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冷笑主義  作者: 不二 香
第三章 After GENOCIDE
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第24話【The Blessed Blood】前編

Blessed:

1 神聖な 清められた 神の祝福を受けた

2 幸運な 幸いなる すばらしい

3 ありがたい 喜ばしい

4 忌々しい 忌まわしい



「困りましたよねぇ」

 全く困った様子のない調子で男はため息をついた。

「陛下への献上品を失くすなんて」

 黒外套の下に派手なエジプシャンブルーのベストを着込み、パリの仕立て屋はもう一度深く息をつく。

 言葉どおりまともな用事で暗黒都市を訪ねるので、彼は店にいる時のような真面目な服装で、しかしその装いとは裏腹にウェーブがかった黒髪の下の金の双眸は力なく半眼になっている。

「どうしましょう」

「どうしましょうも何も、どうしてお前たちは陛下への土産をぽろぽろぽろぽろ落とすのだ!」

 眉を吊り上げたユニヴェールに、

「はい?」

 メリル・ジズ・メムは軽く首を傾げた。

 その反応にユニヴェールがわざとらしい嘆息をついて、白い指たちがテーブルをリズミカルに叩く。

「黒騎士ベリオールの親父も陛下への献上品である赤い髪を失くしてフェッラーラでひと事件起きたんだよ。落とすのは構わんが、何故私を巻き込む。というかお前はどうしてうちへ寄った」

「魔物界には困ったらユニヴェール邸へ行けという格言があるという噂が」

「ない」

 断言されるのも無理はなかった。

 パリからパーテルまでの旅程を人間然として真昼間に移動してきたメムは、ユニヴェールの中で魔物には分類されていないだろう。

「冗談です。この近くで落としたと思われるので、なんとなく寄っただけです。それにしても──」

 季節が進み強くなってきた日差しにも関わらずカーテンが開け放たれている食堂を見回して、メムは卿おひとりなんですか? と口にした。

「この間のカプラの件のご褒美も兼ねて三使徒は旅行に出かけている。マルグリットのところへね」

「いいなぁご褒美」

「ルナールはどこかをほっつき歩いていて、パルティータは買い物にでも行ったんだろう」

 そして吸血鬼は寝ていた、というわけだ。

 だから家の中にどれだけ陽光が入ろうと構わなかったのだ。

 ほころび始めた木々の芽、どこかから香る花の色、氷解してゆるむ大地に脚を染める農耕馬、外套を脱ぎ捨てた人々。

 窓の外の季節は粛々と去年と同じ道を辿り、白と黒と灰色だった世界には色が戻り始めていた。

 しかしメムにとっては飽きるほど繰り返されてきた運命の輪であるので、さして感慨はない。

 惰性で吸血鬼の視線を追って外界に目をやりしばし、彼は「お」と声を上げて背筋を伸ばした。

 坂の下から黒尽くめの剣士がものすごい勢いで駆け上がってきたからだ。

「ルナール君が慌てていますねぇ」

「どうせどこかの女に甘言を囁いて、亭主にでも追いかけられてるんだろう」

 不興な吸血鬼を相手に会話は弾まずそこで終わる。

「…………」

「…………」

 ルナールが何故急いでいるかを真剣に考えている者はいない。

 彼が来れば分かることをいちいち考えるのは思考の無駄だ。

 ふたりはただ、彼が扉を蹴破らんばかりに入ってくるのを待っていたのだ。ただ、じっと。

「ユニヴェール卿、大変です!」

 期待に違わず勢いよく屋敷に入ってきた黒猫剣士は、まず階上に向かって叫んだ。

「……ルナール、こっちだ」

「あぁ、起きていらしたんですか。それにメム店長」

「お邪魔しております」

 食堂の扉に身体半分を寄りかからせ、ルナールが息を継ぐ。

「卿、大変です。パルティータがおかしいんです!」

「あいつは人間基準でみたら十分おかしい」

 本人の前で言ったらすりこぎが飛んでくる内容を、本人がいないので声に出したのだろう。

「パルティータが! 笑ってたんです! 普通に! 表情があるんです!」

 扉の内側に立ったルナールが、この世の終わりのような顔で両手を広げて空をひっかいた。

「何!?」

「おまけに、愛しい人を探しに行くって言い放ってどっか行っちゃいました!」

「はぁ!?」

「たまたま会ったヴィスタロッサに後を追いかけてもらいましたけど、あの調子じゃパーテルを出て行ってしまいそうです! っていうか愛しい人ってなんでしょうね!? 僕ら以外に大事な人がいるってことでしょうか!? いつの間に!」

「……転んで頭でもぶつけたんじゃないのか?」

「転んで頭をぶつけて人格変わるって、そんな三流戯曲みたいなことが簡単に起こるわけないでしょう!」

 ルナールが大混乱しているせいで冷静になったらしいユニヴェールが、足を組み直してあごを撫でる。対して黒猫剣士はさらに顔を険しくしていた。

「真面目に考えてくださいよ!」

「馬車にぶつかったとか」

「それで痛がりもせずに町中を走っていたんだとしたら、彼女はもうホントに人間じゃあないですよ」

「それはきっと、指輪に乗っ取られましたねぇ」

 不毛な会話に隙間はなかったが、メムはどうにかこじ開けた。

「僕が落とした指輪を彼女が拾って、はめて、指輪に意識を乗っ取られたんです」

「僕が落としたって……お前が原因ならその得意げな顔をやめろ」

「あの指輪には人間の涙をたくさん集めて閉じ込めた貴重な輝石を使いましたから、その中の誰かの想いが強すぎて呪いの指輪になってしまったかもしれません」

 メムは飄々とした顔のまま、女王陛下にはただの指輪より呪いの指輪の方がお似合いですよね、と言い訳を付け加える。

「じゃあ、パルティータが言っている“愛しい人”っていうのは、パルティータの愛しい人ではなくて、パルティータの意識を乗っ取った人の愛しい人ってことですね。あぁ良かった」

 胸の前で己の両手を握り大きく安堵するルナールと、

「何が良かったんだ、何も解決してないだろうが」

 不興が消えないユニヴェール。

「いやいや、そんなことないですって。原因が分かったんだから解決したも同然でしょう」

 メムが手をひらひらさせて宥めると玄関の扉がノックされ、ルナールが応対しようと身を返す。

「簡単なことです。指輪が彼女を変えたんだから、指輪を外しさえすれば元に戻りますよ」

 言い置いたパリの仕立て屋は、未だに茶のひとつも出されていないことを伝えようと吸血鬼に笑顔を向け──

「ええええええーーー!」

 玄関から聞こえてきたルナールの尾を引く叫び声に眉を上げた。

「…………」

 椅子に腰かけたままの吸血鬼の目が彼を一瞥し、それから食堂の扉へ横滑りする。

 ばたばたと剣士らしからぬ騒々しさで戻ってきたルナールが情けない声でうめく。

「ヴィスタロッサからの伝言でした。どうやらパルティータはパーテルを出て行ってしまったみたいです」

「……で、何が簡単だって?」

 メムは湿った双眸で吸血鬼に睨まれた。

「お宅のメイドさん行動力あるから……」

「追いかける馬車を用意してきます!」

 自分が捜しに行くつもりなのか、ルナールが滑るように食堂から出て行った。

「メム、お前、覚悟しておけよ」

「……えぇ、えぇ?」

 てっきり事が終わったら責任を取らされるのかと勘違いしたメムは、しかし吸血鬼の口角に差しているのが怒りではなく興だと悟って語尾を上げた。

 ユニヴェールが細い笑みを深くして自らの片腕を抱く。

「陛下への献上品がただの石ころになっても私は責任を取らないからな」

「……は?」

「石に凝縮されたとはいっても元々は人間の情念だ。その程度なら、指輪を外すまでもなくあの娘が自力で蹴散らす可能性もある」

「しかしあれは地下都市“アジ・ダハーカ”で一流の職人が練って仕上げた代物ですよ、いかに彼女が強権教皇の血を引いていると言ったって……」

「あの娘がヴァチカンにいた頃──」

 メムの言葉を遮って吸血鬼の腕が翻り、長身が椅子から離れる。

死の天使(サマエル)があの娘の子守をしていたそうだ」

「……ヴァチカンにサマエルが?」

 メムは猫の金目を大きくした。

 盲目の堕天については、ユニヴェールよりも長い時間を生きている彼の方が知識はあるだろう。

 さすがに直接会ったことはないが、その噂は歴史の波間に何度もちらついていた。 加えて、ソロモン王の72柱の悪魔のうち孔雀(アンドレアルフース)(ストラス)の二官がもはや揃わないのも彼がその運命の力で沈めたからだと言われている。

 同族である悪魔さえ抗えない滅びをまとう、神を愛する聖なる悪魔。

 影と足音だけを残してゆく、輪郭のない死神。

 彼の背にあるものは白い翼なのかコウモリの羽なのか、商人として興味がないわけではない。しかし商品として追うには彼にまつわるすべての情報があまりにも漠然とし過ぎていた。

 それなのに、それが人の世に、しかも神の代理人の庭に確固と存在していたとは、にわかには信じがたい。

「……本当に?」

 思わず発した疑いの言葉だったが、吸血鬼は気に留めなかったようだ。

 ユニヴェールが光に満ちた窓を望む。

「推測するにあの娘は、死の天使が番犬をしている門を破って私のもとに逃げ込んできたのだ」

 白い牢獄から黒い鳥籠へ。

「興味深いだろう」

 気が付くと、紅の双眸は外界ではなくこちらに向けられていた。

「たかが人間の分際でサマエルを突破した、その原動力は何だ? 普段は一切見せない激情か? それとも“ユニヴェール”を凌ぐ底無しの冷徹か? 何がセーニの末裔に逃亡を決意させ、そして成功させた?」

「ユニヴェール卿」

 メムは淡い熱っぽさをのせて歌い始めた吸血鬼に一本指を立て、真っ直ぐ横に動かした。

 ベストにあわせてエジプシャン・ブルーに塗られた爪が越えてはならない一線を描く。

「気を付けた方がいいですよ。貴方は人間の精神を果てなくうねる大海と幻想してその深い波に溺れたがる傾向があるようですから」

「…………」

 それは彼個人というよりもユニヴェールという血族の持つ狂気という方が正確だったが、自覚はあるのだろう、吸血鬼の麗貌がわずかに笑みをくらくした。

「聖女の条件が強深な静謐なのだとしたら、貴方はすでに聖なる者に囚われかけていると言えませんか?」

 メムの予言めいた言葉に世界が同調し、薄い雲が流れて陽が陰る。

 まだ熱を蓄えきれていない早春は、灰色に覆われると途端に空気が冷える。

『…………』

 しばし、金色の視線と紅の視線が交わった。

 そしてややあって、

「……昔、私はフェッラーラであの娘に訊かれたよ。魔物と人間の契約を破談にしたことはあるか、とね」

 吸血鬼の低く霜の降りた声音が冷気を滑る。

「魔物と人間が深く関わるとロクなことにはならない──そのロクでもないことを回避するために力尽くで契約を断ち切ったことはあるかという意味の問いだったが、私はないと答えた。過去その必要に迫られなかったというのもあるが、それよりも、そのことは“運命”という言葉よりももっと明確な“ことわり”のようなものだと思っていたという方が理由としては強い」

「パルティータ嬢とサマエルの間に契約があると?」

「さぁ、それは分からない。私は直にサマエルと契約を結んだのはあれの親ではないかと疑っているが、確証はない。なにせ、ヒントとしてパルティータから与えられた父親の“フォリア・デ・コンティ・ディ・セーニ”は、アスカロンを使ってもほとんど情報を得られなかったからな。彼の名は頑なに隠されている」

「貴方はその“理”に介入するおつもりですか?」

「つもりも何も、もうサマエルから宣戦布告を受けた」

 吸血鬼は実に楽しそうにのたまう。

「ヴァチカンはヨハンを使って吸血鬼という種族そのものを絶滅させようと試みている。フランスのシャルルは妻のためにナポリを獲ろうとしているが、教皇やマックス(マクシミリアン1世)は戦火を交えて民を疲弊させてでも断固それは阻止するつもりだろう。その足下で、ソテールとフリードはいつまでも仲良し師弟をやってはいられまい。決意と現実は別物なんだ、いつか今度はフリードが選択の淵に立たされる。そしてその傍らで狩人の皮を被ったサマエルは死の天使の名にかけて契約を遂行しようとしていて、どうやらそれはパルティータにとって面白くないことのようだ」

 滅びを知らない双眸が淀みなく息を挟まず過去と未来を俯瞰する。

「キルケはルナールを皇帝にした新しい帝国を夢見ているようだし、──暗黒都市だってジェノサイドで失敗したくらいで私を葬ることを諦めたわけではなかろう?」

 その疑問符は誰に向けられたものでもなかった。

 メムは暗黒都市の住人ではないから。

「どいつもこいつも悪あがきだよ。すべてを諦めて流れにまかせてしまえばいずれ人間が“運命”と呼ぶ何らかの結末に行き着くだろうに、わざわざ抗って傲慢にも自分の望む結末へと流れを変えようとする。その傲慢と傲慢がぶつかってあっちでもこっちでも絶え間なく禍乱からんが起こる」

 死人の冷笑と共に雲が切れた。

 しかし見下ろす言葉とは裏腹に、吸血鬼の顔はその言葉自体を嘲笑うように生気を帯びている。

「世界は林檎のようなものだ。落ちて腐っては再び実をつける。途方もない時間をかけたその還流の中で、人は何度神を創っただろうな、メム」

「…………」

 異界の商人は金色の目で静かに化け物を射た。

 ──“世界は林檎”──何故、その成句フレーズを知っているのか。暗黒都市の女王ならまだしも、たかだか三百年を生きただけの人間崩れが、どうして。

 その問いの一端さえ声に出さずじっと口を結べたのは、自制だ。

「世界は破壊と再生を繰り返す。だが、再生したものは過去と同じではない。過去と同じ運命を負ってはいない。『どうせ渦に呑まれて流されてゆくなら、他人の渦に巻き込まれるより自分で渦を作った方がいい』そういう者たちの覚悟と意志が少しずつ世界を変えるのだ」

 この男の言う“世界”とは()()()()のことだろうか。

 メムの沈思を他所に吸血鬼の演説は続く。

「考えると高揚するだろう? 覚悟と意志が世界にある限り、歴史は常にせめぎ合って流れていく。人間単体で見れば泥臭いせめぎ合い、だが世界規模でみれば小さなことで大きく曲がる繊細なせめぎ合いだ。人が成り上がり、家が没落し、国が興り、国が亡ぶ」

 霧の中の森のように描線が曖昧な、そして奥行きの見えない言葉の連なり。

「人の一生は短い。だがその小さき命が連綿と続く歴史の一生はそれに比べたら遥かに長い。そのうえそれを取り巻くおおいなる理の一生は想像し得ぬほど途方もなく長く、そして絶対的だ。しかし人々が覚悟を携え己の意志を持って健気に戦おうとしているのを見ると、つい期待してしまうのだよ。彼らはいつか“ユニヴェール”の息の根をも止めることができるかもしれない、とね。では何が、誰が、どんな情熱が、“ユニヴェール”を滅ぼすことができるのか、私は非常に興味がある。信仰か? 正義か? 愛か? 憎悪か? 裏切りか? 憐憫か? 怒りか?」

 シャルロ・ド・ユニヴェールは己を包囲する世界に絶望して差し出された毒杯を呷った。

 それが通説だ。本人もそう公言している。

 だがそれは、本当なのか?

 本当にこの男は、そんなに人間らしい理由で死んだのか?

「闘わない者は、己ひとり変えられない」

 吸血鬼が語りながら、テーブルに置かれた花瓶の薔薇に手を触れた。

 暗黒都市産なのだろう、吸血鬼の目によく似た深紅の、芯が高く香りのない薔薇。

 その花弁は男の指が触れるや、蜃気楼の如くさらっと虚空に溶け消えた。

「!」

 消えたのは花弁一枚だけ。瑞々しい紅の薔薇は今も手品師の参謀のように高飛車な顔で花瓶の中におさまっている。

 メムは、再度ゆっくりとユニヴェールへ視線を上げた。

 吸血鬼は花を枯らすことはできる。しかし、消すことなどできただろうか。

「闘う者は、己を掌握できる。世界をも変える可能性を持っている」

 囁くような声は冷たくそして重く沈み、遠い北方の海の底を思わせた。小さな生き物たちの死骸が深々と降り積もる、動きも視界もない凍えた世界の底。塗り潰された暗黒の中には恐怖と畏怖と好奇が蠢き、閉ざされた視覚以外の全身が揺りかごのわずかな鼓動を感じ取る。

「卿は、ご自分が何者か掌握しておられる?」

「何者か? さぁ、知らないね。それには興味がない。何者だろうと、どこに立っていようと、何語をしゃべろうと、我々に必要なのはただひとつだけ。己の可能性と持つべき意志を自身で知っていることだ」

 自分が何者なのか知らない?

 シャルロ・ド・ユニヴェールは吸血鬼だ。それが答えのはずだ。

「メム」

 対峙している吸血鬼の紅からは何も読むことができない。

 まるで、──昆虫の眼をのぞいているかのように。

「私はまだ、世界に絶望を与えるほどのことは何もしていない」

「…………」

 一度しか言わなかったが、“まだ”に強調が置かれているのは明らかだった。

 ──今、無暗に詮索するのは分が悪い。

 呼吸さえなく静まり返る部屋の中で、仕立て屋は音を探した。

 ここがフランスであり、パーテルであり、ユニヴェール邸の食堂であるという安堵を得るための音を。

 そしてしばしの後、自ら発すればいいのだと気付く。

「そう思っていない連中もいるでしょうけどねぇ」

 気まぐれな雲が過ぎ去り光が戻った外界は、刻々と熱を溜め色を変えてゆく。耳をすませば雪解けの一滴が土を打つ音が、白い新芽が種の殻を割る音が、聞こえるだろう。

 人も鳥も動物も植物も、夢を見る。

 暖かく、花に溢れた、明るい春を。その先の、うだる暑さと眩しいほどの生命の輝きを。

 その季節が昨年と同じように巡ってくることを当然だと思いながら。

「人間の中にも、暗黒都市の中にも、そう思っていない人は多いと思いますよ」

 念押しで繰り返してから、仕立て屋は一度目を閉じた。脳裏に浮かぶ平原の中央で大きく深く息をつく。

 そして、

「しかしユニヴェール卿、それはともかくとりあえず急いだ方がいいんじゃないかと思うのです」

 彼はテーブルに肘をついて悪戯っぽく吸血鬼を上目に見た。

「?」

「指輪ですよ、指輪。パルティータ嬢を放っておいていいんですか?」

「あの娘だったら──」

「そりゃ頑張れば人間にだって打破できるかもしれませんけどね、呪いになるほどの想いはもはや“想い”なんてフワフワしたものではないですから、打ち破るにも時間はかかるでしょうよ。狂気、執念、妄執、数百年以上縛られたまま突き進んだ精神のなれの果てが動く身体を手に入れたら何をしでかすか……。パルティータ嬢が蹴散らす前にとんでもないことになりかね──」

「メーム! それを、は・や・く・言・え!」

 目を吊り上げる吸血鬼の表情がいつもの道化に戻る。

 食堂の空気も一変した。

「ルナール! お前はここに残れ、もしパルティータがこの町に戻ってきたら捕獲しろ!」

 椅子に投げかけてあった黒衣を掴み、聞こえるはずもない外へ大声を上げながら、ユニヴェールが出て行く。

「……急に説教始めたのそっちでしょ……」

「ルナール! ヴィスタロッサを呼べ!」

 魔物のくせに廊下をばたばたと走り回っているのは、外套を探したりタイピンを探したり普段メイドがやっていることを自分でやらなくてはいけないからだろう。格好をつけている余裕がないのだ。

「メム、お前が原因なんだからお前もお前のやり方で捜しておけよ!」

「かしこまりましたー」

 飛んでくるご命令に、素直に応じる。

「…………」

 結局お茶は出してもらえないまま、玄関の扉が閉まる音がした。

「…………」

 しばしの静寂を待って、仕立て屋は薔薇に向かって褐色がかった手を伸ばした。

 青い爪の先で消えた花弁の輪郭をなぞる。

「──彼はただの死人で、異常にしぶといだけの吸血鬼だと思ってたんだけど」

 自分で言って自分で頭を振り、爪をパキリと噛んだ。

「そもそもその前提が間違ってるのかねぇ。だから、鼻が利くヴァルは警戒してあのでっかい肉球で踏み潰そうとしないのか」

 春は、始まりの季節だ。

 夏に向かって命が飽和していく。

 凍てつく寒さを忘れ、再び前へ進む。

 生きなければいけないことの、不安を内包しながら。

「もしかして」

 メムは立ち上がって窓辺に近付いた。

 氾濫に向かう生々しい生命の気配はガラス一枚で遮断され、この屋敷には滲み入ることさえ許されない。

「アレは吸血鬼の化け物なんじゃなくて、化け物が吸血鬼に入ってるだけかな? しかもその容器は不滅ときてる」

 窓枠に身を寄せて、手が無意識に自分の肩を抱く。

 陽光を反射して同じ色に輝く目を細める。

「神が先か“ユニヴェール”が先か、それが問題だ」

 毒杯を呷ったシャルロの死もフリードに殺されたジェノサイドも、あの男が“己の掌握するため”のただの実験だったなんてことは──。

「おぉ、怖いねぇ」



◆  ◇  ◆




「貴方、結婚なさい」

「はぁ?」

 お前が先にしろよ、と返すほど意地は悪くない。

 ソテールは彼を呼び出した豪奢な女を前に、思いっきり抜けた声を出した。

「貴方は重石がないから自由過ぎるのよ。そして自分だけの自分だと思っているから摂生しない。その結果がこれでしょ?」

「いや、これでしょ? って?」

 女は──シエナ・マスカーニは、いつも芝居がかっているのでどこまで本気で言っているのか分からない。

 だが、

「そうだ、嫁をもらえ」

 長椅子に背を預けたクレメンティからもそう言われると、いよいよ冗談の気配がなくなる。

 いつものデュランダル長官室。大窓を背に執務机に陣取っているのは今日も春の陽光に金髪麗しいマスカーニ枢機卿で、それは許せる。その前の応接スペースでお茶を飲んでいるのがルカ・デ・パリス。純白の隊衣に身を包んだ彼は、デュランダル隊長なのだから、ここにいても当然と言えば当然だ。

 だが、何故その正面にクレメンティが座って彼も茶を飲んでいるのか。

 そして自分は何故マスカー二の前に──机を挟んではいるが──立たされているのか。

 まるで偉い人に総出で怒られている新人だ。

 この歳で!

「貴方がバカをやって風邪をひいたせいでフリードにうつっちゃったじゃない。しかもそれがデュランダルに蔓延して薬を作ってくれるはずのカリスやヨハンまで寝込んでるから、フリード含めて誰も治らないし。可哀想にあのダンピールの少年が何日熱出してると思ってるの?」

「バカをやってって、」

「治ったのは貴方だけです」

「治って悪いかよ」

 ソテールは冷たい視線を送ってきたパリスを振り返り、マスカーニには見えないように顔の半分だけで威嚇する。

 虫も殺さないような貴族育ちの風姿をしているデュランダルの現隊長の中身は、地上の何者よりも強く神を慕う堕天だ。魔物も人間も分け隔てなく終焉をもたらす死の天使。

 柔和な物腰の化けの皮の下では、非情で計算高い盲目の男が嗤っている。

 マスカーニがそれを知っているのかいないのかは分からないが、敬虔な堕天使殿は今のところ彼女を満足させるだけの働きをしているらしかった。人為らざる力でバッタバッタ魔物を葬っていれば、そりゃそうだろう。

 ソテールがムスッとしていると、

「パルティータを婚約者にしてしまえばいいじゃない」

 男社会の中を燦然さんぜんと歩む女傑がいきなり爆弾を投げてきた。

 その声色にはとてもよい思いつきをしたという自画自賛さえ見え隠れする。

「“パルティータはインノケンティウス三世の直系だから返してちょうだい”じゃ政治色が強すぎるでしょ? いかにも彼女の血統を私たちが世の中を操るために使いたいみたいだもの。でも、ソテール・ヴェルトールの婚約者だから返しなさいってなれば、世論も味方につくわ。婚約者が離れ離れなんて、よくないもの」

「ダメです!」

 部屋に反響するほど大きな声で反対したのはパリスだった。

 さすがの女傑にも予想外の反応だったのか、彼女は口を開けたまま仰け反る。

「それはダメです」

 ダメな理由は言わないが、それはキッパリ断固とした拒否だった。

「……そう?」

 女傑がすぐに提案を引っ込めるくらい。

「…………」

 とんでもない思いつきだったがとりあえず頭上を過ぎ去ったのでソテールは何も言わなかった。

 そもそも、パルティータも彼女の雇い主であるユニヴェールも諾と言うわけがなかったし、マスカーニが超法規手段を取って婚約を成立させることができたとしても、ユニヴェールが黙っているわけがない。

 それにヴェルトールとセーニという組み合わせは、正直くどい。

 ……しかしその一方で、サマエルからの却下は何かしらの不合格を押されたようで、若干釈然としないものが残った。

「彼女にはフォリアの後を継いでもらわなければ……」

 これでもかと香草が詰め込まれたお茶を揺らしてパリスがつぶやく。

 だがその言葉を捕える間もなく、

「いいわ。パルティータは諦めましょう。どちらにしろ彼女はこちら側の人間だし」

 マスカーニが大きく舵を切った。

「ヴァチカンの人間ととヴァチカンの人間が婚約したところで世界の構図を変えられやしないものね。貴方ヴェルトールには貴方ヴェルトールにふさわしいお妃様を探さなきゃ」

 翻訳すると、ヴァチカンにとって有利に働く結婚を成立させなきゃ、となる。

 結婚は家と家とを結ぶための契約だ。

 ヴァチカンと不仲な名家を味方として取り込むため、持参金の多そうな家を選んで金庫を潤すため、他国の勢力を削ぐため……。

 それは決して個人の問題ではない。どれだけ双方にとって利をもたらすか、それが最も重視される。

「おいおい、俺の結婚は歴々の教皇や枢機卿が最後の切り札として温存してあったんだろ? こんなところで無意味に使っていいのか?」

「温存してくださったことに感謝を捧げます」

 分かり切っていることだが、このひとは今ここにある資源はすべて自分のものだと思っている。

「さぁ、忙しくなるわ!」

 おそらくだが、新しいデュランダル隊長殿が有能すぎるゆえに女傑は暇なのだ。

「…………」

 ソテールは湿った眼差しをパリスに送る。

「…………」

 金髪碧眼の優男はどこ吹く風でカップの液体を飲み干していた。




◆  ◇  ◆




 こうしてマスカーニが意気込んであちこちの王族や貴族を極秘調査して花嫁探しをしている日々の中、当のソテールはローマの教会を訪れていた。

 いつも足を向けるラテラーノ聖堂ではなく、古いと評されているこの辺りの教会をすべて当たってみるつもりでいたのだ。

 目的は、ヴェルトール家の歴史を紐解くこと。

 父がデュランダルを率いるには平凡過ぎるクルースニクであったことは知っているし、叔父クロージャーが柳のようなクルースニクであることは分かっている。そして祖父が偉大なクルースニクであったことも知っている。

 だが実は、それ以外彼は何も知らなかった。

 ソテールはローマで生まれ、父も、おそらく祖父も、ローマの生まれだ。

 しかしヴェルトール家の起源はローマ帝国だと伝わっている。そうなのかと納得して何の疑問も持たなかったが、そうなのか? と自問しても過去から正答は返ってこない。

 ローマ帝国においてどの王に仕えていたのか、そもそも拠点はどこだったのか、そしてそこからどんな経緯でヴァチカン入りしたのか──知らない。

 何しろ“ローマ帝国”という括りは曖昧すぎるのだ。時代時代で体制も領土も違いすぎる。

 そんな面倒臭いことを改めて調べてみる気になったのにはもちろん理由があった。

 長年、視界に入りかけては無意識に目を背けていた淡い影のような疑問。


 ──何故、暗黒都市はソテール・ヴェルトールを殺そうとしないのか。


 所詮人間の狩人など脅威ではない?

 あり得る理由だが、ユニヴェール級はともかく他の魔物にとってはある程度目障りなのではなかろうか。

 逆に脅威とみなしている故に仕掛けてこない?

 それにしたって三百年間一度も組織だって“狙った”ことがないのだから(ユニヴェールと個人的に交戦したことはあるが)、脅威かどうか判断材料もないはずだ。

 ソテール・ヴェルトールがいなければ、人間の拠り所となるヴァチカンを潰すのもより簡単になる。

 しかし暗黒都市は彼個人を葬ろうとしたことはなく、実際彼を殺そうとしたのは当のヴァチカンだった。


 暗黒都市は“ヴェルトール”にまつわる何かを知っているのではないだろうか。

 彼自身もヴァチカンでさえも知らない何かを。


 現在の疑問を解決するには、未来を開拓するか過去を掘り起こすのが手っ取り早い。

 どれだけ自由を渇望して英雄の翼を得て空を目指しても、過去からの鎖は決して外れることはないのだ。手足に絡んだ銀鎖は時に重しとなり、時に自らを殺し、時に自らを生かし、そして時に答えとなる。

 ところが──あるいは当然と言うべきか、ソテールが閲覧することのできるヴァチカンの文書には、何の手がかりもなかった。

 昔から公文書なんてそんなもので、時の権力者にとって都合の悪いことは削除、今となっては「そんなの無理に決まってるだろう」と偽造が明白な武勇伝が付け足され、とどのつまり歴史書なんて戯曲みたいなものだ。

 個人の日記の方が赤裸々に真実が記されていたりする。

 だからこそ、ヴァチカンではなく、そこで起こったことを目撃している周辺の細々とした教会の方が、何か記録が残っている可能性があると踏んだのだ。


 ヴァチカンから南東、テヴェレ川沿いを歩いた先の丘に目当ての教会はあった。

 オレンジやミモザやアーモンドの木々の中、道の向こうに薄い枯葉色の建物が見えてくる。ガリアにフランク王国がおこった五世紀頃に建てられたものだけあって簡素で規模の小さなバシリカ様式の聖堂だ。ドミニコ会の教会であるが、その装飾のない外見は教会というよりも救貧院を思わせる。

 町の中心からは外れているので人影はまばらだがその姿が途切れることはなく、閑散としたうら寂しい場所というよりは郊外の長閑な場所と形容するのが適切だろう。

 司祭には先に書簡で話をつけてあったので、書庫に通してもらい一日中埃と格闘し、そして聖堂内に透明石膏セレナイトの窓を通して黄昏の陽が満ちる頃、教会を後にする。

 そして教会を出たところで花売りの女が声をかけてきたので、未だ寝台から抜け出せないフリードのために花を買った。

 建物の影に隠れていて蚊の鳴くような声で目を伏せて寄ってきたところを見ると、花売りは彼女の生業ではなく、同業組合ギルドの目を盗んで微々たる日銭を稼ぎ糊口をしのいでいるのだろう。そしてそう思わせる身なりだった。

 教皇の膝元とはいえ、その恩恵が全市民に行き渡るわけではない。


 数日後、ソテールは再びその花売り女に声をかけられた。

「毎日この教会へお通いになっているようですけど、何かお悩みごとでもあるのですか?」

 花を毎日必要とする人間は少ない。

 だから彼女は毎日彼を目撃していながらも日を置いてから近寄ってきたらしい。

「いえ、悩みごとというか……」

 言い淀んで、明るく突き抜けたユニヴェールの哄笑が脳内に反響し、げんなりする。

「まぁ悩みごとと言えば悩みごとか」

「それじゃあ、早くそれが解決しますように」

 栗色のほつれた髪を耳にかけ直し、彼女が籠の中の白い花を差し出してきた。

 ソテールはそれを受け取ろうとして、

「……その子は貴女の?」

 彼女の後ろに佇む男の子を見つけた。立って彼女の衣服の端を握り締めてはいるが、言葉が通じるかは怪しい年頃。身に覚えなく、不機嫌そうに睨まれる。

「えぇ。私の子です」

 女の言葉に影が差した。

「こんなに小さいのに母上と仕事とはね」

 扉を押せば空洞の闇があることを察知して、ソテールは目元を緩めた。

「今日も花束をもらおうか。上司マスカーニが風邪でぶっ倒れたんですよ」

「ありがとうございます」

 女の花を括る手つきは重い。

 ソテールが時を持て余して周囲に目をやっていると、

「教会のご関係の方なんですか?」

 彼女の手は止まっており、しげしげと観察されていた。

 デュランダルからオートクレールに異動したとはいえ、彼のまとっているものは変わらず純白の長衣だ。マスカーニはぶつぶつ文句を言うが、「経費節減!」を声高に掲げれば黙る。それにデュランダルの長となったルカ・デ・パリスとは髪の色も背の高さも違うので、隊員たちも間違えることはない。

「えぇ。ですが敬われる立場ではないんですよ。ヴァチカンの衛兵兼雑用係みたいなものです」

「まぁ、ヴァチカンの。……立派なご職業でうらやましい」

 ため息をついて再び花を括り始める彼女の言葉に嫌味はなかった。しかし沈鬱な疲労が滲んでいた。

「私はこうして働くことができるし、この子もここまで無事に育って、どうにか一日を過ごすことはできています。でも私は、祭壇を前にした時、どうしても主への感謝より先に己の願いを思ってしまうのです。もっと楽な暮らしをしたい、夫の父母があんなに病気がちでなかったら、夫が毎日きちんと働いてくれたら、って」

 世間話のように告白が始まるのは珍しくない。市民はソテールの負っている役など知るはずもないのに、ラテラーノ聖堂でもローマ市街の巡回でもこうなることは多かった。

 そしてソテールはなるべく耳を傾けることにしている。

 聞いたって何もしないくせに偽善だと、ユニヴェールには言われたことがある。お前はいたずらに民と関わるな、と。

「貴女の旦那も病弱で?」

「いいえ。あの人は親方と折り合いが悪いだけなんです。そして我慢をしないのです。嫌なことがあるとすぐに仕事を休んでしまって……今日も。もう三日も親方のところへ行っていないんですよ」

「それで貴女がこうやって」

 花を売ってどうにか生計を立てているわけだ。

「はい」

 このご時世、そんな生活は取り立てて珍しいことではない。そう言ってしまえばミもフタもないが、類似例を指差したところで何も解決はしない。

「……私も祭壇の前ではまず自分に関係することを想ってしまいますからね。感謝なんて二の次になってしまいます。しかし人間がそのくらい弱い生き物であることくらい、主は見通していらっしゃるでしょう」

 ソテールが神に向かって吐く言葉は呪詛に近い。

 何故シャルロ・ド・ユニヴェールを殺したのだ、と。

 あれに一度目の死を与えたのは、明らかに神のミスだ。あんなところでくだらない死に方をさせず、老いて衰えるまで生かして雪が積もったより白く冷たく美しい寝台の上で安らかに死なせてやればよかったのだ。そうしてくれたら今頃、奴に関して苦労している人間はいなかったはずなのだから。

 加えて、奴自身もいつまでも“ユニヴェール”に縛られることはなかった。

「祈り続けていれば、主はお救いくださるでしょうか」

 女が花束を差し出しながら言った。

「…………」

 自分にはもうそれしかすがるものがないのだと思い詰めた悲哀の微笑に、身体の奥が鈍く痛む。

 それは祈りではない、それは希望ではない、ユニヴェールならば躊躇いなくそう口にするだろう。

 思いながら、

「祈る前に、神が望まれる行動をすることです、奥様シニョーラ

 ソテールは柔らかな言葉を返した。

 春を呼び、黄色く咲き始めたミモザの木々が黄昏の黄金に染まり、テヴェレの川面がきらきらと宝石屑のように輝く。

「貴女の護りたいものは何ですか?」

 ソテールは続けて問いかけて、彼女の背後からこちらを睨んでくる幼児を見やった。

「護りたいものを護るためにきちんと現実と対することです」

 護りたいものに気付くこと、護りたい信念を掴むこと、対すべき現実を知り受け入れること、そびえる壁の高さを測ること。

 そうして初めて人は己を知る。

「祈りが形となるのはそれからです」

「…………はい」

 女が神妙な顔でうなずいてくる。

 ソテールは金を払って教会の前を後にした。

 歩きながら、残照を浴びてシルエットになる街を見下ろす。

 分かっている。

 いくら高尚な説教を並べてみても、食うや食わずの民はそれどころではない。明日食べてもよい豆を一粒ずつ数えなければならない民にとっては、明日子どものひとりを売ろうかと悲嘆に暮れている民にとっては、ヴェルトールはあまりにも遠すぎるのだ。

 だが人にはそれぞれ役割というものがある。

 少なくとも、ヴェルトール家はそれを信条としている。

 ヴェルトールが為すべきことは、人為らざる者たちから人の世を護ること。ただそれだけだ。

 だからこそ、ヴェルトールは決してまつりごとには手を出さない。国と国が、国と教皇庁がどれだけ戦火を交えようとも、ヴェルトール家はひたすら魔を追い魔を狩る。

 傍らに飢えた民がいようとも、先に略奪に燃える村があろうとも、魔へ向かって疾走する馬の駆歩ギャロップを止めることはない。

 だからこそ、本当の意味でヴァチカン教皇庁の裏の何でも屋になってしまったデュランダルは、ヴェルトールの道に外れるのだ。

 ……外れるはずだったのだが、叔父のクロージャーはあっけらかんとしてデュランダルに残った。

 曰く、「まだ戦争に行って来いって言われたわけじゃないし」。

 その時の相手の顔を思い出して無性にむかついて、ソテールは花束を道に叩き付けた。

「……あ、まずい。これマスカーニのやつだった」




◆  ◇  ◆




「まずい」

 ヴィスタロッサはつぶやき、葦毛あしげの馬上で手を握りしめた。

「どこへ行ったか分からなくなった……」

 パーテルから南へ少し、農耕馬が出始めた田畑の中を抜け、山の中の道へ入り、やってきた谷合の拓けた町。

 灰色メイドが乗合馬車に乗ってパーテルを出て行ったという目撃情報をルナールに伝えてからそれを追いかけたものの、街道ではそれらしい乗合馬車に追いつくことなく次の町に着いてしまった。

 向こうは荷台付き、こちらは単騎、追いつけないなんてことがあるはずないのだが……。

「もうひとつ先へ行ってみるか? だがこの先はルートが分岐するな、あいつの目的地が分かれば楽なんだが、しかしそもそもパーテルを出たというのが嘘だったら意味がない……」

 ヴィスタロッサが町の片隅で馬から降りて思案していると、

「何がまずいんだ?」

 背後から今一番聞きたくない男の声が降ってきた。

 油切れの機械人形よろしく軋む音を立てて首を回すと、土埃に覆われた町には似つかわしくない黒衣の麗人が姿勢正しく立っている。

「ユニヴェール……卿。どうして」

「どうしてって、お前はひどく目立つ」

 白金の甲冑で武装こそしていないものの、真っ白な聖騎士の隊衣はやはり人目を引く。そのうえそれが女となれば、好奇も加わって人々の記憶に残るものなのは仕方ない。

 パーテルの住人は見慣れているが、一歩あの町の外へ出れば女が聖騎士だなんて論外なのだ。(ましてやマスカーニ枢機卿など奇跡といっても過言ではない)

「で、パルティータはどこに行った」

 “何がまずいんだ?”と訊いてきたということは、ヴィスタロッサの独り言を最初から聞いていたわけで、ということはパルティータの行方を掴みそこなったことも推測できるはずだ。

 信じられない性悪である。

 ヴィスタロッサは疲労をあからさまに金髪をかきあげ、胸を張って答えた。

「どこに行ったか分かりません」

「開き直るなよ」

 吸血鬼なのに真昼間突っ立っていて何ともないことにはもはや誰も突っ込まない。

「そもそも私にはパルティータを探さねばならん義務はなーい!」

「義務はないが良心はあるだろう」

「うっ」

 走った痛みにヴィスタロッサは胸を押さえた。

「単騎駆けのお前が乗合馬車に追いつけないなんてことは通常起こらない」

 ユニヴェールは彼女の小芝居を無視して続けてくる。

「ちなみに私はお前がここへ来る前に着いていたし、先の街々にも行ってみたが、それらしい馬車はなかった」

「つまりパルティータが乗った馬車はまだこの町にさえ着いていない?」

「あるいは、常人が思いつくようなルートは通らない馬車かもしれんな」

 吸血鬼の言葉にヴィスタロッサは奥歯を噛んだ。

 そういうことをする奴らは大抵が、賄賂運びや人買いなどやましいことをしている。しているが、自警団は地元がよければすべて良しだし、領主が絡んでいたら傭兵団や衛兵が取り締まるはずもなく、国を越えれば政治問題に発展しかねないので誰も手を出さない。

 聖騎士団に至っては魔物が登場してこない限り管轄外だ。

 レネック隊長などは魔物の影があることにして調査や取り締まりをすることもあったが、そう何度も「魔物の仕業ではありませんでした~」と言うわけにはいかない。

 人間にばかりかまって肝心の魔物案件を取りこぼすことがあってはならないし、相手が人間ならば誰かが制することもできようが、魔物は彼らにしか制すことができない。

 白い隊衣をまとった人間は、あくまでも魔物に対しての盾と矛なのである。

「何、そのうち情報が勝手に入ってくるさ。それらしい乗合馬車の情報に一生遊んで暮らせるくらいの懸賞金をつけておいた」

 吸血鬼の言葉どおり、それは黙って待っていたら勝手に向こうからやってきた。

 町の騒がしい食堂。

 冷えはじめた夕暮れ時、吸血鬼と聖騎士が対面でもくもくと魚料理を食べていたその時に。



「孤児院から?」

「えぇそうなんですよ、騎士様ァ。なんでもどっかの貴族がまとめて引き取ったとかで」

 酒瓶を抱えたまま食堂の入り口でユニヴェールの名を叫んだ中年男は、パルティータが乗った馬車は公共交通機関としての乗合馬車ではなく、孤児院から子どもを引き取った貴族の所有のものであるという情報を持ってきた。

 馬車の行先を聞いてパルティータが強引に乗り込んだらしい。

「行先はどこなの?」

「そこまでは知らんですよ」

「そんなにたくさんの子を引き取った理由は?」

「行先も知らんのに無理言わないでくださいよ。けど、引き取られたのはそろそろ修道院へやろうかってくらいの年頃の見目のいい娘ばかりだって話です」

 男の丁寧語には溢れんばかりの媚が詰め込まれている。それが信用ならないのだと分かってはいないのだろうが、指摘はしてやらない。

 身なりも職業がさっぱり推測できない出で立ちで、頭には布きれがぐるぐる巻かれ、砂ぼこり塗れの上下は擦り切れているが労働の気配はせず、足は膝までのブーツ、腰には幅広の短剣。

「少なくともフランス貴族ではないな」

 酸っぱいだけの安い葡萄酒を喉に流し込んで、ユニヴェールが言う。

「自惚れではないが、わざわざパーテルに手を出してくるフランス貴族があったら、バカだ。集めたのが本当に人間の貴族なら、フランス以外の奴だな。娘たちが自主的に手を挙げたくなるような甘言を弄したんだろう」

「集めた理由は?」

「知るか」

 もちろん、下衆のすることなど知りたくもないというニュアンスではなく、知らなくてもパルティータの捜索には支障がない、というお言葉だ。

「旦那ァ、俺がお話できることは全部しゃべっちまいやした。これ以上は身体を逆さに振っても出てきませんわぁ。なんせ、パーテルで道端の婆ぁどもがしゃべくってるのを小耳に挟んだだけでしてね」

 翻訳すると「早く報酬を寄越せ」となる。

「わざわざすまんね」

 吸血鬼はあっさりとうなずいて、染みだらけのテーブルに麻袋を乗せた。ずっしり重い音がして、思わずヴィスタロッサもそれを凝視してしまう。

「金貨に銀貨、それから研磨してあったりなかったりする宝石が入っている。屑石はひとつもないはずだから売ればそれなりの値段になる。慎ましくしていれば一生食っていける気もするが、そんなもんでいいかね?」

「旦那、こんなにいいんですか?」

 返事の代わりにユニヴェールが手で追い払う仕草をする。

「それじゃ俺はこれで」

 貴族の気まぐれな逆鱗に触れてもらったばかりのお宝を没収されてはかなわないと踏んだのか、男はものすごい速さで目の前から消えた。

 そしてよほどユニヴェールの声が通ったのだろう、ヴィスタロッサが気が付くと騒がしかった食堂内は静まり返っていた。

 だいたいが、こんな田舎の薄汚い大衆食堂には金髪の聖騎士も生まれながらの貴族も場違いなのだ。庶民の憩いの場に素面で踏み込んできた異質。気に入らない、排除したい、という不穏が人から人へと伝染して息を殺している。

 だがユニヴェール当人はその状態を全く気にしなかったらしい。

 彼は男の姿を見送ると、黙々と目の前の皿に乗せられた魚をきれいに切り分け口に放り込み始めた。

「…………」

 何故吸血鬼が夕食を摂る必要があるのかと考えつつ、ヴィスタロッサもそれに倣う。

 味の濃いスープの中でひたひたになった名前の全く分からない二匹の魚は、会話もないまま消えていく。

 商人が大半と思われる客たちはその様子を唖然と見ていたが、しばらくすると静けさはざわめきになり、ざわめきは元の喧騒となっていった。

「情報の価値と与えた財の価値が見合わない」

 ぼそっとヴィスタロッサがつぶやくと、ユニヴェールが食べる手を止めた。

「あれは孤児院から娘たちを連れて行った一味の裏切り者だろうさ」

「?」

「高貴な相手から曰くありげな依頼があった場合、孤児院がそれを口外することはまずない。不興を買ったらオシマイだからな」

「……パルティータが乗った馬車がどういう意味の馬車だったのか知っているのは、実際に関わっていた人間以外にいるはずがないということか」

「それに衣装もちぐはぐだった」

「確かに何屋かサッパリ分からなかった……って、それでは裏切り者の賊に大金をくれてやっただけではないか」

 ヴィスタロッサが小さくテーブルを叩くと、吸血鬼は肩をすくめてきた。

「あれだけ派手に袋の中身を教えてやったんだ。あいつが途方もない財を持ってることはすぐに知れ渡る。他の盗賊に襲われるか、裏切った仲間に討たれるか、首尾よく護り通して一生遊んで暮らすか、神の思し召しひとつだろうさ。もしかしたらもう路地裏で袋叩きにあっているかもな」

「……悪魔……」

 丸くした碧眼に生真面目な吸血鬼の顔が映る。

「厳密には私は悪魔ではない」




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