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冷笑主義  作者: 不二 香
第三章 After GENOCIDE
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第25話【ユニヴェール家のメイドに自主退職を勧めた結果】前編



 彼の手の中には成功があった。

 人間として生まれ、戦禍の中で大した重みもない名誉のために死に、差しのべられた手によって暗黒都市に引きずり込まれ、地位も金もないところから愛嬌と商才で後援者を得て、生粋の貴族たちから蔑まれながらも彼らの生活の根幹を握る商売を拡大させていった。

 そもそも騎士道だのなんだのと正義で飾り立てた血生臭い剣を振り回すより、人を動かし金を動かす方面に才があったのだろう。

 生きている内に気付けなかったのは不幸だが、気付いたところでその頃の彼に“家名”を捨てて王道を外れる決断ができたとは思えない。それに、邪魔になる者を謀略と力で徹底的に排除していくやり方は、王道どころか人の道を外れて“吸血鬼”に身を堕としたからこそできる所業だっただろう。

 騙される前に騙す、殺される前に殺す、潰される前に潰す、地方貴族の次男坊にはそんな博打をする度胸はなかった。


 しかし今、彼の手の中には生前の窮境とは比べるべくもない富と名声がある。


 だが彼は、美しい水を湛えたその両掌を、ふいに離してしまいたい衝動に駆られた。

 気が付けば、彼の手の中で安穏にふける同朋をひどく冷徹な目で見下ろしていた。

 二度と元には戻らないと知っているからこそ、地に落ちていく飛沫はさらに美しく輝くだろう。悲劇も喜劇も色鮮やかな世界をくるくると映しながら、最期には何もかも砕け散るのだ。

 ぬるい灰色の時代が永遠に続くと錯覚した腑抜けども共々。


 これは神の真似事だろうか?



◆  ◇  ◆



「最近の魔物──特に吸血鬼には品位が足りない」

 いつの時代も、そう言って古参が新参の立ち居振る舞いを嘆く様子は変わらない。

 それは場所が魔物の集う暗黒都市であっても同様だ。

「昔に比べれば随分大人しくなったものだと思うがね。効率第一、遊興で人間を襲う輩は少なくなっただろう。レオナール・ミュラが少々派手に村々を襲っただけで話題になるほどに」

「そういうことではないんですよ、ユニヴェール卿。我々は矜持の問題を言っているのです」

 暗黒都市の中心にそびえる女王の居城。

 その一室では“11(オンズ)”と呼ばれる指折りの魔物集団が厳粛に会議を開いていた。

 ちなみに、通常人間の手では指が折れるのは10までだが、一匹、子爵程度の地位でも召喚せざるを得ない化け物がいるので11という半端な数になる。

「矜持?」

「地位のある者、力のある者は、それにふさわしい生活と行いをする必要があるということでしょ」

 別の方向から甲高い女の声がユニヴェールの疑問符に答えてくる。

「生きてる時に分不相応な爵位をもらってたくせに、死んだら廃城の棺で寝泊まりしているだけ、城から出るのは暗黒都市に血を買いに来る時だけ、不本意に魔物になった怨みを晴らそうって気概もなくて、せっかく魔物になったのにそれを楽しもうともしなくて……そーゆー軟弱な奴ばっかりじゃない! 最近の吸血鬼は!」

「いつの時代も先人はすぐ下の世代をけなすものだ」

 何故自分が説得されている形になっているのかさらに疑問に思いながら、パーテルの子爵は場に半眼を送った。

「……で?」

 吸血鬼に狼男ライカンスロープ、魔女やら死神やら巨人ヨトゥンやら、暗闇の世界を代表する魔物が円卓を囲んで若い世代の批判と愚痴では、なるほど権力ばかり持っている老害集団と疎まれても仕方がない。

「そこで、吸血鬼の品位向上のためにまずは“暗黒都市メイド研修”を行う」

「バカか」

 反対1票。賛成10票。

 可決。



◆  ◇  ◆



 メイドも雇わないような貴族を更生させるのが目的なのだからメイド研修など意味がないというユニヴェールの意見は、そういう奴を正すのは骨が折れるからまずはメイドがいる貴族の生活水準を上げる、という理屈で退けられ、会議は終わった。

 熱弁の割にはヤル気のないところへ落ち着いたが、そもそも個人主義極まったような奴らが本気で魔物界の風紀を憂いているはずもない。

 暗黒都市は組織ではなくただの半死人の集まりなのだから、吸血鬼の品格なんてものは結局どうでもいいのは明白だ。それよりも──。

「お前のところの教皇崩れのメイドは、メイドの仕事なんて出来るのか?」

 照燈ファロの炎と魔術の炎、戦場の松明にも似た緋色の瞬きが眼下一面に広がる魔都ヴィス・スプランドゥール。その中央を滔々(とうとう)と流れ、街の煌めきを水面に反射する黒い運河。永遠の夜を足下に眺めるその回廊で、ユニヴェールはオンズのひとりに呼び止められた。

「……はい?」

「もちろんお前のところのメイドにも召集はかかるぞ」

 滑らかな石の廊下に靴音を響かせて近付いてくる男の声は、肩が凝るほど真面目だった。

 わだかまる闇から輪郭を現したのはユニヴェールよりも上背がある吸血鬼で、しかし彼はその長い金髪と彫りの深い顔貌、そしてメリル・ジズ・メム印の魔都の夜空を織った深い外套のせいで、同じく大柄で思い出される巨狼フェンリルのような武骨さは全くない。

 カール大帝の戴冠を昨日のことのように話すその男は、彼こそが吸血鬼の始祖なのではないかと囁かれるほど古い古い死せざる死人だ。

 名を、ウェンデル・バルツァーという。

「あれは人間です。人間は暗黒都市には入れない」

「だが地位のある吸血鬼のメイドであることには違いない」

 繊細で鋭い雅を持つ侍従長官(アルビオレックス)とはまた違う、荒涼とした静謐をまとった男。それは木々の育たない岩だらけの不毛な大地を思い起こさせた。

 かつてケルトの民が暮らしたイングランドのダートムーア、その奥に広がる霧と花崗岩の丘と谷。湿り気を帯びた古の信仰が染み付き、岩の影に灌木の影に精霊たちが住まう豊かな原野。

 染み付いた死と拭えない不穏の匂い。

「バルツァー卿」

 ユニヴェールが大げさにため息をついてみせると、男の柳眉が上がった。

「ユニヴェール家のメイドなんだから門を通せというのはお前がいつも使ってる口実だろう? 自業自得だ。反省しろ」

「していますしています」

 胸に手を当て忠誠の姿勢を取ったユニヴェールは、そのまま上目に笑った。

「しかしうちのメイドは出さない」

「では、解雇だな。この研修に参加しないメイドは雇ってはいけないらしい」

「シャムシールの子守としてでも採用すればいいでしょう」

「……相性悪そうだが……」

「あの娘は単にインノケンティウスの血を引いているだけであって、人間的に規格外ではない。現に先日自ら城に乗り込んだ時には瘴気にてられて寝込んだからな」

「だから──」

「分かっていますよ」

 黒々と波立つ水路の下を最新型のキャラック船が滑ってゆく。通りには黒塗りの馬車が行き交い、客引きの女があちらこちらで肢体をくねらせ、立ち並ぶ露店のほろの下には表の世界では歴史の波間に失われたはずの美術品や珍品が山と積まれている。

 朝も夕も夜中も絶えることのないその享楽は、しかし宙空高いこの回廊までは聞こえてこない。

 神が箱庭をのぞく気分を味わいながら、ユニヴェールは声を落とした。

「この研修の目的はメイドの品質向上でも吸血鬼の品位向上でもない。そんなのは建前だ。本当は、うちのメイドが自分から私の下を去るように仕向けたいんだろう? 自分たちの縄張りに引きずり込んでから、イヤガラセをするんだか脅しをかけるんだか知らないが」

「…………」

 バルツァーという貴人は、魔物のくせに人がいい。ロートシルトも同様だが、それゆえに魔物へ身を落としたとも言える。

 そもそも嘘が下手な性格なのだ。

 そして、あまりに永く重ねた時間にそれを繕う情熱さえも失っている。

 図星を突かれて言葉を探している様子のバルツァーに、ユニヴェールは続けた。

「貴方たちはうちのメイドの血統を過剰に怖がっているが、不用意にあれを殺したら私がどんな報復をするか分かったもんじゃない。だから、あれが自ら辞する方向へ台本を書いてみた。──頭の使い方を忘れた化石たちが考えることなんてその程度だろう」

 そこへ──

「怖がってるのはどっちよ。何がどうだろうと、アンタが護ればいいじゃない。ほら、これで全部解決したわ!」

 黒髪を肩で切りそろえた小柄な魔女が通りすがって舌を出していた。

 膝上までしかない黒と赤のドレスが目に痛い女の名は、コーネリア・キーン。魔女キルケの弟子で、オンズの一員でもある。本来はキルケがオンズであるべきなのだが、遠方に住む当人は極度の出不精なので代理で務めている状態だ。

「ネリ―」

 バルツァーが咎めの声を上げたが、

「だって、そうでしょ?」

 彼女は口端を上げて首を傾げてくる。

 それを横目、ユニヴェールは何度目かのため息をついた。

「暗殺者が相手ならそれでいいが、暗黒都市の空気が人間には障るんだよ。私にずっとメイドを扇いでいろとでも言うのか? どっちが主人か分からんな」

「ぷぷっ、その絵も見てみたいわ」

 魔女は口に手を当ててニヤニヤ笑うと、無責任にパタパタと走って去って行った。

 おそらく未だ客として城に留まっている師にでも会いに行くのだろう。その後姿を見送ると、バルツァーが説教を始めてきた。

「……彼らが怖れていることは認めよう。だが私は、お前自身のためにもこれ以上の関わりを断った方がいいと考えている」

「侯爵殿にお気遣いいただき誠に光栄」

 空に架かる大きな満月から、赤い光が黒曜の城へと滴り落ちる。

「しかし貴方たちは、あれの何が貴方たちに怖れを抱かせるのか、その根源を理解していないように思えます」

 紅の双眸が光ったのか、月光が双眸に反射したのか。

 ユニヴェールはさらに声を潜めた。

「せっかくこちらの掌中にいるのに何も知ろうとしないままヴァチカンへ返品するつもりか? ──それは愚将のすることだ」

 地平まで続く宝石の都と、その果てを二分する不毛な荒野と迷いの森。そして常に雪と氷を冠する峨々(がが)たる山脈。赤い光はすべてに平等に降り注ぎ、誰にも逃げ場はない。

「不明は怖れを煽る。怖れは焦燥を呼び疑を生み判断を誤らせ、歴史の乱を呼ぶ。相手を知ることこそ怖れを克服する術だと、貴方たちは何度繰り返したら学習するのだ? あぁそうか、死んでまで勉強する気はないか? 不都合なものはとりあえず遠ざけておけなど子どもではあるまいし。私がせっかく──……」

 語尾を飲み込んで双眸を滑らせると、バルツァーの気難しい顔が映る。昔から感情に奸計を挟むような男ではなかったから、この化石が純粋にユニヴェールの身を案じていることは疑いなかった。

 視線が交差したところで動きを止めたまま、ユニヴェールは大きく息をついた。

「本当に、吸血鬼はすぐ情に流される」

「お前も吸血鬼だ」

「侯爵殿はユニヴェールの殻の中に情が入っていると思っているので?」

「…………」

 バルツァーは一切表情を変えてこなかった。

「……貴方たち吸血鬼は私やパルティータに構っている場合か?」

 ユニヴェールは再び目を煌びやかな宝石の海へと落とし、続ける。

「ヨハン・ファウストの技術をもとにデュランダルが進めている実験のことは真面目に報告しただろう? 早く手を打たないと知らぬ間に壊滅するぞ。バンビの農園はしっかり護っておけよ」

「他人事か」

 始まりの吸血鬼。その低い声の憂愁が深さを増す。

 ユニヴェールはその色の意味を汲み取る前に背を向けた。

「バルツァー卿。残念ながら、()そんな些細なことでは滅びない。例え吸血鬼という種族が絶滅したって何も困らんね」

 風を受けて瞬く街の光はさざなみの如く、届かない喧噪けんそう潮騒しおさいの如く。

「それにあのメイドは、」

 付け加えたのは親切心だ。

 危機感の方向性がズレていることを教えてやるための。

「お前たちの手に負えるはずがない」



◆  ◇  ◆



 我々は主を敬愛し、忠節を尽くす。

 喜びの島マグ・メルの如き平穏と幸せを、帝国の将ベリサリウスの如き報われぬ献身を。

 しかし主を頂く血族の歴史が深ければ深いほど、世界の畏怖が強ければ強いほど、我々は主を超えてその紋章を護らねばならない。

 主とその家に仇為すあらゆるものを排除することこそ、我らが使命。


◆  ◇  ◆


 1494年。

 この年の始めのナポリ王フェルディナンド一世の死は世界に小さな不穏を落とし、それは時を追うごとに深さと広がりを増した。

 フランス国王シャルル八世はナポリ王とエルサレム王の継承権を主張し、しかし教皇アレッサンドロ六世はフェルディナンド一世の長子であるアルフォンソ二世にナポリ王国を贈与した。

 アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚によって自らの意志と壮大な夢を持ち始めたシャルル八世が、このまま黙って引き下がるとも思えない。

 各国がそれぞれの動きを注視する春の終わり。

 それは、フランス・ヴァロワ家とハプスブルク家がイタリアをめぐって激突する“イタリア戦争”の前夜。

 未来からの足音は、地を踏み鳴らす軍隊の響きをもって確実に近付いていた。




 だがそんな世界情勢は今のところどうでもいい。

 それよりも、

「面白そうですね。参加します」

 パルティータは自分宛に届いた暗黒都市からの手紙を読んで言った。

「場所は暗黒都市のバルツァー邸。バルツァー卿ってあれですよね、以前たくさんの豪華な織物をプレゼントしてくださった」

「……そうだが」

 白んでゆく世界を眺めながら紅茶を飲んでいた吸血鬼が渋面を作る。

「あ、紅茶、渋かったですか?」

「違う」

 若干ご機嫌斜め気味である。

「その手紙の差出人は?」

「アルビオレックス、となっています」

「あぁ、そういえば研修の主催はあそこになったんだったか。あの吊り目め。私の名前ではなくてパルティータの名前を使って直接手紙を寄越すとは」

 額に手の甲を当てながら、主が天を仰ぐ。

「お前は行ってはいけない。バルツァーの屋敷は暗黒都市にあるからだ。またこの前みたいに寝込むことになるぞ」

「でもこの研修を受けないメイドは解雇って書いてありますよ」

「どうしてその情報だけ素直に受け取るんだ。あいつらが勝手に決めた約束事に我々が従ってやる義理はない」

「でも──」

 パルティータが口を開くと、吸血鬼の鋭い爪が一本、音を立ててテーブルに叩き付けられた。

 その横にはローマのアスカロンから送られた報告書が束になっていた。

「お前なら、暗黒都市が今更メイドの研修をしたがる理由が分かるだろう」

「もちろんです。分かるからこそ行くのではありませんか」

「…………」

 男の冷貌が強張る。

「彼らは世界をひっかきまわすセーニの血が今貴方の傍にあるのが気に入らない。暗黒都市まで巻き添えに何かが起こったらたまらない。そうなる前に始末をつけよう。研修の名の下にいじめて音を上げて逃げ出せばよし、強情をはったら研修のどさくさに紛れて暗殺してしまえばよし」

「……それだけ分かっていて何故行きたがる」

「賢人曰く、選択肢があったら困難な道を選べ」

「それは、無謀と挑戦の違いが分かる奴に対して使う言葉だ」

 確かに研修は面倒臭い。しかもメイドの仕事を誰に教わったわけでもない。やっていることはかつての執事セバスチャン・クロワを真似ているだけであるし、それもかなりの手抜き模倣だ。

 百年二百年小間使いをやっている化け物たちにしたら、さぞかしバカにしがいがあるに違いない。

 しかし、そうであっても。

「敵前逃亡は、ユニヴェール家のメイドとして恥です」

「……本当にお前たちは好戦的な……」

 主が複数形にしたのは、インノケンティウス三世からの系譜を指しているのだろう。

「お前のその気概は買うが、生物としての限界をわきまえろ」

「限界は突破するためにあるって誰かが言ってました」

「誰だそれは!」

 話が前に進まない。

 パルティータがむうと口を曲げていると、ルナールが口を開いてきた。

「パルティータ、以前だったら僕がお供するんですけど、まだあのばあさん(キルケ)が暗黒都市にいるらしいので、あまり貴女と一緒に行きたくないんですよ。貴女を護るつもりが操られて殺しそうになるなんて、シャレになりませんから」

「先にばあさん発言を取り消しておいた方がいいんじゃない?」

 言ったものの、確かにルナールが召喚できないのでは戦力として心もとない。そもそも現在パルティータが自分で動かせる手駒はルナールだけなのだから。(三使徒の上司はユニヴェールである)

「何にしろ、こんな程度の低い挑発に乗る必要はない。向こうだって本当にお前が研修を受けに来るとは思っていまい。いいか、魔物ってのは閑なんだよ。奴らがくだらないことを考えて世界を引っ掻き回すのは、お前たちが観劇して一喜一憂するのと同じ、ただの娯楽だ」

 すべての言葉が自分に返ってきていることに気付いているのかいないのか、そこで台詞を切った吸血鬼は空になったカップを置いてひとつあくびをすると立ち上がった。

 銀髪が乱れて額にかかる。

「あ、ユニヴェール卿、その小包持って行ってください。暗黒都市からです」

 パルティータに口を挟ませないようにだろう、ルナールが前のめりに台詞の隙間を埋めてきた。

「あぁ」

 長い睫毛がわずかに降ろされ、

「ではおやすみ」

『おやすみなさーい』

 彼はわざとらしいあくびをもうひとつ残して廊下に消えた。

「…………」

 静かな足音が階上へ昇って行くのを聞くと、ややあってルナールがこちらを上目に見てくる。

「パルティータ、貴女、なんだってそんなに研修に出たいんですか」

「暗黒都市に貴方を連れて行かれないのなら、デュランダルをクビになったらしいソテール・ヴェルトールを護衛にするのはどうかしら」

「あのヒトも貴女と同じ人間ですよ」

「忘れてたわ。じゃあ、……アスカロンを脅迫するか、フランベルジェに賄賂を積んで頼めば……」

「彼らは貴女の“暗黒都市へ連れてって”より、ユニヴェール卿の“あいつを暗黒都市へ入れるな”を優先しますよ。三使徒にとっての主人は卿であって教皇ではなさそうですもん」

「自分自身に魔物をばっさりやる力がないっていうのは不便ね」

「それを身に付けたら、もう誰も貴女を人間だとはみなしませんよ。っていうか主人公代わるでしょ」

「まぁ、そんなものがなくたってここまで生きてこられたんだから、これからもいけるはずだけど」

「そういう自信は一体どこから湧いてくるんですか」

「明日の方角からよ」

 パルティータがのらりくらりと黒猫剣士の追撃を交わしていると、ふいに、ユニヴェールが引っ込んでいったはずの階上からガラスが割れる音がした。

『?』

 思わずふたりで顔を見合わせる。

 それからひとつふたつ聞き取れない声らしき音とドシンバタンと物がぶつかる音がして、それきり。

「……何かしら」

「……暗殺でもされそうになりましたかね」

 ルナールが怪訝な顔をして席を立つ。

「死人を暗殺するの?」

 連れ立って食堂を出て階段を昇る。血溜まりはおろか、血痕のひとつもない階段の先、主の寝室はわかりやすく扉が半開きになっていた。

「ユニヴェール卿、何かありましたか?」

 廊下からのルナールの呼びかけに応答はない。

 無言でパルティータを振り返った男は、腰に帯びた剣の柄へと手をかける。

「卿、入りま……すよ」

 中をのぞいた彼が言葉を失ったのを見て、パルティータも後に続いた。

「……とりあえず、ユニヴェール様は不在ね」

 部屋は中途半端な状態だった。

 デスクの上に重ねてあったと思われる本が何冊か絨毯に散らばり、ランプは倒れ、飾り棚の中にきれいに並べてあった青銅器やヒエログリフの石版、猫の石像(バステトキャット)などが倒れている。

 しかしどこも焦げていないし、再生不可能なまでに破壊されているものも何もない。

 ただ“散らかっている”だけの部屋に、カーテンの隙間から差し込む溌剌はつらつとした朝陽がまぶしい。

「部屋の中に誰かがいて、多少もみあった、そんなかんじですね」

「誰がいたの?」

「知りませんよ」

 ここにユニヴェール以外の誰かがいた。その不法侵入者とユニヴェールが組み合いになり、デスクにぶつかり、本が落ちランプが倒れ、翻って飾り棚にぶつかり、中の美術品が転がり──。

「……どうしたの?」

 そこへ、天辺にポンポンのついたナイトキャップをかぶり、目をこすりながらシャムシールが現れた。

 中を見せて心当たりを尋ねても、少年は少年らしからぬしかめ面で腕を組み、静かに首を左右に振る。

「分かんない」

 そして彼は視線を鋭く滑らせルナールを見た。

「でも、これはきっと誘拐だね」

「そんなわけないでしょう」

 少年の断言を全否定したのは、いつの間にか帰宅していたフランベルジェだ。

「ユニヴェール様を誘拐? そんなことをできるひとがいるかしら」

 ぐさりとやられて負傷したらしい胸を押さえてうずくまるシャムシールを置き去りに、部屋の中央へ進んだ彼女は独り言のように言う。

「ここで何かが起こって、あの方は暗黒都市へ行かれた。そう考えるのが自然でしょう」

 白い指が階下にある地下通路の方向を指差す。全員の視線がそれを追った。

「どこへ行かれたのかしら……」

「お城でしょうかね?」

 傷心のシャムシールを抱えて、ルナールが顔だけ上げてくる。

「そういえば、暗黒都市にもユニヴェール邸はあるのよね?」

 パルティータの問いに

「あるけど、」

 口ごもったのはシャムシールだ。

「あそこはユニヴェール様のお屋敷じゃなくて、ユニヴェール家のお屋敷だから」

「ユニヴェール様があそこに住んでいたことはないし、あまり近づかないし、私たち三使徒も足を踏み入れたことはないのよ」

 それは初耳だ。

 暗黒都市から帰ってこない時はいつもその屋敷に泊まっているものだと思っていたのに。

 ……では、あの男はどこに泊まっていたのだろうか。

「……果物の匂いがしませんか?」

 話の流れをぶった切って、ルナールが鼻をひくつかせた。

「そういえば」

 パルティータは部屋を横断してカーテンの合わせ目を勢いよく閉じた。

 光が遮られただけでそこは外界とは隔絶され、空気は湿り気を帯び、漂う香りが色濃くなる錯覚に陥る。

「果物に近いけど、たぶんこれは薔薇の匂いね」

 すっきりとした甘い香りの中に淡く薬草の若色が忍び、そしてその最奥に花の女王の高貴で優美な芳香が坐している。本体は一輪さえ残されていないのに、それでも過去の存在を知らしめる強香。

 荒れた暗い部屋に薔薇の香り、それはいよいよ暗示的で、しかし場所が吸血鬼の屋敷となれば眩暈めまいがするほどありきたりで、けれど。

「うちの庭にある薔薇の匂いではないわ」

『…………』

 戸惑いの沈黙が余所々しい香気と混じる。

 窓の外に広がる瑞々しい世界からは、クロツグミの芸術的な歌が聞こえてくる。今まさに、生ぬるい熱が大地に蓄えられ、ゆるやかに輝かしい夏へと向かっているのだ。

 この家の中のことも、他の家の中のことも、壮麗な宮殿や頑強な城の中のことも、小賢しく画策する暗黒都市のことさえも、まるで関係なく。今日は昨日となり、明日は今日となる。

「……ねぇ、これは何?」

 パルティータは主のデスクの上に丁寧に置かれていた一枚のカードを手に取った。白地に斜方形が書かれただけの味気ないカードを一同に見せる。

 反応したのはルナールだった。

「その斜方形、さっき僕が卿にお渡しした小包にも書いてあったような……あれ? 卿、持って行かれましたよね? どこかにありませんか?」

 おかしいなとつぶやきながら部屋の中を探し回り始めるルナールを横目に、

「……それはユニヴェール家の家令が使っているサイン代わりの記号よ」

 フランベルジェが髪をかき上げた。

「は?」

「もちろん、暗黒都市にあるお屋敷の方のね」

 そりゃそうだろう。パーテルのこの屋敷に家令はいない。

「彼はカイラスと呼ばれているわ。語源はサンスクリット語で水晶。それを表す斜方形なんですって。私は彼を見たことはないけど。シャムシール知ってる?」

「知ーらない」

「たぶんアスカロンも面識はないでしょうね」

 氷の魔女が肩をすくめる。

「別に秘匿されてるわけじゃないのよ? いつからユニヴェール家の家令をやってるのか、どんな経歴なのか、どんな容貌の人物なのか、知ってる人は知ってる。でも私たちは知らない」

「世の中にはさァ、知らない方がいいことも多いわけだよ」

 シャムシールが大人ぶって腕を組む。

「流れてくる噂はさ、すんごい昔から家令やってるってことと、めっちゃくちゃ優秀ってことと、ユニヴェール家の利益のためなら手段を問わない常識ぶった非常識人間ってことくらいだね」

 死んでもなお生きている魔物に非常識のラベルを貼られたくはないだろうが、シャムシールが言いたいのは「笑える要素がない」ということだろう。

「…………」

 パルティータは手の中のカードを凝視した。

 そしてつぶやいた。

「なめた真似してくれるわね」

 ルナールがしまったという顔をしているがもう遅い。

 灰色のメイドは無表情の横でカードを振った。

「部屋にいたのはその家令。ユニヴェール様に用事があったのだろうけど、穏便な内容ではなかったようね。デスクと飾り棚が乱れる程度にはもめた。そして今、ユニヴェール様の姿はなく、デスクには美しい配置でご挨拶が残されている。さぁこれはどういうことでしょう?」

 低い声に気圧されたシャムシールが、

「……家令が無理矢理ユニヴェール様を連れ帰った……?」

 恐る恐る口にする。

「そういうことよ。しかもそのカイラスとかいう輩は、私たちをバカにしてるのよ。それが分かったって、お前たちにはどうにも出来ないだろうって。だからご丁寧にカードを置いていったの」

「私が連れて行ったので心配しないでくださいねってことでは……」

 口を挟んだのはルナールだが華麗に黙殺される。

「ちょうど暗黒都市で開催されるメイド研修の召集が来ていたのよ。研修に参加して、ついでにユニヴェール様を取り返してくるわ」

「ダメよ。貴女は人間だからまた具合が悪くなっちゃうわよ? ユニヴェール邸はお城よりも最低で最悪な場所なのよ。私が行ってくるから」

 フランベルジェが眉を寄せたが、パルティータは完全に居直っていた。

「人間だからいいのよ。何をやったって、“人間だから領分を知らない”“人間だから暗黙を知らない”って白い目で見られるだけだもの。フランベルジェがそれをやったら正式な問題になっちゃうでしょ?」

「それはそうだけど…」

 悪徳の街で「ルールを守りましょう」なんて可愛らしいが、どこの世界にも不文律はある。特に暗黒都市のような一見無法地帯は、そうでもしないとすぐに流血沙汰になって“そして誰もいなくなった”状態になりかねない。

「この研修に参加しないとメイドをクビになるから、どっちみち暗黒都市には乗り込む必要があるのよ」

 概略は合っている。

「パル──」

 呆れたルナールが口を開いてくるが、

「貴方は、私が路頭に迷ってもいいの?」

 制したメイドの声には有無を言わさぬ圧力があった。

 ユニヴェールがいる限りそんな事態にはならないだろうという当たり前の反駁はんばくさえ許されない、根拠のない脅迫。

「……人間と魔物が必要以上に関わると、幸せな結果にはなりませんよ」

 気圧されて、男は歯痒そうにお決まりの警句を口にした。

 吸血鬼も度々口にする、使い古された陳腐な予言。

 だがそれは単なる確率の話に過ぎない。

「ねぇルナール。私が単純に売られたケンカを買うためだけに暗黒都市へ行こうとすると思う?」

「思いますよ。このケンカはタダで売りつけられていますからね。貴女なら買いそうです」

「そうね。ナメた真似してくれると思っていることは確かだわ」

「ほら」

「だって、多少いじめれば尻尾を巻いて逃げていくような人間だと思われてるのよ? 彼らは私の血の歴史が怖いだけで、私個人のことなんか歯牙にもかけてない」

「……暗黒都市からは過小評価されていた方が平穏に暮らせると思いますが……」

 珍しく執拗に絡んできた黒猫剣士は、しかしいつものように言葉の終わりを曖昧にする。

 パルティータは肩で息をして、絨毯に転がっている本の一冊を取り上げた。表題から察するに、ローマ帝国末期のパルミラ王国についての史書らしい。大国が瓦解してゆく混乱の間隙を縫って帝国の東方に生まれ、二代と続かず滅びた国。乾いた風の吹き抜ける古代のオアシス都市。

「例え貴方の心配を尊重して屋敷に引きこもっていたとしても、そんなのは暗黒都市の想定の内よ。あっちは私が参加しなかった場合の計画くらい持ってるんだから、そっちが実行されるだけ。──いい? ユニヴェール様がいないこの状態で何も手を打たないっていうのは、向こうの脚本どおりに進めてくださいって全面降伏しているようなものなのよ」

「だからと言って──」

「私が何者かということより、私が何をするかということの方が重要」

 ルナールの口から出かけた反論を一蹴したパルティータは、そのまま続ける。

「他人の筋書きに巻き込まれるのは嫌だから、乗り込むの」

 インノケンティウス三世はここまで好戦的だっただろうか──魂の抜けたルナールの顔が空虚にそうため息をついている。

「もちろん、無策で乗り込むなんてことはしないから。貴方にもお願いしたいことがあるのよ」

 パルティータは口端を上げて自分の顔の前で両手を握った。本来は目を潤ませるべきなのだろうが、あいにく彼女の目は生まれつき乾燥気味だった。

「……まぁ僕に貴女を止められるわけがないと思ってましたけどね……」

 無意識に伸ばされた黒猫剣士の指先が剣の柄を撫で、散らかった部屋に人間ひとりと魔物三匹の沈黙が訪れる。

 いつの間にか、クロツグミの歌は聞こえなくなっていた。



◆  ◇  ◆



 隣に座っている若い娘が鼻をすすった。

 裾にレースがたっぷり付いたドレスを着せられて、栗色の髪はきれいに編み込まれて、水仕事であかぎれている手の、しかしその爪は見栄えよく切りそろえられていて、少しでも高い値で貴族に売れるように華やかに飾られた娘。

「静かね」

 ヴィスタロッサは娘の手を取って暖めながら、つぶやいた。

「村の人はいないのかしら」

 パーテルでパルティータを拉致した人さらいをローマで取り逃がしてから数日。

 似たような動きがあるという情報を得てヴィスタロッサが囮となり、売られる孤児のふりをして人買いの馬車に乗り込んだ。

 馬車全体をほろが覆っていたためどこへ向かっているのか見当をつけることも出来ず、最終的には薄気味悪い村の真ん中で全員降ろされたのだ。

 夜。

 星のない雲が過ぎる空には異様な赤味を帯びた月があるだけ。

 等間隔で建っている小ぎれいな家々には明りもなく、蓋のされた井戸の周りは濡れた様子もなく、ぽつぽつと立っている木々の幹は白く、その大きな影は幽鬼のように乾いた地面を這い、それらのすべてを巨大な壁が取り囲んでいた。

 まるでそれは、巨人の子どもが人間を飼って遊ぶ箱庭のようだった。

 そして深いフードを被った御者はヴィスタロッサを含めた十数人の娘たちをひとつの家に押し込めると、ランプに火を灯して出て行った。

「…………」

「…………」

 フクロウの鳴き声も鼠が走る音も羽虫が舞う音も聞こえない。

 こういう時の静寂は精神に悪い。

 ヴィスタロッサは言葉を探した。

「ねぇ──貴女はどこから来たの?」

「私は……シャンベリの近く」

「サヴォイア公国の?」

「うーん、たぶん。よく分からないけど。あなたは?」

「私はローマから来たのよ。その前はフランスにいたの。フランスの、南の方」

 馬車の後は、ソテール隊長が追いかけてきているはずだった。

 はずだったのだが──。

「ヴィスタロッサ、ちょっと来てください」

 扉が開き、金髪の女が顔をのぞかせた。

 同じ馬車に乗っていた、冷えた金色の髪を持つ女。オリーブ色の双眸には初めから恐怖もとまどいもなく、瞳と色を合わせたドレスは華美ではないが見る者が見ればすべて絹だと分かるはずだ。

 彼女を連れてきた者は、名を伏せなければいけないほどの貴族の私生児だと説明していた。

 明らかに集団の中では浮いている。

「今この娘たちだけにはしておけないわ」

「話をするだけです」

「……分かったわよ」

 不安げにこちらを見上げてくる横の娘の肩を叩き、ヴィスタロッサは家の外に出た。

 後ろ手に扉を閉めてから、もう一度周囲を見回し声を潜める。

「ここは一体どこでしょうね、神父カリス」

「…………」

 怜悧な女の片眉が上げられて、

「失礼。Sig.na(スィニョリーナ)クレーリア」

 ヴィスタロッサは仕方なく言い直した。

 オートクレールに手柄を上げさせてはなるまいと、デュランダルも手を出してきたのだ。

 カリス・ファリダットに貴族の娘の格好までさせて!

 馬車を追うソテール・ヴェルトールの後ろからルカ・デ・パリスやクロージャー・ミルトスまでぞろぞろ付いて来ているかと思うと、頭痛がする。

 人財の無駄遣い。縦型組織の大いなる弊害だ。

「おそらくここは暗黒都市の領域です。あちらを見に行ったら──」

 神父カリス、もとい、クレーリア嬢の白い手が、村を囲む城壁と同化して建つ鉛色の主塔を指す。

「見に行ったんですか!?」

「この家に入るように促されましたが、家から出てはいけないとも、塔へ入るなとも言われていませんからね」

「…………」

 言われていたとしても守る気はなかっただろうというのは黙っておく。

「吸血鬼がたくさんいました」

「……え? はい?」

「彼らは随分マメらしくて、ここへ連れて来られた人間の記録もしっかり取っていましたよ」

 娘のふりをさせられることは珍しくないと本人がのたまうほど繊細な顔つきをしているくせに、どこかズレた豪胆な性格をしているということは聞いていた。“ジェノサイド”の時に躊躇いなくフリード・テレストルの首を刎ねた張本人だということも。

 ほら、と記録簿のページを繰る彼の無表情な顔をまじまじと見つめながら、

「吸血鬼がたくさんいて、どうしてこれを持ってこられたんですか?」

 ヴィスタロッサは万民が問いたいだろうことを口にした。

 色素の薄いカリス・ファリダットの双眸が彼女に向けられる。温度のない硬質な彼の虹彩は、限りなく澄んでいるように見せかけてその実は幾重にも光を屈折させている。目の前を過ぎた年月の数だけ。

「様子がおかしかったですから」

「はい?」

「彼らは今、昔ほど狩りをしません。野放しだった頃と違って彼らの組織化、階級化も進んだのでしょうし、我々人間も組織立って彼らの襲撃に対抗するようになりましたから、狩りをして獲物を得るというのは効率が悪くなったのかもしれません。けれど彼らが延命するためには血液がいる」

 突然話が飛躍した。

「その解決策は、我々の歴史と同じです。我々が牛や馬を家畜化したのと同様、人間を飼った方が安全かつ安定的に食料を得られます。すでにそういうシステムが構築されていても不思議ではありませんね」

 カリスの視線は記録簿へ戻されていて、ぱらぱらとめくられ通り過ぎていく人名を追っている。

 きっと時代が時代に積み重なった彼の頭の中では、過去の行方不明者リストとその人名とが照合されているのだろう。

「しかしここの記録や報告書を見る限り、ここは農園ではないようですよ。おそらく“前庭”、一時的に食糧を置いておくための──あるいは検査を行うための──場所でしょう」

「検査?」

「食べても安全な人間かどうか」

「……あぁ」

 デュランダルの科学を担うヨハン・ファウストが進めている研究のことはソテール・ヴェルトールから説明を受けている。

「あぁ、始めの問いに答えていませんでした」

 カリスが記録簿をめくる手を止める。

「吸血鬼はたくさんいましたが……誰も動いていませんでした」

「死んでいた?」

「いいえ。強いて言うならば、大聖堂に置いてある聖人像に似ています。虚ろな目で突っ立っていましたよ。普通、自我のない吸血鬼は本能的に殺戮を続けます。しかし命令主である吸血鬼の力が強ければ、自我を乗っ取って操ることも」

「ユニヴェール卿みたいに」

「えぇ、できます」

 カリスの軽い返事に、ヴィスタロッサは眉を寄せた。

「ここが“農園”へ入れるための合否試験場だとして、自我のない吸血鬼が職員で仕事成り立ちますかね?」

「……私なら雇いませんね」

「ですよねー」

 ふたりは顔を見合わせてから、視線を斜め上へと滑らせた。

 明らかに今ここは通常の姿ではないのだ。

 だが、何が何故違うのかは分からない。



◆  ◇  ◆



 パルティータがアルビオレックス宛に研修参加の旨を伝える書簡を送ると、すぐさま今度はバルツァーから手紙が届いた。

 研修の主管はアルビオレックスだが、屋敷と講師を提供していることもありパルティータの身の安全はバルツァーが保障すること、前日にはユニヴェール邸へ迎えの馬車を寄越してくれること、事務的な連絡事項の内容ではあったが、署名と文面の筆跡が同じところを見ると自ら筆を取ったらしい。

 時を同じくして届いたアルビオレックスからの案内には可愛らしく丸みを帯びた字が並んでおり、こちらは署名と比べると代筆が明らかだった。

 同封された招待状に主人の名前を書き入れ発送しておくこと。

 それが研修参加者がまず行わなければいけないことらしかった。

 この招待状は名前を書かれた招待客の元へと必ず届く。そして招待状を受け取った者は期日には強制的にバルツァー邸へ召喚される。研修を受けたメイドたちは“バルツァー邸のメイドとして”、訪れた自らの主人をもてなし、主人から合格のサインをもらえれば無事研修終了だ。

 サインがもらえなければもらえるまで居残り補習らしいが、どうやら魔物は自分の身内に甘い傾向があるので、サインをしない主などいないのではと思えた。

 パルティータが暗黒都市に入ることをあれだけ渋っていたユニヴェールなら、つまづいて頭から葡萄酒をかけたって合格のサインをするだろう。

 パルティータに叩き付けられた暗黒都市からの挑戦状にしては、修了方法が激甘だったり、バルツァーが安全を請負ったり、嫌味ポイントがひとつもない。

 本気で品位向上に取り組んでいるのか、想像以上に手の込んだイヤガラセをしてくるのか──。



「お姉様、バルツァー卿のお屋敷って街の中にはないんですね。私、知りませんでした」

 パッセは、馬車に揺られながら半分眠りこけているユニヴェール家のメイドをつついた。

 これから敵地へ乗り込もうというのに居眠りができるとは、やはり只者ではない。

「……え? あぁ、中心部は地価が高いんじゃない?」

 暗黒都市にあるロートシルト卿の屋敷に居候しているパッセは、正確にはメイドではない。けれどロートシルト卿から今回の研修に出るように言われ、百戦錬磨の小間使いたちの集団の中にひとりで行くのが怖かったのでパルティータと一緒に行くことにしたのだ。

 前日パーテルのユニヴェール邸にお泊りしてバルツァー卿の寄越した馬車に乗って暗黒都市の城門を再び越え、今に至る。

 ロートシルト卿からは特に何も命令めいたものは受けていないが、パッセだってその意図するところは分かっている。

 ユニヴェール家に入り込んだ異端を追い出すためだと噂されているこの研修、お前はパルティータ嬢の味方になってやりなさい、ということだ。

「商才はなさそうな字を書いていたもの、バルツァー卿」

「えぇ?」

 吸血鬼エーデルシュタインの造反事件で半ば恩人とも言えるパルティータを今度は私が救うのだと、わざわざ彼女を真似た灰色のメイド服を作ってもらったのに、当人は観光気分でいつもとは全く違う装いだった。

 ストライプのビスチェに、レースがたっぷりあしらわれたボレロ風の黒い袖。バッスル調に柔らかく後ろに流されたテール、スカートは光沢のある漆黒。血色の悪い白肌の首元には細かい刺繍の施された付襟。もちろん手袋は雪よりも白。長い黒髪は後ろでひとつに束ねている。

 そこにいつもの無表情がのっているものだから、メイドというよりも若い女家令だ。

 こんな新奇な衣装を用意できるのはメリル・ジズ・メムあたりに違いなかったが、それはともかく、彼女の姿はどうにも好戦的だった。

 そもそも旧家の家令というものは常に好戦的だ。彼らが考えるのは自分と自分の主の名誉と財産のこと。それを少しでも傷つけるかもしれない要素に対しては、警戒と敵意を惜しまない。

「ええぇと、よくユニヴェール卿がお許しになりましたね、お姉様がこっちへ来ること」

 何せこれはバルツァー卿が寄越した馬車なのだから、バルツァー卿の悪口とも取られかねない内容を御者に聞かれたら面倒くさいことになる。

 パッセは慌てて話題を変えた。

 しかし返答はまたもや物騒だった。

「お許しはもらってないわ。だってユニヴェール様、黙って出掛けたままとうとう今日まで帰って来なかったんだもの。交渉できないから、仕方なく来ちゃった」

「……はぁ」

 普通、交渉できなかったら仕方なく欠席するものなのではないでしょうか。

 思ったが口には出さない。

 パッセがそれ以上言葉を継げないでいると、

「それにしても──」

 ユニヴェール家のメイドがようやくクッションの山から背を離した。

「他のメイドはどういう移動手段で来るのかしら?」

 彼女は怪訝そうに窓の外を見やる。

 馬車は森の中を走っていた。 まるで化石のような森の中を。

 陰影だけに飾られた灰色の木々は、巨人の国(ヨトゥンヘイム)にでも迷い込んだかと錯覚するほど巨大だった。それらは枝葉を全く揺らすことなく寡黙に立ち並んでいる。命の気配のないそれは、荘厳な墓場を思わせた。

 天を指したまま朽ちることなく石となった世界樹(ユグドラシル)たちの墓場だ。

「みんな闇を渡れて、馬なんて必要ないのかしら?」

「私は渡れませんし、ロートシルト卿も渡れないみたいですけどね」

 パルティータは、未だに他の馬車を見かけないことを不可解だと言っているのだろう。どれだけの数のメイドがこの研修に参加するのかは知らないが、仲間の姿が全くないというのは確かに心細い。

「あ、お城が見えましたよ」

 反対側の窓からのぞいていたパッセは前方に石積みの尖塔を見つけた。

 昏く静謐な巨木の群れがどこまでも続く退屈な景色の奥に突如として現れたそれは、

「侯爵閣下が住む場所という感じではないわね」

 まるで要塞だった。

 生き残ることが第一に求められた時代の、頑強な不屈。風雨に曝されても微動だにせず槍の穂先を天に向け続ける兵士のような、寡黙な誇り。

 華やかな円卓の騎士ではなく、蔑まれながら戦い続ける剣闘士(グラディエーター)

「でも要塞である理由が分からないわ」

 戦いのための城は、外から攻撃されることを前提に造られている。

 それゆえに、建てられている場所は何よりも重要だ。国の中の護りの要所に造られることはもちろんだが、一般にそれには地形──例えば山や渓谷──が最大限活かされる。はずなのだ。

「だだっ広い森の中ですもんねぇ」

 平らな森に砦を築く必要性を考えながらパッセが相槌を打つと、

「あぁ……町ね」

 横でパルティータがつぶやいてきた。

「あれは要塞じゃなくて牢獄よ」

 小石を弾きながら馬車が近付くにつれて、そこに存在するものの全容が見えてくる。

 巨樹が立ち並ぶ間から堅牢な城壁が迫ってきていた。降り注ぐ月光によって作り出された巨大な影が森に歪み、雲が流れるたび姿を変え、一匹の巨大な怪物であるかの如くそびえている。

 凝った意匠があるわけでもない。真新しい技術が使われているわけでもない。心奪われる美しさなどない。

 それでも、その重い鉛色の建造物は見る者を黙らせた。

 ヨトゥンヘイムの王が坐する都市ウートガルズを囲む城壁は、仰ぐとうなじが背に付いてしまうほどの大きさを誇るのだと言う。そうだ、まさにこれは──。

 神殿の列柱と化した木々を従え、馬車は真っ直ぐに進む。闇の中の白い道が続く先の閉ざされた城門は、地面と石と木材と錬鉄とが軋みあう音を立ててゆっくりと開き、馬は歩みを止めず、ついにその門を過ぎる時、パッセはパルティータが息を殺して門を凝視しているのを見た。

 あぁ、この人でも怖れを感じることがあるんだなと思ったのだが……、

「汝等、ここに入るもの一切の希望を棄てよ──」

 門を見上げたままメイドはダンテ・アリギエーリの神曲の一説を、地獄の門に刻まれていたというその言葉を口にしてきた。

「とは、書いてないわね。残念」

「…………」

 伝説の門と重ねられ過剰な期待をかけられてしまったせいか、再び仰いだ門はもう、パッセにとってもただの門でしかなかった。

 内と外を物理的に分けるだけの分厚い板。

 武骨で巨大なだけの城壁の内側は、身を削られ涙を流すしかない絶望の罪と罰ではなく、ひっそりとした小さな村だった。みすぼらしくない程度の家が行儀よく並んでいるだけの村だ。畠もなければ家禽もおらず納屋もない。家々の壁板や窓枠には痛みも歪みもなく、村を装ってはいるが積み重ねられた“生活”の気配はしない。

「ここがバルツァー卿のお屋敷でしょうか?」

 馬車が停められ、御者が手を取って降ろしてくれる。

「まさか」

 後から降りてきたパルティータが口端で笑っていた。

「ここは貴人が住むべき場所ではないわね」

 そして彼女は城壁の三方に建っている鐘楼を指で示した。

「あれは監視するための塔に違いないわ。そしてあれが」

 始めにこちらを威圧してきた一番大きな主塔。

「きっとあそこにココのボスがいるのよ」

「……ボスですか? ええと、その前に監視って、何を?」

 何の説明もないまますでに研修が始まっていて、立ち居振る舞いすべてが審査されているということだろうか?

 馬車は何の答えもくれずにさっさと立ち去り、城門が閉ざされる。

「監視してるような人も見当たらないですけど、」

 パッセが忙しなくきょろきょろしていると、突如として沈黙の箱庭に巨大な影が這い、灰色の森に風が吹いた。冷たくも暖かくもない一瞬の空気のうねりがどっと押し寄せ、身体が浮きそうになる。

 吸血鬼の少女とヴァチカンの聖女の黒髪が巻き上げられ、千切れた枝葉が円を描いて上空へ舞い上がった。

「この箱庭を監視しているのよ。中にいるものが逃げ出さないようにね」

 言葉を紡ぎながら、ユニヴェール家のメイドがゆっくりと振り返った。

 パッセもつられてそちらへ目を向ける。

「ねぇ」

 そこには少年が立っていた。

「貴女は聖女なんでしょ」

 品のいい衣装を着こんだ、どこから見ても貴族の子だ。

 銀髪で、青い目をしていて、影がない。

 彼は──あの男に似ている。

「お願い、みんなを助けて」




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