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冷笑主義  作者: 不二 香
第二章 中編 GENOCIDE
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GENOCIDE-2. 汝の名は、世界の救世主




「連れ戻す……フランス語は不得意なので細かい差異は分かりかねますが、まぁほぼ“誘拐”と同義かと」

「違う」

 半目で見下ろしてくる主の紅には、まるで別人のような白い光があった。爬虫類めいた、じっとこちらを見据え距離を測っている湿った光。

 どうやら寝入りを起こされて不機嫌なだけではなさそうだ。

 しかし、いたいけな少女をこんな風に脅しつけるなんて紳士としてどうなのか。

「……何をそんなに怒っているのですか」

 自然、対抗心からパルティータの声にも刺が混じった。

 一拍遅れてユニヴェールの眉が上がる。

「怒る? 私が?」

「えぇ、怒ってます」

「……ほう」

 彫りの深い白皙に落ちた影が、ぞろりと笑んだ。

 片方の牙だけがのぞく、底意地の悪い笑い方だ。生来の笑い方なのか、芝居をつけているのか、どちらにしろ他人が見て嬉しくなる表情ではない。

 明らかにバカにされているのだから。

自惚うぬぼれるなよ、パルティータ。私はお前如きに立てるべき腹など持っていない」

「……如き」

 彼女は口を曲げた。

 ユニヴェールはわざとらしく聞こえないフリでガウンをひるがえす。

 だがそのまま彼は斜め上を向き、独り言。

「……そうだな。何がどうであろうと、どうなろうと私には大した違いはないか」

 ひんやりとした朝の気配に包まれた屋敷の廊下に吸血鬼の言葉が染み入り、わだかまる闇と同化する。

「何者も──そう、何者もだ。もはや私自身をどうすることもできない。世界も神も運命も、私に干渉することはできない。お前が何であろうと、何を考えていようと、かまいはしない」

「……カステル・デル・モンテから出られなかったくせに」

「…………」

 麗人は一歩だけ止まりひと呼吸、何も言わず地下へと続く扉の中へと消えていった。

 扉が閉まる音が無機質に響き、消える。

 しんと静寂が降り──……

「貴様何様ッ!」

 パルティータの低い罵声がそれを両断した。

 目をつりあげ、手近な空花瓶をがしっとつかむ。

 そして吸血鬼が姿を消した扉に向けて振りかぶり、

「…………」

 空中で止めて、思いっきり片足のスリッパを扉に飛ばした。

 びゅんっと空気がうなり、ごんっと扉が抗議の声を上げ、ぱたむっと床が嘆息。

「…………」

 花瓶を投げられなかった不甲斐なさにパルティータは唇を噛みしめうなだれた。

 花瓶の方がスリッパよりも高値なのだから仕方ない……そう言って自分を励ます。

 が。

「……何かご用ですか」

 ふいに背後に人が立ち、彼女はゆっくりと振り向いた。

 そこにいたのは、すべて聞いていたくせに困惑も気後れもしていない、涼しい顔をしているアスカロンだ。

「まだお休みでなかったのですか? もう朝です。人間の時間ですよ」

 このアスカロンもユニヴェールと同じく影を渡る神出鬼没屋なので面倒くさい。

 主とのやりとりもあって、ついつい濃度の高い毒が入ってしまった。

「まぁまぁ、ここはひとつ穏便に」

 誰の心にもすぐさま入り込んでしまうサバサバとしたその風貌をもって、彼は両手で彼女の怒気を押し留めてきた。

 悪く言えば軽薄。良く言えば壁がない。

 相手の警戒心を“解く”のではなく“消してしまう”その才能は、天から与えられ彼が天を裏切ってもなお掌中にしている最大の武器だ。

「俺はアンタが何者かなんてことは聞かねぇが、」

「私はシャルロ・ド・ユニヴェールのメイドです」

 パルティータが彼を遮ってキッパリと告げると、アスカロンは虚を突かれたように言葉を呑み──、それからふっと息を吐いてきた。

「それならいいんだ」

 彼は静かに歩いてくるとパルティータから花瓶を取り上げ、横を過ぎる。

「昔と似てるからな。あの人と言えど苛立つんだろうさ」

「似ている?」

 パルティータは眉を引き寄せた。

「昔と?」

 そういえば、主が彼女のことを知らないのと同様、彼女もまた主のことをほとんど知らない。それで何の不都合もなかった。

「そうか。あの白い隊長殿以外誰も知らないんだよな。ムリもないな、三百年も経てば記憶を共有した奴等は大方死んじまう」

 言いながら、彼は食堂へと足を向ける。

「三百年、ユニヴェール様が吸血鬼になってからのことですか?」

「元々はクルースニクだったさ。あの人も、俺も、フランベルジェやシャムシールも」

 全員真ッ白コートを着てたんだぜ。

 そう言ってアスカロンがケラケラと笑った。

「三百年前あの人は──」

 軋む音を立てて開かれた扉から、清廉な輝きをもった白い朝陽が溢れ出る。




◆  ◇  ◆




 ローマの喧騒は、高い壁に囲まれた聖域の中にまでは届かない。

 ここに“生活”というものはなかった。

 ここに“生活”があってはならなかった。

 ここは聖なる場所であり、畏怖の場所であり、生と死が気高く人々を見下ろす場所でなければならなかった。


 門を護る衛兵たちは終始無言。

 教皇庁内の枢機卿たちが他愛もなく井戸端会議をすることなどあり得ないわけで──彼らの会話は常に駆け引きだ──おまけに今は聖騎士団やクルースニクたちも皆出払っている。

 インノケンティウス八世の死期を感じ取ったお偉方が、ユニヴェール及び暗黒都市討伐の号令をかけたからだ。

 台頭してきたフランス王家と共に、今の教皇権はなかなかに大きい。インノケンティウス三世の頃ほどではないにしろ、“魔女狩り”の効果かその御名は諸侯の剣を抑えるだけの力はあった。必然、その教皇の下につく枢機卿たちの権力も大きく、見返りも大きい。

 だからこそ教皇が変わった時、今の権力者たちは障害物として一掃されかねないのだ。

 それを阻止するためには、功績を上げなければいけない。誰が頂点に立とうと、彼らを排除することができないような功績を。

 つまり、ユニヴェールの首を神に捧げる功績を。



 そんなわけで、閑古鳥の鳴く大聖堂前の広場は全く人気ひとけなく、晴々とした空の下空虚な静寂をたたえていた。

 だがだからこそ、

「自ら滅ぼしたっていうのに、死んでもあの家から逃れられないのか、あの男は」

 彼にしか吐くことのできないつぶやきは、誰に聞かれることもなかったのだろう。

 白い石畳にコートの影がひるがえり、彼はまだ冷たさの残る風に目を細めた。

 ソテール・ヴェルトール。

「まぁ、今のアレが呪縛だの運命だのを気にかけるようにも思えないがな」

 どこからか春の色をした花の香も流れてくる。

 安らかな陽射しが聖なる狩人に降り注ぐ。

 だが聞く者のない愚痴は続いた。

「それを……あの長官代理様はフリードだけで事が片付くとお思いだ」

 ソテールは自嘲気味に含み笑う。

 自分へのあざけりではない。この場所への、この聖域への、それを護る者たちへの──結局自分も包含されるわけだが──嘲りだった。

「何も知らない」

 彼は腰の剣を抜き、ぶんぶんと振り回した。

「あの男のことも、過去も、我々があの男を滅ぼさなければいけない理由も、聖域は何も知らない」

 空気を斬り裂き、背後へ薙ぐ。

 そしてそのままピタリと止めた。

 怜悧な切っ先の向こうには、大聖堂のテラス前に居並ぶ石の聖者たちの虚無的な眼差しがあった。あらゆる者を縛り付ける聖なる視線。

 ソテールの蒼い目は、冷ややかにそれを見返す。

「誰も何も知らない」




 ──昨夜。

 フリードに稽古をつけていたソテールは、ヴァレンティノ・クレメンティに呼び出されて渋々その部屋の扉を叩いた。

 正確には扉を叩いたのは彼ではなく、彼を呼びに来た名も知らぬ枢機卿であったが。

「お連れしました」

 半球の天井には四隅から伸びた美しい曲線の柱が収束し、床には深紅の絨毯。大窓を背にした偉そうな机の向こう側には、長官代理という肩書きを背負った男が座っている。

 形式的な高潔と厳格が漂うその部屋は、公人が召集される場所とはまた別の、私室ともいうべき部屋だ。

 とはいえ、この部屋をこれほどまでに自分のものに出来た人間は数少ないだろう。

 ソテールが知っている限りでは、誰もが居心地悪く、あるいは愚かな慢心でここに座っていた。

 この部屋が服従した人間はいなかった。

 だがヴァレンティノ・クレメンティは、完璧な主としてこちらを見据えてきたのだ。シエナ・マスカーニという派手な造花を横に飾りながら。

「明日、白十字とデュランダル、フリード・テレストルをパーテルへと送る」

 眼鏡の奥からクレメンティが言った。

 くだらない前置きはない。この男のそういう割り切った頭の良さは、評価に値する。

「お前はここに残れ、ソテール・ヴェルトール」

「何故」

「ローマとヴァチカンを丸裸にしろと言うのか?」

「…………」

「こちらもギリギリなのだ。せめてもうひとつ大きな駒があれば楽なのだが、それは高望みというものだろう。最強のクルースニクに運命のダンピール。それを今そろえられただけでも神に感謝せねばなるまい。──だが、それでも足りない」

 クレメンティの琥珀が白鳥の羽ペンへと落とされた。

 感情の一切が映らないガラスの視線。

「こちらがユニヴェールを叩いている間に暗黒都市にローマへと入られるわけにはいかないのだよ。我々は戦ってかつ護らなければならないのだ。今回はパルティータを奪還し、ユニヴェールを滅ぼすのが目的であって、暗黒都市を滅ぼすことが目的ではない」

「誰のために奪還して誰のために滅ぼすんだ?」

「我々と人々のため。そして未来のため。それ以外に何がある」

 迷いのない断言だった。

 その平らな表情から何かを読み取るのは不可能だったが、おそらくそれは嘘ではないのだろう。

 彼は政治屋だが、同時枢機卿でもあり、偽りなきカトリック信者でもある。

 二百五十年前の諸侯たちが、権力の皇帝フリードリッヒ二世よりも神の下に立つ教皇を選んだように、このクレメンティもその首に十字をかけている。

「パルティータ……何だったか」

「インフィーネです。彼女はそう名乗っていると」

 シエナがクレメンティを補足した。

 継いで長官代理は遠い彼方を見やる。

「パルティータ・インフィーネ。彼女こそこの地にあればもっと事は簡単だったのだが」

「血は争えないものですわね。またもあの御方の血に翻弄ほんろうされなければならないなんて」

 シエナが豪奢な金髪をかきあげた。紅の唇が妖艶に笑みの形を作る。

「本当に、可笑しなこと」

 史書は束ねられるたび章を変え、王ごとに括られる。

 だが流れる現実は、そう歴史というものは、途絶えることなく何かがどこかへと繋がってふいに花開くもの。埃かぶったページが、ある日突然開かれ突きつけられることもある。もはやほとんどの人間が“古”と言う三百年前は、今再び、ゆっくりとその姿を現していた。

 誰かの細い指がすすを払い、表題をなぞり、陽に焼けた紙片を繰り始める──。

「俺がパーテルへ行く。フリードをここ(ヴァチカン)に置いて行く。まだ大した剣士でもない子どもを行かせるのは無謀だ」

 ソテールは言った。だが、

「吸血鬼しか倒せぬ者をひとり残して何の意味がある」

 いとも簡単に払いのけられる。

 彼は喰い下がった。

「フリードが魔を現したらどうする」

「ヴァチカンにひとり残したフリードが魔を現したらどうなる」

「外の被害は仕方ないというわけか?」

「ここがやられるよりはマシだと思うが? ここは人々の生きる拠り所なのだから」

「…………」

「ダンピールはユニヴェールへの切り札であっても暗黒都市には素人だ。フィレンツェではあの男の三使徒が目撃され、カステル・デル・モンテの件でお前は実際アスカロンに会っている。屋敷にも全員いたんだろう?」

 ──ソテールは、まともな報告書を提出したことがなかった。フリード回収事件でも、パルティータというメイドが屋敷にいたことしか報告していない。

「三使徒と渡り合うには……」

 言いかけて、クレメンティが声を一段落とした。

「そしてホーエンシュタウフェンとも渡り合うためには、デュランダル隊が必要だ。加えて、番犬ユニヴェールが戦っているとなれば暗黒都市が援軍を出す可能性は高い。くだらぬ化け物どもを駆逐するなら白十字の数の多さは強みになる。分かるか? ……要するに、闇と戦うには最低デュランダルと白十字は向かわせなければならないんだ」

 なめらかで穏かな物言いだが、その奥には誰も立ち入ることのできない峻厳しゅんげんさがあった。

 暗い雪に閉ざされた極寒の地、それでも立ち続ける一本のトネリコの木のような。

「お前をパーテルに出せればどれだけこちらに有利かしれない。だが、ローマの護りをゼロにすることはできない。少しでも危険のある者(フリード)を門番にすることもできない。闇を討ちに行って聖域が落ちたのでは、本末転倒もはなはだしいだろうよ」

 次善の最良だ。

 暗黒都市が本気でヴァチカンを潰そうとしているかはともかく、討つからには護らなければならない。ヴァチカンは決して捨て身で戦場に赴くことはできないのだ。どれだけの金と命を懸けた戦いであっても、最優先されるべきは聖域の維持、そして平穏。

「フリードならユニヴェールを滅ぼせると、アンタは確信してるのか」

 ソテールは軽く訊いた。

 同じ程度にクレメンティが答えてくる。

「ダンピールはその親である吸血鬼を滅ぼす運命にある」

 続いて響いたシエナの声は熱っぽく。

「生まれくる者はその時点で誰かに殺される運命を負っているのです。王に殺される運命の者、敵の将に討たれる運命の者、病に殺される運命の者、裏切られて殺される者、愛する者のため殺される者……。ユニヴェールが未だ生き長らえていたのは、まだ時期でなかっただけのこと」

 彼女は扇をこちらに向け、口端を上げる。

「彼に滅びをもたらす者が、貴方ではなかっただけのこと」

 一理あった。

「そうかい」

 ソテールは小さく笑った。

 ひどく嫌味な笑顔をしていただろうことは自覚している。

 あの吸血鬼が時折浮かべるものと同じ、冷笑だ。

「アンタたちがそう信じるなら、構わないさ」

 負け惜しみに映ったかもしれない。

 弟子に超えられてしまった師のような。

 案の定シエナは皮肉めいた微笑を扇の影から漏らし、だがクレメンティは鋭い目つきを緩めることなく整えられた机上を凝視していた。

「それだけだ、話は終わった」

 そう言ってソテールを部屋から追い出した時も、彼は眉間を寄せたまま微動だにしなかった。

 切り札さえも絶対ではないのだと、緋色の聖衣をまとった男は本能で感じていたのだろう。

 我々が放り込まれている雑踏は、そんなに甘いものではない。

 いくら細かく描き込まれた地図を手にしていようとも、裏路地から犬が飛び出て来ることもあれば、見知らぬ者に肩をぶつけることもある。

 予期せず友人に呼び止められ、転がっていた小石につまづくことも。

 頭上から植木鉢が降ってくることも。

 次善の最良も、結局は盤上の幻想に過ぎないのだ。

 ヴァレンティノ・クレメンティは策士だが未来視ではない。

 それを一番よく知っているのは彼自身のはずだった。

 未来は時として、もがき抗う現在を嘲う。

 幾重にも成る策をろうし黄金の盾で身構えようとも、未来は簡単にそれを打ち破るのだ。




「運命がフリードにユニヴェールを殺させるなら、運命はユニヴェールにフリードを殺させる」

 ソテールは、クレメンティの組んだ蒼白の手を思い出しながら、強張った微笑を蒼空に向けた。

 聖域の憂いとは裏腹な晴天がいっそさわやかだ。

 趣味悪く笑いながら、彼は大聖堂前の広場を突っ切り裏へと歩く。

「アンタたちが運命を信じるとして、さてどっちの運命が強いかな」


 古い物語がある。

 もはや色()せた、三百年も昔の物語だ。

 その家はいつでも歴史の背後にあったが決して表へは出ることはなかった。だからこそそれが突然途絶えた時さえも史書に名が残ることはなかった。

 だが否が応でも人々の記憶には残った。

 彼らの表舞台への登場はあまりにも鮮烈で、強烈で、一瞬後に訪れたその退場もまたあまりにも劇的過ぎたのだ。


 人目からは長く深い霧に隠され続けていたその家。

 代々の当主、そして主要な血族が白いコートをひるがえして歩くのはヴァチカンの美しい壁の中、そうでなければ灯の消え去った夜の闇の中。

 貴族というのは建前に近く、彼らは俗世から隔絶されていた。

 彼らが本拠を置いていたフランス国内でさえ、由緒あるクルースニクの家系……としか知らぬ者が多かった。


 しかしその存在が一歩表舞台へと引きずり出された瞬間、その家に渦巻く禍々(まがまが)しい運命の螺旋は世界の前に姿を現し──、次瞬それは死の大鎌を振るいその家を完全に滅ぼしたのだ。

 生き残った者はひとりもいなかった。

 その一族は、歴史から消えた。


 そしてそれから先、かの家について誰も語ろうとはしなかった。


「クレメンティ」

 彼は聖堂の影に見えてきた教皇庁へと視線を移した。

「悪いが俺はココの番犬じゃないんでね」

 そしてまたしてもぶんぶんと剣を振り回す。

「ダンピールの運命が、あの問答無用に敵うとは思えんな」

 朗らかな足音は教皇庁に背を向け、大聖堂にも背を向ける。

 彼が歩く前方からは砂っぽい強風が吹き、いい加減目を覚ませと顔を叩いてきた。

 昔は誇りにしていた、今はあの男の対照という意味が大半の──白外套がバサバサと騒ぐ。

 クルースニクの白。

 全ての色を拒絶するが故に孤高と呼ばれ、ただひとつの意志と崇められる。

 何も隠さず、何も包まず、ただ闇を薙ぐ。

 全ての色を抱いた黒を、薙ぐ。

「あの問答無用でさえ敵わなかったユニヴェール家の運命に、薄っぺらい希望が敵うわけがない」

 ……と。

 彼は向かうべき高壁に先客が背をもたれているのを見つけ、立ち止まった。

 ローマの生活とヴァチカンの聖域を隔てる城壁。

 先客は鮮やかな緋色の衣に、たっぷりとした金髪の女だった。陽光にきらめく真珠の耳飾が目に痛い。

「ソテール・ヴェルトール。我らの世界の救世主」

 得体の知れない“余裕”をまとい、シエナ・マスカーニは笑っていた。

「行けばいいのです。行きたいのなら」

 この聖域に住まう人々が好んで集うのはこんな裏寂さびれた場所ではなく、表の庭園だ。偶然ばったり、でないことは瞬時に築かれた暗黙の了解。

「貴方とユニヴェールの間にどんな事情があるのかは知りませんが、貴方はユニヴェールを滅ぼしたいのでしょう?」

「…………」

「構いませんよ。クレメンティ卿には内緒で、デュランダルを指折るほどだけれど残していますの。それにここは神の御威光最も輝くカトリックの中枢、クルースニクあがりの枢機卿もひとりやふたりではありません」

「そうかい」

 ソテールは挑戦的に鼻先で笑った。

 いかにも善良で彼の味方な台詞だが、そうではない。彼女はそんなお人好でこの地位へ成り上がったわけではないし、彼も鵜呑みにできるほど若くない。

「それじゃあデュランダル長官殿のお言葉に甘えて」

 タンッと軽い音を響かせ、彼はその影を地上からふっと消した。

天のいと(グローリア)(イン)ころ、神に栄(エクシェルシス)光あれ(デオ)

 壁の上に立った男は柔らかな蒼眸で聖域を見下ろし──、くるりと長身の向きを変えた。

 臨むローマの街並みはそれこそ平素と変わらない。

 白く霞みがかった薄い土色屋根の連なりと、その上を飛び交う鳥たちの黒点、奥に大きく広がる深緑の森。そして街を蛇行してゆくテヴェレ川の流れ。全ての中心に息づくのは、古の栄華を語るフォロ・ロマーノ。

地におい(エト イン テラ)ては善意の(パクス オミニブス)人々(ボーネ)に平和あれ(ヴォルンターティス)

 白い残像を残し、クルースニクは聖域を捨てた。




「……結果は保険に過ぎないわ」

 シエナは誰にともなく言う。

「クレメンティ卿の弱い所は、自分と相手以外考える頭を持ってないと思っているところね。駒も自分で動くということを失念していらっしゃる」

 彼女は教皇庁へと戻り出し、ローマとヴァチカンを隔てる壁に別れを告げた。

 綺麗に整えられた芝生を、聖衣が軽やかになでる。

「危険な賭けで足元ばかり固めないで、もっと先を見なければね。次の教皇はおそらく最も富のある者──私の見立てでは、ロドリーゴ・ボルジア。彼は財はあるけれど生まれが問題ですもの。今は教皇選定に勝利するため自分への確実な一票が欲しいはずね」

 新教皇は、資格ある枢機卿たちが天啓という形の投票をして選ばれる。

「ユニヴェールの首をお土産に出来ればそれにこしたことはないけれど。……クレメンティ卿は潔癖すぎますわ。完璧を求めても無駄ですのに。それとも……」

「…………」

 彼女の声は遠退き、研ぎ澄まされたクルースニクの聴覚でも最後までは聞き取れなくなった。

 ローマ側に降り立ち、壁にひっついていたソテール。

 間諜かんちょうの真似事など何年ぶりだろう。以前は面白いのでヴァチカン中を駆け回り、枢機卿全員の弱味を握って遊んでいたこともある。……大昔、ふたりで。

「“それとも……、クレメンティはまだ最後の一手を隠しているのかしら”、というところだな」

 永遠の都ローマへと抜け出したソテールはひとりでうなずいた。

 彼と高い壁を隔て、聖域の中を歩くシエナとクレメンティ。その両者の間にもまた、──壁。

「そうだろうとも。あのキレ者ことだ、まだ隠しているだろうな」

 クルースニクははりついていた壁から身を離し、黒髪の下から斜めに背後を見上げた。

 どれだけ描き尽くされた構図であろうとも、絵描きは絵筆を取らずにはいられない、聖域。

 陳腐な言葉を並べるしかなかろうと、詩人は名誉にかけて歌を連ねようとする、聖域。

 けれど全ては無駄なこと。

 人が造り出したはずのこの場所は、決して人の手に納まることはない。

 ……納まってはならないのだから。

 そして、人が造りだしたあの化け物もまた、もはや人の手には納まらない。

 全ての犠牲を払ってでも納めることが、人に与えられた報いなのだとしても。

サヨーナラ(チャオ)

 彼が向かうはフランス。暗黒都市の砦。




ソテール:[希] soter 救世主

ヴェルトール:[独] Weltall 世界

校正時BGM:Within Temptation「Our Solemn Hour」

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