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冷笑主義  作者: 不二 香
第二章 中編 GENOCIDE
29/88

GENOCIDE-5. アデュー




 フランスのユニヴェール邸は無言だった。

 取り巻く黒い木々も、流れる川も、屋敷──というよりは尖塔をいくつも有する城なのだが──そのものも、押し黙っている。

 ユニヴェールがローマへ乗り込んでからは彼の母がこの城の主となっていたが、それにしても侍女、料理人、召使、馬丁、侍従、執事、家令……それなりの人数がこの城で暮らしていたはずだ。

 それなのに人の気配が全くないとは、不審極まりない。

「…………」

 家全体が隠し事をしているように、指を唇にあてて息を殺しているように、沈黙している。

 ユニヴェールは嵐の迫る重いなまり色の空を見上げた。

 湿り気を多分に含んだ風から察するに、おそらくもうすぐ降ってくるに違いない。

 視界の中を千切れた木の枝が飛んでいく。

 ……そしてふと思った。

 ソテールは巧く口先三寸で許しを請うているだろうか、と。


 彼は小さく笑い、空から地平へと視線を移す。

 ユニヴェール家は一応貴族の端くれなので与えられた土地は広く、見渡す限り木々と茂みと草原の緑しかない。それと一本道。雨の前触れでくすんだそれぞれの色は、さらに不穏をあおる。

 暴力を伴う冷たい風が、外套をひるがえし吹き抜けてゆく。

 彼の背後から、城の方角へと向かって。

「主が帰ってきたっていうの出迎えのひとつもなし」

 頬に冷たい雨粒を感じ、彼は仕方なく城館へと向かった。

 重々しい扉は開け放してあって、いよいよ怪しい。

「──母上! エストレ(家令の名)!」

 がらんとした石壁に、彼のテノールが反響する。

 踏みしめた赤絨毯は、進むべき道を強制されているようで気に喰わなかった。

 壁には彼が出て行った当時のまま歴代当主の肖像画が並べられ、死んだ曖昧な表情でこちらを見下ろしてくる。

 ……何度奴らの眉間を射抜いてやろうと思ったことか。

 豪奢な金色の蔦額縁に飾られ、もはや何にも心身を悩ますことがない身分、さぞかし気分がいいことだろう。

 ユニヴェールは居並ぶご先祖様に皮肉たっぷりの一瞥いちべつをくれ、今生きている人間を探しに取りかかった。


 が、

 一階をひととおり眺めて見れど、人間はひとりもいなかった。

 ひらひらと黒い蝶がホールを横切っていっただけ。

 そして──これがまた居心地悪いのだが──全ては薄気味悪いほどに整然としていた。

 書庫はすべての本が綺麗に並べられ、調理場にはにんじんの切れ端ひとつ転がっていない。花びらを散らす生花はひとつも飾られておらず、対していつもは無造作にかけられている客間の刀剣が、きちんと年代順に陳列されている。

 これは死相だ。

 厳格な人間は、死期を悟ると身の回りを片付けたがると聞く。

 まさにそれだった。城が、死ぬ用意をしているのだ。あるいはさせられたのだ。


 ──だが、誰と共に死ぬというのだ?


「息が詰まる」

 喉元を押さえ、ユニヴェールは重くなる身体をひきずって階上へ向かった。

 階段に埃は積もっていない。空気も錆びてはいない。だが、微かに血の匂いがした。

 自分だろうかと疑ってみるが、違う。

「母上! ナタリー(侍女の名前)! エストレ! 誰かいないのか!」

 いい加減バカにされているのかと腹立たしくなって声を荒げ手近な扉を蹴り開けて──

「…………」

 彼は無言で立ち尽くした。

 そこには、ふたりの人間が転がっていた。

 女がふたり。ひとりはメイド服、ひとりは古風なドレス。

 それらが死んでいるのは一目瞭然だった。

 首と胴が離れているのでは、確めるまでもない。

 もはやただの肉塊というべきものに生前の敬意を表して名詞を与えるなら、ひとりはユニヴェールの母であり、もうひとりは彼女の良き相談役であった。

 それが死んでいる。

 殺されている。

 この場に血が流れていないのだ、どこか別の場所で殺され、家具よろしく配置されたと考えるべきだろう。

「“ユニヴェール”」

 彼は口の中で囁いた。

 その囁きの後ろで、雨音がしていた。

 強い音だ。

 地を叩き、石を穿がち、水面を重吹しぶかせ、木々の葉を打つ、強い音。

 神は、水煙でこの城を隠そうとでもいうのか。

 それともノアの箱舟の如く、この呪われた血を綺麗さっぱり洗い流そうというのか。

 罪におののき、死を嘆き、涙しろというのか。

「シャルロ・ド・ユニヴェール」

 背後から声がかかっても、彼は驚かなかった。

「これはこれは叔父上、それに大叔父上も」

 血の気の引いた相貌をさらして、ユニヴェールは肩越しに振り返る。

 そこには純白に金糸のクルースニク装束を身につけたふたりの男が立っていた。

 叔父、そして大叔父。

 両人とも山岳の廃城に幽閉しておいたはずの者だ。

「私の城でお目にかかるとは、予想していませんでしたよ」

 ふたりの男の後ろでは、この屋敷にいた使用人たちが白い眼差しでこちらを見ていた。

 ──“ユニヴェールの当主に味方はいない”

 断言された言葉がユニヴェールの脳裏に蘇る。

 格言だと、今更父を見直した。やはり先人の忠告は素直に受け取るべきだ。

「みなさんそろいもそろってどうしたんです?」

 靴音を合わせ、使用人たちを押しのけて入ってきたのは、他の“ユニヴェール”印のクルースニクたち。

 その中には、叔父を幽閉した城の見張りを任せておいた遠縁の姿もあった。

 近くも遠くも含めて、親戚が皆ここにいる。

 これだけの白服が集まれば圧巻だが、シャルロ・ド・ユニヴェールが他人に畏怖など感じるわけがない。

 彼はただ、嫌悪と寒気に眉をひそめただけだった。

 ユニヴェール家そのものの裏切りに、何ひとつ思わない自分への寒気。

「シャルロ・ド・ユニヴェール。自らの母君を手におかけなさるとは、力も最強なれば狂気もまた尋常ではありませんな」

 しらじらしく、叔父が言う。

 その手でふたりの首をねたくせに。

「ここで罪人を刑に処するのと、教皇庁に引き渡すのと、どちらが良いと思うかね、皆!」

「教皇庁は駄目だな。甘い」

「血は断絶させなければならないと思うが」

「これは我々の家のこと、教皇に介入させる理由はないだろうて」

 後ろの者達が口々に意見を述べる。

 だが主旨は皆同じだった。

 ──今ここで当主を殺せ、と。

「母を殺した罪を着せ、私を消そう、と」

 雨粒にぼやける窓ガラスの向こう、“ユニヴェール”の持つ民兵たちが城門の外に隊列を作っているのが見えた。

 錆びた鉄の鎧に雨の飛沫が飛び、掲げられた槍の穂先に水が流れている。

 彼らは降りしきる雨の中、静かに門を固めていた。

 主が、逃げ出さないように。


 屋敷が沈黙で隠していたものは、これだったのだ。

 自分の城にまで裏切られた。

 なんだか、笑える。


「“ユニヴェール”ならば、罪人のひとりやふたり勝手に裁いたとて教皇庁は文句など言わないでしょう。……よく出来た筋書きですね。ご先祖よりもセンスがある」

 ユニヴェールはゆっくりと背約者達に向き直った。

 叔父が一歩退いたのは何故だろう。

「だが所詮三流です」

 ちらりと横の鏡を見やれば、そこに映ったクルースニクの瞳が紅に染まっていた。

 その父と──同じ色に。

 ダンピールは時として闇の魔性を現すという。

 それだろうな、と軽く納得した。自分が恐ろしくなって我を失うほど若くない。自己嫌悪に陥ったり考え込むほど純粋でもない。

 刻々と感覚が鋭敏になり、身体が冷えていくのが分かる。

「父は、“当主になるならば皆殺しも覚悟しろ”と言いました。幸い、私はそれを実行するだけの力があるようだ」

 ユニヴェールは腰の鞘から剣を抜く。


 ──すまんね、ソテール。


 胸中で謝り、彼は一閃した。





 逃げ出してくるだろうユニヴェールの当主──否、母殺しの重罪人だと聞いた──を取り押さえるために待ち構えていた者達は、城から一頭の青毛馬が疾駆してくるのを発見し、どよめいた。

 けれど彼らに乗り手の顔はよく見えなかった。目深まぶかなフードが影を作っていたのだ。それにこの雨だ、顔を上げることさえままならない。

 黒外套が雨をものともしない速さにひるがえり、黒真珠の美しい馬体が一直線に城門目指して走ってくる。

 追っ手はいなかった。

 兵士たちに“そいつを捕まえろ”と叫ぶクルースニクは現れない。

 兵士たちの視線は交錯し、どうしたものかと焦りざわめく。

 その間にも、馬は地を蹴り泥を跳ね上げ雨を突き破り近付いて来る。


かれる!!」


 誰かがそう叫んだ。それが引き金になった。

 極限に達していた緊張は一気に崩れ焦燥がパニックを呼ぶ。兵士達は殺気だち我先にと持ち場から逃げ出した。

 そして青毛は散り散りになった彼らの背面を矢の如く駆け抜けていった。

 身体の奥を揺する地響きと共に。

『…………』

 皆は一様に泥の中へとへたりこみ、言葉を失い、その黒影をただ見送る。

 悪寒がしたのは、冷たい雨に打たれたせいだったのだろうか。

 互いを見やれば、誰もが皆、悪魔を見たような顔つきをしていた。肌が粟立っていた。

『…………』

 ひづめの音が遠ざかり、黒い姿も地平に消え、再び雨だけが地を支配すると、彼らはようやくホッと息をつく。得体の知れない何かから解放され、放心から我に返った。

 そしてもう一度隊列を組み直した。


 忠臣な彼らは小一時間そのまま立ち尽くし……しかしひとりがしびれを切らして見に行ってみようと提案する。数人は反対した。

 だが、兵士とは言っても民兵。皆この周辺の農民を兼ねている。雨の中何もせず、ただ風邪をひくのを待っていられるほど裕福な者はいなかった。

 病を引き込んで作業が遅れたとしても代わりはいないし、損害の補填もされない。

 ならばと選ばれた数人がお伺いをたてに城へと入った。


 そこで彼らはやっと、あの戦慄の正体に気が付き確信したのだ。

 あの時門を通った者は神に仇なす大罪者だった、彼らが見たのは確かに“悪魔”だったのだ、と。


 彼らが恐る恐る足を踏み入れた領主の城は、息もできぬほど紅く濃い血臭で満ちていた。

 空気を吸い込もうとすれば、肺と胃が拒絶して痙攣する。

 立っていられないほどに、吐き気が襲ってくる。


 そこには──城内のいたるところには、数十にものぼる惨殺死体が散らばっていた。

 首と胴を分かたれて。

 目を見開いたまま。




◆  ◇  ◆




「ソテール・ヴェルトール」

 地下室の扉を軋ませ、緋色の僧服を着込んだ老枢機卿が入ってきた。

 影は細く、本人はなんだか以前よりひとまわり小さくなったような気がする。

「何だ、ベルディーニ枢機卿か。お疲れだな」

 フランスから強制送還。ソテールはまたまたここに押し込められたのだ。

 ひとりで先に1002回目ではあるが、ユニヴェールも帰って来たら同じ目にあうのは間違いない。

「大変なことになった。我々は、お前をここに連れてくるべきではなかったよ」

 いつになく神妙な枢機卿の声に、寝台で寝転んでいたソテールは身を起こす。

 目を伏せながら聖典をさするベルディーニ。それは凶兆だ。

 きっとユニヴェール関連なのだろう。

「お前とユニヴェールを離すべきではなかった」

 ほら。

「今度はアイツ何をした?」

 茶化したソテールを無視して、白髪の老人は更に声のトーンを落としてくる。

「ダンピールは時として闇の者としての魔性が現れる。そうなった時、被害が大きくならないようにするため彼を殺せる者がいつも傍にいなければならなかった」

「…………」

 誰か、頭上で歌っているだろうか。

 短調の厳かな讃美歌コラールを。

 次々と追いかけられる調べが、地上の聖堂に反響して空気を震わせている。

 緩やかに壮重に奏でられる幻聴が、これから紡がれるだろう言葉を拒絶している。

「お前が傍にいなければいけなかった」

「……ユニヴェールを殺すために、か」

 ソテールは訊き直した。

「そうだ。“ヴェルトール“はいつでも“ユニヴェール”を葬るためにある」

 聞きたくない。だが、いい大人だ、聞かねばならない。頭の中で繰り返されるほどに顔から表情が消えていくのを感じた。

 ベルディーニは、わざわざ遠回りをしている。

 こちらに、事を受け止めるための猶予を与えている。

 流れる旋律は、徐々に音量を増している。

「フランスが、フィリップ二世があの男をかくまっているという情報がある。教皇庁を牽制するため腹心として起用し、爵位を上げる、とも」

 嫌な予感──灰色は足元から黒へと染まってゆく。

「クルースニクは教皇以外の部下にはならないはずだろう。もともと与えられていた爵位は別として」

「猊下(インノケンティウス三世)は、ユニヴェールを破門した」

「……なんでだよ。あいつの父親を滅ぼしたのは──」

 反論しながらも、やはりと思っている自分がいる。

 ソテールの言葉のすべてを待たず、ベルディーニが続けた。

「シャルロ・ド・ユニヴェールは、母親を殺し、そしてユニヴェール家の人間を皆殺しにした。仕えていた者もすべて、その人数は軽く三十を超えていたそうだ」

「まさか」

 脊椎反射のようなつぶやきに、しかしベルディーニは力なく首を横に振ってきた。

 ため息は深い。

「凄惨すぎて、まともな人間が正視できるような現場ではなかったという。検証に送られたクルースニクが続けざまに神経を病むくらいにな」

「…………」

「ユニヴェール家の人間は誰もがデュランダルに入ってもおかしくない程のクルースニクだ。そんな奴らが、全員、首を刎ねられて死んでいた。しかもそれ以外の傷はなかったそうだよ」

「デュランダル級を何人も、一閃で仕留めたってことか」

 あの男なら苦も無く出来るだろう。

 あの男は、ローマに現れたその時から、殺すことも滅ぼすことも、息をすることと同列に扱っていた。躊躇ためらいの一瞬もない。

 冷徹なのではなく、「無」。

 しかしその淡泊さの反面、彼の蒼眸の奥には時折(タナトス)の狂炎が揺らめいた。

 自らを死の淵に追いやりたがった。

 どこまで反逆したら、神が自分を殺すのかを試すように。

 生死に無関心な男が死にかれている、その不自然な乖離かいりは、ユニヴェール家を離れ、デュランダルとして重ねた時間によって飼い慣らされたように見えていた。

 だが、あの男の肌の下を流れる血は、その時間にまさったのだ。

「ソテール・ヴェルトール。ユニヴェールをフランスから奪還してこい。生かしてな」

「あいつが死んで化け物になったら困るんだろう。破門を解けばいいじゃないか」

「教皇庁の面目が立たない」

「……あ、そ」

 彼は投げやりに承諾し、枢機卿を追い払うように手を振った。

「ソテール」

「分かったよ、フランスにはすぐに行くから。今は出ていけ」

 強く言うと、ベルディーニは振り返り振り返りすごすごと出て行った。

 それを見送ると、ソテールは再び寝台の上でごろりと横になって白い天井を見上げる。

「ユニヴェール、──家名に縛られてるのはお互い様だったな」

 初めて、“ヴェルトール”を憎らしく思った。

 今度こそ、世界を呪った。

 相棒は、紙一重でバカだと確信した。




◆  ◇  ◆




 供を付けると言ってきた教皇庁をはねつけ、白馬の背にまたがりソテールはひとりでローマを出た。

 昼前だというのに、空はどんよりと暗く重々しい。

 低い暗雲が、ローマを覆っていた。

 しかしそれでも人々はいつもと変わらぬ生活を続けている。

 学生は書物を持ち、商人はロバを引っ張り、色とりどりの野菜が市に並び、街角では絵描きが筆を取り詩人が歌う。

 何も変わらなかった。雨が降りそうだから外での仕事は早目に済ませよう、そんな声が聞こえてくるだけだった。

 しかしソテールにはそれが、ひどくいとおしく思えてならなかった。

 自分には決して手が届かないものだ。

「行くぞ」

 彼は感慨を断ち切り馬の腹を蹴ると、振り返ることなく故郷を後にした。

 この前はふたりで疾走した道を、ひとりで辿る。


 白影は地平まで続くオリーブの林をひたすらに駆け抜け、小さな街の通りを風の如く過ぎ、橋を渡り、荒れる海を臨み、広がる荒野を突き進む。

 いつしか、彼の後ろには二頭の栗毛が従っていた。

「アスカロン! 何をしに来た!」

「…………」

 栗毛の乗り手、白いクルースニクはこちらを睨むように見、しかし何も言わなかった。

 もう一頭に乗っているフランベルジェとシャムシールも同じ顔。

「……好きにしろ」

 ソテールは言い捨てて、前を見据えた。

 手綱を握り直し、馬の背を軽く撫でる。そして彼はもう一度腹を蹴り、加速させた。


 何故急ぐ?

 フランス貴族がシャルロ・ド・ユニヴェールの台頭を歓迎するとは思えないからだ。

 フィリップ二世は、安穏とした世襲で役に立たない貴族に愛想を尽かし、彼らの上に内政のスペシャリスト、『有給官僚』という役人を置き重用した。

 そのうえ一族皆殺しにしたような鬼人が招かれるとなれば、他の貴族たちの地位はますます危うい。

 けれど自らの危機を指を咥えて見ているような輩ではないのだ、貴族というものは。

「ホンットにバカだなあいつは」

 耳元で風が唸る。

 フランスは遠いぞ、と。




◆  ◇  ◆




「もうローマへはお帰りにならないので?」

「帰れませんよ」

 マルグリートの問いに、ユニヴェールは笑った。

 瞳は元通りの蒼に戻っている。

「おそらく破門でしょうしね」

 何故だろう、ユニヴェール家を滅ぼした後、彼はフィリップ二世の居城へ馬を飛ばしていた。

 一介の子爵程度が国王に助けを求めるなどお笑いだが、娘に魔女の烙印を押されたこともあり、フィリップは教皇庁を快く思っていない。教会に追われるだろう身となった今では、最も匿ってくれる可能性の高い権力者だ。

 ……奥底で、そんな打算があったのかもしれない。

 そして予感は的中していた。

 おそらくユニヴェールが破門されるだろうという目測のもと、王は彼を匿うこと、爵位を上げることまでを約束してきたのだ。

 “お前がいれば、教皇庁にクルースニク派遣で泣きつかなくても済む。今まで散々困らされてきた向こうの手札がひとつ無意味になるわけだ”

 どこまでが本音かは分からないが、そう言ってフィリップはユニヴェールの肩を叩いた。


 ──匿われてどうする?

 囁く背後の声をやんわりとでつける。


「ソテール・ヴェルトールが、自分は無力だと嘆いておられましたよ」

 窓に背を向け、マルグリートがホールで踊る人々を平坦な目で追いながら言う。

 そこにはパリ近郊の貴族たちが皆、集められていた。

 王からユニヴェールの話を聞き、オーベール侯爵が催した舞踏会。

「貴方もそう思われますか? ご自分は、無力だと」

 マルグリートの薄い茶色の双眸が、彼を見上げてきた。

 絹糸のような金髪は結い上げられ、真珠とエメラルドの髪飾りがその美しさを際立たせる。それにあわせた薄い若葉色のドレスも、首筋から胸元へかけての白磁の肌も──存在そのものが秘匿されていることが勿体ない。

 ホールを華麗にクルクルとまわり澄ました駆け引きをしている令嬢たちには失礼だが、こういう壁の華の方が手折ってでも手に入れたくなるものだ。

 聡明な光の裏の影は、手に入れ難く、制し難く、そして人をく。

「どうしようもないことというのは、あるものです」

 ユニヴェールは、嘘に彩られた華やかな部屋を見回してそう言った。


 誰も彼もにこやかな顔をして言葉を交わしているが、そんなのは上辺だけに過ぎない。皆がそれを承知しているのに、貼り付けた微笑の仮面を外そうとする者はいない。

 金のある貴族などそう多くはないはずなのに、これみよがしに宝石が光る。

 誇張された自慢と心にもない謙遜のために空虚な言葉が消費される。

 可笑しな集まり。可笑しな世界。

 だが、彼にはそれこそが正気に思えた。

 なんて人間らしいことだろうか!

「無力を知らない者など、いないでしょう」

 それゆえに“ユニヴェール”はそれを超えようとしたのだ。そして敗れた。

「ですが貴方は──」

 言いかけて、マルグリートが口を閉じた。

 ひとりの老紳士が近付いてきたからだ。

「君が、シャルロ・ド・ユニヴェールかな」

「はい、オーベール卿」

 ユニヴェールは恭しく礼をしながら軽く身構えた。

 物腰は柔らかく、威厳と自信に満ちた顔をしている紳士。この男が今日の会を主催した侯爵だ。

 ほっと息をつきたくなる雰囲気をまとってはいるが、クルースニクの嗅覚は裏にひそむ老獪ろうかいで狡猾な気配を嗅ぎとった。

 ──老年ますます野心高ぶる。そんな男に見えた。

 しかし、王の親類に与えられる地位が公爵。侯爵といえばその下だから、彼は純粋な臣下の中では最上位の貴族ということになる。媚を売っておいて損はない相手だ。

「ローマで畏れられたクルースニクが正真正銘フランスのものとなることは実に喜ばしい。国王陛下も教皇庁に平身低頭せずに済むというもの。陛下も、私も、そしてここにいる皆も、君の働きに期待しているよ」

「身に余る光栄です」

「ところで──お嬢さん、ちょっといいかな」

 侯爵の矛先はすぐに変わった。どうやらユニヴェールではなくマルグリートが目当てであったようだ。

「…………」

 無表情で固まっている女に、

「とって喰おうというわけではないよ。少し話があるだけだ」

 オーベール卿は柔和に微笑む。

「……しかし」

「私のことは気になさらず」

 ユニヴェールはマルグリートを促した。

 もちろん、眼前の侯爵は彼女の父が国王であることなど知らない。

「分かりました」

 言い残して彼女が去り、ユニヴェールは身の置き所をなくして壁に寄りかかった。

 窓の外からは何やら怒鳴り合う声が聞こえてくる。

 通せない、とか、力尽くでも通る、とか。押し問答だ。

 王に何か陳情しようとする民だろうか。


 大変なもんだ。


 他人事にそう思い、ユニヴェールは額にかかった銀髪を払いのけて薄く目を閉じた。

 彼は今日も場に似つかわしくなく白い外套を羽織っているが、それはもちろんローマのものではなく、フィリップが急遽作らせたものだった。

 刺繍された紋章は、黒い蝶ではなくフランスの百合。

 ローマを捨てた。紋章も捨てた。家も滅ぼした。

(…………)

 それでもまだ彼が命長らえている限り、“ユニヴェール”の当主に課された運命がひとつ残っている。


「ユニヴェール卿」

 マルグリートの明るい声がして、彼は目を開け壁から身を離した。

「いかがですか?」

 彼女の両手にはワイングラス。ひとつには透き通った金色、もうひとつには血のような赤。

「私は白ワインしか飲めないのです」

 そう苦笑して、彼女は赤ワインを差し出してくる。

「侯爵が、貴方には赤が似合うでしょう、と」

 ユニヴェールは受け取って、彼女の後方に見えているオーベール卿を見やった。

 彼は笑ってこちらの様子をうかがっている。

 それはまるでふたりを恋人にしてやろうと画策している老翁の顔。

 だが、ユニヴェールは彼の目がその奥底で息を殺していると悟った。

 ユニヴェール邸と同じように。


 グラスを手にしたままホールを見回せば、皆がそれぞれ楽しんでいるフリをして、彼の動きを待っている。軽快な舞踏の音楽は空滑り、歓談は相槌だけが大量生産されている。

 視線こそ向けられてはいないが、全ての者が彼を見ていた。

「…………」

 残された運命の足音が聞こえた。

 自分が石畳を鳴らしていたように、軽薄なステップでそれは近付いて来る。


 破門された“ユニヴェール”の当主は──


 シャルロ・ド・ユニヴェールは屈託ない穏かな顔をしているマルグリートを見、グラスの中で上品ぶって揺れているキリストの血を見下ろす。

 そして彼は細く笑い── 一気に呑み干した。


 ──匿われる気はないさ。私は、ひつぎからは逃げられないんだから。




◆  ◇  ◆




 融通のきかない衛兵をどうにか張り倒し、ソテールは城に乗り込んだ。

 三人のクルースニクも群がり来るフランスの兵士たちを薙ぎ払い、進む。


 ユニヴェールのいるホールは、使用人を捕まえて脅してすぐに分かった。

 それでも、彼らの到着は遅かった。

 ローマからは遠すぎた。


「シャルロ・ドユニヴェー……」


 ソテールは聖剣を抜き、ホールに足を踏み入れた。しかしユニヴェールを引き渡せという台詞は、別の台詞に遮さえぎられて尻すぼみに途切れる。

「懸命な……判断だ……」

 空になったグラスが音を奪われ絨毯に転がった。それは、目を見開いて硬直しているマルグリート王女の足元で止まる。

「貴様らの……地位が、危ういものな」

 窓際でひとり注目を集めているその男は、身体を支えられなくなったのか窓枠に手をかけた。そしてその白皙を歪め大きく不自然な息をする。

「──ユニヴェール!?」

 叫んだソテールだったが、もう遅いことは分かっていた。

 その男が飼っていた“(タナトス)”は、ついに彼を捕えたのだ。

「……毒、ねぇ……」

 胸元を押さえた男は嘲い、二、三度咳き込む。

 その白い外套に、赤い華が咲いた。

 吊り上げられた口端からは溢れる鮮血が伝う。

 遠巻きにしている貴族たちは、一様に表情を消したまま一言も発しない。

 ソテールは剣を落とした。

「シャルロ!!」

 駆けながら呼べば、彼の蒼眸が静かにソテールへと向けられる。

 それは意外なものを見つけたように一瞬開きそして──

さようなら(アデュー)

 かすれた声で薄く笑ったその身体は、そのままゆっくりと崩れ落ちていった。




校正時BGM

J.S.Bach マタイ受難曲「来たれ、娘たちよ、われとともに嘆け」

梶浦由記 FICTION 「Canta Per Me」

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