には資料を保管するための棚だけ。

 部屋の中には事務仕事をするための机と椅子だけ。

 絨毯で見栄えをよくしようとか、飾り棚を置いて重厚感を出そうだとか、ソファでお客様をおもてなししようだとか、そういう気持ちは全く見られない。ついでに言うと、ここに長く居たいという気持ちも全く湧いてこない。

「ここには始めから誰もいませんでしたから、責任者はこの城塞のどこかにいるんでしょうね」

「どこかで突っ立ってる?」

「そう、たぶん、突っ立っています」

 ヴィスタロッサは茶化してみたものの、メドューサに睨まれたらしい魔物の集団の真っただ中、それが喜ぶべき事態なのか何なのか分からずにいた。

 机の上に広げられた羊皮紙の束をめくりながら、

「状態だけなら、吸血鬼が時々使う集団催眠に似ていますけどね」

 金髪美女がのたまう。

「ジェノサイドの時にユニヴェール卿がやったっていう?」

「そうです。でも普通は人間相手です。これだけ多くの魔物を操るなんて話は聞いたことがありません」

「ユニヴェール卿なら?」

「……あの男に能力の限界があるとは思えませんけどね。実際にやったのを見たことはありません」

「……………」

 夜空に架かる赤い月は明らかに地上のものではない。

 ここは魔物の領域だ。

 と、いうことは。

「魔物が大人しくしているこの状態がどれくらい続くかも分かりません。我々は早急にこのおかしな村を出る方法を見つけ出す必要があります」

 そうだ。

 入るには、人(さら)いのあやしげな御者の馬車に乗ればいい。しかし帰る方法は知らない。

「出入り口が同じならば、扉さえ見つけて開けば、おそらく近くにソテールもパリスもいるでしょう。我々が乗ってきた馬車を追いかけて来ているはずですから。向こうと連絡が取れれば後はなんとでもなります」

「はい」

「…………」

 じっと、カリスの碧眼に見つめられた。

「……何か?」

「ソテールからもらった短剣は持っていますか?」

「もちろん」

 ヴィスタロッサはドレスの左右を指した。

 護身用にと、オートクレールの隊長殿からは二振りの短剣が与えられている。

「では一階の倉庫へ行きましょう。人間用の食べ物がたくさんありましたから、家へ運びます」

「分かりました」

 隊長たちと状況が交わせれば何とかなる。

 その言葉に裏はなく、カリス・ファリダットはきっと本気でそう信じている。

 自分たちの手で殺そうとした上司と、紛糾の果てに新しくその地位にやってきた新しい上司。

 それなのに盲目的に信じている。

 傍から見たら病的でさえある。

「それが終わったら貴女は彼女たちの面倒をみてあげてください。少し落ち着かせることが必要でしょうから」

「はい」

「私は引き続き脱出の手掛かりがないかこの中を探索します」

 この人数の魔物がいつ動き出すか分からない状況で、ひとりは非常に危険だ。だがクールビューティがそうすると言うならば、口を差し挟む余地はない。

 ソテール・ヴェルトールが、デュランダルの中でカリス・ファリダットが一番“死にたがり”だと言っていたのを思い出す。

「クレーリア、得物は?」

「パリスからもらった短剣が二振りあります。彼の聖別はどれくらい効果があるんでしょうねぇ」

 自らの生死に対して興味を持っていない、その点に関してはカリスもユニヴェールも同じなのだ。



◆  ◇  ◆



「……チャオ」

 とりあえず、そう言うしかなかった。

 両手から溢れる数の目に見つめられたのでは。

 おまけに。

「パルティータ! 何故お前がここにいる!」

 威勢のいい音がして立ち上がった女が、ローマへ行ったはずのヴィスタロッサだった。

 しかも町娘の仮装をした。

「ぷ」

「笑うな!」

「だって」

「仕事だ、仕事!」

「それは大変」

 パッセが見つけた家の中には、正真正銘の人間の娘たちが十人以上いた。

 ちょうどみんなでスープを飲んでいたところだったらしい。

「ここは夜が明けないから感覚が狂っている」

「おなかがすいたら食べるの」

「わたし、少し太っちゃったかも」

「することもないしね。ずっとおしゃべりだけ」

「みんな色々なところから来てるし色々な境遇だから飽きないけど」

「でも私はかなり飽きてきたわ」

「危ないからって外へ出してもらえないし」

 娘たちは新しい客が嬉しいらしく、ヴィスタロッサの言葉を皮切りに次々と台詞が押し寄せてきた。

 ちなみに伴ったパッセが吸血鬼であることは伏せている。

 赤い目でヴィスタロッサは察しているだろうし、娘たちもおかしいと気付いてはいるだろうが、真実を知るのが怖い人間たちは敢えて事実から目を逸らす。

「で、ここは何なの?」

 かしましいおしゃべりを両断し、パルティータはヴィスタロッサに尋ねた。

「……何なのって、お前こっち(暗黒都市)側の人間のくせに知らないのか?」

「失礼ね。私は人間側の人間よ」

「どうだか」

 ここは魔物の領域らしいこと、この城塞の中は吸血鬼がエサである人間を飼っておくための施設の一部で、さらってきた新参の人間が食べても安全な個体か確認するための仮の村であるようだということ。

 ヴィスタロッサは淡々と解説してきたが、その内容は娘たちにもすでに大部分が共有されていたようで、いちいち驚く表情をする者はいなかった。

 察するに、ヴィスタロッサの素性だけは隠されているようだったが。

「あの主塔の地下には牢があって、たくさんの吸血鬼がつながれていた。おそらくあれに強制的に飲ませて調べるんだろう」

「同族なのに実験に使われちゃうのね」

「きっと地位のない吸血鬼が使われるのよ」

「可哀想」

「ひどいわ」

「怖いわよね」

 カプラの村で起こった出来事を知らない娘たちは、それがそのまま自分たちに返ってくる言葉とも知らず身を寄せ合っている。

 パルティータはそれを横目に、出されたスープに口をつけた。

「……そのことをどうやって知ったの?」

「それよりお前はどうして」

「こっちも仕事よ。ねぇ、どうやって?」

「数日間かけてクレーリアが調べ上げた」

「クレーリア?」

「主塔には吸血鬼だのベルセルクだの魔物がいることにはいたんだが、何故か全部動きを止めていて──」

 ヴィスタロッサが一度、言葉尻を弱めた。

 明るい碧眼をゆっくりと斜めに上げる。

「──まるで吸血鬼がかける集団催眠だとクレーリアは言っていたが──それで自由に調べられた……」

「そうだとすれば、命令ひとつで再び動き出すこともありうるわね」

 パルティータがカップを置く横で、パッセが目を開いて口を引き結んでいる。

「そのとおりだ」

 言って、ヴィスタロッサが若干の怒りを滲ませこちらを見据えてくる。

「お前のせいだな?」

「ごめんなさい。たぶん」

 明らかに空気の色が変わり、ざわめいていた。

 昏睡状態から覚醒へ──。

 城塞が目覚めた気配がしていた。

「クレーリアがまだ主塔の中にいる。ここから地上へ戻る方法を探してるんだ」

「だからクレーリアって誰」

「会えば分かる。……いや、会っても分からないかもな」

「どっちよ」

「クレーリアは貴族のご令嬢よ」

「わけあって身を隠さなきゃならなくなったの」

「私たちとは全然違うわ。言葉遣いに訛りなんかないし、着てるものも全然違う」

 ちなみに娘たちはフランスとイタリアの出身者が多いらしく、それぞれ自分の知っている言葉で話すので、意思疎通が出来ず取り残されている者もいる。

 会話が繋がるのは同じ地域の出身者どうしだけだ。

 ヴィスタロッサとパルティータはどちらの言葉も分かるので今のところ困らないが。

「パルティータ、お前、得物は?」

「仕事って言っても研修だったから、すりこぎだけ」

 肩をすくめると、大きく息をついたヴィスタロッサがドレスの裾を引き上げ、隠されていたブーツに括りつけられていた短剣をこちらに差し出してきた。

「ソテール・ヴェルトールが聖別した短剣だ。すりこぎよりは役に立つだろう」

 なるほど、それは彼が好みそうな装飾の少ない銀剣で、鋭利なフォルムだけが際立って美しい。色を削ぎ落したからこその純粋な闘志が宿っている。

 そしてまたヴィスタロッサは奥の部屋から次々とほうきやらつっかえ棒やらを取り出してきては娘たちに手渡していた。

「なるべく危険な目には合わせないようにするが、一応身を護るために」

 渋々ながら受け取った娘たちはこんな生活用品でどうしろと困り果てていたが、ヴィスタロッサがそれに応じることはなかった。

「ここは軍事拠点ではないようだからそんなにたくさんの武闘派がいるとは思えないが、それでも傭兵っぽいのは何人も見かけたからな」

「まずはその主塔にいるだろうクレーリア嬢を捜し出して合流すればいいのね」

 研修に来たはずなのに何故ヴァチカンの脱出作戦に加担しているのか、ということはこの際気にしない。

 片手剣を携えたヴィスタロッサ、すりこぎの代わりに短剣を構えたパルティータ、両手にすりこぎを構えたパッセはうなずきあってから家の外に出た。

「──そうよ。そこそこ大事なことを忘れてたわ」

「そうだな」

「私たちがクレーリア嬢を探しに行ったら、この家の中にいる十数人の羊の群れは誰が護るの?」

「…………」

 家は、武装したベルセルク十数人に囲まれていた。遠巻きではあるが、明確な殺意をだだ洩れにしている劣化版ベリオールたち。

 気だけは強いが、いかんせんヴィスタロッサもパルティータもパッセも基本は人間の性能だ。まともに戦ってどうにかなる相手ではない。

「やりがいあるでしょ、デュランダル様」

「黙れ、パルティータ」




 静寂しかなかった空間にふいに音という存在が甦り、カリスは咄嗟に近辺にあった鈍剣を手に取り、走った。

 ひらひらとしたドレスの裾を翻し、カビ臭い石の要塞の中を駆ける。

 だが、側面から突き出された剣に体勢を崩し、足が止まった。

 素早く視線を左右に巡らせれば、直感したとおり、すべてが動き出していた。

 狭い通路でベルセルクが振り回してくる剣を真正面から受け、そのあまりの重さに一瞬握力が無くなり、剣は玩具のように飛んでいった。

 想定の範囲内だったので狼狽することもなく、カリスはすぐさま身を返した。

 戦いの形式美を好む吸血鬼ならまだしも、単なる戦闘狂であるベルセルクはクルースニク単体で挑むには分が悪すぎる。

 だいたいデュランダルは、吸血鬼始末人(クルースニク)集団であって、魔物退治屋(ゴーストバスターズ)ではないのだ。

 走りながら振り返れば、魔物たちは緩慢な動作で追ってくる。

「まだ意識がない?」

 カリスは未だ彼らの声を聞いていないことに気付いた。

 階段から降りようとして、近付いて来る足音に上へと進路を変える。

 昇りながらパリスが聖別した華美な短剣を手に納め、逃げ場を探した。

 通路に開けられた穴は窓ではなくただの銃眼で、とても人間が出られるものではない。

「!」

 窓を求めてのぞいた部屋には二匹の吸血鬼。

 視線が合うや地を蹴りこちらの喉目がけて薙がれる鋭い爪。

 かろうじて引けば、ドレスの裾を踏んで石積みの壁に後頭部を思いっきり打ちつけた。

 視界に火花が散る。

 術者が慣れてきたのか、階段を昇ってくる複数の軍靴の音は駆け足だ。

 ──真面目なことで。

 吸血鬼たちの追撃を身体を転がして凌ぎ、飛び乗ってこようとする相手を下から蹴り飛ばし、その力の流れを利用して身を低く跳び起きる。

 幾重にも重ねられた絹とレースが華やかな放物線を描き、上空を裂く黒い爪と閃く短剣の輝きが対を為し、若草色のドレスが古びた血液に染まる。

 首が離れて崩れ落ちた死人の身体の向こうからベルセルクたちの姿が現れ、カリスは再び塔の奥へと石を蹴った。

 が、ぐらりと世界が歪んだ。

 目の焦点が合わず、思わず壁に手を付く。

<上へ>

 幻聴かと彼は首を振った。

<早く、上へ!>

 二度目は確かに声をかけられているのだと認識した。

「上へ行き過ぎると飛び降りて逃げることもできなくなるんですけど」

 しかもこういう場合、罠である確率が非常に高い。

 だがこの塔の戦力配置は偏っていて、上階は吸血鬼の比率が高かった。それは単純にこの村の権力図を表しているのだろうが、相手をするなら吸血鬼の方が楽だ。

 言うことを聞かない身体を叱咤して向かった奥の階段は、下からベルセルクが迫っていることが明白で、カリスは仕方なく上へと足を向けた。

 たっぷりとしすぎた裾が脚にまとわりついて、しかも足下の段差が全く見えず、細かな苛立ちがつのる。

 暗黒都市で、帰る方向さえ分からない場所で、出口が見つからない敵の要塞の中、石像と化していた敵が突然目覚め、聖剣もなく、それどころか短剣だけで、何者かも分からない声に従って塔を駆け上がる。

 生き残るための論理は破綻している。

 それでも進むのは人間の部分の本能なのか意地なのか、人間でない部分の矜持なのか。

 とりあえず、ヴィスタロッサと人間の娘たちは地上へ返さなくてはいけないし、そのための何かを掴むまでは進み続けてなくてはならないことだけは確かだ。

 こんな辛気臭い場所で死体になっている場合ではない。

 天から降ってきた吸血鬼を一閃して階下へ蹴落とし、踊り場で対峙した吸血鬼とは切り結ぶ。

 だがどうやら元々素人らしい吸血鬼では始末人の相手にはならず、切っ先を払い相手の懐へ飛び込み手首を捩じって剣を落とし、次瞬には転がった剣の横に首が並んだ。

 階段はいつしか狭い螺旋になり、上階を示す側面の扉もなくなり、ぐるぐるしているうちに目の前は木製の扉に遮られた。

 最上階というわけらしい。

<早く! 早く来て!>

「…………」

 今更退路などない。ここまで来てしまったのだから、躊躇っても意味がない。

 扉には鍵がかかっておらず、軽く押すとキィと軋んで隙間ができたので、彼はひとつ息を整えた。

 もう一度、今度は強く扉を押し、後は自然に開ききるのを待った。

 始めに見えたのは鉄格子だった。

 牢屋だ。

 次に見えたのは薔薇だった。

 冷たい石畳の上に深紅の絨毯が敷かれ、その上を薔薇の花が埋め尽くしている。

 そして奥には天蓋の付いた大きな寝台。繊細な陶器の豪奢な燭台。火のない暖炉。深い紫紺が美しい天鵞絨(ベルベット)のソファ。

「…………」

 そして青白い顔をした女。

 濃紺の絹にこれでもかと金糸の刺繍が施され、腰のパーテルノステル(ベルト)も薔薇の枝葉を模した金細工。きっちりと編み込まれた色の濃い金髪には真珠が散りばめられている。

「──ご機嫌いかがですか、マダム」

<最悪>

 そりゃそうだろう。

 身体が透けていては。



◆  ◇  ◆



 独りだけ別室に閉じ込められたユニヴェールは、することもないので無駄に大きいソファに横になりうつらうつら微睡んでいた。

 暗黒都市自体は常に夜だが、バルツァー邸の庭には暖かな色をした光源がいくつも放ってあり、まるで晴れの日の午後だ。

 この光は時間がくれば徐々に弱まり、自然と夜に戻る。そして赤い月の眠りを経て、再び朝が訪れる。その間隔はこの屋敷の主人の故郷と同じに設定されているらしく、バルツァーは薔薇の生育のためだと言うが、ユニヴェールは郷愁のためだと思っていた。

 そんなに懐かしいならザクセンあたりに屋敷を構えればいいと進言しても、彼はいつも首を横に振る。融通が利かない損な性格だ。

 そんなことを考えながら、本格的に眠ってやろうかと体勢を変えた瞬間、閉じたままの目の奥に刺すような痛みが走ってユニヴェールはぎょっと動きを止めた。

 痛みそのものは過去の記憶だ。

 だが何故それが今──気のせいだろうと身を起こした次瞬、それを否定するかの如く再びの痛みに刺され、彼は片手で目を覆った。

 何かがまぶたの裏に映る。

 彼は不快な痛みを隅へ押しやりながら、流れ込んでくる景色に集中した。

「……どこだこれは……」

 灰色の俯瞰ふかん

 高い城壁に囲まれた夜の箱庭。

 塔のどこかから見下ろしているようなその景色には、過去三百年間見覚えはなかった。

 だが、その絵の中でバタバタと走り回っている人物には十分見覚えがあった。

 まるで食屍鬼グールのような動きをしている吸血鬼やベルセルクに追いかけられている女がふたり。

 体力がないくせに無駄な動きが多い彼の小間使いと、無駄にキレて大声を出しているらしい勇ましい元聖騎士の女。

 ……意味が分からないが、それゆえにと言うべきか、苛々としたものが募っていく。

 そしてふと、彼はこの視点の違和感に気付いた。

 これは塔だか城壁だかの外壁に開けられた銃眼の、かなり下の方から箱庭をのぞいているのだ──子どもがそうしているように──。

 何故か背筋がぞっとして、思わず目を開いてしまった。

「…………」

 灰色の風景は途切れ、彼は変わらず静かな客間にいた。

 屋敷のどこかで行われているだろう研修の講師の声も、招待された主人たちが交わしているだろう穏やかな社交辞令も、聞こえては来ない、静寂に満ちた平穏な空間。

 そっと視線をずらせば、偽物の陽光が溢れる庭を黄蝶がひらひらと舞っていく。

 しかし彼の身には焦燥と混乱の感覚が残されていた。彼自身は長らく味わっていない“不安”というものに大別されるその負の感情は、おそらく視線を共有していた者のものだろう。

 それもかなり切羽詰っている。

「…………」

 彼はゆっくりとした動作で身を起こし、ソファに座り直した。両膝に両肘をつき、顔の前で手を組む。

 全く未知の出来事ではあったものの、それらを小片に切り分けて分析していけば、あるひとつの解を導き出すことができた。

 世界広しと言えども、死線を超えた人外と言えども、互いに視覚を共有できるような相手は多くない。ましてや感情まで。

「──あいつか」

 手の平を合わせて指先を額につける。

 数日前、暗黒都市のユニヴェール邸から子どもの亡霊が逃げ出した。

 あの屋敷に押し込められているものなど憎悪や悲嘆が溶け合い沸騰して黒い塊になっているのが常だが、稀にふと自我が戻ってくる瞬間があるらしい。そうするとかつて従兄弟だったものや、顔も見たこともないご先祖様らしきものが、人の形を成して呪詛を並べ立ててくることがある。

 一方子どもは自分が死んだことすら理解していない場合が多いので、鬱々として息の出来ない屋敷を嫌がって逃げ出すことがあるのだ。

「──ロイ」

 今回行方が知れなくなったのは、シャルロ・ド・ユニヴェールがかつて自ら殺めた幼い弟のひとりだった。

 しかし何がどうなって意識が繋がったのか、焦燥と混乱の意味は──人間が化け物に追いかけられている図なんて子どもにとっては面白すぎるものではないのか?

 それ以前に、今見たものが本当に現在進行形の出来事ならば。

 瘴気塗れで魔物からも隔離された吸血鬼は、本気で柳眉を寄せた。

「……何故パルティータがベルセルクに追いかけられている?」



◆  ◇  ◆



<世界の初めにあったのは混沌でも闇でもないわ。音楽よ。歌>

 どこか記憶にざらつく音節の家名を名乗った女は、真面目な顔をしてそう言った。

<ずっと昔から、今も、これからも、音楽は奏で続けられているのよ>

「……聴こえませんが」

 とりあえずカリスは事実を告げてみた。

 普遍の旋律は聞こえないが、あともう少しすれば魔物たちの足音が聞こえてくるはずだ。

<聴こえなくても流れているの>

 女が己の言葉に酔っている様子はなかった。むしろ多くの書記官がまとっている、世のすべては他人事だという言わんばかりの距離感があった。

<貴女も、彼らも、暗鬱なこの場所も、人々が住まう地上も、すべて音楽で出来ているのよ>

 正気ではあるらしかったが、今はこの女の壮大な叙事詩に浸っている暇はない。

「私はこの箱庭から出てローマへ戻りたいのですが、それは貴女のおっしゃる歌で解決できますか?」

<……そうね。貴女がとても勇敢で、とても幸運だったら、戻れるかもしれないわね>

 女は皮肉げに笑った。

<あの人は私が怖いから、悪魔と契約してここに閉じ込めているのよ。代償に娘たちを差し出しながらね。貴女もそうでしょ? 貴族の愛人にしてやる、なんて甘いことを約束されて愚かにも付いて来たんでしょう?>

 幽霊を鉄格子で閉じ込められるわけがないので、これは単なる吸血鬼の好きな形式美であって、おそらく別の何かが彼女を遮っていてこちらには歩み寄れないのだろう。

「あの人とは?」

<私が結婚していた人>

「人間ですか?」

<そのはずよ。愛人の持参金目当てに妻を殺す男でも人間と呼べるのなら>

「…………」

 昨今の貴族は二極化が進んでいる。正真正銘の名家と、貴族とは名ばかりの赤貧迷家とにだ。時流を見ることに長けている商人やどこに行っても仕事の当てのある職人の方が実は裕福だなんてこともあるくらいで、晩餐会は見栄を張って盛大に開くが内実は借金で首が回らなくなっているなんてことも珍しくない。

 そういう輩が手っ取り早く財産を増やすのに使う手が“結婚”だ。

 裕福なところから妻を娶れば莫大な持参金が手に入る。場合によっては領地まで転がり込むこともある。

<愛人は正妻の地位がほしい。彼は彼女の持参金がほしい。けれど私が生きている限り再婚はできないでしょう?>

 この時代、政略結婚は溢れていれど、聖なる神の慈悲の下、離婚というものはよほどのことがない限り難しい。

 しかし相手が死んでしまえば話は早い。

「もう一度お名前をうかがえますか?」

<グラツィア・トビア>

「確か、トビア家は南イタリア方面では…?」

 オートクレールもデュランダルも人さらいの拠点と絡んでいるだろう人物はある程度まで絞っていたが、その容疑者のひとりが南イタリアに居を構える小貴族のトビア卿だった。

 前妻とは死別していて、後妻がいることは簡単な略歴として資料にあったような気もするが……。

<……あんなちっぽけな貧乏貴族のことをどうして貴女が知っているの?>

 孤児院や修道院の閉じた世界で生きていた小娘が、地元でさえ存在を忘れられがちな貴族のことなんか知っているわけがない。

「私は──」

 そもそも女ではないと明かそうとしたところで、どこか遠くから仮名を呼ばれた気がしてカリスは語尾を呑み込んだ。

<?>

「いえ、今……」

 ──クレーリアさぁぁぁん

「名前を呼ばれました」

 確かに階下で少女が叫んでいる。

 だがどうしてもその声の年頃に見合う誰かを思い浮かべることができない。

 そもそも吸血鬼やベルセルクがうろうろしている中を平気で──

 ──クレーリアさぁぁぁん! どこにいらっしゃるんですかぁぁ!? このままだとパルティータお姉様が死にそうでぇぇす!

「は?」

 予想だにしない単語に目の前が白んだ。

<どうしたの?>

 無意識に手を壁についていて、

<白目剥いて>

 グラツィアが心配そうな視線を寄越してきた。

「……幸と不幸は紙一重だということを痛感したんです」

 カリスは言って、そのままの体勢で石の壁を軽く指で叩いた。

 この箱庭の中にパルティータが存在していて、しかし彼女が死にそうだということは、まだユニヴェールは近くにはいないが遅かれ早かれいずれ来るということだ。その時パルティータがどんな状況にあるかで、彼は立ち位置を変えるだろう。敵にも味方にもなりうる。

 彼はバッと身を起こすと、扉を開けた。

 吸血鬼やベルセルクがいるかもしれないことを完全に失念していたのだが、幸いそこはがらんとしていた。

 灰色の空洞。

「どちら様ですか? 私は一番上にいますよ!」

 螺旋階段の下に向かってできるだけ大声を出すと、それは大袈裟に反響してから闇に吸い込まれ、やがて代わりに小さな靴音が駆け上がってきた。

 ひょっこりという擬音そのものに顔を見せたのは、パルティータをふた回りくらい小さくした相似形の少女だった。

 黒い髪、血の気のない顔、灰色のメイド服。

「貴女はヴィスタロッサさんの上司のクレーリアさんですか?」

「そうですよ。貴女はどなたですか?」

 まるで異国語を習う時のような整った台詞が交わされるのを可笑しく思いながら、カリスは返した。

 彼女は目を輝かせて満面の笑みを浮かべる。

「私はパッセと申します。パルティータお姉様と暗黒都市のメイド研修に参加するはずだったのですが、何かの手違いでここに来てしまいました」

 瞳が赤いのは魔物の証だが、カリスは魔物と見れば見境なく斬りつけるほど若くはない。

「そうですか。それで、パルティータが死にそうとはどういうことでしょうか」

「ここの魔物が突然動き始めたのはご存知ですよね?」

 吸血鬼やベルセルクが斬り捨てられていたのを見ただろうから、話を進める上での確認作業に違いない。

「えぇ。あの動きは、吸血鬼の集団催眠に似ていますね」

「お姉様の推測では、彼らはお姉様を狙うように命令されているのではないかと」

「……なんと」

「魔物が動き出したのは、私とお姉様がここに着いてからのことです。それまでは数日の間、平穏だったとお聞きしました」

「そういうわけでしたか」

「だから試しにお姉様が勝ち誇ったように名乗ってみたら」

「その表現は必要ですか?」

「みんな一斉に追いかけてきました」

 光景が鮮明に浮かんで、カリスはこめかみに手を当てた。

「とりあえずクレーリアさんが塔から出られる状況を作りつつ、娘さんたちを守らねばということで、パルティータお姉様が囮になって魔物たちを引きつけてそれをヴィスタロッサさんが護衛して、頑張っています」

 人形のような小さな魔物は、厚い壁に阻まれた外を指差した。

「お姉様は体力がないから! 早くしないと走れなくなってしまいます!」

<──ねぇ。貴女たちは何なの?>

 会話の内容からただの町娘ではないと気付いたのだろう。

「正義の味方です」

 カリスは真顔で答えた。説明するのが面倒だったからだ。

<私を連れて行って!>

「クレーリアさん、早く!」

 幽霊と魔物が同時に己の要求を大声に出す。

 動かないカリスにしびれを切らしたのか、

「早くってば!」

 冷たい小さな手に手首を捕まれ引っ張られた。

「トビア夫人、手短にお願いします。貴女がここを出ることで、貴女に何の利益があり、我々に何の利益がありますか?」

 カリスは片手を壁についてパッセの力を止め、グラツィアを振り返った。

<貴女たちは私がいないとこの箱庭からは出られない。私はこの檻から放たれて自由を得る>

「それから?」

 沈黙を持ってその先を促す猶予はなかった。小さくても魔物は魔物なのか、口をぎゅっと結んだ少女の力は想像を遥かに超えて強い。

<……私はあの人に復讐ができる。貴女たちはあの人の罪を暴き、少なくともこの箱庭には終焉をもたらすことができるわ>

 “復讐”。

 正義の味方に対してあえてその直情的な言葉を選んだのは、この塔の中で時間と共に醸成された決意が翻ることはないという証のようだった。

「鍵は貴女の歌ですね。ここに連れて来られる途中、馬車に揺られながら女性の歌声を聞きました。あれは貴女の声だったんですね」

<…………>

 真っ直ぐこちらを射てくる女の目は死してなお意志を失わず、失えず、彼女の言うとおり世界が音楽で出来ているのならば、彼女の周りには同じフレーズだけが延々と響いているのだろう。彼女以外には聴こえない、葬送を拒否するフレーズが終わり(フィーネ)を知らず延々と流れているのだ。

「いいでしょう」

 クルースニクは人を魔物から護る義務があるが、人である矜持を放棄した者を護る義務はない。復讐なんて空しいだけだから止めなさいなんて聖人めいたことを言うほど出来た人間でもない。

「私と一緒に来なさい。グラツィア・トビア」

 魔物を場所の呪縛から解くには、誰かが別の場所へ招いてやればいい。

<ありがとう>

 牢の囚人に対するこの箱庭の所有者の最大限のもてなしなのか、昏い石壁を隠すように散りばめられた白いレースと赤い薔薇。

 その飾り立てられた空間から一歩を足を踏み出した女は深呼吸するように腕を左右に伸ばし、頭上を仰ぎながら胸元で聖印を切った。

<感謝するわ、聖なるクレーリア嬢。神のご加護がありますように>

 言葉を残して姿が消える。

「…………」

「…………」

 今更のように、パッセが自分が引っ張っていた腕──というか手──をまじまじと見つめている。

 顔貌は中性的なそれでごまかせても、骨ばった手までは女に化けるのは難しい。

「クレーリア、?」

「行きますよ。早く助けないとパルティータがへたばるんでしょう?」

 首を傾げたまま棒立ちになっている小さな魔物の手を振り払い、カリスは最上階の牢獄を後にした。

 ──出来過ぎている。

 その疑念は敢えて形にしないまま。




 赤い月の夜空の高いところから、歌声が流れてきた。

 ヴィスタロッサが親しんだ言語ではないようで歌詞はよく分からないが、どうやらイタリア周辺の古い言葉の歌のようだった。

「あれは誰だ?」

 剣を構えた状態で彼女は主塔を仰いだ。

 塔の石積と夜空との境界線上に白い女が立って歌を歌っている。随分と豪勢な衣装を風にはためかせ、さながら主演女優だ。

「…………」

 横で息を切らしているパルティータの目はほとんど死んでいて、見上げる気にもならないらしい。

 追ってくる吸血鬼やベルセルクの動きは緩慢で連携は全くないが、それでも走らなければ逃げられない程度の速さで迫っては来る。パルティータの推測どおり奴らは彼女ひとりを追っていて、試しに逸れてみたヴィスタロッサには見向きもしなかった。

 つまりこの魔物どもを動かしている輩はパルティータ・インフィーネ個人を知っているということだ。

「……ったく、際限がないな」

 距離を縮められて再び走りだそうとした時、

「──お姉様! 大丈夫ですか!?」

「向こうへの出口は開きましたか!?」

 こちらに駆けてくる令嬢と黒い少女の姿が見えた。

「クレーリア! パッセ!」

 視界の端で、カリス・ファリダットを視認したパルティータが息を止めた気がしたが、面倒くさいので無視する。

「無事で良かった!」

 適当な場所へ目配せし、力尽きたのか動こうとしないパルティータの襟元を掴んで引きずり走りながら合流する。

 塔の中で一体どれだけの魔物を成敗したのか、カリスの衣装は血に塗れ、ここに乗り込んできた時の華やかさの面影はまるでなくなっていた。綺麗な顔にまで飛沫が飛んでいて、正直引くぐらい怖い。

 そんな恰好をした女(?)がメイドの恰好をした少女を連れて、虚ろな目をした魔物の集団に追われているのだから、一般的には泣きながら教会へ駆け込むレベルの悪夢だ。

「何故何も起こらない」

 事の一連をこちらに説明し終わったカリスが、しかしグラツィアの歌声で何も起こらないことに歯噛みしている。

「神父カリス、何故何も起こらないか本当に分からない?」

 引きずられたままパルティータが視線だけ寄越してくる。もはや自力で走ろうという気はないらしい。

「…………」

「あの女の歌声ひとつが唯一の鍵だったら、彼女が鼻歌歌うたびに扉が開いちゃうわよ」

「!」

 カリスが目を開き、ヴィスタロッサも思わず手を離し、どさりとパルティータが足下に落ちた。

「…………ちょっと」

「……鐘の音。どこかの町の時刻を告げる鐘かと思っていましたが……ここへ連れられてくる時、鐘の音を訊いた記憶があります」

 カリスの怜悧な双眸が箱庭の三方を映す。

 そこには闇に溶け込み静かに立つ鐘楼があった。

「──さぁ、早く鳴らすのよ」

 全身の砂埃を払い落して立ち上がり、パルティータが言った。

「ひとつはカリス、ひとつはヴィスタロッサ、もうひとつはパッセ。ちょうどぴったり数が合う」

『…………』

 メイドの言葉は合理的だ。

 催眠状態の魔物はパルティータだけを狙っている。であれば、狙われていない人間が鐘を鳴らしに行くのが当然だ。しかしそれでは彼女の護衛がいない。

「さぁ、早く! 扉が開いたら戦争よ」

 彼女は議論の余地なく箱庭の真ん中に向かって走って行った。

 扉が開いてソテールやパリスが迎えに来ても、パッセに手出ししたら承知しないからね、と言い置いて。

「自分でパッセを回収すればいいだろう!」

 パルティータのその言葉はまるで──。




 灰色に沈んだ箱庭に、低い鐘の音が響いた。

 南イタリアの大地に彷徨う民謡が夜気にたなびき、追いかけるように別の鐘の音が重なり合う。

 郷愁をまとった調べは箱庭の家々に染み入り、広大な化石の森を抜け、柔らかい金属の音は鼓動の如く強くなり弱くなり、世界を流れる音楽と混ざり合う。

 箱庭を囲む三方の鐘楼から、一方の尖塔から。

 鎮魂の祈りで覆われた聖都のように、静かに、厳かに。

 ひとつの家で息を潜める娘たちが頭上を仰ぎ、手を握る。

 砂の一粒、葉脈の一筋、血の一滴、やがてあらゆるものが古い古い諧調で満たされ、それは世界を開く鍵となる。




「どういうことだい!」

 イルデブランドが悲鳴に近い声を上げてソファから立ち上がった。

「私がアンタに訊きたいわよ! アンタの農園でしょ!?」

 コーネリアが応酬する。

「知らないよ! 何の報告も受けてない!」

「じゃあアンタの管理不行き届きよ!」

 そして、

「どいつがパルティータを暗黒都市へ連れてきた!」

 これ以上ない怒気をもって扉が蹴破られ、片目を押さえたユニヴェールが窓を震わせる語気で叫ぶ。

 しかし部屋の客人たちは誰もそちらへ目をやらず、南イタリアとの境界がある方角をじっと見つめていた。

「……これは」

 アルビオレックスが腰を浮かし、イルデブランドとコーネリアも口をつぐむ。

 バルツァーが紅を見開いて息を詰めた。

「──来た」




 世界を包む穏やかな大気の振動がまず目覚めさせたのは、箱庭の衛兵たちだった。

 虚ろだった眼窩に光が戻り、漠然とパルティータを追っていた足が止まる。

 彼らは意識を取り戻し、瞬時に自分の状況を把握した。

 何故か自分は持ち場にはいない。

 目の前にはこちらを見つめている人間の女がひとり。

 数日前に搬入があったから、その娘だろう。

 彼女を追っていたということは、逃亡でも企てたか。

 でもこんな大人数で小娘ひとりを捕まえようとしていたのか?

 彼らの目はとりあえず上官を探し──固まった。

 何故、城門が開こうとしている。

 あぁ、鐘の残響が揺れている。

 また人間の搬入があるのか。

 ──……否。

 近付いて来るのは馬車の音ではない。

 地鳴りだ、疾駆する複数のひづめが土を穿つ、襲歩ギャロップの地鳴り。

 見なくても分かる。

 暗闇の世界に放たれる白い矢。黒より黒く白より白い、巨大な正義。

「城門を閉めろ──!」

 もはや遅いことは明らかだ。

 開いてしまった灰色の門は役には立たない。

 何が進行しているのか理解はできぬまま、彼らは腰の剣を抜く。

「総員、迎え討て!!」

 次瞬、白馬を駆り、ヴァチカンの白い狩人たちが飛び込んできた。




Dirk Ehlert [Dark Hero]

BrandXMusic [Mythos]

E.S.Posthumus [Kalki]

Zack Hemsey [See what I've become]

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