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冷笑主義  作者: 不二 香
第三章 After GENOCIDE
68/88

番外編:聖都編【Ladon】前編

1458年頃のお話。

Ladonラードーン


 舞台の上で、娘がアリアを歌っている。

 愛しい人を想うソプラノの旋律は、着飾った観客たちの頭上を過ぎ、暗黒都市の昏冥こんめいの闇を滑る。

 やがてそこに侍女たちの楽しげな歌が重なり、上手から娘の父親が国王──まだ少年の面影が残るハンガリー国王と共に現れた。


「お父様! 陛下!」

 娘は声を上げて父に駆け寄り、不安な眼差しで見上げる。

「ラースロー様のお疑いは晴れましたの?」

「あぁ、マリア。だからこそ、こうして陛下もラースローと話をしてくださることになった」

「良かった!」


 娘の名はマリアという。彼女の婚約者ラースローは、ベオグラードをオスマン帝国から護った勇士のひとりだったが、国王に対する謀叛の疑いをかけられていたのだ。

 国王が若く強力でないこともあって、この国は権力闘争が激しい。

 貴族たちは謀略を重ね、追い落とし追い落とされ、裏切りも罠も日常茶飯事だった。


 安堵の笑顔を見せる娘、それをじっと見つめる国王に光が当てられ、場面は変わる。


 今度はひとり国王がマリアへの想いを歌い始めた。

 ──彼女はすでにラースローと婚約している。

 だが、民の嘆きや貴族との軋轢、オスマン帝国の脅威に押し潰されそうな自分を癒してくれるのはきっと彼女しかいない。彼女が傍にいてくれるのなら、何に変えてもこの国を守ろう。彼女の笑顔を決して絶やさぬよう。


「陛下。貴方は本当にラースローが反逆者でないとお思いですか?」

「ガライ」

 少年が恥ずかしげに一歩退き、物陰から現れるマリアの父。

「あの男は陛下の暗殺を企んでいます。マリアとの結婚式に貴方を招待したのはそのためですよ」

「!?」

 少年の目が驚きに開かれる。

 ガライが大きく首を振った。

「本人が言っていたのですから間違いありません。あぁ、このままでは大事に育てた我が娘は反逆者の妻になってしまいます」

「そんな。あいつは、あれほど潔白を主張しておきながら」

 怒りに瞳を染める王を前に、大男はひざをつく。

 そして緞帳どんちょうがびりびりと震えるほど声高に吠えた。

「陛下、どうぞ私にあの男の処刑をお命じください。そうすれば貴方の命を脅かす者はいなくなる、そしてマリアは貴方のもの。──さぁ!」



 暗転明けの舞台は華やかな踊り手たちで溢れていた。

 くせのある黒褐色の髪をした青年ラースローがマリアと愛を交わし、貴族たちが祝意を唱和する、婚礼の宴。

 独特な音階の民族音楽にあわせて靴音が鳴り、手拍子が入り、鮮やかな衣装が翻る。

 だが──。

「フニャディ・ラースロー! 陛下への反逆罪で逮捕する!」

 花嫁の父、ガライ率いる兵士たちが客人や料理を蹴散らして壇上に乱入し、青年に反論の余地も与えずマリアの叫びにも耳を貸さず、あっという間にラースローの両腕を捕らえひきずって行ってしまった。

 まるで嵐のような一幕。

 幸せは一瞬にして暗転し、悲嘆の底へ。

 青年の無実を訴える声だけが永遠の夜を裂き、マリアを含め残された招待客たちはただ光に照らされ呆然と立ち尽くす……。



 ユニヴェールは舞台から目を離し、片肘をついたままの格好で横を見た。

 案の定シャムシールは寝ていて、フランベルジェはもう鼻をすすっている。ルナールとパルティータは見えない。(アスカロンはローマなので除外)

 暗黒都市の演劇は人の世界のように伝説化した昔話をやるわけではなく、情報の共有を兼ねた時事ネタが多い。これだって数十年前の史実が元になっていたはずだ。

 吸血鬼伝承が色濃く染み付いた東欧の灰色の空の下──。



 ラースローの母が神に祈り、ガライに赦しを乞うていた。

 舞台に溢れる群集も口々に慈悲を願う。

 だが断頭台へ引き立てられる青年の背後に流れる重々しい葬送曲が、終わりを暗示していた。

「私は反逆者ではない! 誓って!」

 裁判はなく、弁明の機会なく、蒼ざめた馬は彼の目の前にいた。

「執行」

 だが執行人が何度斧を振るっても、何故か鉄の刃は空を斬る。

「神はすべて知っておられるのだ! 私が無実であることを!」

「──れ」

 ただ一言、ガライの言葉は容赦なく、客席が息を飲んだ次瞬、青年の運命は潰えた。




 ◆  ◇  ◆




「兄上」

 謀反人として処刑された長兄の首を抱き、少女が夜の虚空を見つめる。

 亡骸は返された。

 だが城の奥に安置された棺の中には、兄ではなく死が横たわっている。

「…………」

 少女がゆっくりと頭上を仰ぐと、長い黒髪が肩から流れた。

 窓を叩く激しい雨音は、神か亡き父か兄本人か、一体誰の怒りだろうか。雷鳴が轟き、荒れ狂う風に掲げられた大(カラス)の紋章旗がはためく。

「…………」

 彼女は水に濡れる窓へ顔を向け、目を細めた。

 口を結ばなければ全身侵蝕されそうな黒い塊が城内に満ちている。

 耳を澄ませば妹姫や使用人たちの嗚咽が聞こえる。

 どれだけの土で埋めても埋まることのないこの永遠の喪失は、いつか時間によって飼い慣らされるのだろうか。

 それとも終わりない葬送の調べとなり、凱旋の歌の背後で祝賀の讃歌の足下で、低く奏で続けられるのだろうか。

「どうせなら、みんなに聴こえる方がいいわ」

 彼女はゆっくりと立ち上がった。

 黒いドレスの裾をひき、大窓に寄り添い、闇に塗り潰された領地を見下ろす。

 


 東欧。

 その地は、ある時はハンガリー王国、ある時はオスマン帝国として。

 民族と文化と宗教が矛盾や対立と共に混じり合う境界の地。

 黒い森(シュヴァルツヴァルト)より来たる大河ドナウの恩恵を受ける肥沃の地。

 そして吸血鬼の起源とも故郷ともうたわれる異質な地──。




 ◆  ◇  ◆




 うだる酷暑が容易に予期できる、熱のある初夏だった。

 ローマにしては珍しい湿り気を帯びた熱。市街を覆っているのは剣呑とした気配と重苦しい青空。

 陽が高いというのに界隈を行き交う人はまばらで、建物が作るわずかな日陰には身体を丸めた人間がぽつぽつ座り込んでいる。

 あばらの浮き出た野犬が尾を垂らして通りを横切り、本来そこを通ってゆくべき荷馬車の蹄の音は全くない。浮浪児たちが店先から食べ物を盗む喧騒もない。

 店は開いておらず、露天商の姿さえないからだ。

 夏が来る──その開放と輝ける生命の讃歌よりも、擦り切れ尽くした疲弊が街を漂っていた。漂う、それさえも億劫なように。


「随分街の中が閑散としているようだったが、外出禁止令でも出したのかね? 私が目にした市民は犬と烏だけだった」

「出て行くことのできる者は街を去ったようです」

 ゴミが散乱する裏路地を地下へもぐり込みたどり着く安酒場。看板は外され営業する気がないことを告げているが、その穴倉の中には店主を除いて四人の客がいた。

「ローマが廃墟になる日が来るとはね」

「えぇ」

 正確に言えば、二対二の客がいた。

 フィレンツェの使者、ミラノの使者、対ヴァチカンの使者。

「出て行くことすら出来ない者はやがて死ぬでしょう。何しろ食べるものがないんですから」

「我々とて民を苦しませたくてやっているわけではない。だが、今度のことは妥協すべきことではない。それはお分かりいただけますかな?」

「えぇ。そうでしょうね」



 この暑さが忍び寄る少し前、ナポリ奪取に成功したアラゴン王アルフォンソが世を去った。

 現在の教皇カリストゥス三世はもともとアルフォンソに仕えており、王に学び、功を上げ、今に至る。

 しかし立場の変化は人を変えるもので──愛や情といった質の部分は変わらないと譲ったとしても──守るべき利や守るべき者が変われば望まない対立が首をもたげるのは必然で、双方が世界を動かす権力者となれば修復など不可能な絶壁を生むのは世の常。

 もちろんこの二人も例外ではなく、カリストゥスにとってのかつての主は、やがて決定的な政敵となった。

 そして教皇は旧主の死を聞くや、ナポリは教皇領であると宣言し、甥のペドロ・ルイスに軍を与えて乗り込ませたのだ。

 それに激怒したのがフィレンツェ共和国とミラノ公国で、この二国は教皇の暴挙に対して国境を封鎖しローマへの物流を止めることで対抗した。

 それゆえに今ローマは極度の物資不足に陥り、荒廃を加速させている。



「我々の主張は猊下に届いているのか?」

 フィレンツェの使者からはわずかの期待が滲んだが、

「いいえ。あの人は自分に危害が及ばない限り、ナポリを諦めようとはしないと思います」

 対面に腰掛けたヴァチカンの使者はにべもなく首を振った。

 わずかにウェーブがかかった肩までの銀髪は半ば放し飼い、二十の手前、若くして枢機卿という地位を手にしているのに溌剌はつらつとした眩しさが全く無い男。

 怖いものナシの不遜さもなく、世捨て人然とした老成はなんとなく──燃え尽きた「灰」を連想させる。白く乾いた生の残骸。

「しかし今彼は、別の理由で貴方たちの声を聞くことができません」

 彼は一拍置いた。単純に息継ぎをするために。

「近く、教皇は死にます」

「!」

 あまりに直接的な表現に、対する男たちは一瞬息を呑んだ。

「病状が芳しくありません。医者の見立てではもうどうしようもないそうです。ヴァレンシアのロドリーゴ・ボルジアが献身的に看ていますが、死には抗えません」

 ヴァチカンの使者は淡々と続け、

「貴方たちが暴利を貪れるのもあと僅かの間ですよ」

 これまた何の前置きもなく言い放った。

「次の教皇が誰になろうが、ナポリ継承を主張し続けるなんて馬鹿な真似はしないでしょう。そうすればフィレンツェやミラノが国境封鎖をする理由はなくなります。闇取引で枢機卿たちに高値で物資を売りつけることもできなくなりますね」

 咎める口調ではなく、彼はただ最も可能性の高い未来を語っただけだったが、それでも二国の使者を見つめる黒の双眸は若干の険を含んでいる。

「それはしかしアラート卿」

「それは誤解です」

 その意図的な視線に射られて、何故か彼らは弁解しようとしていた。

「そちらの商人はさぞかし潤ったと思いますよ。枢機卿たちはどんな高値を付けても買ったでしょうから」

 ヴァチカンの使者の名は、フォリア・アラートという。その名の意味するところは、イタリア語で“翼ある狂気”。

 人間の名前に“狂気”だなんてバカげているし、彼の出自は伏せられており、これまでの経歴もあやふや。そのうえ年少とくれば、まともに取り合ってもらえないのが普通である。しかしそんな彼でもフィレンツェやミラノが交渉のテーブルに着くのは、彼が公の場ではいつでも教皇のすぐ傍に立っているからだ。

 枢機卿に任命された時期さえ知っている者がいるか疑わしいのだが、教皇が彼を重用していることだけは誰の目にも明らかだった。

「もちろん責めているわけではありません。当然の成り行きです」

 カリストゥスは甥のロドリーゴ・ボルジア、ルイス・ホアンを枢機卿に任命している。あからさまな親族登用主義ネポティズムだったが、その非難がフォリアが向けられることはなかった。

 彼はどこから見てもスペイン人ではなかったし、ボルジア家の人間でさえ彼の存在を知らず、庶子や私生児といった噂もなく、本当にある時突然ふっと表舞台に出来しゅったいしたからだ。

「商いは奉仕活動ではありません。それは心得ています。枢機卿ともあろう者が、市民を救うことより自己保身に走ることの方が厳罰に値します」

 虫食いだらけのテーブルの上に置いた手を組んだまま、フォリアは嘆息した。

 しゃべり疲れたのだ。

 目の前に置かれているのは水だけで、要人の集まりだというのに菓子もなければ果物もない。それが今のローマなのだと言ってしまえばそれまでだが、この店の店主ももう少し頑張れないものか。

「そこで、私と取引をお願いしたいのです」

 胸中でもう一度ため息をついてから、フォリアは穏やかに告げた。

「ローマにいる枢機卿たちとの取引をすべて停止してください。彼らに納品する分は、倍の値段で私が買い取ります」

『………っ』

 二国の使者がかろうじて無声音での反応に留めたのは、彼らの蓄積された経験の賜物に違いない。

「応じない商人とは、今後、ヴァチカンとの公式な取引は行いません」

「そ、それは、ヴァチカンの公式要請ということですか?」

 いつの間にか敬語になっていることには、気付いていないのかもしれない。

「他の枢機卿の同意は得ていませんけれど、そういうことで構いません」

「…………」

 教皇の行動に対する各国の制裁。己だけは飢えてなるかと裏で商人を抱き込む枢機卿。その枢機卿への裏取引を停止しろというのがヴァチカンの要請。

 つまり教皇の苦境に枢機卿団を道連れにするということか──? 喉元まで出掛かっている疑問を音にする勇気はどちらの使者にもないようで、二人とも口を半開きにして静止している。

「文句は言わせません。貴方たちに迷惑もかけません」

「その言葉を信じろというのは、いささか強引ではありませんか?」

「では教皇の要請ならどうでしょう」

 フォリアは黒衣から──彼は枢機卿でありながら黒の長い聖騎士衣で身を包んでいるのだ──書簡を取り出した。

「……教皇?」

 受け取ったミラノの使者が顔をしかめ、フォリアを睨んできた。体を寄せてのぞき込んだフィレンツェの使者も無言の圧力を向けてくる。

 その書簡の署名はエネア・シルヴィオ・ピッコローミニ枢機卿。教皇ではなく、シエナ司教のものだ。

 だがフォリアは言い切った。

「次の教皇です」

「……いや、次の教皇はコンクラーヴェを経て決まるのでは…」

「次の教皇は彼です」

 そして珍しく性急に相手の言葉を遮った。

「結局のところ貴方たちは誰が責任を取るのか分かればいいんです。しかし私では得体が知れなくて信用できない。それはそうでしょう」

 訥々(とつとつ)としゃべりながら、彼らに反応させる間を与えない。思考させる間を与えない。

「だからこの書簡です。金が正しく支払われなかった、枢機卿たちが報復に出た、そういう場合には私も責任を取りますが、ピッコローミニ枢機卿も責任を取ります。彼が私の後見だとお考えください」

 言外に、フォリアのこの権力が次の教皇になっても続くということを含んでいる。

「いかがでしょう」

「…………」

 未来を計る沈黙が訪れた。

 フォリアの視線はふたりの使者の間に落ちていて、ふたりの使者の視線はピッコローミニの書簡に落ちている。

 フォリア・アラート。

 “翼ある狂気”。

 これが本名であるなど誰も思っていないだろうが、彼は素面しらふでそれをかたることを許されている。誰も糾弾せず、質さない。いつか公にさらされる日が来ると思っている者もいるかもしれないが、おそらくフォリアが死ぬまで──否、死んでからも明かされることはないだろう。

 この聖人は各国の要人にとって虚構と現実の狭間に存在している人間で、永遠にそうであり続けるのだ。

「しかし……もうひとつ問題があるように思えるが。貴方の提示した倍値というのはどこから拠出するおつもりか?」

 おもむろにフィレンツェの使者が口を開いた。

 ミラノがそれに何の反応も示さなかったということは、ピッコローミニ卿の書簡は受領されたということだろう。

「失礼ながら、我々の聞き及ぶ限り、ヴァチカンにそんな余裕がおありとは思えない」

 聖都の金庫はカリストゥスが力を入れた十字軍で空だというのは周知の事実で、各国では教皇はすでに私財まで投入していると囁かれている。教皇庁はさわやかに濁しているが、否定できないことが肯定になっているのが現実だ。

「私の資産から出しますのでご安心を」

 素性の知れない輩に言われても無意味な台詞。

「私はヴァチカンの裏金庫の鍵を持っているんです」

 フォリアは真顔で手品師のように黒衣の中から鈍い金色の鍵を取り出し、人差し指ほどのそれをコトリとテーブルに置いた。

「金額が分かり次第、私に請求してくださって結構です」

「──はぁ」

 支払いも最終的にピッコローミニに保障されると分かっているものの、彼の言葉のどこまでが冗談なのか判断尽きかねる様子で二人の大人が困惑している。

 それを視界に入れながら、フォリアはあごをなぞった。

「買い上げた荷物は……どうしようか。大量に保管しておく場所はないし、そもそも食糧は保管しすぎて腐ったら意味が無いし」

 微妙に噛み合わない会談をどう軌道修正したものか渋面を作るミラノとフィレンツェの代表に向かって、彼は視線を合わせた。

 相手の苛立ちくらい感知しているが、気にならない。

「仕方ありません。荷物は広場や辻をいくつか指定しますから、そこへ置いてください。市民が勝手に欲しいものを持っていくでしょう」

『広場?』

 案の定抜けた声をそろえて復唱され、それから寸の間もなく怒声が上がる。

「それでは我々の制裁の意味がない!」

「だいたい、ヴァチカンのやり方に抗議している我々が何故、ヴァチカンの要求を呑んでやる必要があるんだ?」

「…………」

 どうしてその言葉がもっと早く出てこなかったのか、その方が不思議だ。本来なら、ナポリから手を引くという条件を引き出すまではこのテーブルに着くべきではなかったのに。

 フォリア・アラートいう権力に釣られて出てきた挙句、持ちかけられている商談の根本的な問題に今更気付くとは。

「貴方たちが抗議している対象はヴァチカンではなくカリストゥス三世です。ヴァチカンにはナポリが教皇領になるなんて本気で思っている人間はいませんよ」

 フォリアは椅子の背にもたれ膝で軽く手を組み、口先で切り返した。

 教皇を戦犯として突き出しても平然としている様は、彼の権力の源泉がカリストゥス三世ではないことを暗示している。

「貴方たちがやりたいことはローマ市民を飢え死にさせることではないはずです」

 掠れた声から疲労は消え、音楽的で厳かな響きだけが空間に残った。

「出所不明の荷がある日突然ローマの街中に現れる、それだけのことでしょう。荷は教皇を潤すわけではありませんし、誰もフィレンツェやミラノが教皇の主張を認めて国境封鎖を解除したとは思いません。万が一荷の出先が判明したとしても、政治取引よりも人命を尊重した国として称えられるのではありませんか?」

 雨の降らない空を見上げる人々の足下で、密談は粛々と終わりに近付いていた。何が核心なのか曖昧なまま、漫然と未来への道標が立てられる。

 黒衣の奥の狂気を撫で付けながら、フォリア・アラートは虚々と付言した。

「民を殺しすぎてはいけないし、枢機卿は必要以上に肥えさせてはいけない。誰かが調整しなければならないんですよ」




◆  ◇  ◆




「どこへお出かけだったのですか? 皆さんがお探しでしたよ」

 フォリアが教皇庁へ戻ると、ひとりの修道女がつつつと寄って来た。

「少し、市街へね」

「ローマへ? 今は街が荒れているから外出は危ないと散々ご注意を受けていらしたのに」

 シスター・ジーナ。

 元貴族の令嬢で今はフォリア・アラートの世話係の彼女は、彼より若いのに口うるさくて仕事ができる。明るい亜麻色の巻き毛は人懐こい性格そのままだったし、他人の領域に一歩で踏み込んでくる図々しさは、さばけた気質のせいかいっそ清々しい。

「枢機卿なんかどこから石が飛んできたっておかしくないんですからね。あぁ──またそんな隊衣で行かれて……まぁそれなら枢機卿だってバレませんけど。……というよりもそんな烏みたいな格好をしていて暑くありませんか? お庭にいる本物の烏はへばってましたよ」

「で、爺さんたちは何だって?」

 人気のない廊下を自室へと並んで歩く。

 ローマを蒸し焼きにしていた陽射しは、平等にヴァチカンにも注がれている。

 正直、暑い。

「貴方の婚礼の話ですって」

「あぁそれか」

 彼が面倒くさいと眉間を押さえると、

「新進気鋭の枢機卿様ですもの、色々な思惑が絡むのは仕方ありませんわよ」

 唇に手を当て小さく笑ってくる。

 彼女にもフォリア・アラートの正体は知らされていない。しかし彼が教会の問題児で異端児で、しかしつまみ出されることのない特異な地位の男であることは感じているはずだ。

 気に入らないことがあれば一日中寝台から出てこない、会議も儀式も平気ですっぽかす、たまに血生臭い空気をひきずって外から帰ってくる……そんな輩が教皇に物言える立場でいられるわけがないのだから。

 しかし、聖なる枢機卿が妻をめとる、その奇妙な計画に対して彼女は何も思わないのだろうか。

 理由を語ろうとはしないから聞きもしないが、恵まれた貴族階級を捨て神に一生を捧げると誓った修道女は。

「私は、貴方と結婚なさる方が気の毒です」

「何故」

「何故って、……本気で訊いているの?」

 目頭を押さえるふりをしていたジーナが目を丸くする。

 察して、

「分かった。説教はいい」

 新進気鋭の枢機卿は疑問符を撤回した。

「そんなに面倒臭いのなら、成り行きに任せてみればいかがですか?」

 年下のシスターにぽんぽんと背中を叩かれる。

「すべて神のお導きに従えば間違いありません。最大の幸せが訪れたとしても、試練が訪れたとしても、必ず意味があるのです」

「それは希望にも見えるし諦めにも見えるよな」

「またそうやって話をややこしくする。もっと単純な感想は持てないの? ──あら」

 シスター・ジーナがフォリアの黒衣の土汚れに目を留める。

「いったいどこをほっつき歩いてきたんですか? これ」

「その言葉の選び方には悪意を感じる」

 二人が立ち止まったその時、

「ようやく帰ったか」

 背後から苛立ち混じりの声音に呼びとめられた。

「あぁ、ピッコローミニ卿。ジーナから聞きました、お待たせしたようで申し訳ありません」

 振り返った先には、フォリアの三倍は人生経験を積んだ小太りの男が緋色の法衣に身を包んで立っていた。

 腫れぼったい目のせいで初対面の相手には警戒されやすいが、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ三世にも仕えたことのある彼は、非常に有能な人間だ。

 シエナ近郊で生まれ、数々の枢機卿の片腕を務め、各国への歴訪にも同行しており、世界の情勢を知悉ちしつしている。

「君のお妃の件でね、ヴァチカンとしての方針は決めたよ。後は君の承諾だけだ」

「ヴァチカンの方針が決まったなら、俺の意見なんてどうでもいいでしょ」

「そう不貞腐れるな。君にも状況を知っておいてもらう必要があるんだよ」


 連れて行かれたピッコローミニの執務室で、彼は一通の書簡を渡された。

「カルバハル枢機卿からの手紙だ」

「今彼は?」

 開きながらフォリアは長椅子に足を組んで腰掛ける。

「オーフェンあたりだな。次のコンクラーヴェは不在になりそうだと言っている」

「へぇ」

 ホアン・カルバハル枢機卿は、ハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュと共にベオグラードをオスマン帝国から護った功労者のひとりだ。各地を点々としている人物で、ローマの不在が多い。

「彼はヤーノシュの娘を君の妃にと考えていてね」

「つまり、現ハンガリー王マーチャーシュ一世の妹ですか」

 ヤーノシュはベオグラードの勝利からいくらも経たずに病没している。ハンガリー王ラースロー五世も昨年病により夭逝し、今年の始めにヤーノシュの次男フニャディ・マーチャーシュがハンガリー王に選出されていた。

「そうだ。ベオグラードの功績は今後の士気にも関わるからヴァチカンとしても形として称えたいが、金品や名誉を与えるだけでは能が無い」

「妃を人質にするわけですね」

 凱歌の褒美としてハンガリー王国とヴァチカンの絆を確かにする。常にオスマン帝国の影に脅える東の果ての民にとって、明らかなヴァチカンの後盾は心強いものに映るはずだ。

 一方でヴァチカンに囲った妹姫は、マーチャーシュに対する脅しにもなる。もしも教皇を裏切りオスマン帝国と手を組むようなことがあったら──という。

「フニャディ・パレストリーナ。数年前、一番上の兄ラースローを政敵の謀略で処刑されている哀れな少女だよ」

「好きにすればいいさ」

 フォリアはカルバハルからの手紙を畳み、テーブルに放り投げた。

 ピッコローミニ枢機卿がその態度を咎めることはなく、彼は大きく息をつく。

「そういう筋書きは描けたが、フォリアという人間の血統に相応しいかどうかだけが気になるのだ。王の妹という地位には文句は無い。しかし、」

 彼は、フォリア・アラートの正体を知る数少ない聖人のひとりだ。正確には、正体を知っていると思っているひとりだ。

「トランシルヴァニアやワラキアは異形の地、か」

 つぶやいて、膝に肘をのせて手を組むフォリア。

 要は、お姫様が聖都にとって不穏な地方の出身だというのが問題なのだ。

 磨かれた小さなテーブルを見つめながら、彼はゆっくりと言った。

「ベオグラードで奇跡的に勝ったのも墓場の兵士を使ったからだなんて噂もあったらしいが、俺は、であればそもそも苦戦しないだろうし、フランスも教皇領もミラノもフィレンツェも神聖ローマ帝国も、すべてハンガリー領になっているはずだと思う。文化の違いが誤解を生む、その一例に過ぎない気がするけどな」

「お前もそう言うか。カルバハル卿も、ただの一地方、一都市に過ぎないと書いている。愚かな怖れを抱くのは止めた方がいいと」

 未知は不安を呼び、不安は恐怖を呼ぶ。恐怖は薄暗い伝説を創り、薄暗い伝説はやがて境界を曖昧にして現実へ侵攻し始める。

 多くの人間が、放浪者からの片言を胸に思い描くだけの東の大地。

 知らない土の匂いと知らない風の匂い。聞き慣れない小鳥のさえずり。知らない言葉で交わされる農民たちの会話。風景の背景に連なるカルパティアの山々。長い長い旅を終え黒海に注ぐドナウ川。

 やがて大きな赤い夕暮れが、長く巨大な影を落とす。

「──その女は魔女ですよ」

 フォリアの耳に男の声が届いた。

 白い法衣をまとい、両眼を白い包帯で覆い、黒い枢機卿の横に静かに佇む細身の優男。ローマ地下での密会の間もずっと、彼と一緒にいた男。フィレンツェの使者もミラノの使者も気付いていなかった、二人目のヴァチカン使者。

 彼は繰り返した。

「魔女を聖都に入れてはいけません」

「…………」

 フォリアは横目で彼を見上げる。

 ピッコローミニ枢機卿には彼の宣託は聞こえていないし、その男の姿も見えていない。

「仮にその娘が魔女だったとしたら」

 言葉はこちらに背を向けたピッコローミニへ、視線は傍らの男へ、フォリアは口端を歪めた。

「この聖なる都では長く生きられないでしょう。問題ありません」

「……そうか」

 力を抜いて身を返してくるピッコローミニ枢機卿の顔には、安堵が浮かんでいる。

「君がそう言ってくれるなら」

「えぇ。それがフォリアの答えです。奥様は魔女でも聖女でもかまわない」

 フォリアは冗談めかして笑みを作り、次期教皇の執務室を辞去した。

 後ろ手に扉を閉めて、口元のほころびを結びなおす。

「──クロワ」

 彼は傍らに告げた。

「お前の判断でいいから、もしもその女が魔女だったら殺しておいてくれないか」

「御意」

 視線のない男は軽くうなずく。彼にとってそれは造作のないことだ。ただ、相手にその姿を見せればいいのだから。

「お前がいると暗殺が楽でいいよな」

 深紅の絨毯に漆黒の騎士服が翻る。

 高い天井、美しいフレスコ画、芸術に囲まれた道を軽快に歩む足音はひとり分。


 二人は決して主従の関係ではない。

 フォリアはヴァチカンというカゴに囚われた鳥、クロワ──セバスチャン・クロワは彼が聖都から飛翔しないよう監視する足枷。

 かのソテール・ヴェルトール、シャルロ・ド・ユニヴェール、デュランダルの筆頭両名でも追うことのできなかった化け物、死の天使サマエルである。





校正時BGM Within Temptation [Where Is The Edge] [Iron]


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