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冷笑主義  作者: 不二 香
第三章 After GENOCIDE
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第17話【聖女】後編




 屋敷の外で、カラスどもが喚いていた。

 厚いカーテンに閉ざされ、陽の光が一筋さえ差し込まない黒の部屋。

「五月蝿い……」

 広く白い寝台の中で吸血鬼は呻いた。

 まだ起床時間ではない。重い身体はそう報告してくる。

 だが外の烏もまた別のことを報告してくる。

「……どうしてそう自分勝手な」

 思わず口をついて出るが、自分が言えた台詞でないことは充分承知している。

 ユニヴェールは仰向けになり、銀髪に手をつっこむ。そしてそのまま腕を額に乗せた。

「たんまり金を積まれたな」

 あの聖女は慈善事業などしない。




◆  ◇  ◆




「言っておくけどねぇ、無理矢理つれてきたわけじゃないわよ」

 前を歩く女吸血鬼が波打つ長い黒髪をかきあげ、気だるげな視線を投げて寄越した。

「アナタたちなら見て分かると思うけど、暗示かけてないもの。彼らがココに来たいっていうから連れてきただけ」

 通称アダマス。

 本名は長い間使っていなかったせいで忘れたらしい。

「アナタたちのご主人様はお気楽にやってるんでしょうけど、暗示って結構疲れるのよ? 勧誘した方がマシ」

 その女は確かに、わざわざ暗示をかけて魅了などしなくとも酒場で簡単に獲物をひっかけられる、そんな容貌ではあった。

 濡れ羽の黒髪、官能的な紅唇、メリハリの効いた鋭くなまめかしい肢体に、それをこれでもかと強調している黒のドレス。そしてユニヴェールと並んでも遜色なさそうな背の高さ。

 肉食獣なベリオールと並ぶと、そのふたりだけで世界征服できそうな勢いだった。

 当のベリオールはふたりを置くとさっさと行ってしまったが。なんだかんだ言って仕事は好きらしい。


「しかし何でまたこんなに大人数をさらってきたんです? 狩りに出られなくなるような事情でも?」

 パーテルのユニヴェール邸より遥かに大きなアダマスの屋敷。

 綺麗に整えられたシンメトリーの庭を歩きながら、ルナールが訊く。

 すると、鼻で笑った答えが返って来た。

「あら、ベリオールから聞いてないの? 勝負してんのよ、アイツと。店で一番高いお酒賭けてね。今夜までにローマからたくさん人間を連れてきた方が勝ち。ヴァチカンの膝元で誘拐だなんて、ドキドキするでしょ?」

 あの筋肉詐欺師。

 自分だけ良い人ぶろうって魂胆か。

「人間たくさん集めておいて困ることはないじゃない? 食料にもなるし、ヴァチカンが攻めてきたら人質にしてもいいし。──さァどうぞ」

 通されたのは、正面にあったデカイ本館ではなかった。

 その裏にある小さな別館だ。

 とはいえ、レネック邸ほどには大きい。

「確かめてよ。私が悪いんじゃないって」

 心底面倒臭そうに、アダマスが開け放した扉の脇に寄りかかる。

 そういえば世の中はまだ、吸血鬼がお眠りになっている時間だ。


 が。

 扉の中はそのアダマスよりもさらにぐだぐだしていた。



「……何コレ」

 パルティータのこめかみに青筋が浮かぶ。

「何でしょうね」

 ルナールが白眼視するのだから、相当だ。

 まぁ、とりあえず状況は。

 これから王様にでも会いに行くのかと思うほど自分を飾り立てた男が気持ち悪い笑みで鏡を凝視していて、裏庭が見える窓辺では女がひたすらボーーーッと外を眺めていた。

 部屋の中にしつらえてある三つのソファには、それぞれひとりずつがだらしなーく手足を伸ばして眠りこけていて、毛足の長い絨毯の上でもふたり寝ている。まるで猫だ。

 テーブルの上にはお菓子のバスケットが置いてあったようだが、今は食べ散らかしのクズと紙ナプキンがばらばらしているだけ。

 目を移して、続きの間になっている隣の部屋には細工の美しいチェンバロが置いてあり、若者がひとり、心の赴くままに鍵盤をはじいていた。

 本当に目的のない音の羅列。

 部屋全体を安穏とした暗黒都市らしからぬ空気が覆っていて、それが正気ゆえなのか狂気ゆえなのかを判別することは難しかった。

 ユニヴェールの傍にいるからといって、暗示の有無が見抜けるようになるわけではないのだ。

「もしもし」

 パルティータはとりあえず一番話の通じそうなチェンバロ青年に声をかけてみる。

「ご自分のお名前は分かりますか?」

「もちろんですよ!」

 半ば微睡まどろんでいるかに見えた青年だったが、意外にも返答は明朗だった。

「ここがどこかもお分かりで?」

「暗黒都市でしょう? アダマスさんが約束を守ってくださったなら」

 “さん”ときたもんだ。

「…………」

 ルナールへ目をやると、彼はおどけた顔で両手を挙げてきた。

 降参。

「じゃあ貴方は、アダマスさんに頼んでここに連れてきてもらったわけですか?」

「えぇ。みんなそうですよ」

 柔らかい微笑は彼の指から奏でられる弦の反響よりも透明。

「ローマなんて、あんなところで生きているだけ時間の無駄なんです。あそこにいたらやりたくもないことをやらされるばっかりでしょう? ここなら追究したい事にとことん打ち込めるんです」

「おかしいと思わねぇ?」

 寝ていたと思っていたソファの住人が、いつの間にか起き上がってこちらを見ていた。

「俺はそこの坊ちゃんと違ってしがない農民だけどな、どんだけ働いたって結局農民で結局貧乏なんだよな」

 顔を支えている彼の手は、マメだらけだ。

 白い鍵盤の上に置かれている青年の整った手とは正反対。

「生まれた時から金がねぇだろ? だから学もねぇし、そんなことする時間あったら畑耕せって話だよな。親から怒鳴られるままに畑耕してりゃそれしか能がなくなって、そのうち親はクワも持てねぇお荷物になるしよ、領主様は戦争だのなんだのって好きなだけ出来たモン取り上げてくしよ、天気悪きゃ来年撒く分もれねぇってんで返すアテもねぇ借金よ。それを死ぬまで延々と繰り返すんだぜ」

 若者が再びばふっとソファに沈む。

「なーんかばかばかしいだろ」

 パルティータの位置からは、そうため息をつく彼の表情は見えない。

 見えたところで、感慨が湧くわけでもない。

「私は、貴方たちの親族から連れ戻してくれと頼まれて来ました」

 “そうだろうと思った”という空気が流れる。

 だが“何故メイドが”という空気の流れではない。バカばっかりだ。

「貴方たちが何を望んでいて何がしたいかは私に関係ありません。すでに前金をいただいている以上、有無を言わさず連れて帰ります」

「勝手なこと言──ッぐ」

 口答えする奴には間髪入れずすりこぎを飛ばす。

 練習のかいあって、最近では百発百中だ。

「私は神父ではないので説教はしません。貴方がたのお父さんでもお母さんでも友人でもないので、怒りもしないし忠告もしません。しかし私の仕事を邪魔するなら、速攻で実力行使をします」

 ……言う前に実力行使したじゃないか……というか弱い声は黙殺。

 しかし、

「ねぇ、私のこと忘れないでよ」

 忘れていた。吸血鬼アダマス。

「私、持って帰っていいなんて言ってないわよ」

 パルティータは思わずそちらを見てしまい、視線が外せなくなった。アダマスの、瞳孔が開いた紅の眼。魔の領域に捕らえてこちらの思考を奪おうとしているのだろう。

 いわゆる、暗示。

 しかし囚われているのは視線だけで、他はなんともない。

 世の中気合だ。

「ヴァチカンの聖女様が、他人のものを盗っていいわけ? 神様に怒られるんじゃないの」

「神様は“やってこい”とおっしゃるはずです」

「アナタの神様、倫理観大丈夫?」

「倫理観という点では一般から少しズレてはいますが、給料は滞ったことがないので今のところ問題はありません」

 アダマスが、双眸の意志を緩めないまま一歩一歩こちらに近付いてくる。

 ルナールが、剣の柄に手をかけて一歩一歩回り込んでいる。

「ねぇ、持って行きたいならそれなりの代償を置いていくべきじゃない?」

 道徳や道理や良心や法の外にいる魔物に、礼儀をあーだこーだと言われる筋合いはないが、

「というと?」

 訊くだけ訊いてみる。

「私、アナタのご主人大ッ嫌いなの。だから嫌がらせがしたいんだけど」

「というと?」

「メイドがいなくなったら結構困ると思わない?」

「…………」

 主の普段の行いが悪いと仕えている方は大変だ。

「三使徒がいるのでそれほど困らないと思います」

「そぉ? それでもいいわよ。暗黒都市の議会はね、セーニは消しておくべきだって言ってるの。でもユニヴェールがいつまでもごねてるのよねぇ。貴女を始末したら、私、みんなから褒められるわよ、きっと」

 だが、横から呑気とも思えるほど平静な声が挟まれる。

「貴女の爪が彼女にかかる前に貴女の首が落ちますよ」

 いつの間にか、アダマス、パルティータと正三角形を描く位置に立っていたルナールだ。

 未だ剣身は鞘の中だが、こういう時の彼の言葉に虚勢はない。

「試してみますか」

「アンタ、私が何年生きていると思ってるの? アンタのご主人様より年上よ」

「でも貴女、卿より強いわけじゃないですよね?」

「…………」

「…………」

「…………」

 三人共に沈黙し、聞こえるのは若者たちの押し殺した呼吸のみ。

 アダマスの邪眼はキリキリとパルティータを捕らえ、パルティータは空虚な白亜の視線を返し、ルナールは床に目を落として感覚を研いでいる。

 身体中の関節が固まる緊張と集中。

 口の中から水分が飛び、喉奥がぱりぱりと渇く。

 刹那、緊張で震えた若者の指がわずかチェンバロの鍵盤を押した。


『!』


 くぐもった小さな小さな音が部屋に波紋を広げた瞬間、アダマスの腕が伸び、パルティータが第二のすりこぎを構え、ルナールが跳躍と同時に抜剣する。

 そして次瞬──

『ッ!?』

 ズンッと空気が圧し潰されて、三人の身体は問答無用で床にひれ伏していた。

 アダマスも、ルナールも、パルティータも、絨毯との口付け寸前の体勢で凍りつく。

 しかしその重圧はすぐに消え、アダマス邸は何事もなかったような顔に戻った。

「…………」

 ゆっくりと片膝を立てたルナールが、剣を手にしたまま上を見上げる。

 彼でさえ、何が起こったのか理解できていない目つきだ。

 座り込んだパルティータもまた頭上を仰いだ。

 巨大な鉄塊を肩に落とされたような一瞬の凄まじい圧力は、錯覚ではない。

 その証拠に、部屋の中の他の住人たちも蒼ざめた顔で天井へと目を上げている。

 そんな中、

「……ユニヴェール」

 ぎりっと歯軋りするアダマスの唇から漏れる忌々しげな呪詛。


 ──来ている? まさか。


 しかし女吸血鬼にそれを確認する間もなく、

「いいわよ。持って行きなさいよ。持って行けばいいでしょ。全員引き取ってよ」

 アダマスがのろのろと起き上がった。

「私だってね、アイツ(ユニヴェール)の目の前でアイツのものに手を出すほどバカじゃないのよ。ったくタチの悪い吸血鬼。あーもー早く誰かアイツ滅ぼしてくれないかしら。アイツがいる限り自由なんてあって無きが如しじゃない。というか私ベリオールに負けちゃうじゃない。知ってる? あの黒騎士、もんのすごく性格悪いのよ」

『知っています』

 パルティータとルナールは唱和した。

 ようやく我に返った若者たちが帰りたくない、いや、帰るわけにはいかないのだ、とかなんとか口々に騒ぎ始めるが、無視。

 所詮は背景だ。

 その時、

<アダマス様、ロートシルト卿がお見えです~>

 どこからともなく真珠色の少女の声が降ってきた。

「ロートシルト卿?」

「あ。私が大型馬車をお願いしました。彼らをパーテルへ護送するために」

 パルティータが手を挙げると、アダマスがフッと口角を上げた。

「……伯爵、パシリ?」




 ◆  ◇  ◆




 西の空が黄昏に染まる頃、ユニヴェール邸の玄関に続く廊下は未だかつてないほどごったがえしていた。

「まぁぁぁ、良かったわぁ、良かったわぁ、もうダメかと思っていたのよォォ」

「今度はもっと警備を増やしておくからな、二度とこんな事件が起こらぬようヴァチカンにも断固として抗議する」

「変な薬は飲まされていない? 変な物は食べさせられていない?」

「ざっけんなよ、勝手に育児放棄してんじゃねェよ。子供棄てる前にあの溜め込んだゴミ棄てとけや!」

「怖かったわよねぇ、可哀想にねぇ、お前は可愛いからこんなメにあうんだねぇ」

 不機嫌さ丸出しでブスッと突っ立っている息子やら娘やら母親やらを、依頼人たちが取り囲み頬ずりしながら撫で回している。

 砂糖菓子より甘い檻が見える。

「…………」

 とりあえずパルティータは事実だけ告げておくことにした。

「あのですね、そのバカ息子バカ娘バカ親、全員自分から吸血鬼に付いて行ったそうですから。仕事なんで強制的に連れ帰ってきましたけど、こっちより暗黒都市の方が良かったそうですから」

 依頼人たちの騒ぎが途切れた。

 そして、

「分かってる、分かってるの。母さんたちだってお前の気持ちは分かってるんだよ。だけどね、母さんもお前も鍬を持たなきゃ生きていかれないの。そういう世の中なんだよ」

「お前が認められなかったのはお前のせいじゃないぞ。第一、欲に目がくらんだ連中に認められて何が嬉しい。待ってろ、今度はもっと資金を用意してやるから」

「親方のところに訴えに行きましょう。紹介先があまりにも話と違うって。朝から晩まであんなに働いたら、誰だって疲れて失敗もするわ」

「っつーかゴミだけ片付けてけよ。その後はどこへでも行けよ」

「仕方がないでしょう? 貴女がもっときちんとした家と結婚してくれないと、貴女のお兄様や弟が困るでしょう? お父様だってお友達に何て言われるか……。貴族の娘になんて生まれてしまったからつらい思いをしてしまうのね、ごめんなさいね」

 涙のご対面が別角度から再開する。

「…………」

 パルティータがこめかみに青筋をひとつ乗せていると、

「そうだ。そういうことにしておけ。それが、楽でかつ己を傷付けない最良の方法だ」

 眠たげなテノールが階上から聞こえてきた。

「世界の歯車がいけないのだと、作った輩と動かしている輩がいけないのだと、声高に叫んでおけ。現在をひっくり返したがっているお偉方がこぞって同情してくれるぞ」

 銀髪にところどころ寝グセがついたままの、屋敷の主。

「まぁ、どれだけ世界が改心して変わったところで、自分でかいを握る度胸もない奴は、一生を何度繰り返しても行きたい方向へは行けないだろうがね」

 黒のガウンを羽織ったまま、客人達には目もくれず食堂へと消えていく。

「何だかんだそれらしいことを叫びながら、他人が作った流れの上をふらふら彷徨うだけよ」

『…………』

 思わぬ化け物との遭遇に、そろってぽかんと口を開けている人々。

 主が起きて来たのなら、この客人たちに構っているヒマはもうない。

 それに、彼らのこれからの人生にも興味はない。

「ではみなさん、依頼は完了ということで」

 得意の愛想笑いで扉を開け放つ。

「本当にありがとうね、貴女に頼んで良かったわ」

「聖女様だっていうのは本当だったんですね。息子を救ってくださってありがとうございました」

「胡散臭ぇーって思ってた。ごめん」

「みんなに貴女のことを教えてあげるわ。ねぇ、ぜひローマにいらしてくださいな。困っている人がたくさんいるのよ、彼らを救うのが貴女の使命よ!」

「聖女様、神のご加護を」

「暗黒都市に乗り込んでいける方がいらっしゃるなんて! 感激しました!」

「聖女様、ぜひウチの父親を診てやってください。長年患って寝台から出ることも叶わないのです」

「弱き人々を助けてください。神は貴女にそれを望まれるでしょう」

 手を握り、肩を抱き、ひと言ひと言置いていく人々にひとつひとつ笑いかける。

 顔も眼差しもほころばせ、瞳の奥だけ無に固定した、ヴァチカンの微笑。

「残りの礼金です。失礼なことですが、ひとり残らず連れ戻していただけるとは思っていませんでした。少しでも疑ったこと、申し訳なく思います」

 老紳士が、麻袋をパルティータの前に置いた。

「貴女のような方が今の世におられるとは、皆の救いになります」

「本当の聖女はお金など取りませんよ」

「力があるだけで充分です」

「世間も心がひろくなったものですね」

 パルティータはさっさと男を馬車へと促して、一行を見送った。

 貴族は自慢が大好きだ。

 今日の事もきっと、あらゆる場所でしゃべるのだろう。口止めするだけ無駄だ。彼らにとって約束など破るためにある。

 内密に、と言えば言うほど話は広まる。


 ──ヴァチカンが狙っているとおりに。




 食堂へ戻ると、ユニヴェールが自分で紅茶を淹れて飲んでいた。

 死に際の太陽が窓から最後の光を投げかけ、ホールに長い影を作っている。

「…………」

 パルティータは黙って吸血鬼の真正面に座った。

「ヴァチカンのやることは見え透いています。教会全部が私を指名するなんて、彼らの指示以外にあり得ません」

「安心しろ。お前が望むなら、白い牢獄をひねり潰すくらい簡単だ」

 吸血鬼の彫りの深い顔貌に陰影が落ち、芸術が際立つ。

「貴方なら王手をかけられたって問題ないでしょうから、向こうの思惑に乗って駒をひとつ進めさせてやりました。ひとつ進めば他も進めてくる。そうすれば自ずとヴァチカンのやりたいことも明らかになるでしょう」

「やりたいようにやらせておけ」

 ユニヴェールの目はまだ半分寝ていた。

 人を惑わすことのできる紅は、咲きかけの薔薇のように柔らかい。

「やっている途中でつまらない評価をつけると、子供は素直に育たないものだからな」

 ワケの分からないことを言ってうんうんと自分でうなずく吸血鬼。

 しかし続いた言葉は、ゆるやかに微熱を帯びていた。

「器に入れられた精神ならば、壊すことも狂わせることもできよう。だが我々の精神というものはそんなにも底の浅いものだろうかね」

 男の薄い唇の上を白い指がなぞる。

「精神とは、折れるものか? 砕けるものか? 否、呑み込むものだ。海の如く、地の如く」

 吸血鬼は言っている。

 聖女の幻想など問題ではない、と。

「お前は助けの呼び方だけ知っていればいいのだよ」

 紅茶に落ちる、独り言に近いユニヴェールのつぶやき。

「失礼な。それくらい知っています」

 パルティータは胸をはって息を大きく吸い込んだ。

「助けてー! 襲われるーー!」

 刹那、電光石火食堂に飛び込んでくる黒い影。

「…………」

「…………」

「…………」

 メイドと吸血鬼の間、テーブルの上に滑り込み剣を抜いた形で静止したのは、ルナール。

「……ルナール」

 金色に輝く剣の切っ先はユニヴェールの眉間へ。

「僕の飼い主はパルティータですから」

 悪びれもせず言い切る剣士に、吸血鬼が邪悪な笑みを浮かべた。

 紅の双眸が、一気に華開く。

 傲慢で、高飛車で、自信過剰な薔薇の華。

「この恩知らず!」

「殺されるー!」

 大の男が二人、ドタバタ廊下を駆けて行く。

「毛皮にして売り飛ばしてやる!」

「パルティータに口きいてもらえなくなっても知りませんよ!」

「お前あいつは聖女様だぞ、そんなに心が狭い人間じゃありませーん」

「そう信じてるんだったらもっと堂々と狩りに行ってくればいいじゃないですか! 会議だなんて嘘付かなくても!」

「ルナーーールッ!!」

 やかましい応酬を聞きながら、パルティータはふと気になってユニヴェールの飲んでいたティーカップを引き寄せた。

「…………」

 色が異様に濃い。

 口をつけると、

「渋ッ」

 あの大人は紅茶のひとつもロクに淹れられないらしい。

「アダマス邸ではお世話になりました」

 彼女は食堂の扉を開けて、まだ階上でギャーギャーやっているふたりを呼んだ。

「ユニヴェール様、紅茶淹れ直しますからいらしてください。ルナールはもうすぐ猫だから冷ましたミルクね」




◆  ◇  ◆




「結局ふたりとも収穫ゼロかよ」

「でも私、ユニヴェールのトコのメイドから高いワインたくさんもらったんだ♪ 迷惑料ですって。あの娘、話分かるわ」

「ずるいぞそれは」

 上機嫌のアダマスを横目、馴染みの酒場の片隅でベリオールは頭を抱えた。

「お前から人間全部取り上げて、セーニ嬢がみんなを連れて帰ろうとするところをお嬢さんごとまとめてかっさらおうと思ったんだがな。ユニヴェールが来るなんて聞いてねェもんな。こんなくだらねぇことでアレといさかい起こしたくね…ぇし……」

 異変に気付いて黒騎士の語尾がしぼむ。

 だらだらと水が流れていたのだ。

 頭の上から、下へと。

「あの、アダマスさん?」

「なあに?」

 視線の先、誰もが羨む妖艶な美女が、怒りマークを浮かべながらベリオールの頭上で酒瓶をひっくり返していた。



THE END




校正時BGM:梶浦由記 [ship of fools]


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