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冷笑主義  作者: 不二 香
第三章 After GENOCIDE
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第18話【愛の夢】前編



 街を覆う蔦の葉が秋の風に色づき、一年の実りが市場に溢れる頃。

 寒風に紛れた小さな魔物たちが月を横切り、閉ざされた窓を揺らしまわる夜。

「げ」

 フランス南部、小さな田舎街パーテルの最奥。

 その山裾に広がる黒い森の前に鎮座する古屋敷の食堂で、とても上品とは言えないうめき声が漏れた。

 パルティータは一瞬だけそちらを見たが、すぐに手元の茶器へと戻す。

「あの婆ァ……」

 暗黒都市からの手紙に目を通した主が、盛大に柳眉をしかめただけだ。

 テーブルに飾られた紅い生花に映える、白い麗貌。

 彼はそれまで羊皮紙の上を滑らせていた羽ペンを止めて書面を睨みつけていたが、ふいとその紙束を後ろに投げ捨てた。

「女王陛下は何と?」

 パルティータは暗黒都市の商人から手に入れた最高級シッキム紅茶を主の前に置き、訊く。

 ……訊いてほしそうだったからだ。

万聖節の前夜祭(ハロウィン)でエスコートしろと」

「はぁ」

 生返事を返すと、男は大袈裟な仕草で頭を抱えた。

「つまり。一年に一度の祭りだというのに、パーティーの始めから終わりまで陛下のお傍に従ってワインを注げだの料理を持って来いだの踊れだの手を取れだのこき使われなければいけないということだ」

「大変ですね」

 とりあえずねぎらっておく。

「あーゆー女は派手な場所で愛情やら忠誠やらを量りたがるからな。普通の女のワガママなんぞたかがしれているが、あの女は権力を最大限に利用してくるぞ。……どんなワガママを言い出すか……押し倒されるかもしれん」

 額に手をやり、げんなりため息をつく吸血鬼。

 世間一般の娘たちに対しては忠実なクセに、直属の上司だというだけでこれほどまでに忌避されているのを聞くと、逆に女王陛下が可哀想になってくる。

「可愛らしいではないですか。付き合ってさしあげればいいのに」

「お前はそれでいいのか」

「は?」

 それでいいも何も、上司の上司からの命令に一介の雇われメイドが口を差し挟む余地などあろうか。いや、ない。

 パルティータはティーカップに口をつけ、ゆっくり皿へと戻し、とりあえず事実を述べた。

「私はヴィスタロッサのところにお呼ばれしていますので大丈夫です」

「…………」

 主の──シャルロ・ド・ユニヴェールの薄い唇が不機嫌に曲がった。

 陰影の深い顔にのっぺりとした表情がのる。

 そして男はおもむろに立ち上がると食堂を出て行った。

 音なく、気配なく、紅茶は冷め、夜は更けて朝が来る。

「…………」

 それっきり、吸血鬼の姿は屋敷から消えた。

 次の日も、次の日も、その次の日も。

 前夜祭があと数日と迫り、暗黒都市の使者が番犬を迎えに来た夜も。



「というわけで、主は不在です。どこかに逃げたものと思われますが」

 暗黒都市に住んでいるのが骸骨だの食屍鬼グールだのばかりだと思ったら大間違いだ。

 闇と北風に混じり漆黒の馬車に乗ってやってきたのは、鮮やかな金髪の美青年だった。

 緩く波打つそれは長く、華やかな白皙はまだ瑞々しく、死の匂いに乏しい。

 おそらく、女王がはべらせているお人形さんの新人なのだろう。

「卿が不在であればメイドをさらってこいとの仰せです」

「あぁ、なるほど」

 パルティータはぽんと手を打つと、

「少々お待ちいただけますか? そのメイドを連れて参りますので」

 相手が何か言いかける前に扉を閉めた。

 そのまま数回階段を上下して荷物をまとめ、外套を羽織る。

「ルナール、出かけるわよ」

 呼べば、風を切り足下に現れる黒猫。

 裏口の木戸をそっと開け、黒い木々のざわめく庭へと降りる。

 ふいに響くフクロウの鳴き声に顔を上げれば、不穏な夜空に映し出される雲の流れと、はぐれコウモリの影。

 別珍のケープで襟を覆い手袋までしっかりはめたのに、それでも薄ら寒い。

「ユニヴェール様をとっ捕まえるの。護衛に付いてきて」

 声を潜めて猫に告げれば、にゃあと返される。

「ヴィスタロッサのところに行ってた方がいい? そんな保守的なことじゃダメよ」

 ──そんなこと言って、どうやって居場所見つけるんですか。

 不信を前面に押し出したルナールの目を振り払う。

「この私が、あの化け物がどこにいるか分からないわけないでしょ」

 パルティータは虚空に向かって手を、指を突き出した。

 示す方角は、古代ローマ帝国に築かれた聖なる殉教の地、リヨン。

「アッチよ」




◆  ◇  ◆




「本当は、こんなものに頼らない方がいいのですけど」

「それは重々承知しています。それでも、致し方ないのです」

「えぇ。そうでしょうとも。私はただ、保険に注意書きを述べただけです。お気になさらず」

 フランベルジェはやんわり微笑むと、眼前の紳士へと小瓶を押した。

 透明なガラス瓶の中には、ほのかに珊瑚の色をした液体。

 夜を照らす蝋燭の炎に染められて、ガラスは宝石のような輝きを放つ。

「これを小さな皿に注ぎ、火を入れてください。そうすると良い香りがしてきます。それを嗅げば、男と女、相手がより魅力的に見えてきますの。お嬢様のお相手もきっと、お嬢様から離れられなくなりますわ」

「どんな堅物な男でも?」

 豊かな金髪をたたえた恰幅のよい男は、疲労の色濃い目線を小瓶に落とした。

 地方貴族ではあるが、それ故にここリヨンでは知らぬ者のないダルレ卿。

 外からは何ひとつ不自由なく見えるだろうが、貴族とは見得と虚栄に全身全霊を傾ける生き物、そのためならば悪魔であろうが魔物であろうが手を借りたいという者は少なくない。

「お嬢様の好意を無碍むげにする殿方がいるということ自体、私には不思議ですわ」

「どうにも堅物で。聖職者というのは皆、あんなものでしょうかね」

「まぁ。聖職者」


 ──ひとり娘が心奪われた男が頑として結婚に応じない。どうにかしてほしい。


 フランベルジェが依頼を受けたのはつい先日のことだ。

 暗黒都市で薬について教鞭を取るほどである彼女は、生者の世界でも薬師として密かに名高い。ユニヴェールによって再び目覚めさせられたことはすでに周知であり、どこかで判別不可能な毒が使われての暗殺事件があれば彼女の作だと噂され、要職の人間が変死をすれば彼女が一枚かんでいると噂され──まぁ実際噂は大半事実だったりするわけだが──つまり毒薬の専門家として商売の種が持ち込まれるのだ。

 しかし稀にこんな可愛らしい依頼もある。

「聖職者に求婚とは、思い切ったことをなさいますね」

 炎の暖色を一切受け付けない青の髪を揺らして、フランベルジェは手を口元にやった。

「お相手が今の教皇のような方ならいざ知らず、敬虔な方であれば、神への冒涜だと激怒なさいますでしょうに」

 聖職者に婚姻は法度。

 現在の教皇アレッサンドロ六世の“甥”であるチェーザレ・ボルジアが本当は“息子”であることは誰もが知っているが、それでもしらじらしい建前は公言され続けている。

 ──されなければいけない。

 聖なる者は、無垢イノセンスであらねばならないのだ。

「失礼を承知で還俗げんぞくをお願いしました。心のひろい方でしたからお怒りを口には出されませんでしたが、やんわり、しかし取り付く島もないほどキッパリ断られましたよ」

 ダルレ卿が両手を挙げてくたびれた笑いを上げてきた。

「ま、誠実な御方だという証明にはなりましたが」

 相手はよほど高位の聖職者なのだろう。つながりを持てば、ダルレ家が“地方貴族”から脱却できるような。でなければ、いかに溺愛する娘の頼みとはいえ、こんな胃の痛くなるような事をするわけがない。

 これは、彼にとって一世一代の大勝負なのだ。

 教会の怒りを買ったあげく世間の笑い者になるか、娘の恋を成就させて花婿と地位を手に入れるか。

「明日また来ていただくことになっているんです。その時使わせていただきますよ」

「えぇ」

 軽くうなずいて、フランベルジェは席を立った。

 ヴァトナの氷河を織ったドレスが温められた空気を割り、冷気の道を作る。

「そうそう。私はまだこの街に滞在していますから、何かありましたらここへ」

 彼女がふと振り返り差し出した紙切れに、子爵殿は一瞬触れるのをためらい、それから取り繕った笑顔を浮かべて受け取ると、ぺこぺこと頭を下げてきた。

「いやはや、“人ならざる者”の美しさには慣れていないもので。申し訳ない、申し訳ない」

 どうやら魔物が怖い──というより、気をつけていたのについ胸元へ目をやってしまった──という類のためらいだったらしく、男はひたすら恐縮して頭をかいている。

 二度と同じ失態をすまいと視線を明後日の方へと向けながら、本気で謝っている様子が可笑しい。

「この媚薬でもお相手が落ちないようだったら、ぜひもう一度やらせてくださいな。私の名誉に関わりますから」

 この男がどんな理由で婚約を取り付けようとしているのかはともかく、少しくらい分不相応な夢を見させてやるのも悪くはない。

 栄枯盛衰、手に入れた地位もいずれは人手に渡る運命だろうが、春の夜より、真夏の夜より、秋の夜は幾分長いのだから。

 蒼の魔女はメイドからケープをかけてもらい、総レースの手袋を付け、扉の前でおだやかに微笑んだ。

「その場合はもちろんお代は取りませんわ」



 屋敷を出て行く氷女の姿を、二階の出窓から見下ろす娘。

 メイドが丁寧に編んだ金髪に手をやりながら、不安に曇った碧眼を伏せる。

「今度こそ、あの方は私を見てくださるかしら」

 つぶやけば、脇に置かれた鳥カゴの中で黒猫が身じろぎする。

「薬を使うなんてズルい? でもそうでもしなければ無理なのよ」

 冬が近付く夜空は日に日に透明度を増してゆく。瞬く星は輝きを増してゆく。

 自分の心とは反対に。

「目を引く美人じゃないのは分かっているし、機転も利かないし、話も面白くないし、何もかもがそこそこで……。そんなこと言って落ち込んでいるような女、あの方は私を好んでくれるどころか呆れ返るでしょうに」

 台詞が途切れれば、代わりにため息が出てくる。

 魔女が消えた道の向こうを黒々と流れるソーヌ川。

 神聖ローマ帝国のアルザス・ロレーヌにそびえるヴォージュ山脈を源に、このリヨンでアルプス生まれのローヌ川と出逢う。

 なんと遠く雄大な旅。人の時では計れぬ奇跡の邂逅。

 窓辺の令嬢は凍える頬を手で包み、波打つ水面をいつまでも眺め続けた。

 暖炉の様子を見に来たメイドに叱られるまで。



◆  ◇  ◆



「ここですよ」

 フランスの商業拠点、リヨン。そのソーヌ川沿いに目指す場所はあった。

 サン・ジャン大聖堂の僧侶から手渡された地図を片手にフリードが大きな屋敷を指差すと、

「あぁ、ここですか」

 隣を歩いていた神父カリスも立ち止まる。

 真っ白い外套を着た二人の男は非常に目立つのだが、まだ朝早いことが幸いしたのか周囲に人気はない。薄い霧かかる川の岸辺でどこぞのご老人が釣糸を垂れているだけだ。

 この寒いのによくやる。

「地図によれば、ここがダルレ卿のお屋敷です」

「このお屋敷にソレンヌ・ド・ダルレ嬢がいるわけですね」

「そういうわけですね」

 生真面目な者どうしが会話をするとこうなる。

「……僕はどうしましょう」

 今日、ダルレ卿に呼ばれたのはカリスであってフリードではない。

「一緒に行って怒られないでしょうか」

「怒られませんよ。私は無意識に辛らつなことを言いかねませんから、フォローしてください」

「フォローなんて……できるでしょうか」

 ヴァチカンが誇るクルースニク精鋭部隊デュランダルの古参、神父カリスに婚約話が舞い込んだのは半月程前。

 リヨンでカリスが説法を行った際に、地元名士の令嬢から一目惚れされたらしかった。

 熱烈な書状がヴァチカンに続々届き、丁重にお断りしても諦める様子はない。

 当人は「何故自分に」と首を傾げて不思議がっていたが、彼以外は今までこういうことがなかった事の方が不思議だと囁きあっていた。

 一切の感情を見せることのない白皙は“心を許した者だけにそれを見せる”という幻想を抱かせ、決して乱れぬ落ち着きは“誰に何があれば色を失うのだろう”という妄想を抱かせる。

 彼が心を動かす唯一の対象になりたいと願った娘たちが三百年に渡ってどれだけいたことか。

「では、足を踏んでくれるだけでいいですよ」

「えぇっ!?」

 さらりと言って門へと歩いて行く上輩の背に、フリードは思いっきりブンブンと首を振った。

 そんな末恐ろしいこと、できるわけがない。




吸血鬼始末人クルースニクは正式には聖職者ではありません」

 カリスとフリードのふたりが年季の入った骨っぽいメイド長に案内された部屋には、小太りの紳士と小柄な女性が待ち構えていた。

 立ち上がって握手を求めてきたのがダルレ卿。

 促されて会釈してきたのが令嬢、ソレンヌ・ド・ダルレ。綺麗に編みこまれた金髪を真珠が飾り、瞳と同じやや灰色がかった薄緑のドレスがよく似合っていた。

「特にデュランダルは非公式な集団ですから、明確な地位の規定はないのです」

「そうでしたか」

 カリスの淡々とした説明に、大きくうなずいてくるダルレ卿。

「そして」

 ほんの少しの語気の強まりにソレンヌ嬢の眉が寄る。

 居ずまいは芯の通った貴族のそれだが、表情には少女の面影。

「ご存じないかもしれませんが、私が生を受けたのは遥か昔、インノケンティウス三世が権威を振るっていた時代以前です。デュランダルは戦場で命を落とすまでは不老不死。普通の方とは相容れない人生なのです」

 どこからか甘やかな芳香が漂ってくる。

 フリードは失礼のない程度に部屋の中を見回した。琥珀色の地に蔦が描かれた壁紙にはくすみひとつなく、テーブルや飾り棚を筆頭に調度品は渋味の入った樫、落ち葉の舞う前庭を見渡せる大きな窓からは白く冷やされた朝陽が降り注ぎ──……その窓辺に飾られた濃淡様々な赤い薔薇が芳香の源だろうか。

「デュランダルを──」

 緊張しているのか、令嬢がやや上ずった声を上げた。

「では、もし、デュランダルをお辞めになったらどうなるのですか」

 父親がぎょっとした顔つきで娘を見やる。

 しかし彼女の顔は真剣そのものだった。

 そしてカリスもそのくらいの問いなど予想済みだっただろう。

「デュランダルを離れれば、この不自然な呪いも解かれるでしょうね。時と共に老い、時が来れば死神に連れて行かれる。そういうことになるでしょう」

 流れるように言い置くと、神父は目を上げて父娘を見据えた。

「けれど、デュランダルを手放した私に何が残ると思いますか? 元々貴族の地位があるわけでもない、枢機卿の地位があるわけでもない、教会の者は皆、私との関係を否定しますよ。デュランダルなんて、“本当は存在しない”組織なんですから」

「……貴方は、私が貴方の地位を欲して婚約をお願いしているとお思いなのですか?」

 一拍の沈黙を挟みソレンヌ嬢が声を絞った。

 睫毛の下の眼差しは素直に憂いを映し、真っ直ぐにカリスを射ている。

 彼の鉱石な視線にひるまないなんて、恋とは怖ろしい。

 そして妙齢の娘からそんな目を向けられてもなお、全く揺るぐことのないカリスがもっと怖ろしい。

「いえ、そうではありません。ただ、貴女にはもっと別の、もっと幸せになれる道があるとお教えしたかっただけです」

「私に、他の幸せなどありません」

 窓から見える木立の枝を、小鳥が渡り遊んでいる。

「仮に、聞き分けよく他の殿方と結婚したとしても、私はきっとずっと貴方を忘れられないでしょう。良き夫を欺き続け、過去の選択を後悔し続け、私の一生は終わるのです。地位に恵まれ、お金に恵まれても得られない幸せというものがあると、貴方もおっしゃっていたではありませんか」

 メイドがほうきを持って門の外へ出て行き、屋敷を囲み警護をしている衛兵が交代のためかぞろぞろ出て行く。

「神父カリス」

 急に重くなったダルレ卿の呼びかけに、フリードは顔を戻した。

「貴方は先程“不自然な呪い”とおっしゃった。人助けと思って、そろそろ平穏を手にされてはいかがですか。もう充分ご自分を犠牲にされたでしょう」

「…………」

 デュランダルはよくこの問いかけに出会う。

“私たちを護るために人としての生を捨ててくれた”──この精鋭集団の存在理由を知った者は大抵そう受け止める。

 その結果がこの問いなのだ。

 無論間違いではないけれど、大半がその理由だけれど、しかし結局道を選んだのは己だ。

「そうするのがいいのかもしれませんね」

 カリスが大きく息をつき遠い目で笑った。

 ダルレ卿が身体ごと大きくうなずき、ソレンヌ嬢の顔が明るくなる。

 しかし神父が続けた言葉は彼らが待っていたものではなかった。

「私ごときにそれほどのご好意、本当にありがたいことです。けれど、私には心に決めた人がおりますので」

 ──は?

 フリードは口を開けて隣人の涼やかな微笑を凝視した。




「ここよ。絶っっっ対ここよ」

「……ホントですか?」

 フランスの文化交易点である繁栄都市、リヨン。そのソーヌ川沿いを歩いてきた黒ケープの女と黒尽くめの剣士は、大きな構えの屋敷前で歩みを止めた。

 まじまじと眺めやれば、建物は彼ら自身が住むパーテル屋敷の倍、敷地に至っては数倍はある。

 あちこちに衛兵がいたし、門の前ではメイドが掃き掃除をしていて、つまりその程度には裕福な貴族の邸宅なのだろう。

「真のメイドは主の居場所くらい分かるのよ」

「居場所が分かる理由はその逆のような気がしますけど……」

 メイドだから主の居場所を感知するというより、主たるセーニの血がしもべたる者の血を嗅ぎ分けていると言った方が正しいのではないか。

「前夜祭までに連れ戻さなきゃ女王がどんな手に出るか分からないわ。あの人ユニヴェール様じゃなくて私を狙ってきそうだもの、自分の身は自分で護らなきゃ」

「ひっ捕らえて突き出すわけですね。この裏切り者ォ」

 ルナールが台詞棒読みで小突いてくる。

「どっちが!」

 あのこすい吸血鬼のこと、自分が行方不明になれば矛先がメイドに向くことくらい分かっているはずだ。

 にも関わらず逃亡するなんて!

「問題はどうやって首根っこを押さえるかね」

 駆けて行く学生やらロバに荷を積んだ商人やら、洗濯桶を担いだおばさんやら、走ってゆく豚ちゃんやらエサをついばむニワトリちゃんやら、通行人にじろじろ見られているような気がするが、気にしない。

「雇ってもらえばいいんじゃないですか」

 ルナールがそれ以外に何があるのかと言いたげな調子で肩をすくめてきた。

「メイドで」

 黒手袋の指がパルティータを指し、

「剣士なんだから」

 自分を指す。




「心に、決めた、人?」

 声帯を通して反芻したのはフリードだ。

 あとの二人は絶句。

「えぇ」

 うなずいてくるカリスの表情は変わらない。

 “今日の夕食は予定どおりマスのムニエルでいいですか?“の返事と同じだ。

「ご、ご婚約は?」

 ダルレ卿がぱたぱた顔を扇ぎながら問うと、カリスの長い髪が左右に揺れた。

「いいえ。これからもないでしょう。永遠に」

「…………」

 誰もが続ける言葉を失くした。思いつかなかった。

 その時、

「ご主人様」

 天からの助け、部屋の扉が開けられメイド長が入ってきた。正確に年輪が刻まれた顔に困り果てた渋面がのっている。

「お客様がいらしているところ申し訳ありません。わたくしどもではどうにもならず……」

「何があった」

 ダルレ卿が席を立ち扉の影で声を落とす。

「メイドとして雇ってくれという娘と、衛兵として雇ってくれという若者が来ているんです。間に合っていると言ってもなかなか引き下がらず」

「はぁ?」

「カリスマメイドだそうで」

「あ? 何だって?」

 やってきたメイドと全く同じ表情でダルレ卿が出て行った。

「…………」

「…………」

「…………」

 注がれる陽光が強くなってきたせいだろうか、薔薇の芳香の濃度が増した。

 少し深く息を吸うと、頭の後ろが一瞬痺れたように感じる。

「その方は、お美しいのですか?」

 静寂が苦しかったのか、ソレンヌ嬢が無理矢理な笑顔で口を開いてきた。

「美しいというより、私にとっては可愛らしいと言ったところです。彼女は私の弟子でした。薬学のね」

 カリスの答えに、フリードは胸中でそっと十字を切る。

 そんなバカ正直に話したって相手が傷つくだけなのは、少し考えれば分かることだ。それで女性から引っ叩かれた友人が何人もいる。

「出会われてどれくらいなのですか?」

「ざっと三百年」

「さん……ずっと想っていらっしゃるの?」

「えぇ。私の愛は変わりません」

 それでも令嬢はめげなかった。

 振り払われても振り払われてもその花に戻る蝶の如く。

「──あぁ。分かりました。神様のことですね」

「私は神に仕えるのではなくて、デュランダルの隊長に仕えることにしたのです。最近」

 カリスの唇に皮肉の笑みが過ぎり、一瞬で消える。

「三百年なんて、もうその方は亡くなっておいででしょう?」

「えぇ、もちろん」

 熱のないペリドットの双眸が長閑のどかな庭先へと向けられる。

「彼女は私が殺したも同然ですが」

「……なっ」

 穏やかでない神父の告白に、ソレンヌ嬢がガタッと腰を浮かせ硬直した。

 何事かの言葉を続けたかったのだろう碧眼は目を逸らし続けるカリスを彷徨い、彼の視線を追って枯庭へ下り、やがてゆるやかに弧を描くと薄影のわだかまる部屋の天井隅へと落ち着いた。

 そして両目は閉じられ、令嬢は静かに椅子へ座り直す。

「まぁ、三百年も生きておられれば、そういうこともありますわね」

「…………」

 こちらに向けられた笑顔はとびきりだった。

 思わずカリスの目が彼女に戻るほど。

「よくあることですわ」

 ないないない。

 ──と手を振りたいところだが、とてもそう言い切れない環境で育ったフリードにはその権限がない。

「山あり谷あり、人生とはそういうものです。そうして人はより深みを増すのでしょう」

 冬に近付き弱くなった陽光とはいえ、遮るものなく大窓からめいいっぱい取り込まれていれば部屋は温室になる。じわじわと身体に染み込む熱気にのぼせたのか、だんだん息苦しくなってきて、フリードは襟の留め具を外した。

 顔は火照り、思考回路がボーッと働かなくなってきているのが自分でも分かる。

「それにしても、幸せですねその方は」

 そんな頭に響くソレンヌ嬢の声。

 それは今まで聞いたことのない羨みだった。

 色のない、透明な、ただそれだけの羨み。

「誰もが忘れられてしまうことを怖れているのに、覚えていてもらうどころか、愛し続けてもらっているなんて」

 霞がかる視界の中で、彼女のアッシュグリーンの瞳だけが鮮やかに残る。

「そしてやっぱり貴方は素敵な方!」

 突っぱねられても突っぱねられても効いていない彼女にコケるところなのだろうが、強くなりすぎた薔薇の芳香に吐き気までしてきた。

「──フリード?」

 耳鳴りがして、カリスの心配声が遠くに聞こえる。

「……すみません、神父カリス」

 額を押さえてテーブルに肘を付く。

 二方向から椅子を引く音が聞こえたかと思ったら、肩を掴まれ額の手をはがされ代わりに冷たい手が当てられる。手袋を外しても熱のない、ひんやりとした気持ちよさに力が抜ける。カリスが動いただけで薔薇の香りに侵蝕された空気が一掃され、息ができるようになる。

「熱はないようですが」

「長旅でお疲れでしたかしら」

「────」

「────」

 ふんわりと柔らかな風を頬に感じ、頭上で声が交わされる。

 しかし一度仕事を放棄した脳はそれを言葉と変換するには至らない。

「フリード、歩けますか? この部屋を出ましょう」

 耳元で囁かれて、ようやく彼は全身の筋肉に新たな命令を下した。

 身体を起こし、カリスのペリドットに映る自分を見やる。

 そこにはいつもの平静な蒼眸があった。

 変わらない、蒼。

 横切った安堵の理由は言葉にしてはいけない気がして、気付かないことにする。

 彼は顔を上げ、よれた笑顔を上司に見せた。

「大丈夫。少し暑かったみたいです」




校正時BGM:Franz Liszt [愛の夢] [la Campanella]

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