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冷笑主義  作者: 不二 香
第三章 After GENOCIDE
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第17話【聖女】前編




「あの吸血鬼には、もう一度幻想にけてもらいましょうか」

 豪奢な金髪に彩られた顔に夜の影を落として、女は紅を笑みの形に吊り上げた。

 かつて琥珀の目をした男がしていたように、窓に映る大きな月を背負い、輝く翡翠の眼差しは、遠くフランス・パーテルの地を望む。

「もう一度?」

 彼女の正面に立っている若い僧侶が、確かめるように問うてくる。

 女は手にしていた羽扇をぱちんと閉じた。

「彼はすでに一度、人々が創り出したユニヴェールの幻想に敗れています。彼は人々の恐怖が生み出したユニヴェールの虚像から逃れられなかった。代々の当主たちと同じように──そう、彼自身がさげすあざけった者たちと同じように、皆が期待するまま、あの家の呪われた虚像を実像とすることしかできなかった」

「では、次の敗北は?」

「人々が生み出す聖女の幻想に敗けてもらうのです」

 明瞭な彼女の宣言に、

「……マスカーニ枢機卿、それは」

 僧侶が重く息を吐く。しかしシエナ・マスカーニはすぐさま彼を遮った。

「ファルネーゼ、分かっています。彼女は決して自分からここ(ヴァチカン)には帰ってこないでしょう」

 それくらいは分かっている。なにせ、あの強権教皇の血を引いているのだ。

 他人の言葉に屈するなどということがあるわけない。

「しかし彼女が帰ってこないならば、彼女のまわりを格子で囲い、おりを作ってしまえばいいのです。何者にも汚されない、美しい、白い檻を」

 部屋の中は花の匂いで満ちていた。

 シエナが窓という窓に飾らせた、溢れんばかりの花々。花弁を閉じて眠っていてなお、胸にくる甘い香りは濃度を増す一方だ。

「正面切って力で抗えずとも、あの化け物を滅ぼす方法はあります。あの男が我々の信心を幻想と弾劾するならば、我々は彼の言う幻想をもって彼の無力を証明するまで」

 女の顔から笑みが退いた。

「どれだけ声高に冷笑しようが、我々の父を慕う心は決して揺るがない。どれだけの力を持ってしても、我々の父を殺すことはできない。そう知らしめるのです」

 それは教皇のためか、教会のためか、己のためか、世界のためか。

 三百年の歴史を覆すのは容易ではない。

 分かりすぎているからこそ、自然、声も低く一語一語が強くなる。

「かつてユニヴェールを殺したのは絶望。ならばユニヴェールを滅ぼすのも絶望。人々は、世界は、彼が何を言おうと神を信じ続けるという、絶望。人々は、彼が手元に置いている聖女によって更に強く神を感じ神を愛するのです。彼は自身の駒によって、己が決して神に敵わないという事実を突きつけられるでしょう」

「信ずる者は救われる」

 僧侶がぽつりとつぶやいた。

「そのとおりですわ」

 刺すような真顔を和らげ、いつもの頭の弱そうな笑みを浮かべてみせるシエナ。

「んじゃあ、俺の出番はないわけか」

 月光の届かない部屋の隅。

 長椅子に痩躯を投げ出している若者が大袈裟に嘆息した。

「ドクター・ファウスト。そんなことはありませんわよ」

 なだめるようなシエナの口調に、白衣をまとったその男が肩をすくめる。

「貴方のその、お父上譲りの才能とお父上を凌駕する探究心は、我々にとってなくてはならないものです」

 シエナが席を立った。

 炎などなくとも、白々と明るく世界を照らす月の光。

 鮮やかな緋色の聖衣が浮かび上がる。

 だが長椅子の男は──ヨハン・ファウストは、臆しもせずに声をとがらせた。

「パッセが手に入れば簡単だったんだけどな」

「あれは……申し訳ないと思っているわ。でもセーニのところに逃げ込まれたのではねぇ。出来る限りの手は打ってみたけれど。ちゃんとした研究材料も渡さずに結果だけ出せなんて、ひどいパトロンよね。でも──できないわけではないのでしょう? 必要最低限は手に入ったと聞いているけど?」

 希代の錬金術師を見下ろす碧眼が鈍い光を放つ。

「まぁなー」

 男が足を組み替えめくれた白衣の裾に小さく刻まれた紋章は、鷲。

「信仰という名の幻想、科学という名の現実。そしてデュランダルという名の感傷」

 シエナは口元を扇で隠して小さく連ねる。

 視線は真紅の薔薇がひしめく窓辺へ。

「あとひとつ。何かあとひとつ。そうすればあの化け物の精神を粉々に砕ける気がするのよ……」

 彼女の首から下げた銀の十字架が冷たく光った。




◆  ◇  ◆




 春うららかなその日、ユニヴェール邸には大量のお客がやってきていた。

 まだ太陽が高い昼過ぎ、もちろん屋敷の主たる吸血鬼は二階の寝室で就寝中である。

 しかし彼らの目当ては吸血鬼ではなく、メイドのパルティータ・インフィーネだった。


「つまり。私に化け物についていったバカ息子だのバカ娘だのバカ親だのを連れ戻してほしいと、そういうことですか?」

 食堂のテーブルを囲んでいるのは老若男女、貴貧様々、まるで共通点のない総勢二十名ほど。パルティータは暖炉前の席に座って彼らを眺め回す。

「いや、誰もバカはつけていませんけどね」

 手前に座っている身なりのいい初老の男が咳払いをした。

 神経質そうな空気、深く刻まれた眉間のシワ、対照的にシワひとつない衣装、きっと多少名のある貴族なのだろう。

 名乗られても知らなかったが。

「ローマ中の教会へ行きましたが、ひとつ残らず貴女でなければどうしようもないと言われたものですから」

「パーテルのパルティータ・インフィーネにおすがりしろと……」

 土埃にまみれた継ぎはぎだらけの服で、老婦人が真摯な目を向けてくる。

 肌の強張りを見れば、長年風雨にさらされた農民なのだろうと察しが付く。

「ここが誰の屋敷かご存知ですか?」

「無論です。ユニヴェール卿のご住まいであることは誰もが知っています。しかし我々は、それでも来なければならなかったのです!」

 無駄に力が入っているオジサマのご回答。

 だんと拳がテーブルに叩きつけられて、紅茶がカップから躍り出る。

「一人息子を化け物にさらわれて、黙っているわけにはいきますまい! 名誉にかけて何としても取り戻さねば、ローマの貴族として猊下げいかに顔向けできぬ!」

「農民なんか嫌だと散々罵って出て行ったとはいえ、私たちの息子であることには変わりないのです……」

「母ちゃんは俺たちを育てるのが面倒になったんだよ。一発喰らわせてやる」

「いきなりみすぼらしい彫刻家なんて連れてきて結婚したいって、そんな我侭を言う子ではありませんでしたが……それで言い合いになったままもう会えないなんて、後悔してもし切れません!」

「失敗をして親方に閑を出されたらしいのだけど、そんな状態で死ななければならないなんて、あまりにも可哀想じゃありませんか……」



 少し前からローマでは、吸血鬼と思われる魔物によって人がさらわれるという事件が頻発しているのだという。

 月の綺麗な夜に黒をまとったその女は現れ、人間たちを暗黒都市へと誘う。

 衛兵や親、そして子供たちが魔に縛られ動けずただ見送るしかない中、女の魔力にかかった彼らは安らかな笑みで前だけ見つめて行ってしまうのだ。

 まるで、ハーメルンの笛吹き男に付いて行った子供たちの如く。

 女の歌声に合わせて闇へと消えていってしまう。

 ──そんな話は珍しくもないが。



 今パルティータの眼前にいるのは被害者の親族たちだ。

 理由はどうあれ、さらわれた者たちを連れ戻して欲しくて皆でここまでやってきた。

 教会の神父が示す道のとおり。


「確かに、人に暗示をかけて動けなくするのは吸血鬼の特技のひとつではありますが、」

 かつて聖騎士ヴィスタロッサの一団を操ったように、パーテルの住人を盾にしたように、ユニヴェールも時々その力を使う。

「私はユニヴェールが少しばかり苦手な血を引いているだけであって、吸血鬼全般に対して特殊な性能が備わっているわけではありません」

 彼らのお土産であるベリーパイに手を伸ばしながら、パルティータは続けた。

「剣なんて重くて握れませんし、魔術なんて本を開くだけで意味不明すぎて吐き気がします。吸血鬼の王の花嫁でもありませんし、吸血鬼と過去に因縁があるわけでもありません。奥底で眠っている聖なる力も持っていないので、それが突然目覚める予定もありません」

 ルナールのれた紅茶に口をつけ──薄い。

「そのお話は私ではなく吸血鬼始末人クルースニクに託した方がいいのではないですか。幸い、今はお強い方が起きていらっしゃるようですし」

 藁にもすがるような目をしている人間を突き放すくらいおやつ前だ。

 出来ないものは出来ないのだから、愛する神様にでもお願いすればいい。

 パルティータ・インフィーネがどういうものだと勘違いしているのかは知らないが、純粋に対魔物で考えればヴィスタロッサ以下の素人だ。

「私たちがヴァチカンに相談しなかったとお思いですか!?」

 老紳士が背筋を伸ばしたまま、くわっと目を見開いてくる。

 怖い。

「ヴァチカンにもさじを投げられたのですよ。だから吸血鬼の屋敷になんぞ来たんです!」

 再び拳が振り下ろされ、皆のティーカップから紅茶がはみ出す。

「もちろん、無償で人助けをしてくれとは申しません。ヴァチカンからも、貴女は良心を捨てて出て行ったのだと聞かされました」

「…………」

 今度ヴァチカンに行ったら高そうな皿を割りまくってやる。

「ですので──」

 パルティータの怒りを余所に、老紳士が足元から麻袋を取り出した。

 彼の横に座っていた商人らしき男も手を添えて、二人がかりでやっとテーブルの上に乗せる。

 重量感のある金属音が木目に響いた。

「これでいかがでしょう」

「…………」




◆  ◇  ◆




 パーテルの街を抜け、吸血鬼シャルロ・ド・ユニヴェールの屋敷を過ぎると、暗黒都市ヴィス・スプランドゥールを内包しているという“黒い森”が広がっている。

 黒い森という俗称は、針葉樹の多い見た目から呼ばれているだけではなく、どれだけ晴れた昼間であっても森の中は鬱蒼と暗いことに由来する。

 入り口から中をのぞき見ても視界はすぐに闇に吸い込まれ、奥をうかがい知ることはできない。

 勇気を出して歩を進め頭上を見上げると、林冠にちらちらと空と陽光の切れ端は望めるが、その光が地表を照らすことはない。

 茂みをかきわけるだけの獣道、梢に響く奇怪な鳥の喚き声、霧のような暗闇の向こうでちらつく鬼火、そこかしこを横切る姿のない気配、いつの間にか失われている方角、あちこちに生えている派手なきのこ。

 冬でも葉の落ちることのないこの一帯。枯木野になって森の全容が明らかになることはなく、迷い込んだが最後出られない。

 大地に埋もれる骨となり、暗黒都市に迎えられ、万聖節の前夜(ハロウィン)、皆で足をそろえて街に繰り出すその時までは。



「ユニヴェール卿に頼めばいいのに」

「お金もらったのは私だもの」

「つまり仲介料だけになるのは嫌だと?」

「あの吸血鬼にお金を持たせると、全部“浪漫”に消えるのよ」

「いいじゃないですか。あの人が道楽にかまけてるうちは世界も平和ですよ」

 パルティータの横を歩く黒尽くめの剣士が、頭の後ろで手を組んだ。

「それより貴女がこの森……とゆーか暗黒都市をうろうろする方が世間に波を立てると思うんですが。貴女、自分で思っているより嫌われていますよ」

「あ。それすんごい傷付いたわ。硝子の心が粉々、どうしてくれるの」

「集めて火にかければ元通りくっつくから大丈夫ですよ」

 “一寸先は闇”を地で行く黒い森。

 パルティータとルナールはいつもどおりの軽装でずかずか踏み込んでいた。

 灰色のメイド服にひらひらエプロン、とりあえず装備はすりこぎ。ルナールも腰に長剣を一振り帯びているだけ。

「そんなことよりパルティータ、卿に無断で暗黒都市なんて怒られますよ。この間も勝手にロートシルト卿とパリに行って怒られたじゃないですか。貴女は人間、相手は魔物。自分でも言っていたでしょう、特殊な力を持っているわけじゃないって」

 黒剣士は靴底で小枝を折りながら、のっぺりした顔のままぶつぶつ文句をこぼしてくる。

「貴女のまわりには人格も理性も持った魔物が多いですけど、本来は本能の塊なんですからね、魔物ってやつは」

「ルナール」

 パルティータは足を止め、反射的に一歩退いた剣士に凄む。

「アナタは私のお母さんなの? 彼らは私を頼って来たのよ、ユニヴェール様ではないの。だったら私が引き受けるのが筋、私が完遂するのが筋でしょう」

「貴女が引き受けて貴女が遂行するのと、卿の耳に入れておくのとは話が違います」

「アナタは、私が報酬を独り占めしたくてこんなことしてると思ってるでしょう?」

「違うんですか」

「そのとおりよ」

「…………」

 こちらをじっと見下ろしてくるルナールの薄く黒い双眸。

 足元を生ぬるい風がすり抜けて、ふいと横に逸らされる。

「分かりました。ま、そういうことにしておきましょう」

 ──貴女の考えていることは分かっていますよ

 そう言われている。

「良かったですね、お迎えが来たみたいですよ」

 風の後を追いかけてやってきたのは、鼻と胸を突く腐臭だ。本能だけの魔物の代表、食屍鬼グールの前触れ。

「全部片付けたら、理性のある水先案内人が来ますね、きっと。いつまでもこんな森の中を歩かなくて済みますよ」

 優位に立つや話を打ち切った剣士の声音は平坦。

 だからこそ頭にくる。まだあからさまに勝ち誇られた方がマシだ。

「へぇ、そう」

 ルナールのクセに人の思惑を察するなんて。あまつさえ、大人ぶって気付かなかったフリをするなんて。

「とう」

 パルティータはルナールのスネに思いっきり蹴りを入れた。

「──ッ!! 何するんですか!? 何で味方を攻撃するんですかァ!?」

 食屍鬼の断末魔より先に、ルナールの悲鳴が森に反響した。




 ルナールが食屍鬼を瞬殺してしばし。しつこく空気に残る腐敗臭が嫌なので風上に移動して休憩していると、風の湿気が増し堆肥の臭いが濃くなった。

 しかもさっきから細かい虫が飛び回っている。

「根拠はないけど、今度も大将じゃないような気がするわ」

「パルティータ、慌ててはいけません。物事には順番があるんですよ。いきなりユニヴェール卿が出てきたら勇者もびっくりするでしょう?」

「あの人は真っ先に出て行きたがるわよ」

「そうですね」

 ボコッ、ボコッと大地に穴の開く音が四方八方から聞こえてくる。

 とりあえず何が出てくるのかふたりでワクワク見守っていると、豊かな冷たい土の中から這い出してきたのは、どこの戦場にも必ずいそうな顔やら身体やらが半分崩れた傭兵さんたちだった。

 白濁した目を剥き出し、錆び付いた剣と盾を持ち、重そうな甲冑に抱きつかれた身を引きずって、その数、数十。

 ……思うに、あまり高度な理性は持っていそうにない。

「これくらいなら私のすりこぎでもいけるわ」

「いいですか、この円の中にいてくださいね」

 パルティータのヤル気を無視して、ルナールが剣先で彼女のまわりに円を描いた。

 そして最後にぴっと土を跳ね上げる。

 それが合図だった。


 黒衣の剣士は葉が積もりふかふかになった地面を蹴り、剣を振り下ろすべき場所まで身体を流す。

 風を切り身を翻し、遠心力に任せて死に損ないの首を落とす。

 その間にも視線は先を捕え、次の一歩で背後を取り、胴から真っ二つに斬り上げる。

 反応鈍くようやく向かってきた一人を一刀両断。

 呼吸を入れずに構え直して一気にはしる。

 跳ね上げた土が放物線の頂点に達した時、まとめて薙がれた傭兵の上半身がぼたぼたと地面に転がった。

 そして男は後方へと宙返り。

 無表情な剣士の双眸がわずかな空の白を映した次瞬、彼は身体を反転させて着地と同時に不届き者を縦に割る。

 土くれのように崩れる傭兵の向こうには、不敵に笑うパルティータ。

 視界の端にそれを映し、ルナールは返す剣で最後の数体を撫で斬りにする。

 頂点から帰ってきた土がパルティータの頭に当たって地面に転がった時。

 ルナールの剣が澄んだ終音で鞘に収まった。


「……ルナール……」

「ひぃ。ごめんなさい」

「いや、そうじゃなくて、ご苦労様」

 言いながら、パルティータは小瓶に入れた水を傭兵の残骸に降りかけてまわった。

 鉄と言わず皮膚と言わず骨と言わず白い水蒸気を上げてブクブクと泡立ち、急速に朽ちて土へと染み込んでゆく。

「どうせ斬っても斬ってもすぐ蘇るんだから、根絶やしにしておかないと」

「聖水ですか?」

 息ひとつ乱さず声を落としてくるルナールに、パルティータは水平な目で答えた。

「ただの塩水よ」

「…………」

 これでもかという程、失望を露わにした剣士の顔。

 パルティータは見なかったことにして両手を腰に当てた。

「というか、そろそろ大将格に出てきてもらいたいわね。ここで話の通じない奴らと永遠に遊んでるのは嫌」

「そうですね。でも──」

 ルナールが言葉を引っ張り、視線を後ろにやった。

「ご立派な方がお迎えに来てくださったみたいですよ」

 空気の変化は、寸の間の出来事。

「……そうみたいね」

 その出現は、生ける黒い森を死んだ絵画に塗り替える。

 人と魔の狭間に漂う曖昧な空気を一掃し、広大な暗黒都市の夜を従えて、たったひとりで森を呑み込む。

 彼の一歩で木々はかすれたわらい声を立て、蔓草は獲物の足を絡め取り、放たれていた魔犬が湿った息遣いで集まってくる。

「やっぱりな。番犬が吠えねぇのにバタバタバタバタうるせぇと思ったら、アンタたちか」

 伸びのある艶声の響いた場所には、黒革の隊衣をまとった長身の男が仁王立ちしていた。

 イブリースの漆黒の刃を肩に乗せ、青味がかった髪の下で目を細め、ふたりを見下ろしていたのは暗黒都市の黒騎士、ウォルター・ド・ベリオール。

 ニヤニヤと凶暴な猫科の笑みは、この男独特の愛嬌と取れなくもない。

「これはこれは、ベリオール卿」

 シャルロ・ド・ユニヴェールの麗貌が繊細な芸術のそれならば、この男の美は支配されることのない野性の奔流だ。

 感情が人間だけの特権であると奢っている者たちに、情熱の本性を、それがどこまで獰猛で強靭あるかを見せ付ける、圧倒的な妖気。

「いいところにいらっしゃいました」

 パルティータはごそごそと小瓶を仕舞うと、ぽむっと手を打つ。

「いいところ?」

 ユニヴェールの姿がないことに気でも抜いたか、ベリオールが素直に首を傾げてきた。

 どうやっても彼女と黒騎士の間に割って入ろうとするルナールを押さえつけて、パルティータはにっこり微笑む。

「暗黒都市に入れてください。それとロートシルト卿にお言伝もお願いしたいのですが。ついでに、ひとつふたつお尋ねしたいことがあります。もちろんタダで教えろとは言いません。……フランベルジェの行動パターンを知りたくはありませんか?」




「だーかーらァー。いいだろうがそんなもの、だって俺の知り合いよ?」

「いくらベリオール卿のお知り合いでもダメです。獲物でない人間は暗黒都市に入れません」

「じゃあなんでユニヴェールが一緒だといいんだよ。それっておかしくねェ? あいつただの貴族だろ、俺ァ陛下直属じゃねぇの?」

「ダメです」

「あ、じゃあいいわ。このふたりね、俺のエサ。ウチ帰って食べるから。入れろ」

「嘘はいけません」

「キ・サ・マー! 頭かち割って蛙の卵みっしり詰め込むぞコラァ!」

 暗黒都市は、入るのが意外と難しい。

 無闇やたらと開放していては、勇者がぞろぞろ入り込んで都市内でドンパチ始めるからなのだろう。

 正義の味方ゴッコは外でやってください。

 さすが暗黒都市、基本から自分中心主義だ。

「あれだ、お前、キレイにすり潰してやるわ。骨は栄養あるんだってよ。ちまたじゃ健康食品で大人気だってよ。良かったなァ、生きてる時はロクにもてなかったんだろうが、骨粉になりゃモテモテだぞ」

 ふたりの入都市を門番に交渉してくれていたベリオールが、いい加減キレたのか骸骨兵の胸倉を掴んでガンガンと壁に打ち付けている。

「ほら早く選べよ。俺たちを通すか、お前が健康食品になるか。どっちも明るい未来だぜぇ。良かったなぁ、オイ」

 この男が人間だったら周囲は大迷惑だっただろう。

「ダメですってばーーーーーーーーーーーーー………」

 突然、門番の声が尾をなびかせながら小さくなっていった。

 ベリオールが問答無用で森の中へ投げ飛ばしたのだ。

『…………』

 パルティータとルナールが言葉を失くして見送っていると、

「オイ、化け猫とセーニ嬢。早くしろよ。ぼさっとしてると閉めるぞ」

 蔦に覆われた巨大な石積みの城塞。一見古代遺跡のようなそれは、あちらとこちらとの境界線。本来ならばこの堅牢門が開くはずなのだが、ベリオールが怖い笑顔で手をひらひらさせているのはその脇にある小さな木製の扉。

「俺、今日ここの当番なんだわ。だからアンタら迎えに行ったわけ」

『門番シメた意味ないじゃん……』

 化け猫とセーニは異口同音につぶやいた。




「というか、持ち場離れていいんですか?」

 ローマの事件に心当たりがあるから連れて行ってくれるというベリオールに、ルナールが警戒の色を滲ませつつ訊いている。

 対してベリオールはあっけらかんとしていた。

「大丈夫、大丈夫。これから行くとこ遠くねぇし。だいたい、あんなに怖えぇ番犬がいるのにさらに門番置いておくって意味がわかんねェんだよな。不審者が門番のところまで来たら番犬の存在意義がねぇし、番犬が不審者追っ払うんだから、門番の存在意義はねぇだろ」

 ユニヴェールと暗黒都市の間で『不審者』の認識に差異があるからこその処置なのだろうが、“向かってくる奴は全部叩き斬る”構えのベリオールには臆病に映るのだろう。

「あんな退屈な場所にいたら俺は死ぬ。誰か攻めてこねぇかな。むしろ攻めてくかな。どっちでもいいか、とりあえず戦争がしてぇ」

 世界の中央に女王の居城がそびえ、その冠を紅の月が飾る暗黒都市。

 目抜き通りはざわざわと底辺から湧き上がるような賑やかさで、しかしそこを歩く一行は心なしか通行人たちから避けられていた。

 いや、正確にはベリオールが。

「でな、そのローマの人さらいだが、アダマスって女吸血鬼だ」

「何故知っているんです?」

 パルティータが訊き返すと、ベリオールの額に青筋が浮かぶ。

「昨日飲み屋で本人から聞いた。あの女、どれだけ捕まえてきたんだか知らないが、自慢たらたらで“人間を全員暗黒都市で飼おうかしら”だってよ。だったらヴェルトールを捕まえてきてみろってんだ」

「なんでそんなこと教えてくれるんですか」

 何が気に入らないのか、やはりツンケンしながらルナール。

 しかし意に介していないベリオールは、柳眉を上げて心外そうに言い放つ。

「そりゃ決まってんだろうが。他人の計画が上手くいきそうだったら潰すだろ、普通。悔しがる顔が見てぇじゃねぇの」

「……そ、そうですよねぇ」

 生まれた時から魔物なこの男には、そもそも罪悪という概念はないのである。




信ずる者は救われる…本来キリスト教的には「天国で」救われます。日本では一般的に現世で救われるかんじで使われますよね。


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