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冷笑主義  作者: 不二 香
第三章 After GENOCIDE
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第16話【王家の結婚】前編




 時はさかのぼり、三使徒が目覚めて間もない頃。

 北フランス、美しいロワール川沿いに可憐に佇むアンボワーズ城の、暖かな日差しの下に広がる綺麗な芝生の上で、紺碧の法衣を羽織った少年と人形のように可愛らしい少女とがリスや小鳥と遊んでいた。

「あなたは動物の言葉が分かるのね」

 少女がサファイアの瞳で尋ねると、

「そうだよ」

 少年は言って、少女の前にリスたちを整列させて見せた。

「すごい!」

 それから池のガチョウを行進させて、小鳥に合唱させて、ねずみたちに輪くぐりをさせる。

 少女は笑って手を叩き、子守役を振り返っては知っている限りの感嘆を並べた。

 しかしふと真顔になり、

「ねぇ、私が陛下と結婚しても一緒に遊んでくださる?」

 不安の色を浮かべながら首を傾げる。

「結婚?」

「この辺りの人たちはお祭り好きだから、早く結婚式にならないかって楽しみにしているんですって」

「…………」

 少年が子守役の女を見やると、彼女は聖母のごとき微笑を返してきた。

 その間にも紡がれる少女の言葉は、淡い色で溢れている。

「お父様に頼んでみるわ。私、あなたがいれば何があっても耐えられる気がするの。陛下のお姉さまはちょっと怖い方みたいなんですもの」

「そんなことない。僕のできることなんてたかが知れてるんだ」

「一緒に遊んでくれるだけでいいの」

 あまりに無邪気な少女の声音に、少年はため息をついた。

 ──魔と人とは深く関わらない方がいい。

 それが、彼の主人の口癖だ。

 魔物は人間の友達にはなれない。

「陛下は優しい方だけどお忙しいし、お城の人たちはよくしてくれるけどお友達にはなってくれないし」

「僕の上司がいいって言ったらね」

 彼の上司が何者なのか、幼い少女は知る由もない。

 彼女はにっこりとうなずき素直な喜びを表すと、芝生の上、大きな黒い瞳で自分を見上げてくるリスへと手を伸ばす。

 その瞬間、彼らと城との間を何十羽という白い鳩が盛大な羽音を立てて横切った。

 恐怖さえ覚えるほどの轟音。

 口を開け背を仰のけ反らせてぽかんとその大群に見入っている間に、鳩たちは西へ東へ方向を変えながらぐんぐん蒼い空の点になってゆく。

「これもあなた?」

 目を丸くしたまま訊いてくる少女に、少年は笑って首を横に振った。

「あんなにたくさんは、無理」


 ──少女の名は、マルグリット・ドートリッシュといった。

 父の名は、あのブルゴーニュ公マクシミリアン・ドートリッシュ。

 そして彼女の婚約者の名は、シャルル八世。ランスで戴冠を終えた、時のフランス国王である。




◆  ◇  ◆




 時は移り、フィレンツェの御大が天に召される一歩手前。


「マクシミリアンは私が常識人だと思っているらしい」

 ユニヴェールが、読んでいた手紙を滑らせた。

「人ではありませんもんね」

 パルティータがテーブルの端でそれを取り押さえ、開く。

 そういう意味で言ったんじゃないと吸血鬼の文句が聞こえてくるが、彼女はきっぱり無視して書面に目を通している。

「“いかにフランス国王と言えど、このような傍若無人な振る舞いが許されるものでしょうか”……ブルゴーニュ公は随分お怒りのようですね」

「そりゃ、自分の娘──マルグリットだったか? ──がフランス国王から離縁されたあげく、その男にマクシミリアン自身の妻を盗られたとあっては、平静でいろという方が無理だろうな」

「…………」

 絨毯の上でねずみに玉乗り練習をさせていたシャムシールは、無言でふたりへ顔を向けた。




 事の起こりは、シャルル八世の姉であり摂政であるアンヌ・ド・ボージューと、シャルル五世の血を引くヴァロワ=オルレアン家当主ルイ・ドルレアンとの確執にある。

 彼女は彼の屈服が夢であり、彼は彼女の屈服が夢だった。

 どこまでも相容れず、決して妥協されることのない夢が、世界を動かし続けたのだ。

 

 かつて、ルイがブルターニュ公爵の娘アンヌ・ド・ブルターニュと婚約したことがあった。アンヌ・ド・ボージューはそれを聞きつけ、彼がブルターニュ公国の相続権を手に入れることを阻止する作戦を決行した。

 弟シャルルの戴冠式の招待状にユニヴェールの名を連ね、ルイをランスに引きずり出したのである。

 彼は、ブルターニュのお姫様への求婚を中断しなければならなかった。

 しかし完璧にこの話を破談にするには、ふたりの物理的距離を離すだけでは足りないのは当然だ。ブルターニュの姫を他の誰かと結婚させてしまうのが一番手っ取り早い。


 ──そうだ、フランス国王にしよう。


 彼女のその思い付きがすべてだった。

 そして、ルイ・ドルレアンがまたも彼女に反旗を翻したこと、ブルターニュ公爵と共にボージュー家の摂政に反対する同盟を作ったことが、計画実行の合図だった。


 ブルターニュを含む諸王侯の謀反が発覚すると、国王シャルルの婚約者マルグリットをアンボワーズに残し、アンヌは国王を連れてモンタルジに避難する。しかし彼女の手腕は鋭く、体勢を整えるや否や反乱軍を叩きのめした。

 そして彼女は、ブルターニュ公爵フランソワ二世にとある約束を飲ませたのだ。


“フランス国王の許しなしに、娘たちを結婚させてはならない”


 その約束を結ぶと、フランソワ二世は失意のうちに他界する。


 ところが、戦いが終わったにも関わらず、反乱軍の王侯たちはブルターニュから出て行こうとしなかった。先の戦いの中、摂政アンヌを恐れるフランソワ二世が、ブルターニュを護ることと引き換えに節操無く娘と諸侯との婚約を結んでいたからである。

 父の後を継ぎ女公爵となったアンヌ・ド・ブルターニュには、この時点で七人もの婚約者がいた。

 そしてその誰もが静かにブルターニュの相続権を主張していた。

 フランス国王とフランソワ二世の間で交わされた約束は、公表されていなかったからだ。

 摂政アンヌは王侯たちの居座りにしびれを切らし、再び彼らを蹴散らしにかかる。

 ブルターニュの姫アンヌ・ド・ブルターニュは、そんな摂政アンヌを恐れ、七人の婚約者の中で最もブルターニュを護れそうな者──先妻を亡くした、未来の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン・ドートリッシュ──を選び結婚したのである。


 だがそれが逆にフランスの抱く危機感を強めてしまった。

 マクシミリアンがブルターニュまで手に入れれば、ブルターニュ、ブルゴーニュ、そして共治王であるドイツと、フランスは彼に囲まれることになるのだ。

 それだけは避けなければならない。

 『この国家の危機を越えるためには、何としても、マクシミリアンとアンヌ・ド・ブルターニュを引き離し、フランス国王とアンヌ・ド・ブルターニュが結婚しなければならない』

 マルグリットを心から愛しているシャルルを諦めさせるには、これ以上ない口実だった。

 同時に、ルイ・ドルレアンからもブルターニュを取り上げることができる。


 彼女はフランソワ二世との約束をかざしてマクシミリアンとアンヌ・ド・ブルターニュとの結婚の無効を宣言し、フランス国王シャルルとアンヌ・ド・ブルターニュの結婚を発表した。

 そして、マクシミリアンの愛娘、マルグリット・ドートリッシュは離縁を告げられた。




「あいつはマルグリットがアンボワーズに連れて行かれた時も泣き言を言ってきたな。フランス国王の婚約者だったんだから当たり前だろうに……。お愛想にシャムシールを貸してやったら、そうだお前、随分とあの小さな王妃様に気に入られていただろう?」

 足を組み頬杖をついているユニヴェールのからかい半分の笑みが、テーブル越しに見えた。

 シャムシールは白けた一瞥をくれてそっぽを向く。

「昔の話」

「それほど昔でもなかろうに」

 このところこの吸血鬼は頻繁に暗黒都市へ呼び出されているらしく、今夜も正装だ。

 胸元には、きらきらと忙しなく光を屈折させているダイヤのスカーフ留め。

 白すぎる手には金で縁取られたルビーの指輪。

「しかし、人のことを嫌いだ嫌いだと敵視する割にはなんだかんだ愚痴ばっかり寄越してくるな、あいつは」

「どうせ手紙を書いているのはクンツでしょう」

 メイドが手紙を主に返した。渡された時と全く同じ動作。テーブルを滑らせて。

「あの道化師か」

 ユニヴェールの爪先が羊皮紙を捕え、パルティータが温めの紅茶へと目を落とす。

「誰かに手助けを求めたり助言を求めたりするのは、賢い部下の役目です。それは決して大将がやってはいけない。一兵卒が不安がります」

「じゃあお前これから暗黒都市へ行って嫌味ったらしい貴族たちに謝って来い」

「何を謝るんですか」

 灰色メイドが顔を上げ、

「さぁ」

 吸血鬼はあっけらかんと肩をすくめる。

「とにかく謝っておけばいい。そうすればあいつらの自尊心は満たされる」

「そんなこと言って、あなたが謝ったことありますか?」

「大将は謝ってはいけない。謝るのは部下の役目だ」

「そういう大将はいざって時に見捨てられますよ」

「……私は、誰に見捨てられたって危機にはならんが」

「でもかなり寂しいですよね」

 メイドの口調には棘も皮肉もない。

 淡々と現実を告げる、まるで砂漠のように不毛な乾燥。

 それが、絶えず世の女たちから甘えられ媚びられている吸血鬼にとっては、陽光よりも銀剣よりも効くらしい。

「…………」

 沈黙は肯定と同じだと分かっているだろうに、男は“もうその話は終わりました”な顔つきで窓の外の夜へと視線を背けている。

「今回は手助けするの?」

 シャムシールは助け舟を出してやった。

「ん?」

「マクシミリアンの味方、するの?」

「──しない」

「何で?」

 訊くと、吸血鬼は一瞬だけ紅を険しくした。

 しかしそれはすぐにいつもの含んだ微笑に変わり、少年と主の間にすっと指が立てられる。

「深入りをしてはいけない」


 ……自分は好き勝手やっているクセに。




◆  ◇  ◆




 ロワール川の岸辺に建つ白と紺のアンボワーズ城から、甲冑を身に付け白馬にまたがった青年が出てきた。同じような姿の従者を何人か引き連れて。

 青年は決して美しい容姿をしているわけではなかったが、彼を見送りに出てきた褐色の髪の少女は、泣き腫らした青い目で彼を見上げていた。

 十も歳の離れたふたり。

 だがどちらも同じ、胸にはとうとうと流れるロワールの如く嘆きが溢れ、その顔を忘れまいと互いの顔を見るたび息ができなくなっていた。

「愛しい人。私の妻は貴女だけです」

 青年はそう言ったが、少女は頬を流れる雫を増やし、ただ首を振った。

 彼女はよく知っていたのだ。彼が、彼の姉には逆らえないことを。

「私はこれからレンヌへ行きます」

「そこでほかの女と結婚するのですね」

 レンヌは、摂政が差し向けた国王軍に囲まれていた。

 そしてその中心には彼女がいる。

 ブルターニュの若き女公爵、アンヌ・ド・ブルターニュ。

「私は、貴女が生きている限り貴女以外の女を妻にはしません。貴女は、」

「──陛下、お急ぎください。兵がれてしまいます」

 彼が言葉を続ける前に、供がふたりの間に割って入った。

 両端から馬を寄せられ、無理矢理城門から離されてゆく青年の白馬。それでも彼は振り返って叫んだ。

「貴女は、私の父が私に与えてくださった、この世で最も素晴らしいひとなのですから!」




「ねぇお願い。私からあの人を取り上げた人間を全員地の底へ落としてしまって」

 対岸に消えて行く甲冑の光を見つめながら、マルグリットがつぶやいた。

「それはできないよ」

 石積みの壁に寄りかかったまま、濃紺法衣のシャムシールは口を尖らせる。

「どうして? あなたが有名な魔物だってことは、もう知っているのよ。お父様から聞きました」

「僕の保護者が、君のお父さんを助けようとしないから」

 あの頃はふたり同じくらいの背丈だった。

 でも今は、マルグリットの方が背が高い。

 そして生者としての歴史も長い。

「ユニヴェール卿が何もしなければ、あなたも何もしないの?」

「境界を知ってるのはあの人だけからね」

「境界?」

 マルグリットが、石畳にドレスの裾をひきずりながら振り返ってくる。

 アンボワーズ城によく映える空色の絹は、かつてシャムシールがここを訪れた時に持ってきた、ユニヴェールからの遅い婚約祝いだ。

「人生の破滅への一線」

「魔物でも、滅びるのは怖い?」

「怖くはないよ。悲しませたくないだけ」

 誰を、とは聞かれなかった。

 それが分からないほど、彼女は愚鈍な箱入りお姫様ではないはずだった。

「ユニヴェール卿の命令なら、あなたは何でもするの?」

「するよ」

 彼女の後ろで水面がさざめき輝き、人影ひとつない道の向こうの木々が緑深く風にざわめいている。

 少年は魔物だが、昼間の方が好きだった。太陽の下の方が動物たちは目をきらきらさせて生きていて、その表情もよく見えるからだ。だから彼は、三百年の間に昼間でも歩けるくらいの耐性は身に付けた。

 もちろん、必要最小限しか出歩かないけれど。

「あなたには、あなたの意見がないの?」

 ふと気が付けば、マルグリットがすぐ傍まで来ていた。

「そりゃ、あるよ」

 シャムシールは大きな金色の目で彼女を見上げ、軽く笑って見せた。

「でも結局僕は、君がどうなろうと関係ないんだ」

「私もよ」

 彼女は一瞬もひるまず返してきた。

 急に大人びた顔つきで見下ろされる。

「あなたに何かしてもらおうなんて間違っていました。あなたは関係ないのに」

「…………」

「私は、ユニヴェール卿に頼みに行くべきでしたね」




 黒尽くめの剣士は、とぼとぼと橋を渡ってくる少年を認め、日傘を差した。

 彼の足が地面についたところで影を差し出す。

「…………」

 彼はぼんやりとこちらを見上げてきたが、それも束の間、すぐに肩をすくめて深い深いため息をつく。

 まるで小さなユニヴェールだ。

「……二度と来るなって言われた」

「どうせ余計なこと言ったんでしょう」

 道化ばりの模様を顔に描いた剣士は、少年の苦しい告白にもひとカケラさえ驚かなかった。

「ユニヴェール卿を真似して気取ってみたってうまくいきっこありませんよ。あの人自身、全然うまくいってないじゃないですか」

「ルナール」

「はい?」

「僕は“お前が必要だ”って言われたことが一度しかなかったの」

「そうでしたね」

「そう言ってくれた人間のためだったから、火あぶりだって怖くなかった」

「そうでしょうとも」

 少年の指先がちりちり燃えていた。法衣の裾もだ。

 危険信号。

「だから──ちょっと遊んだことのある女の子を見捨てるくらい、何でもないんだ」

「えぇ」

「放っておけって言われたら放っておけるし、殺せって言われたら殺せちゃうんだ!」

「えぇ」

 わめく度トーンが上がっていくのは、ヒステリックな自分の声にさらに苛立っているからだろう。

 ルナールの落ち着きはらった相槌あいづちにも。

「その子が例え“必要だ”って言ってくれた二人目だとしても、力になりたいと思っても、仕方ないんだよ!」

「そうですね」

「ユニヴェールの許しがなきゃ何もできないんじゃない、あの人の望むことなら何だってできるだけなんだ!」

 世界中に反響するのではないかと思えるほどの叫びと同時、ボッと軽快な音がして少年の姿は燃え消えた。

 手品の如く。

「…………」

 ルナールは日傘を差したまま、空気の焼けた場所をじっと見下ろす。

 そしてくすりと笑った。

 あの子供は聡いからこそ、矛盾を抱えると臨界を超えてしまうのだ。


 1.マルグリットを助けたい。

 2.でもユニヴェールは助けない。

 3.ユニヴェールが助けないなら自分も助けない。


 1も3も本能に近いのだから、衝突して爆発するのは無理もない。


「こんな小さな子供の心まで絡め取るなんて、悪い人ですね」

 黒の剣士は傘をたたみ、橋の欄干にひじをついてロワールの流れを一望した。

 波の上には白いアヒルがぷかぷかと浮いていて、彼の黒髪を揺らす緑の風は両岸の茂みや木々を通り過ぎて行く。

 遠方まで広がりかすむ木造の家々からは食事の支度の煙があがり、どこかで犬が吠えている。

 常人には見えぬ森の向こうでは、フランス軍がレントへ向かって歩みを速めている。


 ──およそ三百年前。

 ユニヴェールが死んだ後、男は川に身を投げ、女は身内に殺された。そして少年は、自ら捕えられ火刑に処された。

 そうやって、聖なる白の汚点はことごとく粛清しゅくせいされた。


「人間が嫌いなら、始めからひとりでいればよかったんですよ。それなのに、三人も巻き込んで」




◆  ◇  ◆




「どうしてお前は“何もしない”ことができないんですか!」

 少年の人生はいつも、骨と皮だけの老シスターが頭上で怒鳴り散らしている場面から始まる。

 薄汚れた孤児院の、荒れ果てた庭の先にある錆び付いた門の前。

ねずみには関わるなと何度言えば分かるんですか! お前が鼠を集めているのを近所の方々に見られているんですよ! 役所に苦情がたくさん届いているそうです。孤児院なんてただでさえ迷惑がられているのに、お前のせいでここが取り壊しになって、他の子供たちが再び雨ざらしの乞食こじきになってしまったらどうするんです!」

 それまでの短い人生の中で何度も聞いた気がする説教。

 けれど彼はその時ようやく、どうして自分ばかりが怒られたり追い出されたりするのか理解した。

 自分がいけないのだ。

 この小さな動物と意思疎通ができるから。

 彼は、着せられた継ぎはぎマントのフードの中でもぞもぞ動く生き物を思いやった。

 みんなが怖がり憎んでさえいる灰色の毛玉。

 必死にかき集めたどうにか生きていかれるだけの食べ物をことごとく荒し、時に雨をしのぐボロ小屋でさえ、かじり削りもっとボロボロにしてしまう害獣。

「どうしてお前は他の子供たちと仲良く遊ぶことができないの!」

 そんなの決まってる。

 大人がうとんでいる子供は、贖罪の山羊(スケープ・ゴート)になるしかないのだ。

 ダメな奴をみんなで罵れば、優越と仲間を手に入れられる。幼い罪人たちはそれをよく知っていて、しかも確実に実行する。

 仲良く遊ぶなんて、永遠にできない。

「来なさい。お前には納屋の中で反省してもらいます。もう二度としないと誓うまで食べ物は与えませんからね」

 あざだらけの腕を掴まれ、孤児院の裏の納屋── 子供たちにとっては牢──へと放り込まれる。

「自分のしたことを悔いなさい!」

 重い錠の音がして、大地を踏み荒らす憤った足音が遠ざかる。

「……反省なんかするもんか」

 埃っぽい藁の匂いと何かの腐敗臭が充満し、板の隙間から昼は光、夜は闇が滲み入ってくるここは、少年にとって怖れるべき場所ではなくなっていた。

 もう何度、こうして閉じ込められたか分からない。

 もう何度、この壁を背にして空腹に耐えたか分からない。

 それでも彼は一度として謝ったことはなかった。

 彼は、彼の愛すべき友人たちに頼んで静かな復讐を繰り返した。

「あいつらの服を全部かじっちゃってよ」

 納屋の隅っこに膝を抱えて座り、痛みの止まない身体中の傷を抑える。

 自分がいけないことは分かっている。

 鼠は人の友達にはなれない。

 けれど、息をするより自然に一緒にいた、どの人間よりも信頼のおける生き物が、捕えられ焼かれてゆくのを横目で見られるほど大人にはなれなかった。



「恩知らず!」

 気が付くと、金切り声をあげる老シスターが物凄い形相で納屋の入り口に立っていた。

 三日も何も食べていない少年は、顔を上げるだけで精一杯だった。

「お前は私たちに何の恨みがあるの!? 廊下も祭壇も食堂も寝室もどこもかしこも鼠だらけ! 早くあいつらをどこかにやりなさい!」

 火かき棒を握り締め、彼女が近付いてくる。

「領主様の娘が拾った子供だから置いてやっていたけど、もう我慢がならない!」

 逃げられるだけの体力は残っていなかった。

 別にいいや──そう思った。

 迫ってくる黒い修道着が死神のマントに見える。

 次の瞬間には、かすんだ視界の上で焦げ付いた金属棒が振りかざされ──

「シスター!」

 外から聞こえた子供の声で彼女が手を止めた。

「役人が……」

「役人!?」

 死神はほつれた髪をさらに乱して鋭く振り返る。

「──!」

 そのまま口を開けて固まった彼女を見、少年も彼女の黒装束のわきから外を盗み見た。

 太陽の光で彩られた雑多な庭には、顔を強張らせた数人の子供に案内されて草を踏み分けてくる男がひとり。

 百合よりも小麦粉よりも白い外套、傲慢を芸術にしたような顔、背景のないわずかの微笑。

「少しお話させていただいてもよろしいですか、シスター」




校正時BGM THE SWAN LAKE BALLET, Op.20[Scene 1 act 2]

2007年


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