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冷笑主義  作者: 不二 香
第二章 中編 GENOCIDE
36/88

GENOCIDE-12. Memento mori




「アンタが動いた時、我々の手から手綱は離れているとアンタは言った」

 人気ひとけなくがらんとしたユニヴェール邸の中を、ひとりの男が歩いていた。

「だがアンタは誰よりも動いてから、俺の雄姿を見ることもなく滅んだ。じゃあ──今は誰が手綱を握ってるんだろうな」

 黒騎士の衣装を身にまとった彼は、厳かな足取りで主を失った書斎に足を踏み入れる。 

 まだ人の気配が消えて三日と経っていないにも関わらず、空気は古く褪せていた。今までの騒々しさはすべて夢の泡で、この静けさこそが本当の姿なのだと言いたげな沈黙。

 もしくは無視。

「…………」

 黒騎士が部屋を横切り重いカーテンを開けても、窓の外に広がるのは春の夜の淡い闇だけだった。半壊した街は灯もなく夜に包まれ、ヴィテルボの街から引き返してきた彼の部隊もざわめきながら夜の中。

「つまんねぇな」

 改めて部屋の中を見回すと、いくつも並ぶ書棚には赤や緑、青といった色様々な背表紙の古書が並んでいた。ガラス扉のお高そうな飾り棚の中は、大理石と思われる小さな馬の彫刻やらルビーの原石やら船の模型やら酒瓶やら脈絡のない収集品で埋め尽くされ、目を落としたデスクの上には、何枚もの羊皮紙が散らばっていた。そのかたわらでは、とうに蝋の尽きた燭台が所在なげに主の帰りを待っている。

「アンタはどこまで世界をナメてるんだか」

 つぶやきながら手に取ったのは、広げられたまま放り出されていた一冊の本。表を返してみると、ワイン色の装丁こそ美しいが表題はない。金の飾りもない。しかしめくるページの上部に日付が刻まれ続けているそれは、一目瞭然書きかけの日記だった。

「へぇ」

 騎士の鋭利な爪が、いかにも貴族な気取った筆跡を辿る。

「“ヴァチカンがパルティータを迎えに来た”」

 読み上げたそれが、開かれたページ最初で最後の一文だった。味気ないと言えば味気ない。らしいと言えばらしい。ここの主にとっては日記など、他人の矛盾を突くための矛、あるいは自分の記憶に矛盾をきたさないための盾に過ぎなかったのだろう。

「……あのメイドに……ヴァチカンから、ねぇ」

 彼は、数年前にあのメイド、パルティータ・インフィーネを誘拐したことがある。一連の事件は暗黒都市女王の勅命であって個人の思惑などほとんどなかったのだが、この屋敷の主からはずいぶんと不興を買ってしまった。

 しかしさらったメイドは“ヴァチカン”なんぞという場所とは無縁な、信仰心の欠片もなさそうな娘だった。だがその一方で、あのユニヴェールが何故か娘から一歩退いていたというのも事実だった。信用していないというわけではない。番犬のクセに動かされるのが嫌いな吸血鬼が、罠と知りつつわざわざ取り戻しに来たくらいだ、大事な物だったことには違いない。が──。

「そういえばマリーも敬虔けいけんな信徒だったっけな」

 彼はわざと音を立てて日記を閉じた。

「ユニヴェールは神サマが嫌いだが、神サマの方は見捨てられるのがどうにもお嫌とみえる」

 嘆息まじりにつぶやいて横目、視界に入った書棚にも、同じような飾り気のない日記が並んでいた。一応は年代順に並んでいるらしく、適当に引っ張り出してページを繰ると、“プーリアでフリードリッヒに閉じ込められた”だの、“ミランドラ伯に会う。フィレンツェへ行く。”だの、やはり少々気になって探せば、“メイド誘拐。”と書かれたものもあった。

 そんな中──、

「“新しいメイドを雇う。おそらく私とは相容れることのない、ソテール・ヴェルトールと同属性の輩と思われる。詳細不明”」

珍しく複数行続いた記述があった。

 年は1484。察するに“新しいメイド”とはパルティータ・インフィーネのことだろう。

 あからさまに詳細不明ときたもんだ。

 しかし後のページをいくら探しても、それを補う記述は一切出てこない。調べようと思えばできただろうに、あの男は何もしなかったのだろう。

「とんだ道化だ」

 低くうなった男は、乱暴に日記を閉じると元の場所に戻す。引き出した時同様、埃が散って絨毯の上に落ちていく。

「相容れないと気付いていたのに飼ってたってぇのか」

 彼は、いつもユニヴェールが鷹揚な態度でふんぞり返っていた場所を振り返った。

「十年近くも」

 そこにはもう、誰もいない。馬鹿にしたような眼差しの吸血鬼は、いない。

「“相容れない”ことの意味が分からん人でもあるまいに」

 シャルロ・ド・ユニヴェール自身とソテール・ヴェルトールがその顕著な例ではないか。

 クルースニクとして歩みを同じくし、ヴァチカンの誇るデュランダル部隊の隊長・副隊長として名を馳せた彼らだったが、その身体に流れる血は光と闇。根本で相容れない存在だったがゆえに道は分かたれ、互いに刃を向け合うしかなくなった。

 それは単に連なる選択の結果だと言う者もいるだろう。そうかもしれない。だが、抗えぬ血がそれを選ばせたのかもしれない。

 黒騎士はデスクの前に戻った。

 再び日記を取り上げ、表紙をめくる。そこには金字で一文、刻まれていた。

「“Memento mori”」

 ──死を想え

「これまた、らしいねぇ」

 これは人々への脅迫だ。

 人々は祈り願い懺悔することによって、死の先にある神の統べる王国への扉が開くと信じている。永遠の安寧が約束された平和な地への入り口に立てることを、最も崇高なることだと信じている。

 しかしその扉の前にはあの化け物が立ちはだかっているのだ。

 幻想でも安らぎでも新たなる始まりでもない“死”が、峻厳しゅんげんたる山々の如く来る者を根こそぎぎ払う。

 死をおそれよ。終わりを畏れよ。殺めることも、自らが死すことも、誰かが死ぬことも、全ての死と終焉を畏れよ。

 その畏れを力に戦え。

 地吹雪のように迫る恐怖に対して振るう剣は、精神を熱くも冷たくも燃やし、人生を動かし国を動かし世界を動かし歴史を動かすことになる。

 死がその腕に受け入れるのは、与えられた地上の舞台で畏れを相手に全身全霊で戦いを演じた者だけなのだ。

「クルースニク時代のあの人は怖いもの知らずだったっていうからな……やっぱり死んだことを後悔してるわけか」

 黒騎士は彫りの深い顔に苦笑を浮かべ、日記から顔を上げる。

「そうだろ。違うか?」

 彼の視線の先。部屋の中、扉の前にその女は立っていた。

「ウォルター・ド・ベリオール。誰の許しを得て屋敷に、我が主の書斎にお入りになりました?」

 おっとりとした眼差しの奥に不動の凄みが居座る、蒼い魔女。

 氷風の声音が書斎の温度をひやりと下げる。

「デュランダルを放り出して物見遊山とはいいご身分です」

「……フランベルジェ」

 ベリオールの口端がつり上がった。獣の目が、底光りする。

「貴女にえるとは思ってなかった」

 薔薇のひとつも出てきそうなため息が羊皮紙の山に零れ落ちる。

「出てくるならアスカロンだと踏んでた」

「彼はそのつもりみたいだったけれど、私が頼みました」

 きめ細かい白い肌に、ローブの上から羽織られた淡青の薄絹。魔女というよりも雪の女王のていで女が一歩こちらに歩み来る。

「ふたりきりにして頂戴、とも」

「……そりゃ嬉しい」

 彼からも近付こうと黒騎士がわずか動くと、彼女は手をかざし止まれの意。そして、

「代償は支払っていただきます」

 言ってくる。

「それはゴメンだ」

 対価を支払う関係なんて、安っぽ過ぎる。彼女は魔女であって、娼婦ではない。

「ではどうする気です。このまま逃げるつもりかしら?」

 思っていると、挑戦的な氷の目に射抜かれる。

「逃げる?」

 その目を真正面から見返して、ベリオールはハンッと聞こえよがしに鼻で笑った。

「騎士がすたる」

 女を眼の前に逃げる? 酒場に放り込まれた深窓のボンボンじゃあるまいし。狙った獲物が自分から喰ってくれと言ってきたのだ、好機を逃す理由などない。

「じゃあ、やるのね? いい度胸だわ」

 緩慢な口調で、薄紫に彩られた唇が笑う。緩くウェーブした長い髪の合間から、白い首筋が美しく香る。

「やるさ」

 次瞬、彼は闇を渡り彼女の背後に立っていた。

「しかし、そんな余裕いつまでかましてられるか見物だ」

 蒼い髪に鼻先をうずめ、低く、噛み付くように耳元で囁いてやる。腰に手を回し、彼女の身体をぐっと引き寄せる。

きながら訂正する羽目になっても知らないからな」

 すると、彼女は面白くもなさそうに言ってきた。

「暗黒都市の軍団ひとつを潰すくらい、私たちには造作もないことです」

「……──は?」

 こちらを向かせようと彼女のあごを捕えた手が、ぴたりと止まる。

 目が点。

「えーっと、もう一度」

 人差し指を立てたベリオールの耳に、ようやく外の喧騒が飛び込み始める。

 若い男がゲラゲラ笑う声と、小さな子供がケラケラ笑う声。

 ──アスカロン、シャムシール。

 そして絶え間なく響き渡る異形の断末魔と、無茶苦茶な剣戟けんげき音。

「我が主を裏切った代償です。全員死刑」

「…………」

 彼女が固まったままのベリオールの手首を取り、くるりと反転した。

 涼しい美貌を目の前にしてなお、ベリオールは動かない。

「主は貴方に期待しているようでしたから。貴方は死刑ではありません。でも少しは反省していただかないと」

「…………」

 黒騎士の横腹に、短剣が刺っていた。

 生まれながらの魔物である彼にとってはこんなもの、致命傷ではない。

 だが、動けない。

「──何、を……」

 声を出すのも気力。全身の筋肉が麻痺しているようなしびれが刻一刻と強くなり、頭が朦朧もうろうとしてくる。

「私は毒を作るのが趣味なの。貴方たち狂戦士ベルセルクに効く薬も開発したのよ」

 彼女がにっこりと微笑んだ。

 ──それはいいご趣味をお持ちで……


 身体が絨毯に崩れたと同時、暗黒都市の黒騎士は己よりも暗い闇に引きずり込まれていった。




◆  ◇  ◆




「ダンピールが死に、ソテール・ヴェルトールが行方不明」

 パルティータは、クレメンティから告げられた言葉を平坦に繰り返した。

 身体の一部と言えるほどにまで同化していたメイド服は捨てられ、その身は十年前まで身体の一部だった修道着に包まれている。彼女がそれを着ていれば、誰もが嘲いながら平伏する黒い衣……だからこそここを出てから今まで、黒い服というものを避けてきたのだ。

 好きではない。

「“化け物ども”を一掃する──多くの人間が悲願と掲げては諦めてきたことをこんな短時間でやり遂げる者が現れるとは、思っていませんでした」

 ヴァチカン教皇庁の一室。地下に設けられたセーニのための監獄で、白い寝台の端に座り彼女は笑った。

「満足ですか? クレメンティ枢機卿」

 地下とは言っても通常思い浮かべるような暗く辛気臭い牢獄ではない。“セーニのため”、その枕詞が示すとおり、部屋は清廉に豪奢だった。幾重にもツタの細工が施された四隅の白い柱。大きな金の額縁に納められた、誰が描いたのかも分からぬ古い絵画。寝台には金紗きんさの張られた天蓋てんがいが付いていて、横に置かれたサイドテーブルの上には、光を散らす硝子の雫と共にダイヤやアメジストの粒が揺れる燭台。地下ゆえに窓はないが、一階の床を抜いた高い天井からは柔らかな陽光が暖かく降り注ぐ。

「満足? いいえ。まだ完全ではありません」

 光の中心に立ち、クレメンティが薄い笑みを浮かべて首を横に振ってきた。

「デュランダルと戦うはずだった暗黒都市ベリオールの軍が、デュランダルを回避してヴィテルボの街を包囲するという暴挙に出まして。化け物どもは街を蹂躙じゅうりんしようと脅しをかけるわ、民は怯え嘆き罵るわ……明らかな失策になりました。本当は、そうなった時には待機させておいたソテール・ヴェルトールを独りで行かせるはずでしたのに、あろうことかマスカーニ枢機卿が勝手にパーテル行きの許可を出し……」

法王選定会議コンクラーヴェが近いというのに、その失策は痛い失点でしょう」

 パルティータが緋色の男を見やると、

「えぇ」

 彼の琥珀色の目が眼鏡の奥から静かにこちらを見据えてくる。

 慇懃な優しさをたたえた目が、全てを語っていた。

「……その失点を補うための私、ですか」

「さすがはセーニでいらっしゃる。愚かでない者と言葉を交わすのは実に素晴らしいことです。時間の節約になる」

 男が恭しく胸に手をあて、柔和に微笑んだ。

 パルティータはそれをじっと見つめたまま、軽くうなずく。

「セーニは教会を、天なる主を裏切った。ヴィテルボに魔を呼び寄せたのはこの魔女です。ユニヴェールにくみしていたこの魔女です。ほら、元凶は捕まえました。さぁみんなで始末しましょう──、なるほどよく出来た話です」

「貴女が処刑されるのは、おそらく新たな教皇が立ってからになるかと思います」

「さぞかし華やかな余興になるでしょう」

 楽しげに言って、彼女は寝台から腰を上げた。長椅子に座るミトラ、鍵のかかった扉の前に立っているカリスを一瞥し、紅の薔薇の生けられたテーブルへと寄る。

 吐息のひとつも聞こえてしまいそうな静寂の中、裾をひきずる黒の衣がさらさらと衣擦れの音を響かせた。

「私は、ユニヴェールが正義の者だとは思っていませんし、彼を弁護する気もありません。あの男は死んでなお“ユニヴェール”に毒されていました。どれだけの者がどこでどう血を流そうが、死のうが、あの吸血鬼は全てを己の楽しみとしました」

「パルティータ?」

「しかし貴方たちは天に仕える者です。それが未来の定まらぬ若者を殺し、三百年己を犠牲にしてきた同胞を裏切るとあって──正しき道とは何ですか」

「我々の正義とは、人を護ることです」

 即答したのはカリスだった。あちらこちらに巻かれた包帯が痛々しいが、彼は涼しい顔を崩しもせず立っている。

「道を教え広めることではなくて?」

 優等生よろしく返せば、彼が笑う。目は笑わずに、口元だけ穏かに。

「それはクルースニク以外の者がすればよいことです。クルースニクになろうとするならば──そしてデュランダルを名乗るのなら、地獄に堕ちることなどおそれてはいけないのです。愛だけでは魔から人を護る事はできない。祈りは振り下ろされる鎌には敵わない。神が、我々が、相手を赦したとて、魔物は容赦なく人を喰い、闇へと引きずり込むのです」

 いつの間にかカリスの白皙が険しく曇り、今まさに地獄の淵に足をかけているような畏怖がにじんでいた。


 ──背約者。


 自らの口からそれを語り己もそうだと認めることが、デュランダルと言えども怖いのか。

 天なる主を裏切っていると、言葉にするのが怖いのか。

「右頬を殴られたからといって左頬を差し出していては、世界は暗黒都市に呑まれてしまいます。我々は人々が神を裏切らずに済むよう、神を裏切るのです。それがクルースニクとして生を受けたものの使命だと──正義だと、我々は解しています」

 もともと色の白いカリスは更に顔を蒼ざめさせ、もともと寡黙なミトラは口を結んだまま一言も発しない。

 デュランダルのまとう白は生き物の気配の全くない雪原の白だ。

 白く冷たく美しく、苛酷で非情で孤独。すがるものは何もない。

「右頬を殴られたら左頬を差し出す。人々にとってはそれが博愛精神の表れなのかもしれませんが、私の雇い主にとってそれはただの挑発にしかすぎません。“左も殴れるものなら殴ってみろ”とね」

「何が言いたい」

 ミトラが顔を上げた。

「貴方たちはユニヴェールの左頬も殴ったということです」

「賞賛ですか?」

「──いいえ」

 カリスの絞った声にあわせ、パルティータは低く半眼で否定する。

「警告です」

「…………」

 クレメンティが目を細めた。

「神やイエスに祈りなさい。助けてくれと。──しかし所詮、彼らには何もできないでしょうが」

「……パルティータ」

 ミトラが彼女の名を噛み殺す。

「いつから神を嘲っていた」

 彼が怒っているのは分かっていた。いくら、彼に非はなかったのだ、全てはセーニゆえなのだと言っても、パルティータが彼を裏切ったことには変わりない。

 ミトラは、聖騎士時代につちかった厳格さの反面、ユニヴェールに通ずる大人気なさが目立つ気安さで、師というよりも保護者だった。

「…………」

 パルティータは歩み寄ったテーブルに片手を置き、白い大理石の床面に目を落とす。自らが映りそうなくらい、無駄に磨き抜かれている石。しかしそこに映ったものが信じるべき真実なのかどうかは、疑わしい。

「嘲ってはいません。ここから出て世界を見、神は──誰よりも人間的な裁判官なのだと思っただけです」

 彼女は“セーニ”の顔で言った。

「自らの正義を人々に押し付け、意にそわねば水で押し流し滅ぼし、異教の神など寛容できず、アブラハムの忠誠を疑い愛息を生贄に出させその心を試し、イエスに数多の罪を負わせ救世主として世に遣わし、“人”としての彼を奪い。……救世主であれという人々の期待は呪いであるとも言えませんか? 人々の勝手な祈りは波の如く息を継ぐ間もなく押し寄せ、地を埋め尽くし天を覆い……彼に逃げ場はない」

 頭上から、かすかに聖歌が聞こえてきた。子どもたちの歌う、聖歌。

 病状芳かんばしくない教皇のために、誰かが聖歌隊を集めたのかもしれない。

 パルティータは歌に耳を傾け口を閉じ、時を置いてつぶやく。

「人々はどれだけ神の期待を裏切ってきたのでしょうね。そして神は、どれだけ人々を裏切ってきたでしょう」

 そして続ける。

「民の祈りを、願いを、期待を、どれほど捨ててきたでしょう」

 彼女は自分の手の平を見下ろす。

「神は世界を滅ぼしてからでなければ人を救えない。最後の審判でなければ救えない。今この時、地上のすべてに望まれるだけの幸を与えることはできない。だからこそセーニは教皇ではなく王となることを目指したのです。神を見限って」

 彼女が言い置いても、部屋には薄く清らな歌声が聞こえ続けていた。

「…………」

 カリスが金髪を揺らして上を仰ぐ。

 パーテルの戦場にいた時とは比べものにならないほど、穏かな目で。

「セーニならば、そう言うかもしれませんね」

 壁を隔ててなお届く疑うことを知らない合唱は、灰色に毒された牢獄の空気を白へと浄め、鋭く研がれた心を急速に風化させてゆく。

 追いかけ追いかけられ、歌声は急速に高みへと駆け昇ってゆく。

 目まぐるしく移り変わる世の不浄一切を包む白に、圧倒されて染められる。

 ここは神に仕える者たちの総本山。

 人々が支えとする、揺らぐことなき柱。

 世界の要。

「人は弱いものです。不自由も神の愛と思えばこそ耐えられ、悪に染まろうとするその時には、神の怒りを思い出してこそおのの懺悔ざんげする。地上の苦役も神の導き、だからこそいずれ天で報われると信じて励めば生きられる」

 カリスが天を仰いだまま言った。

「我らは、我らの背約によって人々が天の国に近づけると思ってこそ、剣を掲げて生き続ける。神は、おられるだけで多くの者を救っているのです。神は物をくれる者ではない、精神を律してくださる方なのです」

「人が生きるのは地上です。それなのに人は空ばかり見上げる」

 憂いではなく、糾弾。

 彼女は三人の聖職者を順に眺めてゆく。

「ユニヴェールはいずれ神の正体を──裏切りを暴くでしょう。天にいる者は、人々が描いているような“完全なる父”などではない、と」

「彼は滅んだ」

「そう」

 パルティータは生けられていた薔薇を数本引き抜き両手で掴むと、真ん中からバキッと折る。力を込めてねじり切る。

「彼は滅んだ」

 言葉と共にぱっと手が広げられ、折れた茎が白い石床に落ちる。真紅の花もまたぱさりぱさりと落ちた。

 その上に、棘で刺された彼女の血がぱたぱたと降る。

「けれどそれは、貴方たちの神が彼に勝ったならの話です」

「…………」

 薔薇の上に散った赤い飛沫は、茎を伝い葉を伝い、何かに呼ばれるように──あるいは自重に引かれてか白い石へと落ちていく。

「ちなみに、私にとってはお給料をくれる方こそが神様です」

 両腕を大仰に広げた格好のまま、彼女はキッパリと付け足した。




◆  ◇  ◆




 ──パーテルの戦いから三ヵ月後。季節は夏へと変わっていた。


 パルティータ・ディ・セーニの言により危惧されたユニヴェールの復活はなく、共闘・休戦の密約など反故にしてこの手薄な状態を突いて来そうな暗黒都市も何故か沈黙を護り続け、ヴァチカンは先の戦いで崩壊状態となったデュランダル組織を立て直すため、マスカーニ枢機卿の下クルースニク養成を強化し始めていた。

 その一方でユニヴェールが遺した影は嘲うかのように闇をはしり、各国から甚大な被害が報告され、教皇庁の頭痛の種となっていた。

 街がひとつ大量のねずみに襲われただの、村がひとつ氷に覆われただの(この暑い季節に、だ)、一夜のうちに屋敷の住人全てが殺しの形跡もなく息絶えていただの……。

 報告されるものの内──特にローマ近郊ではホーエンシュタウフェンの仕業と思われるものも多い。真昼間の物陰から剣を閃かせ、石畳の路上を血に染める手口。彼が獲物を仕留め損ねた例はなく、日に数人が犠牲になることも少なくない。

 おまけに、ユニヴェールの滅びで手を叩いたのも束の間、時が経つにつれ、再びあの化け物が甦るのではないかという恐怖が人々の中に染み出し始めていた。




「クレメンティ枢機卿、ユニヴェールを滅ぼしたとて、これでは何にもならないだろう」

 上は報告書を苛立たしげに叩いてそう言う。

「このままでは威信が丸潰れになりかねん。浅ましい連中がこぞって難癖をつけてくるぞ」

 ユニヴェールなんぞ、結局単なる化け物に過ぎなかったと思っている連中はそう言う。

 このヴァチカンの、……神の存在意義そのものを揺るがす男だったと分かっていない連中は。

 しかし無理もない事なのかもしれない。クレメンティ自身でさえ、ミトラやカリスの言葉を聞かなければ、ユニヴェールを滅ぼす意味を何も理解しないままいたのだろうから。

「各国に散らばるクルースニクを集めデュランダルの再編成を目指してはいますが、どの国も自衛をしたいのは同じこと、クルースニクを手放そうと致しませんので」

「ダンピールとソテールを殺ったのは間違いじゃなかったかね?」

 ──ソテールは行方不明です。

 わざわざ口頭で正してやる気にはならない。

 そもそも最終的に決定したのはこの連中なのだ。アレコレ過去を振り返って疑問を投げかけられる筋合いはない。

「ミトラ、カリスで連中を追っ払うことはできないのか?」

「二人は先の戦いで負傷しています」

「それは分かっているが……」

「貴方がたはユニヴェールが何であったかお分かりでない。その上、三使徒とホーエンシュタフェンがただのオマケだと思っていらっしゃる。デュランダルまで、いくらでも代えの効く手駒だと思っていらっしゃる」

 クレメンティは直立不動のまま、機械的に言った。

「クルースニクになるということは、生易しいことではありません。今のヴァチカンでは、三使徒の誰ひとり始末することはできないでしょう」

「結局──君には荷が勝ちすぎたということか」

「……そうかもしれませんね」

 言いながら、彼は薄い笑みを浮かべていた。

 確かに揺るぎない地位は欲しかった。だがもはや彼の前に座り並び眉をしかめている者たちの評価などどうでもいい。人々のすがる天の玉座が護られれば、それでいい。

「しかし、方法がないわけではありません」

「……ほう。言ってみたまえ」

「シクストゥス四世に習えばよいのです。三使徒とホーエンシュタウフェンを煉獄から救うため、誰かが贖宥しょくゆう状を買ってやればいいでしょう。あれは罪の償いを免除できるとも聞きます。あの方の代から死者にも適用されるようになったのでしょう? まぁ、どれだけ支払えば救われるのか、若輩の私には見当もつきませんが」

 肩をすくめながら言ってやると、瞬時に部屋が凍りついた。

 口を開けたり閉じたり空気を求めている老翁たちに対し、クレメンティは眼鏡の奥から上目遣いに返答を催促する。

「ユニヴェールも始めからそうすればよかったでしょうか。とはいえ、あの男は世界中の金を積んでさえ救われるかどうか難しいところですが」

 報告書を持つお偉方のシワだらけの手が、細かく震えていた。

 地位を捨てた男は更に言い募る。

「インノケンティウス八世のご子息はメディチの娘と結婚なさったんでしたね。ならば、ユニヴェールの贖宥状も三使徒やホーエンシュタウフェンの贖宥状もすべてメディチに買わせればよろしい。それで今度こそユニヴェールの影も消え、世は安息を得るでしょう」

 暗黒都市とユニヴェールが別々の方向を向いていたのと同じく、教会とクレメンティが向いている方向も違っていた。打倒ユニヴェール、三百年に渡る大儀を掲げていながら、言葉に込めた意味は違っていたのだ。

 今や、クレメンティは天を護ることを求め、教会は教会を護ることを求めていた。

「民間の死者を増やした責任は──」

 憤激の沈黙が一本の糸を張る中、一人がジロリとクレメンティを睨み据えてくる。

「もちろん私が取りますよ」

 彼は間を置かず言い切った。

 嘲笑でざわつく面々に鼻先で笑い返し、彼らの言葉も待たずに緋色の衣を翻す。

 衛兵を制して自ら押し開けた扉の横には、石の大天使ミカエルが剣をかざしどこともつかぬ遠くを睨み据えていた。

 引き止める声は、なかった。




 数日後。ヴァレンティノ・クレメンティに地方での布教活動命令が下された。

 あの男は功を焦って失敗したのだと、噂された。


 そして同日。──1492年7月25日。

 空一面どんよりと厚い雲に覆われた、蒸し暑い午後。

 危篤状態で寝台に横たわる教皇の下に、隣室から見目麗しい青年が連れてこられた。

 寝台の横に立つ医者は、「教皇をお救いすることは、何ものにも勝る貢献です」彼にそう言った。

 そして聖なる人の命を繋ぐべく、青年の身体から教皇の身体へと、直接輸血を行い始めた。

 赤き血は生命の源。老いた血を捨て、若き血と入れ替えることにより、再びこの聖なる人をよみがえらせることができる。魔女の蔓延するこの地を浄化する力を得る。

 医者はそう歌った。

 その手元は溢れた若者の鮮血で赤く染まり、寝台からも溢れて床へと流れ滴り落ちる。

 高貴な紅と清浄の白、そして荘厳な金色とで彩られた部屋に、吸血鬼が喰い荒らした以上の酷い血臭が充満した。

 控えていた枢機卿がひとり、血の気の失せた顔で口元を押さえ出て行った。

「あなたの役目は終わりました」

 一人目の若者が半ば瀕死で部屋から出され、隣室で控えていた二人目が呼ばれる。二人目が用済みになれば三人目……。

 この医学的実験は、新しき血によって教皇が甦るまで、終わらない。

 部屋から出された若者たちは、手当てのひとつも施されることなく死んでゆく。

「往生際の悪いこった」

 インノケンティウスは、その軽薄な声をぼんやりとした頭で聞いた。

 もはや痛みも匂いも感じていなかったが、ゆっくり目を開くとかろうじて──かすれた視界が残っていた。

「なぁオッサン、そろそろ時間じゃねぇか?」

(…………)

 馴れ馴れしく軽口を叩いてくるその男に、見覚えはなかった。

 しかもその男は虚空であぐらをかいている。

(…………)

 教皇は医者へと視線を移したが、神妙な顔をしたユダヤの医者は珍妙な客には目もくれず、輸血に使った若者を退出させろと命じているようだった。

(お前は──、何者だ)

 厳として問うてやりたいが、腹に力を入れることさえ思うようにならない。

 ところが、相手は肩をすくめて答えてきた。

「アンタが嫌っているひとりさ」

(ユニヴェールは……クレメンティが片付けた)

「片付けたのはフリードだろう」

 男が口を歪め蔑んだ目つきで彼を見下ろしてくる。自らの主を金の重さで決め、敵も味方も金の流れるままに戦地をうろつく傭兵。男の目は、それを思い出させた。虫唾が走る。

(……何の用かね)

「アンタは知ってるか? ユニヴェールの飼っている四匹の魔物。ひとりはホーエンシュタウフェン、ひとりは蒼の魔女、ひとりは獣使い。さて、もうひとりは何でしょうか」

(────!)

 身を乗り出しニンマリ笑う男に、教皇は声なく叫んだ。驚愕の形相でもがき、必死で男から離れようとする。額に、冷や汗が浮かぶ。

 自分の目の前にいる者が、何であるのか悟ったのだ。

 だがいくら逃げようとしても、痩せ細った身体はぴくりとも動かなかった。

(三使徒……アスカロン……!)

「俺、こっちの言葉でなんて言うのか知らないんだけど、俺の母国語で分かるか?」

主よ(ピエタ)憐れみたまえ(スィニョ-レ)

 全てを察し諦めた病人は、すでに男の言葉など聞いてはいなかった。

 聖域に魔物が入った事実に心を砕くこともなく、彼は濁った両眼を天に向ける。

(主よ、我らを(サルヴァ)救いたまえ(ノス デウス)

 その目には、白い天使たちが空を割り歌を歌い降臨する幻想が映っていた。

 雲間に、光の溢れる天の国が見える。

「あーらら、幻覚見始めたか?」

(主よ、私はここにおります)

 粛清に粛清を重ね、汚れた世界の浄化に努めた教皇の手が、天の国への鍵を求めて伸ばされる。

「主よ、私は無垢イノセンスのまま、あなたの御許に参ります」

 突然のしわがれ声に、ユダヤの医者が振り返る。

 瞬間、天へと伸ばされた教皇の手が落ちた。

「残るひとりは、魂食者ソウルイーター

 独り言のようにつぶやいた魔物が、教皇の上にさっと手をかざした。虚空で何かを掴み、口の中に放り込む。

「……身罷みまかられました」

 医者が、感情のこもらない声音で告げた。

 扉の前に立っていた枢機卿たちは、何も言わずに一礼し、退出してゆく。寝台の横には、絶命した青年が光のない目を開けたまま血の海に沈んでいる。

「…………」

 魔は指を舐め、ただ笑っていた。

 生贄たちが流した若き赤い血が、ゆっくりと絨毯に染み込んでゆくのを見下ろしながら。




◆  ◇  ◆




 ローマの街に、レクイエムが響き渡る。

 輝ける夏の光の中、教皇の盛大な葬儀が執り行われた。

 十字を握り立ち並ぶ緋色の枢機卿団、その胸の思惑はそれぞれの黒い影の中にしっかりと隠したまま。

 かくして、メディチのロレンツォが逝き、インノケンティウス八世が逝った。

 ユニヴェールが滅び、ソテールが落ち、フリードが死に、セーニが捕まり、暗黒都市の軍が破砕され、デュランダルが壊滅した。


 あの男が宣言したとおり、ひとつの時代が息絶えたのだ。




校正時BGM:Thomas Bergersen[A Place in Heaven]  City of the Fallen [Throne of Divinity]

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