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冷笑主義  作者: 不二 香
第二章 中編 GENOCIDE
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GENOCIDE-1. 黒騎士/聖騎士




 砂のような赤を帯びた大きな月が不気味に輝く春の夜。

 凍れる冬の呪縛から放たれ浮かれる世界を笑う、肌寒い夜。

 パーテルの町はひっそりと暗い眠りにつき、しかし坂の上から家々の屋根を見下ろす古屋敷には、チラチラと火が灯っていた。

 いつ誰のために建てられたのか分からぬその屋敷は、大きくはあれど賞賛に値するほどの代物ではなく。連なる窓の装飾も緻密で繊細だが、その他に目を引くような飾り気はなく。

 だが、だからこそそれは闇に同化し、得体が知れず。

 屋敷を取り巻く若葉の木々は静かにさざめき、周囲に咲く青や黄色の小さな花々は冷たい夜風に吹かれて揺れる。背後に広がる黒い森は沈黙の中に嘲笑を潜ませる。

 軽やかで美しい夜は、それゆえに不安を運ぶもの。

 光溢れる幸せが、絶えずその崩壊への怯えをもたらすが如く、湖面の静寂は来たる嵐の影をその水の上に映すのだ。

 波がないからこそ姿はしっかりと見える。

 静けさゆえに近付く足音は嫌でも聞こえる。


 望もうと望むまいと、それはやってくる。




「暗黒都市は明日ヴァチカンに向かって進軍する。──わざわざそれを知らせに来たのか? ご苦労なことだな、天下の黒騎士殿が伝令なんぞをしてくださるとは」

 紅茶をすすりそう言い放ったのは、優雅に足を組んでいる黒衣の男だった。屋敷の主、化け物吸血鬼のシャルロ・ド・ユニヴェール。

 始末が悪いことに、彼の口から流れ出たその言葉は嫌味ではなかった。

 本気で馬鹿にしているのだ。

 しかし対して立っている黒騎士は、鼻先で笑ってすぐさま切り返す。

「アンタのところに下手なやからは遣いにだせなくてなぁ」

「喰われる、か?」

「アンタのところに出される伝令は交渉係も兼任だ。だがそこらの若造じゃアンタにビビって交渉なんか出来やしねぇ」

「魔が魔を恐れるなど、話にならん」

「今じゃ暗黒都市の誰もが知ってるんだ。アンタは敵じゃねぇが味方でもねぇってな。……知ってるか? ユニヴェール邸への伝令を預かるってのは出世コースなんだぜ? 滅びと紙一重のな」

「ほう」

 ユニヴェールがつまらなそうにつぶやいて、紅茶を置いた。

 底に残ったわずかな芳香が、ロウソクの炎に霧散する。

「ではお前は何を交渉しに来た、ベリオール」

「分かってることをいちいち訊き直すのは効率的じゃないと思うねぇ」

 魔が集う暗黒都市、ヴィス・スプランドゥール。

 華麗なる悪徳の名を冠したその都市を統べるのは魔の女王。

 そしてユニヴェールの前で不敵な笑みをたたえているウォルター・ド・ベリオールというこの男、女王直属の黒騎士なのだ。

 野心に溢れ、肉食獣の目を持ち、獲物と見れば容赦ない。裏切り者の首をね、数多の聖騎士を討ち、神父を修道女を斬り刻む。

 どこにあってもこの男から血の匂いが絶えることはないのだ。

 黒曜石を織った気位の高い騎士装束をまとっていても、百戦錬磨の長剣を帯びていても、浴び続け染み付いた呪いは消えない。

 吸血鬼ユニヴェールから死の匂いが消えないように。

「変わらぬ答えを聞くために交渉するというのも無駄だろうに」

 ミもフタもなく主が言った。

 主は黒騎士ベリオールを見据えたまま、だが彼の細長い指はこちらへ伸びてきて──

「…………」

 ユニヴェールの横に座っていたパルティータは、その指から守るようにクッキーが山積みになったバスケット(ベリオールからの土産だ)を自らの方へと引き寄せた。

 一番上の小さな一枚をつまんで、主に渡す。

「──……」

 紅の双眸がしばし一枚のクッキーを見つめ、そしてジロリとパルティータに向けられた。

 だがベリオールの言葉が主の視線を引き戻す。

「どうあっても暗黒都市の軍に加わらないってつもりか?」

「……今私が自ら加わらずとも、いずれ巻き込まれよう」

 ユニヴェールが黒騎士を細く眺めて意地悪く笑った。

 神経の細い輩ならば卒倒しかねない、冷ややかで底知れぬ悪意。

「ヴァチカンと暗黒都市がぶつかるのだ、私の出番がないわけがなかろう?」

「ではこっちが好き勝手やってりゃそのうち加勢していただけるってわけか?」

 ベリオールが眉間にシワを寄せ、露骨な嫌味を吐いた。

 感情を隠すことが下手なこの男は、すぐ顔に出る。そもそも隠そうとしたことがあるのかも不明だが。

「先陣は切らないが剣は抜くって?」

「…………」

 吸血鬼は答えず、コツコツとゆっくりテーブルを叩いていた。

 凍った麗眸れいぼうは穏かに虚空を見つめ、過去か未来か、どちらにしろ彼にはもはや無用なものへと思いを巡らせているようだった。


 吸血鬼シャルロ・ド・ユニヴェールは暗黒都市の番犬。

 剣を抜いて向かってくる者を返り討ちにする義務はある。

 だが自分から戦場へと出てゆく義理はない。

 彼は死人なのだ。

 遥か古き時代の禍根に過ぎず、生者の影に過ぎない。これからもずっと。

 流れに乗る者であって、流れを作る者ではない。

 もはや世界の中心に立つことはなく、剣を抜くための切なる理由もない。


「ユニヴェール卿?」

「……さぁ、どうだろうな」

「は?」

 吐息と共につぶやかれた言葉に、ベリオールが間の抜けた声を上げる。

 パルティータも意味を掴みかねて主を見やった。

 だが火のない暖炉の前に座っていたシャムシールだけは、知った顔を上げ口を結んだ。

 幼い少年の大きな瞳に、無表情の吸血鬼が映りこむ。

「私は生前、自らに刃を立てられても剣を抜かなかったことがある。だが降参を叫ばれてなお皆殺しにしたこともある。剣を抜くか否かは──その時の私の気分次第ということだ」

 ユニヴェールがテーブルを叩くのを止め、

「今回もし私が動いたその時は──」

 クッキーを口に放り込んだ。

 噛み砕き、飲み下し、軽く続ける。

「もう貴様らは手綱を握っていないんだよ」

 試すように上げられた紅の視線。

 黒騎士は真っ向からそれを受け止めて、ヘッと肩をすくめた。

「……手綱を握るべきは俺じゃない。握ろうとも思っちゃいない。だから俺は誰が手綱を握っていようと構わない。俺はただ上から言われたとおりに滅ぼすだけなんでね」

 酒場の女ならば何人でもひっかけられそうな顔をして、ニヤリと笑う。

「アンタが動けば時代が終わる。どんな形であろうと、な。そう言ってアンタを出陣させることにまだ強く反対してるお偉方もいる。だが俺は、アンタの起こす波に巻き込まれても生き残れるって自信があるぜ?」

「──お手並み拝見しよう」

 ユニヴェールが小さく言い置いて席を立った。

 会見は終わりというわけだ。

「さて……、アンタに俺の勇姿が見られるかね」

 澄まして通り過ぎる貴人へと、だがそちらは見ずにベリオールが言う。

「…………」

 ユニヴェールは応えない。

 ふたりは互いに自分の前方を見据えたまますれ違った。

 だが、

「あぁ、ベリオール」

 食堂の扉の前まで行って、ユニヴェールが肩越しに振り返ってきた。

 冷たい目でテーブルを見下ろして、言う。

「今度から土産は何かひとつでいい」

 彼の視線の先には、ケーキやクッキー、タルトやパイ。溢れんばかりのお菓子が所狭しと並べられていた。

 菓子屋全てを買い取ったのではないかと思うくらいだ。

「ひとつだぁ? そんなケチなこと俺がするかよ。せっかく喜んでもらってんのに。なぁ?」

「まったくです。吸血鬼ユニヴェールともあろう御方が、そんなみみっちいことを言わないでください」

 ベリオールに相槌を求められて、パルティータは座ったまま激しくうなずいた。

「これはあの暗黒都市ソロン通りの有名店“ガリア”のお菓子ですよ。こんなにたくさんいただけるなんて、感謝こそすれど拒否するなんてありえません」

「……貴様はウチのメイドを太らせてから喰う気だな?」

 パルティータの口上を無視してユニヴェールが低く嘆息すると、

「太りません」

 生クリームたっぷりのケーキに銀フォークをグサッと突き刺し、彼女は毅然きぜんと言い放った。




◆  ◇  ◆




 主が自室に下がってから朝までは、つつがなく過ぎたと言ってもいいだろう。

 ベリオールが帰る時にフランベルジェ、アスカロンと鉢合わせてしまったが、それは些細なことだ。

 外から帰宅したフランベルジェが軽い挨拶で黒騎士の横を過ぎたこと。続いて入ってきたアスカロンの襟元を掴み、黒騎士が彼女の名を問うたこと。ユニヴェールとの関係を問いただしたこと。

 どれも些細だ。


「氷の魔女、フランベルジェ。知らねぇのか? まぁ、いつだって俺らは“三使徒”ってまとめて呼ばれてるわけだけどな」

 いくつもの箱や紙袋を抱えたまま、アスカロンは涼やかな美女が消えていった廊下へ舌を出す。

「女の買い物ほど疲れるものはねぇな。まだユニヴェール様の無茶苦茶な気まぐれに付き合ってる方がマシだ」

「……大量な……」

 ベリオールが積みあがっていた紙袋のひとつを取り上げた。

 パルティータも一緒になってのぞくと、見えたのは、ドクロマークのついた瓶が数十本。なにやら怪しげな方陣の描かれた手袋。それに有名靴屋と仕立て屋のマークが入った箱。

『…………』

「戦争の支度だってよ」

 疲れた声でアスカロンが天井を仰いだ。

「ひとつ時代の首を締めてやるだけなのに、あの女は頭の天辺から足のつま先まで新品に囲まれてなきゃ嫌なんだと」

『…………』




 しかし問題は朝だった。

 黒い森には白い朝霧がかかり、パーテルの町には鶏の鳴き声が響き渡る時刻。

 敬虔な神父はすでに祈りを捧げ終え、早起きの女が水を汲み、朝餉あさげの支度を始める。

 寝起きの小鳥がさえずりながら屋根から屋根へと飛び回り、路地裏の犬が吠える。

 黒騎士は戻り、三人の化け物はそれぞれの夢の中へ沈み、黒い猫は若者の姿となってレモンティーを楽しむ。

 世界は目覚め活気づき、屋敷は舞台から身を引き静かな眠りにつく。


 だがその朝は、眠りを妨げる者が現れた。

 屋敷の扉を叩く者があったのだ。

 せっかく人々の心から消えようとしていた闇に、待ったをかける奴がいたのである。


「何かご用ですか?」

 パルティータが扉を開けると、そこには二人の人間が立っていた。

 磨き抜かれた槍の穂先を蒼空に向け、白雪の輝きにも勝る騎士服をまとい、その胸に刻まれた紋章は、交差した二振りの剣に白十字。

 ひとりは銀の兜から見事な金髪を見せている女で、もうひとりは背の高い、青みがかった銀髪の男だった。

 どちらも面識がある。

 パルティータは彼らを追い払うでもなく歓迎するでもなく、いつものように淡々と言った。

「ヴィスタロッサ聖騎士、シルヴァン・レネック隊長、主はすでにお休みです。太陽が死んだ頃にもう一度来ていただけるとありがたいのですが」

「今日、用があるのはユニヴェールではありません」

 負けず劣らず抑揚のない声でヴィスタロッサが告げてきた。

 碧眼は真っ直ぐで、硬い。

 そして彼女の言葉を男が継ぐ。

「用があるのは貴女です、パルティータ」

「…………」

 灰色のメイドは先ほどより幾分険しい顔で、男を見た。

 シルヴァン・レネック。

 先のユニヴェール邸メイドを妻に持つ、誠実で柔軟な男だ。少しばかり感情的な面があることを差し引いてもなお余りある、騎士の手本。

 パーテル聖騎士団の隊長を十年ほど務めている。

「ヴァチカンから命が下りました」

 レネックは、一言一言その意味を確かめるようにゆっくりと言ってくる。

「貴女を何としても、シャルロ・ド・ユニヴェールの元からサン・ピエトロ大聖堂へ連れ戻すように、と」

「ヴァチカンが?」

 パルティータは大袈裟に眉を上げ、驚いて見せた。

 そして真剣な顔つきで彼女の次の言葉を待つふたりをそのままに、

「間に合ってます」

 扉を勢いよく閉めた。

『──!! パルティータ! 閉めるな、コラ! 話を聞け! 説得くらいさせなさい!』

『パルティータ様! 貴女はお帰りになるべきです!』

 ヴィスタロッサの罵り声が、レネックの強い声が、扉を乱打する音が、爽やかな朝日の中に轟いたが、パルティータはそそくさと鍵をかけ回れ右を──……。

「パルティータ」

 背後から呼ばれて動きを止めた。

「…………」

 降ってきたテノールには静かな怒気が含まれている。

 彼女の頬に、久しくその存在を忘れていた冷や汗が伝った。

「“連れ戻す”、と聞こえたが?」

「…………」

 振り返って彼女は主を仰いだ。

 にっこり笑って断言する。

「寝ぼけておいでです。空耳でしょう」

 だが扉の向こうからヴィスタロッサの叫びが聞こえた。

『貴女を連れ戻さないと、隊長も私もクビになるのよ!!』

「…………」

 パルティータの頬にもうひとすじ冷や汗が伝う。

「……えーと」

「パルティータ。お前は何者だ。何故この屋敷にいる」

 ガウンを羽織った主が、感情の欠落した声音で訊いてきた。

「お前は何故私のメイドをしている」

 蒼白く不健康な白皙が、優雅な勘気で見下ろしてきた。

「貴方が雇ったからです」

「パルティータ」

「……私が、ヴァチカンの間者かんじゃだとお思いですか」

「私の質問に答えろ」

 主は笑っていた。

「“連れ戻す”とはどういう意味だ」

 凶悪に笑っていた。

「…………」

 朝焼けの吸血鬼は機嫌が悪い模様。




校正時BGM:Within Temptation「The Truth Beneath The Rose」

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