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冷笑主義  作者: 不二 香
第二章 中編 GENOCIDE
34/88

GENOCIDE-10. 裏切り パート2




 ──インノケンティウス3世。


 皆が言葉を失う沈黙の中、“うっそー”とルナールの囁く声が滑稽こっけいだった。

 アスカロンは顔を強張らせ、フランベルジェは普段さぼっている分まで目を見開いて、ユニヴェールとパルティータを見つめている。

 デュランダルの中でさえ知っている者はミトラ、カリス以外いなかったのだろう。町の人々を護りユニヴェールの凶行から逃れた数人のクルースニクも唖然呆然のていで立ち尽くす。

 それぞれに吹き付ける風は強く、空を覆い始めた暗雲は速い速度で流れてゆく。もうすぐ夏だと言うのに、吸血鬼の告げた名におびえて後ずさりしようとする季節が指の先から熱を奪ってゆく。


 ──インノケンティウス三世。


 その名を知らない者など、この場にいない。

 どれだけの聖職者が、権力者が、民が、彼に振り回されたことか。どれだけの教皇が彼を目指し、挫折したことか。

 世界の全てを我が物としたいというあの男の野望は、後の世を継ぐ誰のものより強く固く純粋だった。若くして枢機卿となり、若くして教皇となり、彼は持てる時を全てその想いを達成することに費やした。そして、日々埃が積もってゆく歴史の中に名をのこすことに成功した。



「で、パルティータ……ディ・セーニ。お前はあの男の縁者かね?」

「直系だ」

 吸血鬼の問いに応えたのはミトラだった。

 ユニヴェールが片眉を上げ、肩をすくめる。

「聖職者──教皇ともあろう者に直系がいるとは驚きだ。神が聞いたら何と言うだろう」

 もちろん彼の嫌味は、教皇、枢機卿の甥、姪と称される者の中には多く息子、娘が存在しているということを知っていてのものだ。

 世は背約と欺瞞ぎまんで溢れている。

「パルティータは十二代目に当たる」

「それはまた随分大事にされたカゴの鳥で」

「あの教皇を輩出したアルベリク家の人間だというだけでは意味がない。セーニを継ぐ者、インノケンティウス三世自身の血を直接引く者でなければ意味がない。ヴァチカンはお前のさとい目に地獄耳に捕まらぬよう、直系を隠しに隠して機を待った。更なる予備の切り札──ダンピールを確保するまで、三百年もの長い年月」

「あの男が破門した私を、ゆるすために?」

「そうだ」

「……そういうことか」

 ユニヴェールが目を伏せて小さく嘆息する。


(……そうか)

 吸血鬼のため息と同時、ソテールも理解した。

 三百年前、ユニヴェールはインノケンティウス三世に向かって言った。“貴様ならたった一言で私を滅ぼせたかもしれぬのにな”、と。

 その一言とはつまり、『赦す』。

 破門を解く一言だったのだ。

 ユニヴェールは、“ユニヴェール邸の惨劇”による破門の死によって吸血鬼となった。安らかに眠ることを許されなかった。生きては死んでゆく人々を見送るだけ見送って、自らはその列に加われない。並ぶことが許されるのは他人の黒い葬列だけ。

 だがそれが赦されれば?

 あの忌まわしい罪を赦され、神の御許みもとへと続く白い列に加わることが許されたら?

 果たしてそれでも、あの男は吸血鬼でいられるのだろうか。滅びず、存在し続けられるのだろうか。

(……それを試すためだけにインノケンティウスの血を三百年飼ってたのか……)

 ソテールは、絵版画の束を足蹴にしたまま微動だにしない灰色メイドを見やった。黒髪をなびかせ風に吹かれている彼女の顔からは、何を思っているのか読み取ることはできない。

 あるいは、本当に何も思っていないのかもしれなかった。

(……痛い)

 ふと、置き去りにしてきたはずの身体の痛みがじりじりと追いついてきていることに気付いた。

 叩かれた内腑ないふが、斬られた傷が、折れているのかもしれないあばらが、闇に貫かれた脚が、各自好き勝手に痛みを訴えてくる。吐き気のする痛み、脈打ちうずく痛み、呼吸を拒む痛み、焼け付くような痛み……。

 ユニヴェールはとうの昔に失っているはずのこの感覚。未だ自分に残っていることがわずらわしくもあり、しかしどこか片隅で安堵する。

(脆弱なもんだな、人間ってのは)

 自嘲気味に毒づくそばから、火照る全身が痛みに侵食されてゆく。視界がかすんで揺れる。聖剣を握っていることも、立ち続けていることさえもが辛かった。

 しかし、低く独白に近いミトラの声は止むこと無く耳に入ってくる。


「我々は幾度となく実験を繰り返した。吸血鬼は本当に破門を解かれることにより滅びるのか、破門を言い渡す教皇と赦免を与える教皇は同一でなくてはならないのか、直系ならば同一とみなされるのか」

「実験──していたの?」

 フランベルジェの言葉は、ミトラの話をただ聞いていたカリスに向けられていた。

「ヴァチカンが、故意に吸血鬼を作って?」

「そうです」

 金色の髪を血に染めた神父の返事は素っ気ない。使命だと正義に毒されているわけでもなく、神への背約だと歯噛みするわけでもないその声音が、静かに薄気味悪い。

「そして答えは出ました。破門により作られた吸血鬼は、破門を解かれれば存在理由を失って滅びる。安らかな眠りへと帰る。破門と赦免の教皇が違っては効果はないが、破門した教皇の直系の言葉ならば吸血鬼を滅ぼす力を持つ。地位ではなく、血が重要だったのです」

 彼は言い置き、そしていつまで経っても血が止まらない腕をきつく押さえて大きく息をつく。美しい白装束が台無しだ。

「フランベルジェ。短剣に何か塗りましたか」

「私は魔女だもの」

 蒼い女がそう言って、手にしていた短剣をカリスの足元に放った。

 地を滑った短剣は、大小連なる青玉が埋め込まれた装飾品。だがその鈍色にびいろの刃には砂に塗まみれた血と、薄い緑色をした粘り気のある液体。

 カリスが無表情に見下ろして、つぶやいた。

「ユニヴェールを追って、貴女方もインノケンティウス三世に破門されました。そして貴女は私が殺しました」

「今度は私が貴方を神の御前へ連れて行ってあげる番ということね」

「パルティータ」

 神父は魔女を無視した。

 名を呼ばれたメイドの黒い目が、動く。

「貴女の一言で呪われた死が四つ終わります。死してなお安息を得ること叶わず、後ろへ退がることも前へ進む事もできなかったまがい物の命が本来の姿に還るのです」

 ソテールは、このカリスという優男、いつもミトラの横にある影としか認識していなかった。

 神父であるには相応しい物静かなクルースニク。だが戦場を駆けるにはひと欠片のもろさが危ういクルースニク。

「貴女が彼らを赦しても、多くの者を殺めた彼らの罪は決して消えないでしょう。彼らへの恐怖から人々を解放しても、我々の犯した罪が消えないのと同様に」

 何故あんな男がいつまでもデュランダルにいるのかと、淘汰とうたされず残っているのかと、不思議に思ったこともある。

「それでもお願いします、パルティータ。彼らを死に還してください」

「…………」

「人間が五十年、多くて百年で生を終えるのは、それ以上耐えられないからです。我々の、傲慢で壊れやすいこの扱い難き精神では、それ以上長く世界と戦うことができないからです。失望し、絶望し、い上がる。口で言うのは容易たやすいけれど、這い上がるまでにどれだけの労力を使うと思いますか? 放棄した方がどれだけ楽なことか。けれど人は、五十年足らずの命なのだからと自分に言い聞かせて、なけなしの根性をはたくことができる」

 彼は確かに傑出した薬師であり、年若いデュランダルにとっては毎度小言の雨を降らせる教師でもある。

 けれど彼に剣は似合わない。

「人間の身体が朽果てるまでの時間制限。しかしそれは我々の精神のために設けられた時間制限です。目に映るのは色鮮やかな欲、耳に響くのは正せない不条理。時に鋭く時に気付かないほど鈍く、それらは人々の精神を傷つけ腐敗させます。それに耐えられるのが多くて百年!」

 しかし、やはりこの男もデュランダルなのだ。

 白く冷たい芯がある。己の精神を長くこの世界にさらしてまでも、闇を払おうとする理由がある。

「三百年。充分過ぎるでしょう。私は彼女フランベルジェにこれ以上世界を見せたくありません。私ももう見たくない。だから──お願いします、パルティータ」

「──……」

 フランベルジェが何か言いかけて、言葉を見つけられずに口を閉ざす。

 一方、

「お願いされるとは思っていませんでした」

 どうでもいい感想を漏らすパルティータ。

「そうですか?」

 返すカリスの言葉は白い。そしてオリーブの目は冷たい。

「貴女がご自分の立場をいとわしく思っていらっしゃることはミトラも私も分かっています。それでも、貴女の血は変わらない。教会から逃げ、自ら滅ぼすべき者の影に寄ったとて、何も変わりはしません。本来ならば怒鳴りつけたいところですが、他人様の手前、お世話になった貴女のご先祖様に敬意を表しているのです」

「私は、私の立場を嫌っているわけではありません」

「ならば何故ヴァチカンを出た?」

 ミトラがカリスを継いだ。

「何故多くの者を奔走させ、多くの者の首を飛ばした?」

 ともすれば大股に歩み寄って娘の頬をひっぱたきそうな勢いだった。

 だが、勘気をあてられている娘当人はそんなものどこ吹く風。彼女は瞳の奥に笑みさえ浮かべて言う。

「教会は──あの男の血を引く人間たちが、あんな小さな箱庭で三百年我慢していたことにまず疑いの目を向けるべきでした」

『…………』

 ミトラの気配が硬くなり、カリスのさらりとした容貌がわずかに歪んだ。

 そこにパルティータが眉根ひとつ動かさず追い討ちをかける。

「セーニは、世界を掌中にしようとするほどの野心を持った男の直系ですよ。それが黙って教会の言いなりになり続けるなんておかしいとは思いませんでしたか?」

『──!?』

 驚愕を隠せなかったのはミトラやカリスだけではない。ソテールも、ユニヴェールまでもが目を開いていた。素直に驚いた真紅が、メイドを凝視する。

「教会がセーニの血だけでは安心できずダンピールの出現をじっと待っていた長い間、私のご先祖様たちはカゴの中で安穏としていたわけではなかったということです」

 セーニの末裔はどこまでも淡々としていた。

「美しく清らで狭く閉ざされたカゴの中。彼らは自らに課せられた使命など微塵みじんも気にかけることなく、こんなところに閉じ込めた教会に復讐することだけを考えていました。それも一番効果的に斬り返すべく。そして──」

「教会がダンピールを手に入れると同時に、出奔してやることを思いついた」

 ユニヴェールの言に、パルティータが軽くうなずく。

「そうです。セーニ。デュランダル。ヴェルトール。ダンピール。……対ユニヴェールとしてのそれらすべてが教会にそろうその時を、自らが自由を得ることにより壊してやろうと考えたのです」

「復讐し、なおかつカゴから羽ばたく。──なるほど、あの男の血らしい狡猾こうかつさよ」

 ユニヴェールがこちらへ歩いて来ながら独りで納得する。

「教会に知られずセーニに受け継がれていたものはみっつあります。ひとつ、受け継がれるたび詳細になってゆくヴァチカン地図。抜け道完備。ふたつ、この計画。みっつ、裏切る意志」

 パルティータが一拍置き、ミトラに向き直った。

「私が逃げたのではありません。逃げるべき時のセーニが、私だっただけのことです」

「……その話が真実だと、証明できるか」

「する必要がありますか?」

「……いいや」

 クルースニクの長がやんわりと首を振る。風に吹かれさらわれる赤銅色の髪の下、唯一表情の見える口元が力なく笑っていた。

「無意味なことだ」

 男は噛みしめるように言った。


 彼が親代わりとなり育ててきたヴァチカンの切り札は、始めから彼を裏切るつもりだったのだ。

 ラテン語を教えている時も、聖歌を教えている時も、庭に植えられた薬草の名を教えている時も、彼女の黒い目はインノケンティウス三世の眼差しで彼を見ていたのだ。

 白く強く遥か高みから見下ろすあの眼差しで、神をあざわらい、教会を嘲い、彼を嘲い──。

 もし彼女の言葉が嘘だとしても、彼女が裏切ったことは変わりない。

 ……あるいはその方が、恐い。彼女が彼女の意志で彼を裏切ったと言われる方が恐い。

 セーニの陰謀だと知って“良かった”と思っている自分がいることを、彼は自覚しているだろう。


Bravo(ブラボー)!」

 突如、ソテールの横から一歩進んだ男が声を上げ、張り詰めた空気が破られた。

「おい」

「素晴らしい、素晴らしい!」

 ゆっくりと手を叩き鳴らして皆の視線を集めたのは、無論吸血鬼シャルロ・ド・ユニヴェール。

「それでこそセーニよ! あの血には不自由な牢獄の鳥など似合わぬ。教会ごときの従順な駒など許されぬ!」

 化け物は叫んで高々とわらう。

「セーニは教会に裏切られた。教会は崇めるフリをしてセーニから自由を奪った。新たなるインノケンティウスが現われぬようにと! そして教会はセーニに裏切られた。セーニは使命をまっとうするフリをして教会に復讐した。下賎な者どもに好き勝手されてたまるかと!」

 破壊の跡に朗々と響く声。

 彼の紅の目には再び暗い光が差し始めていた。

「暗黒都市も私を裏切ったつもりだろうな。ベリオールが早々に出陣したのは、ローマからデュランダルをおびき出すためだ。しかし奴らはデュランダルが進む道からは器用に外れて戦わなかった。何故か。──向かって来る者以外に手は出さぬという受け身な私に先陣を切らせるためだ」

 そしてメイドを白眼視してこれみよがしにため息をつく。

「あげく私が小間使いの主だと思っていたら、小間使いの方が私の主で教会の主だったとは、間抜けもはなはだしい」

「…………」

 パルティータがムッとした顔で口を曲げた。

「言わせてもらいますがそれは──」

「貴方だって僕を裏切った」

「…………」

 反論を遮さえぎられ、彼女が声の主へと目線をやる。

 皆の視線もそちらを向く。

「……フリード」

 無意識に、ソテールの口端から乾いた吐息が漏れた。

「分かってます。裏切られたんじゃなくて、僕が勝手に期待していただけだってことは。分かっているんです。貴方は貴方自身にも、僕にも、──誰にも関心がないことくらい」

 蒼い双眸、銀の髪、細い体躯に白外套。目元が柔らかいのは母親譲りなのだろうか、そんな若者に音もなく重なるのは、ソテールが初めて会ったシャルロ・ド・ユニヴェールの姿だ。出会ったのは、お互いにちょうど今のフリードくらいの歳だった。

「親は子を裏切るもので、子は親を裏切るものだ。そうでない方が白々しくて信用できん」

 ミもフタもなくユニヴェールが言う。

「お前、そういうことじゃないだろう」

 ソテールは横目で男を睨みつけた。

 だが吸血鬼は飄々と睨み返してくる。メイドがメイドなら主も主だ。

「貴様だってフリードに裏切られただろうが。クルースニクにする気なんてなかったくせに」

「それとこれとは問題の在り処が違う」

「違わない」

「“ユニヴェール”に親を語る資格があると思うのか」

「“ヴェルトール”なら語れるというのかね」

「少なくともお前の家よりはな」

「独身貴族の貴様に親だの子どもだのをさとされる筋合いはない」

「誰のせいで独り身やらされてると思ってるんだ、殺すぞ」

「あぁ望むところだやってみろ」

「貴方にとって僕は何なんですか!」

 フリードが叫んだ。

「…………」

 ソテールは思わず口をつぐんだ。

「…………」

 ユニヴェールも黙って自分の相似形を眺めやる。そしてその蒼を見つめて静かに告げる。

「私にとってのお前は──唯一私の血を分けた息子(モン フィス)

「…………」

 フリードが虚を突かれたように小さく口を開けた。言葉はない。

 そこに吸血鬼の声が続く。

「だが、お前にとってのお前は吸血鬼始末人(クルースニク)だ」

「…………」

 いつも控え目なフリードの双眸は、真っ直ぐ父親を射抜いていた。今聞かされた低い言葉を、その目から己の中に刻み込むように。自らの存在を条件なしに受け入れてくれた言葉と、甘えを許さず断ち切られた言葉と。

「息子、ですか」

「それ以外に何がある」

「……そうですね」

 彼は外套の中にそっと手を入れ、首から下げたロザリオを握った。銀色の華奢な形をしたそれは、母の遺品。“父さんには全然効かなかったのよ”、そう言って笑っていたのがおぼろな記憶。


 十年。ヴァチカンに連れて来られてから十年間、彼は自分は何なのかと問い続けてきた。

 まわりはユニヴェールのダンピールだと言ってもてはやし、ため息をつき、ねたみ、同情する。けれど彼にはまるで実感がなかった。朝に夕に緋色の枢機卿から自分の使命を切々と説とかれても、他人事のように感じていた。

 ヴァチカンの誰も彼もが忌み嫌うシャルロ・ド・ユニヴェール。

 腕に抱かれた記憶はおろか声をかけられた記憶もないというのに、どうして父だと認められよう。本当に父ならば、子を手放したりするものか。敵に渡したりするものか。ヴァチカンに会いに来る事は不可能としても、何か気にかけてくれるはずだろう。母の命日に、子の誕生日に、何か!

 “やはりダンピール”、“やはりユニヴェールの……”、そう言われるのが嫌で、何をするにしても目立たないようにした。失敗もせず、大成功もせず、上手でもなく、下手でもなく。

 一番は剣術だ。できないフリをし続けた。苦手だと言い続けた。学友の剣なんて、目をつむっていたって避けられたのに。

 ふざけあって大声で笑って喧嘩をして、苦々しくも楽しい生活。だがそれは、どうしても何か一枚薄いものに隔てられていた。手を取り合う皆が、その向こう側にいるような気がしていた。しかしその中で、ダンピールゆえに否が応でも感じる世界の一点重い存在──化け物吸血鬼の影だけが、妙にはっきりと鮮やかな質量をもってそこにあった。

 生々しいその重さだけがフリードにとっての現実で、本能が離してはいけないと忠告してくる血の綱だった。


「人の精神は──カリス。時を経て世界に打たれ荒廃するだけだろうかね」

 ユニヴェールがどこともつかぬ虚空を見、睫毛を伏せる。

「確かに三百年この世に居座る私の精神は見るも無残にすたれて歪んでいるが、それでも時々、生前よりひろくなったと言われる」

 誰に、と問う者はいなかった。無駄だからだ。

「それは私が大人ぶってひとつずつ全てを諦めたからか? 死人となって全てを捨てたからか? 失望ばかり与え精神を痛ませる世界から己を守るため、心を閉ざし麻痺させたからか? 痛みに慣れたのか? それとも誰がどうなろうと関心などないからか?」

(それは生きてた頃のお前だ)

 声には出さず、ソテールはつぶやいた。聞こえていないユニヴェールが一呼吸置いて、

「そうかもしれない。だが、到達すべき場所は違う」

 言った。

「“ユニヴェール”が望んだ精神は、痛みを鈍らせ跳ね返す精神ではない。痛みを許容する精神だったのだ。約束も期待も、あらゆる裏切りの痛みを痛みとして刻み、痛んでなお地に伏さぬ。それこそが、この不滅の身体、不敗の力と共に“ユニヴェール”が求め欲した不屈の精神」

「……貴方からそういう言葉を聞くとは思っていませんでした」

 カリスが底のない目で吸血鬼を見つめる。

「私は一度精神に負けたおれた。思いつく限りの物すべてを放り捨て痛みを鈍らせた虚無の精神は、しかしそれより大きな虚無の前には無力だったのだよ」

「…………」

 ソテールは疼痛とうつうの不協和音が響く身体を抑えつけ、目を閉じた。

「三百年前、私は“ユニヴェール”の何たるかを知りそれゆえに一族を滅ぼしても、まだ生き続けるつもりでいた。あの頃は全てを捨てた気になっていたが、それでも未来だけは捨てきれずにいたのだろうな。しかし期待が欠片残っている限り虚無の精神は完全な虚無とはなれず、私はフランスの裏切りの前に──屈した。陳腐な言葉でいえば、世界に絶望したのだ」

 初めて聞くユニヴェールの説教。その昔、この男は神父と呼ばれる身でありながら人に説くということをあまりしなかった。

「だが諦めの境地で絶望することなどあり得ない。虚無の精神をもって我々が世界に勝つということは、絶望したまま生きることなのだと、期待のひとつ希望のひとつ持ってはならないのだと、愚かな私は死んでからようやく気が付いた」

 説教をしなかったのではない。できなかったのだ、きっと。民衆を虚無から救うべきユニヴェール自身が、虚無にさいなまれていたのだから。

「しかし私は、絶望したまま存在し続けられるほど退屈に強いわけでもなかった」

「ですね」

 聞こえたのはメイドの声。

「だから私は渋々“ユニヴェール”に従った。あらゆる痛みを受け入れた。遮断するのではなく、平気なフリをするわけではなく」

「お前は、死んでから表情が増えた」

 片目を開けてソテールが言うと、ユニヴェールが声を立てて泣いた事はないがな、と笑う。

「我々は生まれた時すでに世界に負けている。その中で戦うということは──だ」

 ユニヴェールの視線が上がった。神の首座を嘲るように灰色の雲を見上げる。

「心から血を流しながら笑ってやるということなのだよ。少なくとも私にとっては、な」


 三百年。ソテールが大半をヴァチカン地下墓地グロッタで眠らされていた間、この男は膨大な歴史を見てきたに違いない。

 学生が口走る過去の人。過去の事件。その周りで生きていたはずの名すら遺さぬ人々。彼らが裏切り裏切られ嘆き地に伏し土を握り締める様を、ユニヴェールはかたわらで見ていた。

 中にはフリードリッヒのように、気に入り目をかけた者もいただろう。しかし、あの皇帝が古のローマ帝国再現を目指す中で実子に裏切られそれを裏切り、ゆえにやがてホーエンシュタウフェンが滅亡したように、人々は史書には残らぬ葛藤と戦いと傷を抱えきれぬほど腕に抱き、見えぬ血を流しながら生きていた。そして、死んでいった。証人たる吸血鬼をひとりこの世に遺して、歴史を刻み続けた。


「世界は私よりも残酷だ。利己主義が横行し、醜い欲の争いばかりで言葉は表裏が分からない、羽を伸ばせば制約に当たり、一歩踏み出せば場外宣告。だが私は、そこで無様に戦ってほしいのだよ、人に。魂を荒廃させず、血を流しながら抗ってほしいのだよ、世界に」

 吸血鬼が壮大な台詞を天に吐く。そしてしばし黙し、ふと佇たたずむ息子を見やった。

「フリード」

「はい」

 首から下げたロザリオを見つめていたクルースニクが顔をあげる。

「その身体が壊れるまで生きてみろ。それだけでお前は私を超えたことになる」

「……はい」

 小さいけれどはっきりとした返事を聞き、吸血鬼が今度はメイドに目をやった。

「パルティータ」

「何ですか」

「お前はこれ以上やらかしたら辞めると言ったが、私はひとりも生きて返す気はない。よって辞表は受理する」

「ああそうですか」

 彼女が棒読みで言った。目は地面に転がったすすの棒を見ている。カリスとユニヴェールが長々と自己主張しているうちに持ち手まで炎がやってきたため、彼女が仕方なしに捨てた松明の残骸だ。あれでは、足蹴にしている物質ものじちを燃やす事はできないだろう。

「……さては、松明が燃え尽きるまで話を延ばしてましたね?」

 両手を腰にやり、パルティータ。

 だがユニヴェールはそれに答えなかった。

「──アスカロン。フランベルジェとシャムシールを連れて消えろ」

「え? はい? なんだって?」

 突然呼ばれたやさぐれ男が、離れた場所で呆けた声を上げた。

「私はともかく、お前たちはパルティータの一言で滅びる可能性が高い。吸血鬼でないとはいえ、一度死んだ化け物には違いないのだからな。それにもう、お前たちに手伝ってもらうほどデュランダルも残っていない」

「私はともかく、ってどういうことだよ」

 斜めな視線でアスカロン。

「私は二度もパルティータの不味い血を飲まされているからなんとなく大丈夫。かもしれない。神を殺した私には、もはや“破門”も“赦免”も意味はない。かもしれない」

「……かもしれないって、あーた……」

「結局、世界の摂理というものは人知の及ぶところではないのだよ。無論、私も含めてだ」

『…………』

 こめかみを押さえてアスカロンがフランベルジェを見、蒼い魔女は胡散臭そうな顔を返した。

 吸血鬼が大袈裟なため息をひとつ落とす。

「お前たちは私が信じられないのかね。私が滅びると思っているのかね?」

『…………』

「そんなこと思ってない」

 真っ先に断言したのはフランベルジェの横に立つシャムシールだった。黒い法衣をひきずり、てくてくとユニヴェールの前まで歩いてくる。

「けど何をやらかすのかは心配」

「……お前に心配されたら私も終わりだ」

「なにそれ」

「お子様にご心配いただくほどモーロクしているつもりはない」

「三百歳のお子様がいるわけないじゃんか」

「ならばその口調から改めたまえ」

「アンタのキョ-イクが悪いんだよ」

「アンタ! さてはお前、私ではなくアスカロンの背中を見て育ったろう」

「ほとんど暗黒都市の牢屋の中で育ったけど」

「……寝かせておいたのが気に入らなかったのか」

「だって! ワインじゃないんだから!」

「シャムシール、お子様は黙ってろ」

 ぴしゃりと言ったのは、つかつかと歩いてきていたアスカロンだった。彼はぶーたれるシャムシールの首根っこをつまんで回収し、軽い足取りで屋敷の方へ向かう。

 フランベルジェがカリスを一瞥し、何も言わずアスカロンの後ろに従う。

「貴方のお考えどおりに致しますよ、ご主人サマ(モン メートル)

 肩越しに言い捨てられたアスカロンの含み笑い。

 シャムシールが何事か文句を言い、フランベルジェが諭しているような声が聞こえたが、それもそのうち遠ざかり聞き取れなくなる。

 三使徒の影は、屋敷ではなく黒い森の中ににじんで消えた。


「貴方は──、私がその言葉を言うと思っていらっしゃるんですか」

 戦場に残ったのは、ミトラ、カリス、ソテール、フリード、ルナール、ユニヴェール。未だユニヴェールの束縛が解かれないパーテルの民とその前に立ち緊張の面持ちでいる数人のデュランダル。そして、パルティータ・ディ・セーニ。

「……パルティータ、そうトゲトゲするな。そうは思っていない。ただ──」

「ただ?」

「弾みで口走ることはあ……」

 分厚い版画の束がびゅんっと宙を飛び、慌てて避けたユニヴェールの顔をかすめて墜落した。

「弾みで口走ることはありません」

「はいそうですか」

 頬に一筋汗を流し、薄汚れた自分の宝に悲しげな視線を落とす吸血鬼。

「ルナール。あの女はお前の飼い主なんだろう?」

 つぶやく。

「そーですとも」

 フリードの横にいた真っ黒剣士が何故か得意げに胸を張った。

「だったらしっかり護ることだ」

「言われなくても」

 ルナールが二振の剣を握り直す。

 するとユニヴェールの紅が誰もいない正面を見据え、白い手が中空を撫ぜた。

「話がまとまったところで、続きをやろう」

 言うや否や男の手の中には闇の鎌が現われる。吸血鬼の身の丈よりも大きなそれは刑吏けいりの携さえる刃物よりも鈍く舐めるように光っていて、背筋に不快な寒気が走った。

「…………っ」

 それがまた身体の物理的な痛みを一層増長してくれた。しっかり握っているつもりだったのに、ソテールの手から聖剣が落ちた。

 振り向く吸血鬼を無視して、緩慢に拾い上げる。そして、

「……ろう」

 彼はようやく言った。

 その言葉にユニヴェールが唇の両端を吊り上げ、ニヤッと笑う。

「人々のすがるお優しく慈悲深く強い正義は、裏切り者の私を成敗できるだろうかね!」

『──!?』

 その宣戦布告と同時に、地鳴りが身体の底から轟いた。

 踏みとどまっていたパーテルの民が、こちらに向かって雪崩の如く押し寄せてきたのだ。

「──!」

 カリスが何か叫んでいるのが耳に入った。

 せっかく生き残っていた白いデュランダルが、人の波に呑まれていくのが目に映った。

「パルティータ!」

 カリスの鋭い怒鳴り声はあのメイドの名を呼んでいた。

「この人は我々だけでなく街の人間も全て殺すつもりです!」

 ミトラはフリードの名を呼んでいた。

「貴女にしか救えないんですよ! 早く!」

 “救える”。

 その中身は何なのか。民か、ユニヴェールか、彼女自身か、デュランダルか。

「パルティータ!」

「誰がどうなろうと、私はあるじを裏切りません」

 砂埃の舞う地響き、耳障りな武器の触れ合う音、意味不明な人々の叫びが迫り来る中、どうして彼女の静かな声が聞こえたのか、分からなかった。

 それでも、聞こえた。

「世界が転覆しようと、知ったことではありません」

「お前は!」

 ミトラが身体の向きを変え、彼女目掛けて聖剣を振り上げた。

 しかしその斬撃はメイドの前に身体を滑りこませたルナールに止められる。

「うら若き乙女に刃を向けるとはねぇ」

 軽口を叩いて笑った黒い男の目はしかし一瞬で引きつった。

 別方向からパルティータ目掛けて薙がれるカリスの剣が見えたのだ。

「──もう主ではないだろうが」

 ソテールのとなりで舌打ちが聞こえ、風が起こってクルースニクの黒髪が舞い上がる。

 殺り合おうとソテールが動くのを待っていた吸血鬼が、仕方なくルナールを援護しに行ったのだろう。

(お前は闇を使わない。あのお嬢さんにかすりでもしたら大変だもんな)

 案の定、次の瞬間にはもう、カリスの後ろに吸血鬼の黒衣が翻る。

 刹那せつなカリスが振り返り、狙っていたかのようにユニヴェール目掛けて剣を返す。

(そうだ。狙ってたんだ、これを)

 吸血鬼が大鎌の柄でカリスの刃を止めた。

 パルティータを挟んで、ルナールとユニヴェールの動きが止まった。

(ほら、今だ)

 ソテールが胸中でつぶやいたのとほぼ同時、灰色の空を背景に剣の銀色が閃ひらめいた。

 次いで、刃が人身を突き刺す重い音が耳に届く。

(…………)

 自分はここにいる。

 カリス、ミトラ、ルナール、ユニヴェール。

 さぁ、最後の剣は誰のものだ?

(狙ってたんだ、この隙を)

 フリードの──ダンピールの聖剣が、黒衣の背を貫いていた。

 深々と。

『…………』

 探るような静寂が辺りを支配する。

 その静寂こそ、不自然だということに誰も気付かないまま。

 フリードが今度も片腕、全身の力でユニヴェールの身体から剣を抜いた。切っ先から、借り物の赤い血がぽたぽたと地面に滴り落ちる。

 この暗雲から雨が降ってきたら、今日大地に注がれたすべての血をきれいに洗い流してくれるだろう。天秤にかけたりなどせず、誰のものも平等に。

「……卿」

 ルナールの目は、吸血鬼ではなくその向こうを見ていた。

 パーテルの民が、何が起こったか分からずボケーッと突っ立っているのを見ていた。

 彼らの持っていた槍や棍棒やなまくら剣が、音を立てて大地に捨てられてゆく。

「あの人たちの支配を解いたんですか? ミトラやカリスに殺らせるんじゃないんですか?」

 それはわざとらしい、いつもどおりを装った口調だった。

「ねぇ、ユニヴェール卿。こんな時まで無視しなくてもいいでしょう」




校正時BGM:Within Temptation「The Truth Beneath The Rose」「The Swan Song」

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