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冷笑主義  作者: 不二 香
第三章 After GENOCIDE
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第12話【エドワード】後編




 降り注ぐ雨は、一向に止む気配がなかった。それどころか雨脚は強くなり、雲間に閃光が瞬き始める。

 それでもいい。

 いっそのことすべて流され沈んでしまえばいいのだ。それが神の望みならば。

「畜生!」

 若者はやり場のない苛立ちをぶつけるように、首に下げていた十字を力いっぱい川に投げ捨てた。だがそれでも十字は水の流れには届かず、水面近くまで枝を広げていた潅木かんぼくの茂みにひっかかる。

「…………」

 苛立ちは増す。

「畜生畜生畜生!」

 彼は神を棄てたわけではなかった。神なんてとうの昔に見限っている。

 今彼が棄てたのは家族だった。“またいつか”、そう言って妹が別れの時に渡してくれた十字を棄てる。それが決別の証。


 帰る場所なんてない。

 容赦なく身体を濡らす冷たい雨に熱が奪われてゆくのを感じながら、歩いてゆくべき宛も無い。

 髪の先から水が滴り、顔を伝う。泥と悔しさが、口の中で入り混じる。

 握り締めた指の先から何もかもがこぼれてゆく。残っているのは、ぬかるむ土塊だけ。

 もう、いいか。

 そう彼がこの世をも見限りまぶたを閉じようとしたその時、

「──!」

 彼は見た。

 黒い狼のような影が旋風の勢いで横を駆け抜けて行ったのを。

 そして彼は聞いた。

 後ろから近づいてくる人の声を。

 振り向けば、しつこい追っ手が何やら怒鳴りながら走ってくる。気付いたのが遅かった、近すぎる。

「クソッ!」

 彼は跳ね起き、泥まみれになりながら転がるようにして逃げた。

──まだ逃げるのか。何がそんなに惜しい。持っているものはすべて棄てるんじゃなかったのか。

 己の言葉をぎりぎりと噛み締めながら、それでも彼は逃げ続けた。

 石積みの橋を渡りながら、茶色の濁流を脇目に見る。

──いっそこの中へ逃げようか。

 肩越しに後ろを見る。

「!?」

 追っ手は、白い外套を翻す男二人を伴っていた。どっかの偉い役人に違いない。

 青年はテヴェレ河も忘れて、死ぬ気で走った。

 息をしてないんじゃないかと思うくらい走って走って、橋の終わりに差し掛かった時──彼の横を白い男が走り過ぎていった。

「──え?」

 不覚にも立ち止まり間抜けな声を出してしまった瞬間、今度は自分の首が締まる。

 首根っこを掴まれたのだと悟ったのは、天地が反転し、落下している最中だった。

 橋から落とされたと悟ったのは、思いっきり川岸に腰を打ち付けてからだった。

 続けて何かがボチャンと音をたてて川の中に落ちる。

「シャルロ! お前何やってんだオイ、今人間ひとり落としただろ!」

 人の叫び声が聞こえた。

「あぁ」

 ぶっきらぼうな答えが聞こえた。

「面倒臭いこと考えてるんじゃないだろうな!? あの魔物を取り逃がしたらまた謹慎か──……あるいは免職だぞ」

「あんなもの、そもそも白十字がヘマしなければ済んだ話だろう」

「白十字は全員解雇された」

「当たり前だ」

「だーかーらー、逃がしたら俺らも解雇されるって言ってるんだ・ろ・う・が!」

「……あぁ、なるほど」

 橋の上の不毛な口論を聞きながら、若者はそろそろと橋の影へ身を寄せた。そして上目遣いに耳をそばだてる。

 雨と濁流とが石に反響して聞き取りにくかったが、追っ手の男がふたりに追いついたらしいことくらいは分かった。

「あなたはなんてことをしてくれたんですか! あいつは私のご主人様の金を奪って──」

「すいません。偶然出くわしたとはいえ悪い奴を見ると正義の血がうずくので、つい河に放り込んでしまいました。この雨では命はありますまい。何、金? そんなもの、これでよろしいでしょう?」

 どうやら片方はひとりで勝手に話を進める主義らしい。

「──しかし……」

「金は戻った、下手人は役人が川に突き落とした。貴方には何の非もないじゃありませんか。それどころか盗られた金が戻ってくるなんて今時ないんですから、褒美くらいもらえるでしょう?」

 しかもなんとなく嫌味だ。

「…………」

 滔々(とうとう)とまくしたてる役人に圧されて、下男が押し黙る。

 そして役人は充分な沈黙を待って、言った。

「それとも貴方はご主人ごとヴァチカンに楯突きますか?」

「ヴァチカン!?」

──ヴァチカン!?

 下男と若者の驚愕は一致した。

──嘘だろ。冗談じゃない。

「……い、いえ。教皇様にそんなめっそうもない……」

 何かを見せられたのか、男のトーンが急激に下がる。

「ではご苦労様、大人しく帰りなさい。さぁ!」

 雨を貫く澄んだテノールは、致死量一歩手前まで毒気が含まれていて、とてもじゃないが神に仕える者の声音とは思えなかった。

 むしろ、心平静に人を殺めることのできる人間の声だ。

「……お前、鞘を川に捨てただろ」

 下男が去った足音は聞こえなかったが、常識人っぽい片方が言葉を発したのだ、あいつは諦めて帰ったのだろう。

「あの悪趣味な装飾は前から気に入らなかった」

「支給品なんですけど」

「知るか」

「知ってろ」

 やはり不毛な会話を交わしながら、片方の声が降りてきた。

「おい貴様」

 呼ばれて青年は見上げた。

 同時、いきなり喉元に剣の切っ先が突きつけられる。

 剣身を辿った先にあったのは、雨に濡れた厳白をまとう男だった。銀髪、蒼眼、温度なく強固な意志だけが宿る鋭利な相貌。

 泥が点描した嵐の風景にあって、その男の存在だけが切り取られたように静寂で、そこには波ひとつなかった。

 冬のオリオンの如く凍り、深森の古城の如くかげを包む。

 たかが人間ひとりを見て奥歯が鳴るなんて、聞いたことも無かった。

 圧し潰されそうなわけではない、怖いわけでもない。力が、精神が、強いかどうかなんてひと目では分からない。

 ただ、同類だと感じた。

 理不尽と、空虚と、絶望と、檻と、窒息と、混乱と、悲嘆と、怒りと、痛みと、血と。

 この男は、世界の底にある泥沼を知っている人間だと思った。一歩進むごと引きずり込まれそうになるあの泥沼。生暖かく足を包むこの中に身体を横たえてしまえばどれほど楽だろうかと膝をつきそうになり、その度声をらして自らを叱咤する。

 唇を血が滴るまで噛み締め、泥に爪をたて、前に進む。

 あの身体の重さを、嘆きの疲れを、空しさを、世界を呪うあらゆる言葉を、この男は知っている。知っていてなお、己の一部として引きずっている。

 知らず、涙が出た。

「貴様の名前は」

 男の顔には、真偽定かでない微笑があった。

「……エドワード」

 それでも、そんな怪しい男に真実を答えていた。

「ではエドワード。生きるか死ぬか、選べ」

 問いは唐突。

「…………」

 青年は口を開き──。


 この男のためならば、神に弓引き魔にもなれるだろうと確信した。




◆  ◇  ◆




「デッラ・ローヴェレ卿がカタリナを養子にしてくださる条件は、本当に魂を浄化できること。そうでなくては、彼女は聖女どころか異端の烙印を押されてしまいます」

 フランシスカの顔は真正面を向いていた。

「難しい条件だ」

 エドワード神父の顔も真正面を向いていた。

 ふたりの視線の先には、十字架にかけられたイエスの姿がある。

 そのままふたりは、じっと黙っていた。時だけが、刻まれることもなく静かに過ぎていった。

 それぞれが互いに何を思っているか、知ることも無く。

 知ろうともせず。

 そしてようやく、フランシスカが口を開いた。

「カタリナは、貴女を救いたいと願っています」

「救いたい?」

 後ろから、そして左右の窓から、落日のまばゆい光が差し込んできた。

 教会の中が黄昏一色に染まり始める。

 人間の時間が終わってゆく。

「エドワード。それは本名ですか?」

「えぇ、本名です。親は敬虔な教徒でして。聖エドワードから取ってもらったというのは嘘ではありません」

「では──、アスカロンという名は?」

 小さな息継ぎを挟んだシスターの問いに、神父は深く瞬きし、笑った。

「それも本名だ。俺の存在を丸ごとくれてやった男からもらった名前でね」




◆  ◇  ◆




 冷たい朝焼けがテヴェレの流れに反射する時間。

 橋の上から河の流れを見下ろす男がいた。

 白い外套を肩に羽織った、若い男だった。


 聖ピーター教会を建てた聖エドワード。そして聖ジョージが手にしていた龍殺しの剣アスカロン。彼は、ふたつの名前を持っていた。


 それからどれだけの人間が橋を行き来しただろう。

 一面の黄昏がテヴェレの流れを染める時間。

 空を燃やす夕陽に照らされながら、男は河に身を投げた。


 しかしそんなことは、小さな事件だったろう。

 吸血鬼始末人の名門ユニヴェール家が、凄惨な結末を遺して亡びたという事件に比べれば。




◆  ◇  ◆




「婆ァ、どこへ消えた」

 吸血鬼が牙の奥で低く吠えた。

「……さぁ」

 パルティータは無感情に応えた。

 ポポロ広場の双子聖堂前。道行く人々の視線をチラチラ浴びながら、色々な意味で目立つふたりは途方に暮れていた。

 西へと落ちてゆく光の中、吸血鬼は腕を組んで無意味に背筋を伸ばし、メイドは疲労をにじませてしゃがみ込み。

 両人ともローマの町並みが似合っているのは、それぞれこの街に人生の一部を刻んでいるからだろう。しかしその両人とも微妙に浮いているのは、棲む世界を一線違えたからだろう。

「同じ魔物なのに、お婆さんの居場所、分からないんですか?」

 パルティータに鬼火を(無理矢理)渡してくれた魔物を探して幾時。太陽が傾き大気が橙色で満ちてくる時分になっても、パルティータの足が棒になり音を上げる頃になっても、標的は見つからなかった。

「こう、ビビッと」

「化け物じゃあるまいし」

「……使えない」

「何か言ったか?」

「いいえ」

「心配するな。お前が私の物である限り、魔物にも人間にも神にも渡しはしない」

「…………」

 この男はいつでも“私の物である限り”という但し書きを付ける。

 そこにはあるのは、“人間”と“吸血鬼”、“生者”と“死者”、その厳格な境界線だ。

 それは誰も直接には触れないユニヴェール家の不文律であって、吸血鬼は頑なにその境界線を越えようとしないし越えさせようともしない。

 大きくそびえ立つ冷たい壁が、そこにある。

「歩きすぎて腹が減っただろう? 飯にするか? 何が食べたい?」

 こんな何気ない言葉さえ、時々遥か遠くに聞こえる。

 しかしまぁ、聞こえさえすれば特に困ったことはないわけだが。

「タルトとパイが食べたいです。でも──」

「でも?」

「婆さんを探さないと」

 子供ではないのだから、自分で撒いた種は自分で刈らなくてはいけない。

 彼女は立ち上がった。

「婆さんを探して、見つけて、」

 言葉を切り、眼差しをきつくする。

「慰謝料をがっぽりもらいませんと」

「…………」

 吸血鬼が双眸を憔悴させ、大きく肩でため息をついた。

「……ローマにはアスカロンを置いてある。呼ぶか」




◆  ◇  ◆




「やはり貴方はユニヴェールの三使徒アポストロス、アスカロンだったんですね」

 決意を秘めた透明な声は、神父と尼僧、ふたりの背後で響いた。

「…………」

 神父が微笑を貼り付けたまま振り向くと、開けられた扉から差し込む光の中、小さな人の輪郭があった。神経を焼く金色の光に、彼は目を細める。

「おかしいとは思っていました。私が小さい頃から、貴方は全く変わらない。私たちだけが大きくなって、貴方は年を取らない。でもそれを言ってしまったら、何もかも壊れてしまう気がして……言えなかった」

「──カタリナ」

 近づいている人影に、シスター・フランシスカが腰を浮かせた。

 それを神父が押し留める。そして法衣を揺らし立ち上がった彼は扉とは反対方向へ歩いて行き、説教台に寄りかかった。

 彼を包む深い森の色の法衣は、強い光に照らされて濃い黒へと色を変えている。

「カタリナ。神父エドワードと三使徒アポストロスアスカロンでは、何か違うのか?」

「貴方はもう生きていない」

 彼女の言い方が彼女らしくて、アスカロンは唇の裏で笑った。

 “死んでいる”と言えないのだ。あまりも直接的過ぎて。

「神がおっしゃったのです。貴方を救いなさい、と」

「神様に俺は救えなかった」

「私が救います」

「悪いがもう救われてる」

 口調がぞんざいになっていく一方、短い単語ひとつひとつに確かな意味が与えられてゆく。

「俺はユニヴェールに拾われた三百年前からただの一度も、誰かに助けてほしいと思ったことはない」

 生きることに必死になったことのない神よりも、血と謀略の海で生きていたあの男の方がよほど優しい。

「エドワード」

 老シスターが懇願するように彼の古い名を呼んだ。

 こちらを見つめるその顔が、彼に“意地を張らないで”と泣いた母の顔と重なる。

「カタリナの生死がかかっているのですよ」

 あの三使徒アスカロンを安らかに眠らせたとあれば、なるほどヴァチカンの聖女の名にふさわしい。

 が。

「シスター・フランシスカ。そんなことは問題ではありません。聖女と呼ばれようが、異端の烙印を押されようが、私の神をお慕いする心は変わらないのですから」

 扉からの光を背負い、少女が立ち止まった。

 可愛らしく着飾った、金髪の少女。母親を呼んで夜中も泣いていたのが昨日のようで、しかしこちらを見つめる厳しい碧眼に、それは遠い昔なのだと思い知る。

 悠久を生きていると時間の感覚が薄れてくるものらしいけれど、子どもといるとそんなことは決してない。昨日と今日は別の日で、明日もきっと今日とは違う。

 だが、

「!」

 神父は彼女を見て目を鋭くした。

 彼女の胸には歪んだ十字が──人の目にはそう見えるものが──下げられている。

「カタリナ。それは誰にもらった」

「え?」

「胸の」

「胸……? あぁ」

 わざわざ指差し詰問する彼を怪訝に思ったのだろう彼女は眉をひそめ、細い指で鎖をいじりながら応える。

「……孤児院の近くの道にいた、おばあさんです」

 彼女のことだ、乞食然とした者を見て放っておけなかったのだろう。明日を生きる糧になればとでも思って買い上げたに違いない。

 魂狩の目印、暗黒都市の鬼火を。

「それみろ、神様はいざという時に助けちゃくれない」

 アスカロンは舌打ちして吐き捨てる。

「──は?」

「いいか、カタリナ。お前のその……」

 怒鳴る勢いで彼女に近づいて行った彼は、しかし急に足を止め脱力した。

 天の声に勝る主の声が、地の底から彼の魂を揺らしたのだ。

<アスカロン、婆さんを探せ>

「……い、意味分からねぇ指示……」

 向こうもそう思ったのだろう、すぐに続けられる。

<ローマでパルティータが魂狩の目印を付けられた。しわしわの魔女婆さんにキレイなお花の形をした鬼火をもらったんだとさ──ッぐ。雇い主に向かって蹴りを入れる奴があるか馬鹿者! というかお前今のが聞こえたのか? 人間には聞こえぬはずだぞ? やはりお前そろそろ人間から追放されて──ちょっと待て。落ち着け。そのすりこぎどこから出した!>

「……了ー解(ダコール)

 一方的に賑やかな主側に苦笑し、アスカロンは顔を上げると同時に真顔へ戻る。

 そして一気に言い切った。

「カタリナ。お前にその十字をくれた婆さんは人間じゃない。その十字をお前が直接婆さんに返さなければ、お前は今夜暗黒都市の魔物に狩られて死ぬ。魂は神の元へ行かずに喰われる。問答をしている暇はない。婆さんを探す」

 瞬間彼は床を滑り、少女の手首を握った。

「!?」

「──エドワード!」

 シスター・フランシスカの叫びは遥か背後。

 二つの名を持つ神父は、聖女を連れてローマの街へ走り出した。


 最期のあの日、テヴェレから見た鮮やかな金色の夕景。今日もまた、街は同じ色に染まっている。違うのは、空気の温度だ。あの日は焼けるように暑かった。今日は過ぎ行く風が身を震わせる。

 あの日と今日、その間三百年。思えば数奇な人生だ。

 だが後悔は微塵も無い。

「あの人は辛酸を知っちゃあいるがやっぱり貴族育ちで未だにズレてるからな、俺たちがいないとてんでダメなんだ」




◆  ◇  ◆




 で。

「アンタどこ探してたんだよ」

「魔物が行きそうな場所に決まってるだろう」

「例えば?」

「骨董屋」

「アンタの趣味」

「飯屋」

「夕飯食ったろ」

「小劇場」

「アンタの趣味」

「教会」

「本気でいると思ってたか?」

「裏町」

「……まぁそれは確かに」

「──の酒場」

「キレイなネェちゃんはいたか?」

 アスカロンはシャルロ・ド・ユニヴェールの胸倉を掴んだ。だが掴まれた方はどこ吹く風。

「結局婆さんは見つかったのだから、いいではないか」

 しらっとそっぽを向いている。

「確かに見つかったけどよ……」

 アスカロンは語尾を濁してユニヴェールの背景へと焦点を合わせた。

 夕焼けから夕闇へと変わる刻限。ローマの街を抜けた先にある森の中。そこには、人々に忘れ去られた墓がひとつ、ひっそりとあった。まわりの木々にはいくつものランタンが吊るされ、その中では青白い鬼火、緋色の魂、二種類がゆらゆらと炎のように揺れている。

 見上げればぽつぽつとどこまでも光が続いていて、その向こうには淡い夜に輝く星空が広がっていて、息をするたび吸い込まれそうになる。

 圧倒的に多い、暖かな色の魂。家々の灯よりも深く、儚く、けれど消えることなく。

 どれだけの時間をかけて、どれほどの魂が、ここに集められたのだろう。

「不服か?」

「……そういうわけじゃねぇが」

 そのほのかな光の下、穏やかな手つきで墓を掃除しているのは、若い女だった。編み上げた茶色の髪には真珠が連なり、身に着けているドレスは総絹で、どこから見ても貴族に違いない。それも下っ端ではなく、それなりの地位を持つ貴族だ。

 彼女はこちらに気付く様子もなく、黙々と掃除を続けている。

「どうやらこいつらがもらった鬼火は、狩り用ではなかったようだな」

 胸倉を掴まれたまま、ユニヴェールが言ってくる。

「この女は──いや、幽霊……違う、こいつは魂のないただの念だな、この墓の主を生き返らせようと他人の魂を集め続けていたんだろう。どこかの魔物に吹き込まれたのかもしれん」

 何をしようと、死者が生者として返ることはない。

 基本も応用も無視したユニヴェールでさえ、死した後、死者としてしか蘇ることができなかった。

「エドワード、聞いているか」

 この男にその名で呼ばれたのは、二回目だ。

「この女は、お前を生き返らせようとしているのだよ」

「…………」

 墓は、確かに彼の名前になっていた。

「……俺に墓はないはずです」

 わずかに首を振って後ずさると、

「この下に埋まっていたのは、確かにお前だ」

 彼の手を外したユニヴェールが大地に片膝をつき、土を手に取り、断言する。

「セシリア・ド・オーベール。それが彼女の名前です」

 カタリナが、傍らの吸血鬼には目もくれず進み出た。

「……オーベール」

 やや離れた影の中でパルティータがつぶやくのが聞こえた。

 だが、土をいじる主の表情は変わらない。

「貴方の妹君のようですが?」

 こちらを見つめてくるカタリナの碧眼が痛い。

「あぁ」

 うなずく声がかすれた。

 何故今頃──、棄てた家族の残影を目の前にしなくてはならないのだ。

 女の首で鈍く光を反射している十字は、あの時テヴェレに棄てた十字ではないか……。


 妹の名前はセシリアと言った。そして母が彼女を連れて新たに嫁いだのは、フランスの大貴族オーベールだった。

 吸血鬼始末人クルースニクシャルロ・ド・ユニヴェールを毒殺した、あの。


「消しましょう」

 アスカロンが言うと、主が立ち上がった。

「お前がそれでいいなら私は構わんが」

「オーベールって名前のつくものは、たとえ影であろうとこの世にあるのは耐えられないんだよ」

 吸血鬼ユニヴェールがオーベール家を絞め殺したその時、同行した彼は母と妹の魂さえも喰らった。誰ひとり天へなど逝かすものかと喰らい尽くした。

 もし神の前に引きずり出され罪科を問われることがあるならば、この親殺し妹殺しこそが己に重い重い十字架を背負わせるのだろうと、それだけは覚悟している。

 けれど、どれだけの業火に焼かれようと悔いることはないだろう、そうも思っている。

「俺に墓はいらない。祈りもいらない。生き返りたいとも思わない」

 妹の残影に集められた魂たちが、ざわめいて揺れる。主の顔に落ちた影も、揺れる。

「お前の言い分は分かったが、そっちのお嬢さんが何か言いたそうだ」

 吸血鬼の紅い目がカタリナに向けられた。あごで促され、孤児院の聖女が口を開く。

 魔物と目を合わせぬよう俯き加減で、しかし大きく息継ぎを挟みはっきりと。

「私に、祈らせてください。どれだけかかるか分かりませんが、私がこの人のために祈ります。この人と、この人が集めた魂たちが、神の御許へ逝けるように」

 だが吸血鬼は意地悪だ。

 醒めた目で彼女を見下ろし、言う。

「この女は魂ではないよ。ただ兄への想いがこの地に焼き付けられた、意識の残り香だ。私が踏めば散り消える。放っておいてもいつかかすんで消える」

「だから、祈ってはいけませんか」

「時間の無駄だとは思わんかね?」

「時間の問題ではありません。心の問題です」

 カタリナの譲らない口調に、

「愚か者」

 吸血鬼が笑った。

 そしてカタリナが憤慨して叫ぶ前に、

「愚かだが、面白い」

 付け加える。

「お前の教育が良かったのかね、アスカロン」

 言いながら、まだ喉の奥で笑っている。

「──さぁ」

 よく分からない人だ。今も昔も。きっとこれからも。

「貴様は、神が神たる所以を知っているか?」

 吸血鬼がかがみこみ、少女の十字に手をかけた。カタリナは僅か肩をひくつかせたが、唇を結び彼を睨みつけるだけで声は上げなかった。

「あいつは自分より劣る者しか創らなかった。だから神たりえている」

 黒衣の男の骨ばった指が、歪んだ十字を弄る。

「私はね、だからこそ人はあいつに祈るべきではないと思うのだよ」

 魔の囁きが、魂の炎の中に溶けてゆく。

「生きれば生きるほど、己を取り巻く糸は絡まり解けなくなる。解けたら解けたで、その先を手繰り寄せようと必死になる。右にも左にも答えはない。通り過ぎた道を引き返すこともできない。想いはあれど進めない、反対に思慮なく無我夢中で走り抜ける。絶望し、裏切られると知りながらそれでも希望を抱く。……人ならば誰にでもあることだ」

 男が少女から離れた。彼女の首には千切れた鎖だけが残り、男の手には青い鬼火。

「だが、有能な神様はそのどれも経験なさらない」

 彼はしばし鬼火の端を指でつまみ泳がせて遊んでいたが、

「そんな奴に何が分かる?」

 言葉の終わりと同時に放す。

 自由になった鬼火は、ふよふよと頼りなげに紺色の空へと昇っていった。

「神の声は美しいが、役立たずだ。あいつの言うことなど、もはや誰もが知っている」

 淡々と語る声はユニヴェールのものに相違ない。だが、ひとりの声に聞こえなかった。聴覚を研ぎ澄ませば、主の背後で低く厳かにいくつもの声が重なり渦巻いている。

「そんな奴を生きる拠より所にしなければならないほど脆弱ぜいじゃくなのかね、人というものは」

 シャルロ・ド・ユニヴェールは総意を代弁しているに過ぎない。最後にして最強の当主として、ユニヴェール家の総意を。

「見ているだけの者の言葉を、それでも正しいと信じるのかね、お前たちは」

 端々に感じる押し殺された反逆の意志。

「…………」

──反逆? 誰にだ? ヴァチカンか? いや、違う。

 自問して、アスカロンは気が付いた。

 ユニヴェール家は単に力が欲しかったわけじゃない。彼らは、神に並ぶ者、神に反逆しうる者を創ろうとしていたんじゃないか──?

 神が戯れに創り出した愚かな命の中から、その神を断罪すべき者を創り上げる。それこそがあの家の存在理由だったとすれば、どうか。血で血を洗う派手な相続争いに隠されて、外に向けられていた殺意に誰も気が付かないでいたのだとすれば?

「言っておくがね、お嬢さん」

 吸血鬼の指が少女のあごを掴んだ。カタリナのくすんだ金髪に、霜の銀髪がかかる。

「私は彼ら私の家族に檻を作るつもりはない。だが彼らが私の下にいる限り、何人なんびとにも、神にさえも渡しはしない。たとえどれだけの死が積まれようとも、それで世界からすべての生命が消えようとも、そして私が滅びようとも」

 過去。

 シャムシールが親恋しさに人間の老夫婦もとへ家出した時、吸血鬼は毎晩その家の屋根に寝そべっていた。彼らが小さな魔物を裏切らないかどうか、監視していたのだ。

 ルナールが彼に刃を向けた時は、気が済むまで斬られていた。そしてそのまま居候をさせ続けた。

 パルティータがヴァチカンに戻された時は、身体を失っていたにもかかわらず乗り込んだ。

「もし魔物退治ごっこがしたいのなら、別の標的を見つけなさい」

 調子は軽やか、口元には余裕の微笑。

「いいね?」

「…………」

 少女が険しい顔で吸血鬼を見上げた。

 男がやんわりと笑う。

「…………」

 目が合ったその時すでに、少女の双眸は魔物の紅い微笑に捕らえられていた。

 深く、深く、蛇のように意識の底へ滑り込む鮮烈な紅。見る者を引きずり込み、魅了し、麻痺させる紅。

 吐き気を催すほどの陶酔に心が溺れ、意志が呑まれる魔の紅。

「──“デッラ・ローヴェレはやがて緋色のいただきに立つ”」

 男の白い指が少女の唇をなぞっても、彼女は身じろぎひとつしなかった。

「神がそう言ったのだ。神は彼を選ぶ」

 吐息のような囁きは静かに、夢見る脳裏に刻まれる。

 凍えた夜風の中、身体の奥に熱がくすぶる。

「あの男こそが神の代理人にふさわしい。ペテロの玉座にふさわしい」

 予言は短く、記憶の隙間に。

 霧がかかった幻の狭間に。

 弱き人に抗う術などない。

「──カタリナ」

 アスカロンは落ち葉を踏んで少女の後ろに立った。

 一瞬の間に吸血鬼は、何食わぬ顔で明後日を見ている。

「君はまだ俺を救うつもりか?」

「貴方はいつまで地上に留まるつもりですか、エドワード。いつまで家族を苦しめれば気が済むんですか」

 はっきりと、少女が応じた。我に返る、その自覚さえないのだろう。ユニヴェールの意識の乗っ取りは、いつも芸術的だ。

 彼女は間髪いれず、闇に佇む魔物に向かって言う。

「いつか。いつか、あなたがたにも滅びの日が来ます」

 魔は、ただ口端を上げた。

「十年ほど前、先代のヴァチカンの聖女は化け物の手を借りて出奔してしまったと聞きます。けれど私は、決して彼ら(ヴァチカン)を裏切りません。そして、貴方がたのために祈ります」

 神に仕える者たちを、神を信ずる者たちを裏切らない。

 背約の者たちを、神の御許へと導き救う。

「……好きにすればいいさ」

 主がコキコキと首をならした。この男は興味がなくなるととことん態度に出る。

「パルティータ」

「はい」

「帰るぞ」

「……帰ってもいいんですが、私まだこれ返してないんですけど」

 隅っこでうつらうつらしていたメイドが、寝ぼけまなこでずいっと白い花を突き出した。

「!!」

 途端吸血鬼が目を丸くし、吠える。

「それを早く言え! 早く!」

 澄ました黒の麗人が、慌てふためきバタバタと彼女のもとへ駆け寄った。

「いつもは余計なことしか言わないクセにお前は肝心な時に──」

「眠かったもんですから」

「お前には睡魔と闘う根性は無いのか!」

「ありません」

「△☆×●♭%!」

 騒々しい主従を横目、アスカロンはカタリナを見下ろした。

「孤児だったエドワードはあの男に生かされた。神様じゃなく」


“生きるか死ぬか選べ”

 それがすべてだった。


「俺はあの男のためだったらお前も殺せる」

 今更十字架がひとつ増えようと痛くもかゆくもない。

「──孤児院のみんなも?」

 硬い問いに即答する。

「あぁ、殺せる」


“生きる”


 そう答えた時、エドワードはすでに人を止めていたのだ。




◆  ◇  ◆




 数日後。


 冷たい雨が教会の屋根を打っている。

 蝋燭の炎が、暗く湿気った空気を焦がしている。

 しかしその灯はあまりにも小さく、教会の奥にひっそりと置かれた懺悔室は、そのほとんどを夜の闇に覆われていた。


「……恐ろしいのです」

 雨の音よりも近く、懺悔室の格子の向こうで若い女がつぶやいた。

「何が恐ろしいのですか?」

 神父は沈着に返した。

「兄です」

 声は、月を映す泉の如くひっそりと汚れなく。

「……兄上」

 ほんの少しだけ、神父が息を正した。

「兄上が恐ろしいとは、どういうことでしょう」

「私は兄を愛しています」

 それだけは告白するのだと決心していたかのように、彼女が強い語気で言い切る。

「愛しているのです。父と、兄とを」

「愛すべき者がいて、何が恐ろしいというのです。彼らを失うことですか?」

「兄は──愛があるだけでは満足できない人なのです。彼の内には陽光よりも輝かしい野心があり、尽きることなく溢れています。運か、才か、道も拓かれつつあります。けれど私は怖いのです。いつかその野心が彼を滅ぼしはしないかと、突然道は途切れ彼は落ちてゆくのではないかと。……それなのに私は、突き進んでゆく彼の言葉に逆らえない。道が明るくなればなるほど、日々、彼の暗き未来ばかり見てしまい……どうすることもできないのです」

 ヴェールの下で震える紅唇。

 神父は、彼女の名を知っていた。

 彼女が、最近即位した教皇の娘だということも。

「祈りなさい」

 相手に見えていないのをいいことに、足を組み両手を頭の後ろで組み、椅子にだらしなく背を預け、神父は目を閉じて天を仰ぐ。

「神にではなく、貴方の兄上に」

「……兄に?」

「貴方の兄上はやがて人々の頂に立つでしょう。神はそれを知っておられる。だからこそ神に祈っても無駄なのです。貴女は貴女の兄上が神の意に添えるよう、苦難に挫けぬよう、祈って差し上げればよいのです」

「……兄が、頂に?」

「神の言葉を疑いますか?」

「──いいえ」

「ならば祈りなさい。地上の者を救えるのは、地上の者だけです」

「…………」

 諾とも否とも返事はなかったが、やがて濃い空気がゆっくりと動き、神父の鼻腔を甘やかな香がかすめていった。

 衣擦れの音、扉を閉める音、身廊を歩む音。耳に届くそれらの音は徐々に雨の音へと吸い込まれてゆき、ふと気付けば教会からは人の気配が消えていた。

 遠く、遠く、雨が大地を叩く。

 明日へ、明日へ、人が歩む。



「あの女は兄さんに神のお告げの話なんかするかね?」

 深緑の法衣をまとった神父は、ふてぶてしい姿勢をそのままに、闇へ問う。

「するさ。いつか、兄が窮地に陥った時に」

 闇は逡巡なく断言した。

「出来の悪い兄を持つと妹は苦労するのさ」

「じゃあアンタの妹も苦労したんだな」

「苦労などしていない。私の弟妹は皆、苦労する間もなく死んでいる」

 正しくは殺された、だろう?

 思ったが、そう訂正する気はなかった。

 代わりに話を戻す。

「聞きたいんだけど、ローヴェレとボルジア、アンタはどっちが勝つと思ってるんだ?」

「どっちが? ──いや、まだだ。まだ足りない。フランスにヴェネツィア……転がっている火種には片っ端から息を吹きかけてみよう。さてどうなるか」

 “今夜は屋敷の葡萄酒を全部空にしてみよう”──そんな陽気さで闇が応え、そんな陽気さでぽんと手を打つ。

「そういえば、ローヴェレはあの強情っぱり娘を手元に置くことにしたそうだな? 思わぬ回り道でパルティータまで巻き込んでしまったが、結果良ければ全て良し」

「養子というのはなくった。が、結局引き取られた。何かふたりだけの秘密の話でもあったんじゃないのか?」

「違いない!」

 人ひとりいない教会に、軽快な笑い声がふたつ重なって響く。

「神も人も同じこと。支配欲にはキリがない。高みから見下ろして笑うのは楽しいものな」

「でもアンタはいつまでたってもパーテルの番犬暮らし。この世を手に入れたいとは思わないのか? 公に教皇も女王も足蹴にできるんだぜ」

 そうしたら俺もこんな地味な諜報活動しなくて済む、神父はそうぼやくと懺悔室の扉を開けた。

「アンタなら造作もないことだろ?」

 広がった視界の先には、黒衣の男。数日前シスター・フランシスカが座っていたあの場所に、蒼白い顔した男がひとり座っている。

 蝋燭の炎を従え、空色のガラス玉──昼間遊びに来ていた子供たちが忘れていったものだ──をいじり、含んだ微笑を浮かべ。

「アスカロン」

 闇が神父の名を呼びガラス玉を弾いた。

「いつだってこの世は私のものだよ」

「──あぁ、そうだろうさ。アンタはそういう人だ」


 分かっている。


 だからこそ、雨が降る今夜も寒くはない。

 明日降る雨も、冷たくはない。

 明後日も、明々後日も、その先も、ずっと。




THE END





BGM by enya [ANYWHERE IS/BOOK OF DAYS/EVENIG FALLS]

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